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5/31/Jeudi  「Love all」the square

 今日はスケッチブック(219円)を買っていった。先週から(というかずっと)思っていたことだが、ハルモニに自分のことばでなにかをつくっていってほしかった。だから今日はいつもは使う小学生用の「国」語の教科書は使わずに、ひたすらスケッチブックに自分のことばを書いていくという作業に終始した。別にことばでなくともクレヨンとかで絵をかきながらでもよい、と思ったからスケッチブックにしたのだ。とにかく指を動かすということにしたい。

 おわりがけ、ある女性(あんまりきてない)から声をかけられた。
「いっつも最後まで随分熱心にお勉強されてますけど試験うけられるんですか」
「いいえ」
「じゃ漢字のお勉強ですか」
「いいえ。ひらがなです」
「なんでそんなに熱心なんですか」
「いやある意味われわれは象徴とゆーか推薦例なんで」
「………」

 われながらひどい応対だと思う。多分わけがわからないと思う。しかし、わかるということはそんなに即席なのかとも常々思うのだ。たしかにここにくれば「感動できる」ような場面に遭遇する。しかし、ここにいるハルモニたちは感動したがっているあほ人間どもに感動をお届けするマシーンではないのだ。

 「感動すること・できることはいいことだ」というだろう。そんなものは自明によいことなのだ、と。しかしそうなのか。感動という感情で理解するということはそんなに自明のことなのか。感動という感情回路をへてもうちょっと別の(そしてそれは多分大事なことなのだと思う)なにかが捨象されているのではないのだろうか。とゆーか、そんなにまで感動したがってる自分はなんなんだ、と問うてみろ。

 しかし声をかけられるということは、人に見られてるんだなと思う。おれももうちょっとまわりを見渡しながらやろう。今度はあじさいの絵でもかきたいなと思う。


5/30/Mercredi  「Spend my life with you」Eric Benet

 エリック = ベネイを久しぶり思いだしたようにきいている。小雨ふる朝にはぴったりんこ。昼から街中へ高速バスでむかう。超渋滞。別段することもないのだが。うへへと女の子をみようとしたり(しかも未遂)。17時前から2時間半のおつとめ。今日はちょっとつらかった。6〜7人いたが直帰。電車のなかで副師匠と一緒になる。もともと理系でむこうの企業につとめむこうで修行したという、ある意味詐欺師みたいな経歴のもちぬし。バリバリの計量のかた。しかしおれの話にも丁寧にこたえてくれる。隣りの駅まで一緒。社会意識の調査とは実のところ何を測定しているのか。むかえにきてもらい迷ったあげくオーダーストップまぎわの中華料理。うちで紅茶。


5/29/Mardi  「手紙」the boom

 『自白の心理学』ほとんど(← こーゆーのがいかんのよね)読了。浜田さんの他の本とくらべるとちょっとわかりやすすぎるように思った。もうすこしひっかかりひっかかりしながら読まないといけないように思う。この本の
に「私がやりました!」ということばがあるんだけど、読んだあとみるととても恐ろしいことばにみえた。やってもないことを(勿論圧倒的な強制のもとにあるとはいえ)みずからがいうのだ。そのやってもいないことで25年も完全に拘束され(たりす)る。それは現在の話でもある。やってもいないことで死刑判決くらうことすらあるのだからほんとにひとごとではない。

 いくらなんでもひどすぎる。制度の不備もあるんだろう。でもプロの仕事なのに、明らかにあやまちを犯したときにもその責任を問われないというのはどーゆーことなんだろう。個人ではなく組織で仕事にあたるのだから、ということだろうけど。一方は完全に無実なうえに強制的なとりしらべをうけて死刑判決まで出たりするのに、もう一方はあやまった結論を導いておきながらお咎めなし。この完全な不均衡。

 どうしたって自分がこの状況をかえる力がない、とわかってしまったときのおそろしさなのかもしれないと思う。

 同時にこの世に責任をとりながら生きている人間なんていないのでは、と思わせてくれる。このひとたちの「奪われた」時間は誰がどうやって責任をとるのか?拘禁症状まで生じさせた責任を誰がどうやってとるのか?

