×xー×ーの おとなげない 日記  for Otonagenai people

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Ottobre Octobre



10/31/giovedi  「いつかきっと」古内東子

最近勉強してない。いやいつもしてない。いつもどおりしてない。立岩さんよんだりしてる。


 一定の期間学校へ行って、その後に働くという体制になって、相当の時間がたつ。そして、その学校にいる半端な時間は長く引き伸ばされてきた。学校が提供することの多くの部分は手段である。働くことが生活のための手段であるとし、勉強することの少なくとも一部が働くことへの準備であるとするなら、勉強することは手段のための手段である。しかし学校にいる間、学校は具体的に何かの手段ではない。手段でしかないはずのものだけがそこにあるのであり、そのことのために手段でしかないものが自己目的化することになる。また学校の後に控える単なる手段であるはずの労働、どこかに勤めることが、それ以上のものとされる。しかも、出来不出来はつねに自分のほうに返ってくるようになっている。 107ページ

 教育機関は、教育というサービスを提供する機関となる。その一部は生活するための手段、というより手段のための手段を直接的に提供する。その他の多くは「楽しみ」を提供する。それはさしあたり生活に直結しないので、魅力は低下し、志願者の数は減り、選抜の必要度はおちる。これは希望者の希望をよりかなえやすくなるということだからよいことである。このような変化が起こると、仕方なく学校に行く人が少なくなる。それでつぶれる学校が出てきたりする。もちろんそれでよいのである。問題は、行きたくない人、行かなくてよい人が学校に行ってしまうことにあるのだから。そしてなにか勉強したくなったら、その人は勝手に勉強する場に行くだろう。 108ページ

「学歴偏重」はいけなくて、「人間性」が大切だというもっともなことと、学校において、とりわけ学校への選抜において「人間性」を重視しそれを評価することとは直接にはつながらない。まず「人間性」が大切であるということと、それを評価し測るということとはまったく別のことである。それは評価できないものであるかもしれないし、また評価すべきではないことかもしれない。評価しようとすることによって変質してしまうかもしれない。望んでのことにせよそうでないにせよ、学校が選抜のための手段として存在してしまう場合、評価することの中に「人間的なもの」が入ることは、その人間的なものが手段的なものに従属してしまうことを意味してしまう。 108−109ページ

暮らすことの中に消費があり、消費のために生産がある。働くことはまず手段であり、生活するために働く。その意味で働くこと、生産することはよいことである。そして能力とはなにかの用に役に立つ力である。だから能力があることは役に立つことではある。できること、できるようになることは、それ以下ではないが、それ以上でもない。 113−114ページ


立岩真也 2001「停滞する資本主義のために──の準備」栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見俊哉 編『文化の市場:交通する(越境する知・5)』東京大学出版会




つめたいあめのふる日だ。プリンくいたい。地鶏肉まんくいたい。


きらいになるのにはそれなりに理由があるかもしれないけど、すきになるのに理由はないような気がする。


10/30/mercoledi  「バカンスの女神」広瀬香美

広瀬香美『
Harvest』(1994)と t-square『impressive』(1992)をかりる。広瀬香美のほうはファンのあいだでも人気があるとか。しらずにかりたのだが。疑問。全体的に納得はできない。「彼と買出し “奥様”と呼ばれ にやける私」(幸せをつかみたい)とかわからんなあ。「darlin' 共同生活 すぐに結婚 切り出され 専業主婦が ゴールだったのに」(春よ来い)とか、そういう人がいるとしても理解はできないなあと思う。特に「シンデレラストーリー 目指さなくちゃ」とうたう「lucky girl 〜信じるものは救われる」はよくわからない。冒頭の森口博子のいのりのせりふとかは(いまきくと)ちょっとはずかしくないのかな?


好きな男 見つけたら どんどんチャレンジする
失恋したって ダメモト 失敗は成功のもと
勉強もファッションもダイエットも頑張って
どっかで生きてる王子様 出会えるその日まで

「lucky girl 〜信じるものは救われる」(広瀬香美)



勿論そういう世界(観)がすきない人もいるだろうしそういう(物語)世界にいきることそのものを否定も非難もできないが。別に希望なんかもてない世界だけど死んだりしてしまうのはよくないし、それにいきていればそこそこいいこともあるよ的な世界観のもちぬしであるおれにとっては、がんばりすぎポジティブという感がある。それにしてもハイトーンへと跳躍するこの歌唱法に必然性があるのか疑問。t-squareのほうもなんか密度がうすいというか。


10/29/martedi  「return to forever」chick corea and return to forever

痴呆性老人のグループホーム見学。学校法人が経営しているらしい。今日おはなしをきいた K さんというかたはかなりこころざしがあるとみた。熱意のあるひとはかっこええなあーと思った。福祉など全然わかってないが、直感としてはかなりいい線なのではないかと思えた。某先生が制度面ばかりきくのには閉口。何をしるべきかというところでちがうんだなあと思う。おれはミクロからマクロをかんがえていくような方向に興味があるから。細部にやどるのは………。地域との接点あるいは交流。ぼけゆく人々。それにしても師匠の運転はやはりこわい。

