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 日本学研究室

 

 


016/書評



   岩田重則『戦死者霊魂のゆくえ』

   吉川弘文館、2003年4月刊



                        川村邦光



 八月一五日、政府主催で武道館を会場として「全国戦没者追悼式」が行なわれる。また、この日、靖国神社には多くの人々が参拝に訪れる。靖国神社が全国的に注目されるのは、ほぼこの日だけに限られているのだが、政府の閣僚や国会議員たちが靖国参拝をなにやら意地を張って敢行して、マスメディアを賑わして盛り上げているのが例年の光景だ。「全国戦没者追悼式」では、戦没者に対して、追悼の意を表わすという式典のようだ。とはいえ、式場に立てられている「全国戦没者之霊」と記された標柱からすると、単なる追悼式ではないようである。一九七五年、三木武夫首相が靖国神社に“私人参拝”を行なった時、「全国戦没者追悼之標」から「全国戦没者之霊」へと突如として変更された。どのうよな経緯があったのか、私にはわからない、知っている人がいたなら教えてほしい。「全国戦没者追悼式」は、毎年、同じような言葉が繰り返されている天皇の言葉は別にして、首相などの式辞をみると、かなり宗教的な色彩を帯びた儀式となっているのが実情のようである。すなわち、「戦没者」の慰霊と顕彰の式典である。

 ところで、「戦没者」とは誰のことなのであろうか。「全国戦没者追悼式」では、戦争で戦って死んだ将兵ばかりでなく、空襲などで焼き殺された戦災死者も含まれている。戦災死者と戦死・戦傷死・戦病死者とを同列に並べてというよりも、むしろ一緒くたにして、なんら異議はないのだろうか。戦争で殺し/殺された兵士と単に殺されただけの戦災死者とは次元が異なっているのでなかろうか。「戦没者」と一括して表象することによって、戦争を担った主体を曖昧にしていると思われるのだ。『毎日新聞』(二〇〇三年七月二〇日)に「戦没者といひかへしとき戦死者のするどき眸マミはみえなくなりぬ 小池光」という短歌が載せられていた(今井恵子「沖縄・アブチラガマで考える」)。今井はこの短歌をあげて、「「戦没者」と「戦死者」の違いに、わたしたちはあまり注意を払うことがない。しかし、戦死者を戦没者と言ったとき、そこにそこはかとなく隠蔽のにおいがただよいはじめる。「するどき眸」を注視しなくてもよくなるのである」と記している。戦死者の「するどき眸」を見たわけでも目撃したわけでもないだろう。戦死者の“死”という言葉を通じて、戦死者のリアルな遺体、そして「するどき眸」を想像したと推測できる。このような想像の力、もしくは構想の力が、現在の私たち、とりわけ戦争を情報からしか知りえない戦後生まれの者には必要だと思われるのである。


 さて、例年、八月一五日、かまびすしい靖国神社や「戦没者」の慰霊と顕彰の式典となっている「全国戦没者追悼式」を離れて、本書をみてみよう。私は三年にわたって「戦死者のゆくえ」と題した研究会を行ない、この三月に報告書『戦死者をめぐる宗教・文化の研究』を刊行した。したがって、本書からは教えられることが多々あり、不十分さも自ずと知ることができ、たいへん有益であった。本書では民間で戦死者の霊魂がどのように取り扱われてきたのかを中心テーマとして、三部構成で、フィールドワークにもとづいて戦死者の霊魂祭祀が報告され、柳田国男の祖霊論が検討され、戦時中の流行した信仰に焦点を合わせて分析されている。ここでは、第一、二部を中心として簡潔にまとめながらコメントして、全体をまとめて評してみよう。