 世の中を嘆く声はおおいけど、もしその責任がどこか一点にあるとしたら(このふくみ)おれはそれはじじーどものせいではないのかと思っている。談合しすぎ。がめつすぎ。私腹をこやしすぎ。議員しすぎ。こんなやつらに「近頃の若いもんは………」とか「日本の伝統はどうなるのじゃ」とかいわれるすじあいなんてないっつーの(もうそんなに若くないけど)。晩節を汚しまくりの人たちこそ(そうでない人のほうがおおいんだろうけど)リカレント教育をしてあげて。効果なしかも。


5/28/Lundi  「Where is love」Roberta Flack & Donny Hathaway

 みーこ脱走。みーこは窓の右側が網戸のときは自分の右手で網戸をあけて外にでることができる。そのことを忘れていた。みーこは畑のなかに寝ころんでとぼけてる。……その後別猫にいじめられていじけて戻ってきた。

 この前 BS をみてたら(多分)ブルーノ = ワルターのインタビューをやっていた。何年ごろのかはわからなかったが白黒の画面だったから結構古い年代のものだったのだろう。ふんふんとみていると、無調音楽(12音音楽?)についてきかれていた。ワルターは、あんなのは音楽ではないというようなことをいっていたと思う。ジャズについての感想をきかれたワルターは、音楽の最も不幸な形態とかなんとかそんなことをいっていたように思う。ブルーノ = ワルターってちゃんときいたことないけど、こんなこといってるアホおやじの音楽なんて聴く気がうせてしまった。このおっさんはスクリャービンもグロフェもガーシュインもショスタコービッチもわからないのだろう。ましてハンコックやすちーび―の素晴らしさなんてわかるわけがない。やはりバーンスタインみたいな真の巨匠とは違うのねん。

 クリーンなタカ。ダーティなハト。みさかいなく人を殴っては人生を棒にふるあほ。ふさわしすぎるのかもしれない。意味をみいだすのはまた別の苦難。


5/27/Dimanche  「One for Helen」Bill Evans

 ラーメンを食ったあと
ここ。510円+400円というのはちょっと高いんじゃないんかな。若い女子3人ぐみに「写真おねがいします」といわれでへへ。あるく。結構若者サークル男女ふうのグループがいる。曇ってるのに紫外線は強いのかひりひり。帰ってお好み焼き。おたふくソーススパイシーは結構からい。寝てしまう。


5/26/Samedi  「Oye Ramon」clementine

 昨日は久しぶりに城野。1ヶ月ぶりぐらいかしら。今日は大学4年生の女子大生の日本語の授業。うはうは。なんかこれをめあてに参加してると思われそうでこわい。TT形式で辞書のはやびきゲームのようなもの。ベイビートークのような部分も感じられてそのあたりは気にはなったが(これは結構大事な問題なんだと思う)よく準備がされていたと思う。しかし大人(なんせみんな60歳ちかくかそれ以上なんだから)小学生にむけて語るような語り口はちょっと気をつけたほうがいいのだと思う。尊重するというか。そのしかた。

 ほんで「あし」とか「いね」とかひいていった。辞書は小学生用なんだけどその中で「いぬ」の欄にあった用例。
例:幕府の犬。

ついでに「おとな」のところの例。
例:もっと大人になりなさい。

 ふくすけ君と一緒に行き帰りするのはおそらく今日で最後。I 君は体調がすぐれないそうで。3人でジョリパ。今日は昼は天ぷら定食をおごってもらう(店は高かった)。靴をかっ(てもらっ)たりする。ハヤシライスを作るもただのトマトご飯のようになってしまい不本意。やはりまだ本をみないと作れない。


5/25/Vendredi  「You put a move on my heart」Q.J feat.Tamia

 自分でもあんまりよくわかってないことを書いたのにさっそくいずし君の
反応。ありがとうございます。社会学は社会をあいてにしているのは間違いないと思います。社会学をしてる人の科学観。人それぞれでしょうが、自分としては以前書いたこれがしっくりきます。もういっちょ。上野千鶴子さんは次のようなことを書いています。

コンピューター処理のおかげで、社会学は統計的な手法をますます洗練していったものの、そのせいでかえって「通常科学」としての陳腐化を深めていった………。社会学は定量情報処理の技術論と化し、その一方で社会学のジャンルとしての魅力は薄れていった。
………遅れた「自然科学」観にもとづく狭義の「科学」観が、社会科学をも規定してきた………。そこには「経験」のうち、(1)測定可能なもの、(2)数量化可能なもの、かつ(3)平均的なものだけが、「実証性」の要請にかなうとする見方がある。わたしは定量的な情報を否定しているわけではない。定量的な手法で、わかることとわからないこととがある。定量的な情報を扱う研究者は、自分が「定量化できる情報」だけを扱っていること、その外側にその方法では扱えない広大な「経験」の領域があることについて、自覚的であるべきだろう。