偶然おなじ方向にかえるひとが 3人いた(もうひとりいるようだ)。バスと電車をのりつぐ。不快にさせる女子高生。夕方の車内で S さんと会話。施設の見学のようなものには異論というか感情的に肯定できないものがあるとおっしゃる。参与観察への疑問か。いろいろと考えてらっしゃる。とてもおもしろいのに報告だとああなってしまうのはなぜかと思わずにいられない。やりたいことそのままだされてはどうか?抽象的議論にもちこもうとされてるようにもみえる。T さんはイギリスに留学したいなあといわれる。「僕がきみの歳なら留学するんだけどね」。S さんとふたり是非とも今すぐ留学すべき、と。夕方のターミナルでおふたりとわかれる。今日はいつもよりはやく、高速のうえからみるとビルのあいだを西の海にしずんでいく夕陽がみえた。

最近特に思うことがおおくなったのだが。一緒に勉強してきたひとに優秀なひとがおおく、手腕・手法もすぐれていてまた内容そのものが(ホームレスとか薬害とか)興味ぶかいものがほとんどだった。抽象的なはなしの先輩でも丁寧に論をおっていて、みたこともない研究者のなまえがでてきてはおどろかされた(これは自分の無知だが)。そういうひとたちが、あろうことかおれのテーマや手法をおもしろいとか興味ぶかいとさえいってくれた。今はもうばらばらになってしまって、もうすこしいろんな話をしておけばよかったと後悔してる。研究の面でつきあうひとだけじゃなく、いつの時代の友人たちもそれぞれに興味をしめしてくれ、やけくそ気味にのむ酒の席でさえ丁寧にはなしをきいてくれる。

この世の誰がおれのはなしに興味をもってくれるだろう。これ以上のぞむことがほかにあろうか。いろんな場でいろんなひとにはなしをきかせてもらい、またおれのはなしをきいてもらう、これだけが何か意味のあることのように思えてならない。今のことひとたちとのおわかれの時はもうきまっている。このような機会を大事にしたいと思った今日だった………と思いながら、誰とでもいい・とにかく話をきかせてほしい・きいてほしい、というのではないなあと思った。なんだかわからないが自分のレーダーがあって、その感度にふれたひとだけである。感度は勿論くるってることもあるだろうし、くるってないとしても自分流にしかチューニングなれてないわけだから。でもこの自分のレーダーをたよるしかない。他人のレーダーをつかうことはできないのだから。


10/28/lunedi  「all I do」Stevie Wonder

いろいろな段どりがあって、しかもまわりのひとたちはそのことに気づき対処しているのに、自分ひとりが何にも気づいていなくて馬鹿みたいに「うへへ………」などといっている………ということにまったく気づいていないわけではないのです。みんながさってしまったあと、あるいは家にかえってひとりになったとき「しまった」と気づくのです、あとから。やっぱりそのときそのときその場で気づいて対処する、ということができないからなあ、そういうとこが駄目なんだろうなあ。

みかんをもらって、自分はたべるだけたべてそこをさろうとするときに、その人がてぎわよくかたづけてくれたりする、しかもこともなげに「こんなこと何でもないですよ」というように。下手に手をだすのもなあと思いながら………そのときはもうすでに「しまった」と思っています。思うようになってきたのだが、思うまえに行動しないといかんなあと思います。とてもさむくて憂鬱な日曜日のひとりの部屋でそんなことばっかりかんがえた。かんがえていると「きっとひとりではいきていけないんだろうなあ、こんな日にそとにほっぽりだされた日にはすぐに死んでしまうんだろうなあ」などととりとめもなく考える。なんでこんなことばっかり考えてるんだろう?この季節はだいすきなはずなのに。なんでかなあ。すべてうまくいかないなあ。なんかもうどうでもよくなってきた。あきたならすぐすててくれないかなあ、あんたはひとりでいきていけるんだし。あんまし迷惑かけるのも気もちよくはないよ。


夜ひさびさに I 君にあった。かれにながいことかりていた CD をかえすため。ちかくから電話をかける、ために公衆電話をさがすも全然みつからず。山中をさまよう。


10/27/domenica  「しらけちまうぜ」小坂忠

秋から冬へ季節はうつっていくのだろうけど、どういうわけだか急に冬になったように思えてしまう日がある。今日がその日だ。11時現在14.5℃とかいってた。

さむくなってきました。わが家ではこの秋(冬)はじめてのストーブ。みーこ(猫)がその前でおすわりをしています。もうおれにはヒゲからしかメールがこないんだ、ということがはっきりした10月でした。いつも直視したくない現実(「ちょくし」の最初の変換が勅旨というのはどうなんでしょう?)。