 第一部「戦死者たちの五十回忌」では、一九九〇年代の半ば、戦死者の石塔・墓石に二又に分かれた木、「二又塔婆」が立てかけられているのを目にしたことが、写真を添えて報告されている。敗戦後、五〇年ほど経った時期のことである。二又塔婆は三十三回忌や五十回忌といった最終年忌の際に立てられる死者供養の塔婆である。これ以後、年忌供養は行なわれなくなる。著者の岩田は、戦死者も一般の死者と同様に、五十回忌まで供養が行なわれたことを重視する。「家の人生儀礼の体系に戦死者も他の死者と同じように組みこまれている」こと、「自己の民俗に、戦死者を回帰させていた」ということである。また、ムラで戦死者を無縁仏と同じような形態で供養している家の祭祀に加えた二重祭祀、靖国神社・護国神社も含めると三重祭祀という珍しいケースをあげ、「英霊」として国家的祭祀が戦後にも介入してくる可能性も指摘されている。
 岩田が力説するのは、戦死者を出した家では「最終年忌の五十回忌までをも完結させた、という事実」である。そして、「ふつうの死者のように家での戦死者祭祀も済まされ本来の戻るべきところに戻って行った、それでよいのであり、たとえば、国家が不自然な多重祭祀を生み出すことなど、死者への冒涜のきわみといってよいだろう」と辛辣な批判の言葉を浴びせている。しかし、戦前では、靖国神社・護国神社に戦死者の霊が「英霊」として祀られことを、遺族、あるいは民衆は多かれ少なかれ名誉としてしてきた。また、戦後でも、そのような傾向がなくなってはいない。国家・国民の次元での戦死者祭祀に関わる、民衆の心性とはどのようなものなのか、それがどのようにして培われてきたのか、それを「ムラの民俗」のなかから探ることが大切だ、と私は思っている。
 岩田は、柳田国男が敗戦間近に執筆した『先祖の話』で、戦死者を「家において祖霊」として祀るべきであると主張し、靖国神社の祭祀に対する「もうひとつの戦死者祭祀」「家の民俗による戦死者祭祀を提案していた」と評価している。しかし、柳田は戦前に「死すれば国家の神となるべしという壮烈な覚悟」を「古風な多数国民の心の底に、久しく眠って居た霊魂の観念」(『明治大正史 世相篇』)として称揚していた。また柳田は、仏式で戦死者の葬送儀礼が行なわれ、岩田のいう「家の民俗」で弔われていたことを知りながらも、それは無視していたのではなかろうか。
 第二部「「七生報国」と祖霊信仰」では、柳田の『先祖の話』で展開された祖霊信仰論、特に「七生報国」観が批判されている。岩田は、柳田の学問=柳田民俗学(の体系)と柳田の思想を区別すべきことを提起している。後者に引きずられて、前者に矛盾を生じさせたという。注目すべき論点であることは確かだが、両者を区別することはかなり困難だと思われる。岩田は、柳田が『先祖の話』で正月と盆、田の神・山の神の去来信仰、両墓制を中心した墓制を研究対象とし、祖霊祭祀として分析・理解して、祖霊信仰学説を体系的に構築したと簡潔にまとめ、祖霊信仰学説が「純粋な民俗学的研究の域をこえた」柳田の思想的表現ではなかったかと、問題提起している。結論としては、「祖霊信仰に一元化できるほど単純なものではない」というのが、岩田の見解であり、的をえた指摘である。柳田は頻繁に去来する祖霊への信仰において「死の親しさ」が生まれとし、それが「生死を超越した殉国の至情」といった「戦死の精神」における「死の親しさ」と短絡的に結びつけられているという。柳田民俗学の祖霊信仰学説が戦時下の柳田の思想によって、論理を飛躍させている、あるいは論理的矛盾をきたしている、と岩田は指摘している。また、祖霊信仰学説のなかで、「最後の一念」が達成されるとする信仰と「生まれかわり」の信仰、そして「七生報国」観が結びつけられている点を明らかにして、ここにも先と同様のことを指摘している。これは、柳田が「七生報国」観を「祖霊信仰の体系の中に組み込もうとする柳田の思想、強い意志がはたらいていたと考えるべきである」、「『先祖の話』の最終目標が「七生報国」の説明にあった」というのうが、岩田の見解である。この戦時下の柳田の思想とは、死に直面した若者たちに死の意味を「民俗的世界の根の深い次元から祖霊信仰の体系によって説明すること」、「戦死者霊魂をも祖霊信仰の体系の中で理解しようとする」ことであった。ここから、岩田は「民俗学という学問体系の中からの戦争肯定」、「靖国神社の論理の否定」へと帰結したと論じている。詳しく岩田の論拠を述べられないが、すぐれた考察である。しかし、前者はその通りだが、後者は違っているのではないかと私は考えている。岩田の引用した「国と府県とには晴の祭場があり、霊の鎮まるべき処は設けられてあるが、一方には家々の骨肉相依るの情は無視することが出来ない」という柳田の言葉を、戦死者霊魂の祭祀は靖国神社・護国神社よりも「家で行なわれるべきである」、また「靖国神社ではなく、徹底的に家の祖霊信仰の体系に集約すべきである」と岩田は解釈するが、靖国神社・護国神社での祭祀に加えて、家での祭祀を並行して行なうことを柳田が提唱したにすぎないと私は解釈する。柳田の「七生報国」観が、岩田のいうように「戦時下、柳田において徐々に形成されてきた学説と思想であった」とするなら、時代の風潮や思想・イデオロギーに制約された論理の飛躍や論理的矛盾ではなく、学説と思想の一体化されたものとして理解したほうがいいと思われる。
 ここでは、述べることができなかったが、第三部「天狗と戦争」では、戦時中に民衆の間で「七生報国」よりも大流行していた、武運長久や弾丸除けの祈願について論じられ、リアルな問題へと絶えず眼を向けていこうとする民俗学のすぐれた方向性を示している。本書は、何よりも『先祖の話』を「戦争という要素を除いて柳田民俗学の祖霊信仰学説を把握することは、無意味といってよい」という視点から考察したことに大きな意義があると私は思っている。民俗学者からは黙殺されるかもしれないが、現在の問題のなかに民俗がどのような意味をもって存続しているのかを探るうえで、戦死者、またその霊魂の処遇をめぐる問題は一国を越える、民俗研究の重要なテーマでありつづけているからである。





   
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