上野千鶴子 1997「〈わたし〉のメタ社会学」『現代社会の社会学』岩波書店 57−58ページ


 定量だけでなく定性をあつかう研究者にもあつかえない領域があることには自覚的でないとはいけないとゆーのは当然で。とゆーか定量と定性といった疑似二項対立こそ不毛なものだ、という議論があってつかえるものはなんでもつかえばいいじゃねーか(恥知らずの折衷主義)というのもある。両方できる人は両方したらいいし、できるほうがいいのかもしれんけど。でもみんながみんな両方できるってわけじゃないし。

 上野さんもいういわゆる「科学」みたいなものからみると、人文系の学問は学問かもしらんが「科学」ではない、って思われてそうに思える。きく人が誰かによって出てくる答えがいろいろと違ったりするとそれは科学じゃないっていわれそうだけど、そうじゃないんだ、と。対象は人なんだからそーゆーことはあるんだ、と。たしかに対象は社会なんだけど、社会は人びとが構成するもので社会を問うにはひとりひとりの個人に問うしかない。

 経済学(ちっともわからんけど)が仮想する人間像がホモエコノミクスならば、社会学のそれはホモソシオロジクスで、とりあえず異なる人間をイメージしてるのだ。合理的に選択する人間とそうでない人間と(雑すぎてすいません)。経済学は社会を個々の人間の総和と考えるらしいが(いまだにそうなのか勉強不足のためわかりません)、社会学は社会を個々人の総和とは考えない。ひとりひとりは各々の幸せを願って行為するのに結果としては以前よりも悪い状態が帰結する、とかいう話はよくでてくる。だから、社会学は社会にはひとりひとりの個人には還元できない社会独自の次元でのはたらきがある、と考える(創発特性とかいう難しい訳語)。ミクロマクロ問題とか。いずれにしても社会学は「意味」という問題をまじめに考えようとしているのだと思う。

 社会学がいろいろとうけとってきたもののひとつに現象学があり、社会学者の中にはそういう現象学のようなものがなんで入ってくるんだ?という人もおる、と。そのように西原さんは指摘している。
現象学がそもそも主観主義であるという(社会学内部での)了解………。ここで主観主義とは、意識、自我、その他、なんと表現しようと、現象学は自己の主観性を問題にする学問であって、それゆえ、現象学は人が他者とともに生活を営む社会的なものへの視点をはじめから欠いている、という了解のうえでなされる否定的言辞を指す。社会学者のなかには、そうした了解を明確に言明して、現象学の社会学への導入を批判するものもいた。

西原和久 1998『意味の社会学』弘文堂 97ページ


 うーん。まだ未消化でいずし君には答えられないけど、あいかわらずちまちまと考えます(← それでいいのか?)。


5/24/Jeudi  「Eyes of love」Quincy Jones

 
いずし君の日記の中におもしろいページを発見。さっそく読ませていただく。そういえば以前いずし君と「社会学ってなんなんだ」という話になったことがある。とゆーかそーゆー話ってのはおれもよくいろんな人としたもんで。ヒゲとか特にね(← しゃーしかった)。こんな生活をしていたらそーゆー話をするかしないかは別としても考えざるをえないのだと思う。「君のはネー社会学じゃないんだヨー」と日々連呼されたおれには「社会学とはなにか」とはとてもいえないんだけど。

 ある人があるところで「社会学ほど隣接科学からいろんな知見をもってくる学問もないのではないか」と書いていた。物理学・生物学・数学から法学・経済学・美学まで(あるいはそれ以上?)。すべての学問のボスになる必要もないし、まーそうしたい人はいるのかもしれないが。社会学という学問にいろんな所からいろんな知識がはいってきたり持ちこもうとしてる人はいる。社会学をやってる人自身がもとは理系だったりってことはよくあるみたい。

 社会学が対象にするのは人間で、それはやっぱり不変のものではありえないから、それを把握するということが難しいのだと思う。おなじものを見ていてもAとBとCではその意味や解釈が異なる(し異ならないこともある)。意味というものをまじめに考えようとしてるのだとは思う。でもそれはひとりひとりにとって異なる可能性がある。だからそんなのは科学じゃねーんだというのかどうなのか?科学じゃ!ってきばる必要もないかもしれんけど、そんなもんは科学じゃねーっつーのもどうか?社会学はいろんな科学があるよってことでやってるんじゃないだろうか。数値に変換可能なものだけが科学であるとは考えないんだろうと思う。数値にならないもの・ことばにすらならないもの、そういうものにすら目を凝らそうとする姿勢のようなもの。わかるとか理解するってことは(「科学」としてのという限定は必要かもしれないけど)数値にするってこととは違うんだと思う(感得的であったり)。わかるということについて考える。