10/26/sabato  「エレンディラ」森広隆

朝は快晴だったが、いやーな風がふきだした。19時から某のみやさんでのみ会。魚をメインに食べさせるところで今日はまた客がおおい。バンドのひとだ。女性が「今度あたらしくはいりました K です」というので、「今度あたらしくやめましたしょーへーです」と自己紹介しておいた。おれはもうバンドをやめている。運営費をはらえないし(そんなかねがない)、それよりなにより練習日の木曜日はボランティアで、いつのまにかそっちがメインになってしまったから。練習のためにかねがかかり、それをみんなではらうのは勿論当然なんだけど、自分が参加してもない練習のためにはらう金は今ほんとにない、それさえクリアできれば籍をおいておくこと・運営費をはらうことには何の問題もないのだが。できればそうしたいとは思っているができない。意思の問題ではない、能力(無能力)の問題だとしておこう。

………大体そんな奴がさけのみにきていいのかというと自分でも疑問なのだがあまえた。ただざけのましてもらってすいません、というよりはそんな自分がなさけなく目をそらしたいような気もちからいも焼酎をロックで4・5杯いってしまった。決して酒がつよいのではない・むしろよわいのだが、こんなときはよえないし、どこかかなりさめた自分がいるのがはっきりわかって、そのことで気もちがわるい。そういうのをふりはらいたいからはしゃぐふりをやってみようとする。どっちにしても馬鹿だ。みなさんそれぞれに何かがあった、自分だけではないのだなあ。よえないといいつつやはりよってはいて、散々しゃべってしまった。そこでいわれたひとこと。「むずかしいこと考えている人っているんですね」。

その後カラオケに移動。なかなか「もう終了ですよ」というよびだしがならないなあ、と思っていたらフリータイム(制)だったらしく、こちらがおわればそれでよかった模様。しらずに「時間がくるまで一生懸命うたわねば」と思っていた、ほかの方々はかえりたくてしかたなかったかもしれない。すいませんでした。午前2時帰宅。お世話になりました。ありがとうございました。


10/25/venerdi  「stormy hearts」casiopea

その本をかしてくれている某さん(女性)。日常的にインターネットをする機会(?)はないらしく、某所で立岩さんのページで本の情報をみるついでにこの日記をみることになった。その日の日記には
ヒゲ日記へのリンクがあったから、当然それもみることになった。この日記からリンクしているいくつかの日記も。それぞれが生きていることをしり、満足(?)された様子。おれの内容といえば「人妻日記よんであんなことやこんなことを妄想している」などと。

ご自身のおはなしをきかせてもらう、結構ヘビーな内容。結論、無理をするな。風がふく状況というのはかならずあるのだから、その機会をとらえて風にのるべきだ、と。「あのー風なら結構ふいてるんですよ、ほとんどつねに逆風ですけど」。どうも逆風合戦になってしまい反省。でも風にふかれて思いもしなかった場所にふかれていくというのはそれはそれでいいのではないのか、とおっしゃる。そうかもしれない。


10/24/giovedi  「sayonara」r s

ふたりのハルモニの訃報については話題がでなかったらしい、それでいいのかと思う。ほかにもきめなければならないことが話題にさえなっていないようだ。だがおれは提案しようとは思わない。つぶれてしまってもよい。残高が4桁しかないというと「かわいそうにねえ」と同情される。まさに「同情するならかねをくれ!」といいたい気分である。家はかろうじてあるが(というか実家だから)、そんなわたしはそれよりもどこか悲惨な雰囲気のただよう「家あるおっさん」である。

おれが人妻日記をよむのは、あんなことやこんなことの赤裸々な(ばかの極地の修飾語)描写がされているのでは?といった期待もあるが、それ以上に日々の些細なできごとからみえる「むつまじさ」みたいなものを期待しているのだと思う。特に夫をおもう妻の(による)描写には「いいなーうらやましいなーいいなーばぶぅーばぶぅー」とばぶぅりんぐしまくりなのである。もっとも結婚などという生活は当分おれには関係のないできごとであり、想像も妄想もできないものなのである。

ヒゲがテロ支援国家でも財政再建団体でもなくエロ支援国家になりたいなあなどと日記にかいている。へた連メンバーの特徴であると思うのだが、われわれはいつも「金にならない何か」を発明しているのである。何かというのは概念であることがおおいのだが、どこかの技術者とちがってそれでノーベル賞もらったり褒賞金がでたりはしない。そういうのをみとめてくれる人・団体がないからである………だから自分たちでつくってみる、まさにセルフヘルプグループ、あるいはだめ人間をすくうNPO。そして、提案されたさまざまな概念に対して報奨金をだす、報奨金それ自体がさらなる発明への動機づけとなる。すばらしい発明だ。ちなみに報奨金は1000万円などとけちなことはいわず1億円とする、すべてこども銀行券でしはらわれる。


某さんにすすめられて沢木耕太郎『人の砂漠』(新潮文庫 1980)をよんでいる。そのなかの「棄てられた女たちのユートピア」から。
 そも無能力とは何であるのか。能力が「無い」のではなく、その社会に「適応」しなかっただけではないのか。

71ページ



しかし、テレビのルポとは、能う限り同化せず、常にカメラを意識させていることが必要なのではないか。その時、はじめてカメラはその機能を発揮する。ライト一個をつけるたびに真実を一つ生ませる――多分、それがカメラのルポルタージュではないか、と思ったのである。しかし、取材陣は日常をニセの「さりげなさ」で撮っていた。

