【】は名前や名称をフルネームで補足するためのかっこです。
()は高木惣吉自身が日記につけていたかっこ
註)は管理人がつけた時代背景や人物背景の解説です。

1935年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 1936年> 
4/30 金曜日 晴
 薄曇り。
 10時21分の汽車で養生院に行き、岡田院長の診察を受ける。隔日通院の許可を受ける。
 上野松坂屋に寄って午後1時40分東京発で帰る。
4/29 木曜日 曇り
 9時33分ので養生院に行く。静穏なる天長の佳節。帰途、丸ビルに寄って中食(花月食堂)、パンを買って帰る。(午後東京発1時)
4/28 水曜日 晴
 <出勤。>9時33分の上り(の汽車)でまず養生院に行き処置して貰って11時30分頃に新橋に帰り簡単な中食を採って午後1時海軍省に登庁する。
 午後4時4分の新橋発にて帰る。副官より議会特別手当「50」(註)受領。
註:50・・円?銭?わからない。銭だと少なすぎる気が・・・。
4/27 火曜日 小雨
 今朝9時33分の汽車で養生院に行き、需診処置の後、鶯谷(うぐいすだに)駅前で簡単な支那料理(註参照)の中食をして東京駅に引き返し12時15分の浜松行きで帰宅する。東京地方は小雨、湘南は終日曇りの天気、夕方に微雨がある。成、扁桃腺の発熱(夕方から)。
 文化勲章拝受者決定する。
 長岡、本多、木村の三人の理学博士、佐々木、幸田の両文学博士、竹内、横山、岡田(三)、藤島の四画伯。
註)支那の表記について。支那(しな)は中国の事だが、現在では差別用語。今では使われるべきでない言葉であるが、中国、と書いては原典に対して違和感が残ってしまう。迷う所だが、とりあえず原典に従う。
4/26 月曜日 曇り 東京小雨
 退院の予定で10時頃から寝床も夜具も全部片づける。11時45分に岡田院長が診察して未だ退院は早いと言われたが三週間経過でこれいじょうは表面上の手続きを要する旨を説明したところ、それならば差し支えがあってはならないということで午後2時に退院した。2時25分の汽車で帰る。
4月25日 日曜日 雨
 折角今日は上野公園でも散歩したいと思っていたのに生憎雨だった。終日、病室に垂れ込めて雑誌を乱読していた。今日の処置診察は土肥助手だった。
4月24日 土曜日 晴
 終日、大衆小説を乱読していた。
4月23日 金曜日 雨
 終日、大衆小説を乱読していた。
4月22日 木曜日 雨
 昨日からの南風急に北寄りとなって正午頃から雨となった。午後一時頃に【川越】重男、美智子ちゃんと治二ちゃんを伴って来訪した。治坊が幼心に画を書いて慰めてくれた。
註:ぶりょうを慰めてくれた・・・なのですが、ぶりょう(?)が打てません。
4月21日 水曜日 晴 南風
 院長は未だ傷が深くて退院は早いと説明した。茅ヶ崎に手紙を書いた。
4月20日 火曜日 晴
午後2時信太郎兄が来訪した。病院の払をして戴いた。茅ヶ崎より電話で明日成をつれて扁桃腺の手術に来る旨の連絡があった。よく熟考して一時は見合わせる様に電話した(信太郎兄にも依頼した)。見習いの武藤看護婦を帰して吉田看護婦に交替して貰った。矢野(志加三か)大佐が夕方に来訪した。
4月19日 月曜日 晴
岡田院長の診察でようやくゴム管を取った。中食後、庭の池辺を散歩中に小川大佐が来訪した。本月中は静養しても差し支えないという阿部大佐の伝言を伝えてもらった。
4月18日 日曜日 晴
副院長の診察の時、僕jの中耳炎の寄生菌が、肺炎菌第三型で宇垣一成大将と同じ型であることを聞いた。小川大佐よりサンキスト(Sunkist)7個を送って貰った。付き添い看護婦の石井はなさんは風邪気味で8度以上の発熱があったので夕方に交替した。茅ヶ崎に発信。
註 宇垣一成(うがきかずなり)・・・陸軍軍人、大将、朝鮮総督。後に首相候補になるが、陸軍部内の反対により勅命辞退という異例の事態に追い込まれた。

註 茅ヶ崎(ちがさき)・・・神奈川県茅ヶ崎市。高木惣吉の自宅。
4月17日 土曜日 晴
 午後は暇だったのでひるねしていた。寝ているときに末枝様に色々な栄養食を持ってきてもらった。阿部大佐、大橋少佐に発信する。
註 発信(はっしん)・・・電話なのか電報なのかはわからない。
4月16日 金曜日 曇
 今日の診察の時、院長に退院の見込みを聞いた。後一週間か10日くらいだと言う。静江より電話にて問い合わせがあった。
4月15日 木曜日 花曇
植村【東彦】中将の収賄事件は2年6ヶ月の判決が言い渡された。静江から電話があった。
4月14日 水曜日 晴
小雨と天気予報は言っていたが花曇りのようだ。時々、薄日が洩れてくる。手術の傷口の経過は良い。挿入ゴム管の長さを半分にした。六時頃に末枝様におかずを持ってきてもらう。7時半頃、有馬【正文】中佐来訪。
註)有馬正文(ありままさふみ・・・海軍軍人。台湾沖特攻で戦死。少将。高木惣吉氏の海軍兵学校時代の同期(43期)、その時からの親友で、西田幾太郎(京都大学教授)哲学への傾倒もこの人の影響。海軍大学校は26期卒で高木氏の一期後。
4月13日 火曜日 晴
今日から少し院内の庭を散歩する。夜には咳が多い。
4月12日 月曜日 晴
夕方に兄の十五郎が来訪。
4月11日 日曜日 晴
経過は順調だ。午後8時頃に富ヶ谷から電話で、静江は今日平塚共済病院より退院したと通知があった。今日夕方、咳がひどくなった。(入院の頃、のどが少し変だったのがだんだん悪くなっている。
註 静江(しずえ) 高木惣吉の妻。
4月10日 土曜日 晴
午前は兄の信太郎に勘定に来てもらう。午後には末枝様が来訪。小川【貫璽】大佐来訪7時頃に兄の十五郎が来訪。
4月9日 金曜日 雨
第一回ガーゼ取り替えを行う。いわゆる生傷が痛むというのはこんなものなのか。激烈に痛くて身振るいしてしまった。化膿していない傷はガーゼがくっついて痛いとの事だ
4月8日 木曜日 夕刻雨
兄の信太郎、末枝様が来訪。
4月7日 水曜日 風
院長が病室に回診で来た。手術で大分多くの膿をとった事を聞いた。
1937年4月6日 火曜日 晴
成を学校に送って後、9時33分の汽車で出かける。午後1時過ぎに手術。45分位かかる。麻酔よくかからず大分痛みを感じた。
註 成(あきら)。高木惣吉の長男。
註 中耳炎の経過が悪く再度入院している。
1937年4月5日 月曜日
入院の支度をすます。

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