 こんないいかたをすると結局は社会学ってなんのこっちゃいっちょんわからんってことになりそうだけど。でも、それなら社会学ってなに?って知りたい人は自分で考えたらどうなの?というしかないのかも(だっておれだってわかってないし。とゆーかおれに教えてくれ)。「〜学とはなにか?」という質問・疑問があるとして、まずはそれはひとりひとりが考えればいいんじゃないのかな?もちろんいろんな人にきいたり読んだりするんだけど。そもそもなぜ自分は「〜学とはなにか」という問いをとわねばならないのか?とかそーゆーふうに自己遡及的に問うてもいいのだと思う。そーゆー疑問をもつわたしはなんなの?と。

 研究者と研究対象(者)ってあたかも二項対立するかのように考えていいのかってことさえもまじめな社会学は考えてる。そもそも研究に先だつ自己とはあるのか、とか。ナイーブに「研究とはそういうもんじゃ!」とか「だって〜そうしないと〜研究とか〜できないじゃん〜」という姿勢にはどこか冷ややかなのかもしれない(とゆーかおれはそうだ)。現代社会において科学(すること)とはなにか、とか。研究とともに自己反省がつねにある(というかあってしまうというか)。研究するおまえはなんなんじゃ!っていつもいわれてるような気がする。それでおれは身動きとれないんだけど(よわよわ)。もちろん思いいれがあるんだけど。あるいはかっこいいことばっかりいってるかしら。

 わたしが社会学(とか哲学とか)に惹かれるのは、わかりあうとか憎しみあうとか傷つけあうとか愛しあうとか。そういう、人々を結びつけたり引き離したりすることを真剣に考えようとしているからです。もちろんすべての人々がそのようなことを経験しているんだけど、あらためてことばにしてみようとかはそんなに考えない。だいいち、そんなことしてたら日々の生活の時間の結構な部分を食われてしまう。ただ、日々の生活の中でみんなそれについてちょっと考えてみたりはしてる。社会学(や哲学)の特権ではもちろんない。社会学だけが世界を理解するのでもない。いろんな理解への道がある。ただ学問という世界の中では性根をすえてやっているようにわたしには思える、と。

 これでいいたいことを全部いってしまったわけじゃないけど。またちまちま考えます。以下最近読んだ話。


 いや正直なところ、学術的言説も、客観的なデータも、私はさほど信用していないと言ってもいい。かりに実地に「参与観察」しておられる研究者といえども、学術上の(実は)偏見をもって外側からながめておられる限り、彼らの言われることが私を本当に撃ったためしなど一度もない。かつ、結局はキリスト教圏の特殊性に拘束されている欧米学者の言説、それを物指しにして、日本の宗教事情を、それとのいわば距離感で測ってきたような研究者の言い分など、これまた私を感服させたことは一度もない。少なくとも、故遠藤周作氏の諸作品を読んでわかるほどに、私の“現場”からの学びに良く共鳴する学術研究書には、これまで、残念ながらお目にかかったことがないのである。

大村英昭 1996『現代社会と宗教 宗教意識の変容』岩波書店 151ページ




5/23/Mercredi  「Una mas」Roy Hargrove's Crisol

 自分から切り離したはずのものが、未だに死にきれず宙をさまよっているのを目にすることがある。せめて自分のこの手で成仏(← こんな表現していいんですかね?)させてあげなければとは思うのだが。

 バスで天神まで。女の子がうようよしてるのでウハウハいいながら(しかももちろん心のなかで ← さいてー)歩く。jazz コーナーで割りこんでくるごま塩オヤジにむかつく。学校へ。
これこれを購入。今日の報告はおもしろかった(約2時間半)。ピザトースト・焼きそば UFO ミルク(?)パン・餃子と蛸のマリネ。

 ハンセン病控訴断念。当然だと思う。別に小泉さんがえらいとかそういうことじゃないと思うし、話をそういうことにしてはいけないんだと思う。それにしても行政府の論理(← とよべるほどのものか?)って恐ろしい。三権がなれあう構図は恐ろしいけど、司法府の判断にも全然したがう様子がないってところがよゆーでこわい。必要なのは大きく冷たい行政府なのかしら?