82ページ



10/23/mercoledi  「冗談」original love

あさのメール。ハルモニが80歳で8月31日に、もうひとりのハルモニが89歳で10月14日になくなったというメールがとどいていた。前者にはおあいしたことはないが、後者とは何回か一緒に勉強し、定時制高校の見学にも一緒にいった。そのときすでにかなりあしこしがわるく、たしか手をとったように思う。真っ白な頭髪が印象的で、うんうんと一生懸命はなしをきいていたことをおぼえている。いろんなことがいまいわれている。はたして彼女たちの人生とは何であったか。何度かそんなことを考えたことがあり、またそういうことの一部を構成することを考えてきた、考えて若輩で浅学非才の自分を思うとき、そのあまりのおもさに――何しろ研究するとは何らかの判断をくだすことであろうから――何にも手につかなくなってしまった。このようなひとの人生を判断するこのだめ人間であるわたしとは何(者)か?

配慮とはときに大変危険なものだ。

洗車した………夕方ぱらりぱらりと雨がふってきた………。今日は通帳で確認しようとしたら、今度は機械が通帳をうけつけない、パネルの表示のやじるしが「この方向で通帳をいれてください」と表示している、だがそれもうすくて実はよく判別できない………ちくしょー機械までおれを馬鹿にしやがって。

苅谷剛彦『学校って何だろう』(講談社1998)をよんでいる(
)。おれは本ずきではない。本をよむのがすきだ、というひとは本をよむだろう。沢山よむだろう。おれはどうか?すきな本もあるが、本をよむことそのものがすきだとはいえないような気がする。よまなければならない本が1000冊はあるような気がするが(はずかしくてかけない)。とにかく面倒くさいのがきらいで短気で、おれのばやい本をよむのはそもそも面倒くさいの範疇にはいる。たとえば推理小説でも一番最初に最後の部分・犯人は誰かということをたしかめたうえでよんでしまうようなところがある。本をよむとき、なぜか最後から最初にむかってよんでしまったりもする。「あとがき」を最初によむことがおおい。このひとはなんでこんな本かいてるの?というのが気になるのである。苅谷さんはこうかいている――「この本の文章は、一九九七年の九月から九八年の三月にかけて、『毎日中学生新聞』に連載した」と。そして編集長に「『刈谷さん、あなたは自分のやっている学問を、中学生に分かるように書けますか』といわれた」とある(203−204ページ)。

さてこの部分をよんでこのだめ人間は何を思ったか?「この感じで誰か中学生にもわかる社会学の本かいてくれないかなあ」。

おれ教育学出自だけど、教育学(教育といういとなみではなく)がおもしろいなんて学部のときには全然おもえなくて。ペスタロッチって何ですか?ルソーの『エミール』?おいしいですか?という感じで、それは今もかわらない。最近は、教育学とは「べき論」であって、問題があるのは問題があるからであって、その問題をなくすためには問題のないこどもをそだてればよい、といってるような気がしてならないのだ(おこられるだろうなあ、こんなことかいたら)。今はよっぱらっているのでまたあらためてかくかもしれない、かかないかもしれない。


10/22/martedi  「the river niger」roy ayers

9時の電車、ほぼまちがいなくすわれる。途中3ヶ所であたらしい駅の工事があり高架の工事も。9時27分について快速にのりかえ。ここが始発だから余裕ですわれる、というか客がすくない。10時16分着。バスにのりかえ。別にいそぎはしない。今日はいつもおりるところから3つ先までいってみる、そこからあるいてもどる。ほんとにのどかな・畑もところどころにある風景。山がすぐちかくまでせまる。図書館で2時間本をよみつかれる。

公共性とか共同性とかいうはなし。おもしろいはなしなんだろうけど、なんせ抽象的なはなしによわい。質問には意外な返事で拍子ぬけ。市民とは公民であるというのは単なるいいかえ(かそれ以下)であって、つまり共通の了解がされていないことば A を同類の B でおきかえただけ。おれの想像力のなさも問題なのだろうけど、抽象から具体的なことへとはなしをおろして語ってはもらえぬものか?おもしろみはそこに発揮されると思うのだが。

今日はすぐ辞去。15時51分の特急、めずらしくすわることができた。ちょっとはやいよ夕陽。まぶしい。本屋で物色。先輩がそちら方面では期待の若手として活躍されているのをしる。いっぱいあるなあ。17時41分のバス。バスセンターからバスがでるとあまりにも暗い、そしてぽつぽつと雨。そんな季節。1kmをおそらく20分ほどはかかっているだろう渋滞。超満員のバス。のりまちがえるおばさん。さらに渋滞のみち。19時も10分ほどすぎて帰宅。十六夜の月もうすい雲のむこう。