5/22/Mardi  「男はつらいっすねぇ」うんお前のきもちわかるよ……

 いくつかページをみたり。「あーおれってこんなにわかってないんだなー」とか思ったりもしたが。ちょっとまてよ。そもそもネットなんてなくても生きていける。つーか「こんだけネットが普及してるんだからそれに対する技術を身につけないと生きていけない。本人にとってもそれがいいはずだ」つーのはどっかおかしくないか?そげな技術を身につけていたっていなくたって生きていけるってことのほうが大事なんじゃ?

 つーか。「ネットさえあれば生きていける」って感じがして逆に怖いのだと思う。

 以前ある人と話をしていて「わたしは(確たる)答えのないものって嫌いなんです」といっていたのをきいてびっくりしたことを覚えている。なんかそれは、どこかにある・未だ見えない答えをさがしもとめる、とゆーか既にいる誰かから答えをあてがってもらうことのような気がして、要するにわからないことは考えたくないし考えなくていいんだ、とゆーふーにきこえた。自分で考えることの放棄、というか。それはおれにはちょっと怖い。あてがわれた学問になんの意味があるのか。正直いって(それこそ)全然わからない。


5/21/Lundi  「あの歌」古内東子

 土曜の懇親会で話したこと。先輩と。この院にはいって初めて自分の報告のとき、この先輩からいただいたアドバイスが今も自分の考えの原点になっている。「識字とは要するに同化のことですね」。それ以来考える。ということを先輩にあらためて伝えたり。

 それにしても去年の学会は長崎だった。ほとんど何の手伝いもしてないが。一日目の懇親会がおわったあと、先輩方と路面電車で思案橋まででかけた。電車が100円というのはとてもうれしい。小料理屋みたいなところでのんでその後カラオケに。カラオケでの焼酎がきいたのだろう途中からすっかり寝てしまい終わりごろには気分が激悪。トイレでもどした。酒飲んでもどすなんて久しぶりだったし、あれ以来今までもどしてもいない。この歳になっていちいち酒飲んでもどしてたら相当板井だろう。


5/20/Dimanche  「流星都市」original love

 気になる報告をいくつか。心の師匠の報告。計量とライフヒストリーとの合体。すごすぎる。17時すぎ終了。あとかたづけ。開催校のバイトのみなさんがよく動いて働いてくださった(とまわりは評価していた)のでスムーズに終了。18時ごろやろー7人でじゃがいもへ。18時半までは生ビール100円とゆーことで2杯。豚の角煮とか。あれ?わさび焼売食べてない。そのあと先生が合流されて霧島のさしいれ。結局21時半ちかくまでいてひとり3000円(しかしおれは2000円しか払えなかった)。その後移動してしばらくでラーメン。さすがに替え玉はできない。お金を出してもらってひとり200円ずつ。その後一度研究室に荷物をおろして帰宅。23:50。みなさん(特に事務局長)おつかれさまでした。さすがにぐったり。


5/19/Samedi  「Summer in the city」Quincy Jones

 9時前到着。受付したり。いくつか報告をきいたり。総会のあと懇親会。こじゃれた中華料理屋。道すがら先生とお話したり。店は2階にあるんだけど、この人数ではちょっと手狭な感じ。身動きができないのですぐ横の酢豚ばかりを食う。ビール・ビール・ビール・ぬるい・ビール。ジュース・ワインとゆー感じ。就職&結婚をきめられた先輩と話したりいつもお世話になる先輩と話したり。「手堅くやれ」「素朴にいいたいことをいいなさい」「理論と研究がつながってないのはどうなんや?」とか。

 食べすぎ・飲みすぎで気持ち悪くお腹はぱんぱん。カラオケにいく人とは別れて地下鉄で後輩君とふたり。階段をあがるのも気持ち悪くふうふう。本をかりる。高速バスで帰宅。


5/18/Vendredi  「返事」古内東子

 昨日は久しぶり(おそらく10年以上ぶり)に立ち食いうどんを食べた。しかもごぼう天。迷いに迷った390円。夕方から学会の設営作業。開催校がわの先生はやたらフレンドリー。われわれの講座の大先輩でもある。設営のあと商店街の喫茶店に5人でくりだす。ビートルズ大好き店主のお店。おれはこーゆーのには弱い。とゆーかウンザリさせられる。「今日は誰の誕生日でしょう?」とか。「あのー……ほっといてください」といいたくなってしょうがない。「ディナー」という名だが弁当箱ででてくる。ビールやワインなど。4人で都市高速。