それにしても、ついにバイト代がふりこまれているだろうから、1万円ぐらいおろして本かってやるかーと思ったら、なんと6136円しか残高がなかった………これでどうやって健全な自尊心をたもてというのだろう………そりゃーアイデンティティの中心部もだめ人間になるよなー………こんなわたしは、わたしをとりまく人間におんぶにだっこによしよししてもらわなければいきていけはしない。


10/21/lunedi  「星空」古内東子

あさ師匠たちと今後の調査の計画。もしかしたら出張もあるかも。最近の月曜の夜というのはいけない、自分のぷれいがここまで下手だったかと痛感するからだ。だからなんか運転もあれてる。いえについたら早速ビールをあけてしまう。雲にかくれがちな満月をながめながら今日も泡盛………と思いつつ爆睡。


10/20/domenica  「秘密」広瀬香美

つめたいあめ。ひとのおおくあつまる場所の割にはちいさな駐車場。本をかえす。


10/19/sabato  「500 miles high」chick corea and return to forever

夜からずっと雨がふっている。ひさしぶりの雨。うれしい。10日ちかくまともなメールがきてない、と書いたら早速メールがきた。「こんばんわ。お元気ですか。」という書きだしのそれは、やはり(というか)ヒゲからだった。この日記よんで(過剰)反応してくるのってどうやらヒゲしかいないらしい………(やはりおえー吐)。この最上級の顧客に対し何か相当の礼をつくすべきか………。

なにかとてもまちがっている、自分が。そしてそういうことを何人かの人が指摘してくれたのだった。そうだなあと思いながら自分に変更をくわえることはおれの場合むずかしい。しおどき………ということばがうかび、それならそれでいいと思えたりもするのだった。自分のことでいろいろおもいなやませたりするのは本意ではない。感謝というよりは自責。


10/18/venerdi  「会いたい気持ち」矢野顕子

なぜか某師匠の授業(夜間)におれが………「なんで???」という気もちで一杯だが………。もう10日ちかくもまともなメールがきてない。まともなメールっていうのは「こんにちは、お元気ですか」とか「最近おかわりありませんか」とかそういう他愛のないもの。10日ちかくまえのメールっつーのがヒゲの「日記更新しました」という内容のもの。やはりおえー(吐)。


10/17/giovedi  「ゆうがたラブ」小坂忠

先週はおやすみしてしまったのでひさしぶりのボラ。関係修復。かぜにはなべやきうどんがよいと思う、今までかぜひいたときになんとなくそうしてきた。そばってかぜひいたときにきくのかな?そばの気分には勿論ならない。今日は泡盛。部屋からみえる月をみながら。しかしほどなく爆睡してしまう。


10/16/mercoledi  「ゼロ地点」

県庁にいく用事があった。書類をだしたところでそこの職員と係長みたいなひとがおれのだした書類をみながらひとしきり相談してる、ほかのひとのは何ということなくうけとっているようなのに。しばらくして何の訂正ももとめられることもなく「これで結構です」。はやくいえよ、こっちは結構不安派なんだよ(ほんとはちがう)。………それから11階まで階段をひーひーいいながらのぼる。すぐちかくに駅があってそのすぐむこうを新幹線がはしりそのちょっとむこうに空港がみえる。ほんとにひっきりなしといっていいぐらいに離陸したすぐそばから飛行機がおりてきている。だからといってうつくしい海をうめたてていいとはまったく思わない、どうせ人間はもうおわりなのだ。くだりはエレベーターを使用、おりた1階で多分展望室にいくのだろう幼稚園児の大群。

あるいてあるいて師匠のところに顔をだすが今日はそんなに作業がなかった(偶然先輩とあい、書店をひさしぶりにのぞく)。電車とバスでかえる、駅には秋の遠足なのか小学生の大群。ひるまの時間帯は20分に1本しかこないバスはほとんどが高齢者、しかもみんな一様に帽子(チューリップハットというのかそんなやつ)をかぶってる。運転中の座席の移動で(特に)高齢者の転倒事故が続出したこの会社は、だから車内で「バスがとまってから席をたってください」と何回もアナウンスがながれる。それでもバスが停留所でとまるまえに席をたってしまうのは、バスをはやくおりたいという気もちのあせりのようなものもあるのだろうが、はやくおりないと運転手にせかされるのではないかという雰囲気が何となくバスのなかにただよっているからだと思う。実際この時間帯に利用するのは高齢者がおおいのだから、もちっとこまやかな配慮はできないものかといつも思う。この会社の別地域(毎週火曜日にいくところ)ではその点大変配慮がされているようで、不快なおもいをしたことはほとんどない。

おなじバンドのメンバーでもある友人(某公務員)から超ひさびさの電話。どうしたことかとおもったら、精神面での体調をくずし1ヶ月ほど仕事をやすんでおり、今も通院し治療(薬物)をうけているという。このまえ同僚が精神面の病気にかかったことをこの日記にかいたが、それを読んで「どうしてしっているのか」と思ったという。仕事がハードなことにくわえ、どうも人間関係・上司がひどいらしい。火曜から仕事に復帰したという。再会を約束し電話をきる。身のまわりに結構そんな人がいるのだなあとあらためて思う。誰だって気もちよく仕事をしたいだろうししてもらいたい。おれは心理学はわからないけど、産業心理学というのだろうかそういうのは仕事をすすめるうえで役にたつのだろうか。精神医学とかカウンセリングといったことにおれはもろてをあげて賛成する気にはとてもなれないが、何にしろかれがえらいと思ったのはすぐに病院にいったこと。適切なラベルを付与されればそれが治癒に貢献することもある。

今日あった過労死の番組をみてはいないけど、ひとりでかかえる必要なんて50000パーセントない。自分のせいにではなく、できるだけひとのせいにしたらいいと思う、それで病気にならないとはいえないけど一応予防のために。もっとおこったらいいと思う、怒りは大事な感情、適切に(といういいかたはちょっと問題があるが)怒りの感情を発現させたらいいと思う。従順にいきることがただしいみちだとはおれは全然思わない。仕事をしてたらそんなこといえないのだろうけど、もしできるなら馬鹿野郎には「馬鹿野郎」といってやったらよい。それでその人が自分をかえりみたり自分を変更させたりするってことはないかもしれないが、すくなくとも問題を自分のなかにかかえこんだり、問題の原因は自分なのだと思ったりする必要も必然もない。全部ひとのせいにしてしまえ!大事なのは自分がかるくなることなのだ。


などとまたいい加減なことを。でも半分冗談みたいで半分以上(というかほとんど全部)は本心だ。かかえこむことなんてない、それは自分にいいきかせていることでもある。この日記はそういう日記。1000年に1遍ぐらいは「この日記をよんで勇気づけられました」などという感想をいただくことがある。作者が作品についていろいろいうことほどまぬけなこともないと思うが、そういうわけでこの日記の目的に「ひとだすけ」というのはない、まずは自分のため(だけ)のものであるし、そもそもいろいろと書かれるものについてそこに自分に対する視線のないもの(顕在してるか潜在してるかは別にして)は読むにあたいしない。目的ではない、でもそこに何かを読みとってもらって自分に勇気があたえられるのならそれは望外のうれしいことだ。

山下達郎か森広隆かをつんで疾走したらいい、そんな天気。

金で買えるものとは違う
体の芯が反応する振動
行けるギリギリのラインに立って
その次を感じていたいんだ

森広隆「ゼロ地点」



10/15/martedi  「しようよ」矢野顕子

コマーシャルで、夕陽をバックに男性と女性がちゅーしてる………ふたりはほほえみあいながら、おとこのほうが「豚骨あじだね………」とつぶやく、というラーメンのコマーシャル………興奮しながらみてる馬鹿おとこがひとり………。

今日報告した、何かあまってしまってる時間があってもったいないから文献の報告したんだけど、誰もよんできてなかった。非常に気をそがれたのでもう報告しないようにしようと思う。一瞬土砂ぶり。夕方かえりのバスをまっていたが、ちかくの女子短大・女子高の学生たちで満員。何台かやりすごす。女子の集団には興奮………じゃなくて緊張する、こわい。

バスターミナルで。こがらなぷるかつがおおどおりに面したガラスばりの通路でそとにむかってちゅーしてた………。みんなちゅーばっかりしやがって………。

paper doll 僕等の恋は
まるでおもちゃさ
遊び疲れる時を きっと
君は待ってるんだ

矢野顕子「paper doll」(山下達郎)



10/14/lunedi  「gymnopedies」r s

なんと今日もおなじ田んぼのなかをひーひーいいながらあるく。たまたま
LRT のテレビをみる。おされだなーと思う。くるまいっぱいの社会はほんとどうにかせないかんと思う。公共交通機関はよく整備されさらに自転車とかがもっとつかいやすい環境になればいいなと思う。何かインセンティブがないといけないのだろうけど。


10/13/domenica  「肉体関係 part2 逆featuring クレージーケンバンド」rhymester

秋のひざしだったので田んぼのなかをあるく。ひーひーいいながら。いくつかのページでこの
アルバムがかっちょいいとかいてあった。それっぽい。ピザ。


10/12/sabato  「vibrations」roy ayers

公民館の文化祭。駐車場はあいてないだろうから電車でいく。あたらしい駅からは思ったよりもあるけた、でも実際にあるくひとはすくないだろう。あたたかな日。人数分のパネルと(17枚)と新聞記事のパネル・たなばたでつくったかざりのパネルなどが部屋にはいって右手にはられている。この展示では、穴生中学校で夜間に教室がひらかれているという情報を認知することはできないと思う。その新聞記事はたしかにあるのだが、あれでは字もちいさいしちょっと情報はしれわたったとはいえないと思う。3時間半ちかく部屋のなかにいたが、20人ちかく(かそれ以上)の人がはいってきたが、新聞記事をまじまじとみていたという人はほとんどいなかった。いずれにしても今年はおもいのほか文化祭の準備がおそかった。