「そばにおって話きいてくれるだけでいいよ」
と100億万年に1回ぐらい人に頼られたりはする。鷲田さんの『「聴く」ことの力』にもあったけど、直接はなんの役にもたたなくたって(← とゆーか役にたつ・たたないというのはその人の不安・不満がやわらぐかどうかということなのだが)自分のことを・話をうけとめてくれているということが与える安心というものがあるのだろう。うけとめてくれるということが感じられるとき、すくなくとも不安・不満のいくつかは軽くなったり解消したりする。それは、直接役にたつといってもいいことではある。

 しかし、まさかあんなこといわれるとは。ことばに窮して両腕で×じるし(大)をつくるので精一杯だった。


5/17/Jeudi  「Amazonas」おのりさ

 
いずし君がやっていた心理(真理?)テスト。やってみる。結果はいずし君と全く同じ。

自分の世界を大事にしていて、外界のことには興味がうすい。……広く浅い交友関係よりも、考え方や価値観の合うごく限られた友人との付き合いを大切にし、深いつきあいを形成しています。審美的で、自分の信じる価値観のなかで生活している………。また、自分も含め、環境をあるがままに客観的にとらえようとする傾向が強く、物事をキチンと把握しています。あまり人情的にのめりこまないため、冷たい印象も与えることもありますが、自分自身について深く内省していて、豊かな内面性の持ち主です。


 やりながら思った疑問。たとえば「物事は、決まった方法や型にはまったやり方ではしたくない」という設問がある。この設問のきいてるところは「『したくない』と思うかどうか」ということであって、「非常にそうだ」と回答した人が「決まった方法や型にはまったやり方」してないかというと、実際にはめちゃ「決まった方法や型にはまったやり方」をしてるってことはあるんじゃないか(「決まった方法や型にはまったやり方」でしてるかどうかってのは自己と他者の相関でのみとらえられる問題であると思う)。

 とゆーか、もともと「思うかどうか」をきいているのに、それに対する診断は太字にしたように「行動」としてあらわれる。質問紙調査とかの場合顕著にあらわれる必殺パターンのように思える。つまり「〜すべきであると考えますか?」とあれば「〜すべきだ」と答えるんだけど、実際に行動してるかどうかっつーのは全然別だという。

 「自分の信じる価値観のなかで生活して」ない人ってーのはいるんだろうか?


5/16/Mercredi  「Quilombo」渡辺貞夫

 いつもどおり報告は失敗。手におえないって感じかしら。F 君の女性野宿者のライフヒストリーの報告はおもしろかった。みなさん学会前の報告の準備でばたばたしてる。G さんは帰っちゃうし。結局演習は2時間半ぐらいあったかもしれない。最近やたら親切な N 君運転の車で送ってもらう。
ここでめし。しかもおごってもらう。恥ずかしいサービス(拍手)つき。うれしくも情けない日々。


5/15/Mardi  「So this」Manhattan jazz quintet

 できたてほやほやをお届けするためにあえて動かない一日(← うそ)。なんか使えるものはないかと探してみたり。歩いたり。


5/14/Lundi  「Minha saudade」おのりさ

 さて、今国会の予算委員会をみてるけど、公明党の議員が文化・教育のことについて質問してた。文化とか芸術に口をだす国家ってーのは結構あぶないんじゃないかと思ったりする。口はださず金をだせ。教育の審議のときって大体はわかものをどう育成するかって話だけど、おれは基本的にはこんな場でいわれてる「教育」ってのはおっさんとかおばさんとか年長者の方々にしてもらったほうがいいんじゃないかと常々考えている(そんなに深くは考えてないけど)。親の背中をみてこどもは育つとか。大人の行動をこどもはよく見てるのだと思う。「今時のわかいもんは」という超必殺きめぜりふをこのわたしが信じられるはずもなく。談合やったり信号無視したりたばこのポイ捨てしたりする大人ばっかりだから世の中悪いっつーの。

 久しぶりぶりの練習はうまくいかなかったがそんなに怒られもしなかった。野菜天。アスパラがちょっとふにゃふにゃしてたのが残念。歩いたり。


5/13/Dimanche  「Movin' on without you」え?