なにしろ穴生中学校の地元である穴生公民館なのだから、おとずれる穴生の人々に宣伝するには絶好の機会だったのに。今回パネルにするというのも、去年撤収作業をされたスタッフからの声があったためだった。昨年は、展示物を設置するときに当日たまたま見学にきていた中学生が作業をてつだったそうだ(わたしはまったくおぼえていない)。昨年の撤去のときに、はがすのに相当苦労したらしく、例年とちがうのは中学生がてつだったか否かだから、べったりはりつけたのは中学生だということらしい。とにかく昨年の撤去作業には苦労したとのはなしが直前のミーティングででたので、ならば撤去しやすいようにパネルにしてはどうかとおもったのだ。それにひとり1枚のパネルにすれば、青春学校で学習している学習者ひとりひとりの姿が具体的にわかるのではないかと思った。


10/11/venerdi  「strength」古内東子

「同期が死んでくれれば病院も考え直して楽になるかも。本気で言い合っている」
「愚痴を言い合っても仕方がないから言わない。中から変えようという気力もない」

岡崎明子「今が好機 研修医も発言を」『朝日新聞』(10月10日木曜日)

「『愛国心』通知表で評価 ××市の市立小 市民団体、削除もとめる」(9日水曜日夕刊)「最終弁論が地裁で開始 父子連続保険金殺人」「女子短大生殺害 被告『上告せず』」(10日)

「いつかかえしたい卵を三つか四つ必ず持っていろ」なるほど。「『非実用』の知識に評価 江崎」………「実用」ってなんだ???


10/10/giovedi  「my foolish heart」bill evans

師匠のところに履歴書をもっていく。以前つくったものを修正したものだが、年齢のところだけ修正しわすれていた、師匠に爆笑される。ことしは中国・台湾のひとがとてもおおい。ひさしぶりのひとびと。一緒に弁当をたべる。それにしても無償労働の具合はひどいようだ。研究に直接的には勿論間接的にさえ付随しないしごとに時間をとられしかもそれにみあう賃金も一切しはらわれないというのは本当にひどい状況だと思う。

 日本は「科学技術先進国」といいながら、院生の生活基盤を父母の財布にかなり頼っている。しかも奨学金は返済が必要で、結局は借金漬けになるだけだ。こんな状態を改善するために、院生にアシスタントとしての正当な給与を支払う。

柳田充弘(京都大学大学院生命科学研究科長)「直言『トップ30』若手研究者に生かせ」『朝日新聞』(10月9日水曜日)


5年間で約2000000000円?「おれたちんとこなんてあって2000000円だよ」というはなし。文系ではもらえてるほうのおれたち(おれではなく)でもこんだけ。文学とか哲学とかどうなるのか?理系ばっかりなんでかねもらえんのかっつーはなし。「国民の税金なんだからやすくあげろ」っつっても500億(50000000000)円かかるとか(伝聞)。1000分の1でいいからくれ!………それにあいまって雰囲気もよくないようだ、それを何とかせねばという空気もあるようだがうまくはいっていないみたい。おかねも全然おりてこないみたいだし。もうちょっとかおをみせることにしようと思う。一緒にでたもと同僚の新聞記事。温泉紀行もの。まじめなかれらしい。

バランスをくずしたかれのことが話題であり(入院したとか)心配で、くずしていたかれは復調していた。別のひとのはなしをきく、卵巣に癌ができていて摘出しなければならない………といってとてもおちこんでいる、という。よくしらべたらそうじゃなくて別の臓器(膵臓?)のほうだった、どっから卵巣のはなしがでてきたのか。この場合はわらいばなしのようでそれですむからいいのだが、実際にそういう病気だとわかっていまくるしんでいるひとも沢山いるだろう。そういうことを考えたら、多分当人自身が一番心配していたのだろうけどちょっとひとさわがせで無責任なはなしだなあとはらだたしい。


ビールのみながら歌詞カードみてたらビールこぼしてしまった。やっぱりかっこいい曲。

いつまでも 一緒だと
囁いている 君はただ
手のひらに 僕を乗せ
転がしている だけなのさ

矢野顕子「paper doll」(山下達郎)

10/9/mercoledi  「my one and only love」chick corea

師匠のところに9時。うちあわせ。地下鉄の1日乗車券をかって県立図書館。おれのかりたい本はのきなみかりられていた、問題意識が一緒のやつがいるのか、くそー。県庁で書類をもらう。美術館にいく………休館。どっかにちゃんと表示しろよー。このおれの不思議な能力(しかも役にはたたず)。1日のり放題だから、のらないともとをとれない気がして無闇にいったりきたり。某公園。昼間っからたくさんのひと。小学生の集団。男子高校生の集団(そういえばヒゲの出身校………)。いずし君とデートした公園………。とおりをあるこうと思ったがあしがいたいし自転車軍団の運転が横暴なので地下鉄へ。文具をかって帰宅。

快活ではなしずきだった同僚が「自宅からでたくない」ほど重病(なのかな)の鬱病にかかったとのはなし。かなり心配。そんなひとでないからなおさら。おれにできることなど何もなかったのだろうけど、もっとご飯たべたり酒のんだりして気ばらしすればよかった。「おれをみろよ」と。23℃。ゆうやけ。