 なにやら事業報告書というものが送られてくる。なんじゃ?と思ったら10月に参加したセミナーのもの。
10月の自分の不用意な発言(として記録されたもの)がのっている。
「男女のカップルにならないと自己実現できない、との考えが広まりすぎている。モテないことは一つのバリアである」「『ダメ連』というモテない男の団体はあるが、女性の場合『ブス連』は成り立たないだろう」との意見が出された。また「心のバリアフリーといっても、今回ホモセクシャルの問題は出てきていない。男女共同参画から同性愛の問題が抜け落ちている」との指摘があった。65ページ

 ダメ連ではなくだめ連。そしてだめ連はもともとモテない男のための団体ではない。まーその問題関心のうちに「恋愛だめ」とか「性だめ」とかのモテない問題もあるということ。

 快晴なので布団をほさずにいられない。どっか(という遠く)にいってももちろんいいんだろうけど。うちのすぐ横は国道だがブレーキの音とその直後鈍い音がドンドンと2回。きもちわるい。相変わらずなんも捗らないので近所をぶらりんこ。ソフトクリームを食う。神社の境内って意外にすずしい。ヒゲとよくいってた山へ車で登る。やけに降りてくる車が多いと思ったら人がいっぱい。日曜の夕日を眺めようという人々。しかもぷるかつばかり。親世代ぐらいの夫婦。すました奥さんがすまして空き缶入れにゴミ(空き缶でない)を捨てる。最低。しょうがないのでしょーぞー家ちかくの海岸に夕日をながめる。ここも結構な人。浜辺でバーベキューをしてる人もいる。男のほうが大きな旅行カバンを持っている若いカップルがやってくる。すこし遠くにすわるとおもむろに太鼓(ボンゴのような音がきこえてきた)を叩きだした。???な人も結構いる(別に太鼓をたたくのは自由だけれども)。日がかげると途端に寒くなった。美しい雲をみる。帰って麻婆茄子・ほうれん草・たけのこ・蕗などの夕食。結局はかどらず。


5/12/Samedi  「Sonate No.3 f-moll Op.5」Brahms

 おなじバンドにいた女子(音楽教師)のお友だちのピアノコンサートへいく(詩音ピアノジョイントコンサート Vol.2)ために久々まちなかへ。
さぼてんでアスパラかつ定食をくう。母の日前のせいかどこも人が多い。本屋をのぞくと先輩がたが執筆されたがならんでた。カフェラテなどのんで会場へ。土曜の夜なのに人がすくねーなーと思ったら終わりごろにはまーまーの人(200人もいなかったと思う)。ピアノでくっていくっつーのも大変なんだろう。ほんでそのあと××通りへ。昼間のとんかつ屋の横の席の若いぷるかつもここでのぷるかつもやたら男のほうがよう喋りよー。


5/11/Vendredi  「スクランブル」original love

 18時半集合でよみかき教室
城野の飲み会。すこしはやめにいって CD を物色(もちろん買わない)。流れるボッサ。今さらではあるけれど。そして本屋。会社がえり(とおれにはみえる)の女性がうようよ。うひょ〜。やっぱ引きこもってないでまちには出てくるもんじゃの〜。うへへ。さて集合場所へ。若い女の子はくるかな〜でへへ〜と思ったらひとりも参加せず。超熟女集団とともにラフォーレ7階のビアガーデン。みんなで18人。あきらかに会社帰りのスーツ集団の先客。ロケーションはばっちりで、夕焼けの空もみえるのだが、風が強く寒い。目の前には高層のホテル。この状況では生ビールもつらいので焼酎へ。ロックにしてもらったのだが超うす。しかも寒い。こんなことならまだお湯わりにしてもらえばよかった。また料理がさめてる。しょうがないのかもしれんけど。割引してもらって2500円だが、そこは超貧のわたし。もとはとらねばと思うが思ったより食べられず。さらにスーツの大集団参上。女子が10人ぐらいか。うへへと観察する。こちらのお腹はパンパン。20時半すぎホテルの喫茶へ。みなさんでこーしーなど。

 21:37の快速電車に乗るために動く歩道を通ったりして小走りで駅へ。車中いつもは強気なふくすけ君がこれからの彼の人生について神妙な感じ。実家へもどるか新天地へでるか。迷う彼をみるのは初めてかもしれなかった。「いやー努力がたりないんですよ」。おれからみるととっても努力してるようにみえるんだけど。すくなくともおれの200(億万)倍はしてる。「とにかく今自分がやりたいことをしたほうがいいよ」と無責任アドバイス(← アドバイスになっていない)。

 不愉快な連中もいたりする。納得したりもする。夜中の中庭。××××騒ぎ。裸足で走りまわる若い女。それはそれでいい。


5/10/Jeudi  「Let's Groove」earth wind & fire

 難しいことではあるかもしれないけど。なんでこんなに苛だつのだろう。「わたし」のある経験は他者の不幸であるかもしれない、ということに思いがいたらないからなのか。「わたし」のいい経験・よかったと思える経験は、他者のそれに正接・順接するとはかぎらない。逆接かもしれないしねじれているかもしれないのだ。それはあのことばでいえば、幸と不幸のゼロサム(零和)ゲーム。気づかなくていいことなのかといえば、そうではないと答える。

 見学者と「みせものじゃないっちゃ」ということばのあいだに考えるべきことはある。そういう普段のおもいを Y さんにはなす。これから・これからもずっと考えていこう。いらいらしてるようにみえるだろうしそれは事実だけれど勘弁して。


5/9/Mercredi  「名うてのダンディ」パパイヤ鈴木とおやじダンサーズ

 布団ほしたり終日部屋のかたづけ。もしかしたら死ぬまでかたづかないかもしれない。欲しいものなんかほとんどないし金もないしモノはほとんど買わないはずなのに。もらってくるプリントとかレジュメとかが全然かたづかないのだ。みなさんはどうやってかたづけてるのかしら。捨てたらいいやん、というのはおれにはできないのよねん。


5/8/Mardi  「Reasons」earth wind & fire

 全然素直になれない男の息子なもんでやっぱり素直でないんだろうか。姉さん、おれが素直じゃないのはそういうことかもしらんです。

 ずっと読んでいなかった
小熊英二 1995『単一民族神話の起源 〈日本人〉の自画像の系譜』新曜社 を必死こいてよむ。自宅ネット環境やっと復活。一日日記の整理。ぐずつく天気。


5/7/Lundi  「Let's go!」original love

 18時ごろから両親と焼肉をたべにいく。あと1年でおれの20代もおわる。いつだって未来予想図のようなものを意識してもったことなどないけれど、おそらくは漠然とおもいえがいた未来とは違うような気がする。気がするだけ。腹いっぱい食ってもあまりまともに両親の顔をみることができない。もちろん思いっきりモラトリアムだと思っている。だから、晴々と自分のきた道を人にいえようはずもないのだ。もうこんなにみじめな誕生日は今年で最後にしたい。もちろんこの世に生をさずけてくれた両親には感謝するし、いつかできるだけの親孝行をしたい。

 しばし。ののち。韓国から電話。ありがとうございます。


5/6/Dimanche  「You and the night and the music」Bill Evans

 回転寿司。たぶん生まれて2回目。そのあと芦屋の海岸。××みたいなのがいっぱいいる。芝生のうえで弁当をひろげている家族連れもいる。砂浜には犬をつれている人もいる。すこしだけ波うちぎわに足をいれる。きづかなかったがくらげが大量に(死んで?)いる。勝手に悲しくなられたり。移動して3人でこーしーなど。写真をとりにいって100円ショップでケースを3つ購入。21時まえほか弁とビールなどを買ってうっしーさまのお宅にお邪魔。墓裟之場をききながら23時半までいろんな話。父の誕生日。


5/5/Samedi  「エイリアンズ」キリンジ

 都市高速550円ってのは高いんじゃないだろうか。おりると超渋滞。わりこんでくる馬鹿車多数。けっこうじじーが多い。2時間ほどの渋滞をぬける。うんざり。17時すぎ目的地に到着。
ここでてんぷら定食を食べる(しかもおごってもらう)。ここも40分まち。港をでていくフェリーをながめたり。いか活造り定食は、まず刺身でいかの身を食べたあと、残りの部分は唐揚げにしてもう一度楽しめる。どっちもおいしいんだけどちょっとむっとくるかもしれない。××の見える丘公園にのぼったり。帰りはいきなり渋滞。


5/4/Vendredi  「祈り」比屋定篤子

 何かが最初からまちがっていて、そのまま駐車場へ。そしてわかりやすすぎる喧嘩。とるにたらないことばを曲解されたり。それでいいのならそれでいい。


5/3/Jeudi  「新宿駅で待ってた」Ban Ban Bazar

 
Ban Ban Bazarがぷれいしてた。かっこいいけど寒そうだった。自分の中にこの流れがあることを知る。すこし意外。でも納得。


5/2/Mercredi  「100ワットの恋人」鈴木茂

 学会の発送作業のため学校へ。6人で作業したのでけっこうはやくおわる。郵便局へ250通ほどもっていって完了。学食でごぼう天うどん(280円)。M君。N君。最近やたらおれにいろいろとはなしかけてくれる。心配してくれているのだろうか。多分そうではないんだろうけど。


5/1/Mardi  「(You can't always get)What you want」cornelius

 井出孫六 1980『抵抗の新聞人 桐生悠々』岩波新書 をよむ。




 Avril  Aprile  April 
 過去も結構おとなげない