10/8/martedi  「paper doll」矢野顕子

もう何年もかよっているじもとの図書館で CD がかりられることがわかった。てっきり館内でしかきけないのだろうとひとり早合点していた。利用できる資源があるということをあまりにもしらなさすぎる、利用できることにさえ気づいていないおれにとって情報って………と凹む。おれのこういう面が「×xー×ーさんももうおとななんだから………」とまにあの皆様の憤激をまねくのだというのはわかってる。20℃。ゆうやけ。

でかりた CD 。Chick Corea 『
now he sings , now he sobs』(評1 評2 評3)と矢野顕子『Home Girl Journey』()。矢野顕子のほうは、田島貴男が「カバーしてとりあげてくれた」とかいていたので、いつかはきいてみようと思っていたもの。ピアノひきがたりのカバー集。山下達郎の「paper doll」かっこよすぎ。

もしも僕を 本当に
ひとり占めして いたいなら
手のひらを 握りしめ
僕をつぶせば いいんだよ

矢野顕子「paper doll」(山下達郎)



10/7/lunedi  「ほうろう」

いやー毎日更新するのを目標としたいんですが。ぐへへ。

自分だけがわかってないのかもしれないけど、この日記(の内容)って相当(総統・掃討・争闘)いじけてるなあ、と。急にそんな感じがして。ずっとよんでくださっているみなさまには「何をいまさら」でしょうが。急にそげな感じがしたとです。そういえばむかし掲示板にそんなかきこみをしてくださった馬鹿がいて、いやー内容は別にいいんですが、そのーかきにげというか「おれはいろんな日記みてまわってるぜ、そんでもっておれは決してつかまらないぜ」という(姿勢)のは「いかがなものか」と。何でもアリだとはおれは思わないんでね。

このまえ「
ねぇ」などというメールがきたのは、いずし君から配信されたメールに「おすすめの bossa のアルバムはないでしょうか」ということがかかれてあり、考えたりしてみてはいたのだがなかなか思いつかず(これは考えることだろうか、感じることではなく)さらにヒゲにも催促されたわけなのだが。いまもなかなか思いつかない、他のひとの日記に bossa のことがかいてあり、よんでるとおれは bossa のことなんて全然わかってないというかしらないんだなあと思う。別にそれはそれでいいのだろうけど。bossa のどこからが「変節」で………などということをしらない、そもそも何につけ「起源へのとい(問)」みたいなものに興味をひかれない、だからなのかおれの研究にはふかみがない………あまりいいことではないかもしれない。

小坂忠の「ほうろう」も「しらけちまうぜ」もすきなのだ(bossa ではないけど)。特に後者はカラオケでキーがぴったりんこで気もちよくうたえる。カラオケなんて自分からいこうと思うのは1年に1回もない、さそわれればいかないこともないが。そういえばふくすけ君と I 君と Y 少年とのカラオケにも随分いっていない。「ほうろう」は歌詞もいいなあ。

このテンポなら 好きなリズム・アンド・ブルース
踊りながら 歌えるから

小坂忠「ほうろう」(細野晴臣)


新聞の広告とかみたりはするのだが、そもそも文学というか小説なんかも全然よまない、どれぐらいよまないかといったらすごくよまない。柳美里とかも興味がない(つたえきく情報からだととてもすきになれそうもない)。斎藤美奈子には興味があるけど、彼女のように小説をよんだりは勿論しない。図書館とかにいったりあの雰囲気をあじわったりするのはどちらかというとすきなのだが。赤出美苦なことには興味もあるのだけど。むさぼるようによむとかそういうことはほとんどない。こうしてかいているとなんか何にも興味のない人間、それだけでおれという人間が無内容でおもしろみのない人間のように思える(そしてそれは実際そうなのだ)。

水さえいれておけばわかしてくれて保温もしてくれるポットがこわれて以来、うちにはそのてのポットがない。お湯をわかすにはふたり分しか水のはいらないやかんでお湯をわかす。ペーパードリップでこーしーをいれる。さむくなってきたので牛乳をわかしてカフェオレ(であっているのか)にしてみたりしてる。そうして本でもよめばいいのだけど。いろんなひとの(といってもかぎられている、しかもおれってなんか人妻日記をよくよんでいる)日記をよみ、みんな音楽とか小説とか映画とか日々の生活とかかいていて興味ぶかい。おもしろいなあと思う。なんか自分の(日記の)無内容ぶりに立腹するというか、いや立腹する元気もなくて諦観というか。でも愚痴だけでこんだけ分量かくというのもそれはそれでバカみたいで素敵やん。「○○のために△△する」というのはすきではないけれど、ちっとはよんだ本のことでもかいてみようか、などと血まよったりしてる。(無内容でも)せめて毎日更新するとか。

すきなうたの一番おわりの方の部分の歌詞が「願いをかなえる」だというのは、何百回もきいているはずなのに全然気にもとめていなかった。不思議なことだ。


10/6/domenica  「共生」森広隆

ひさびさのあめ。うれしい。昨日と全然ちがうすごくさむい、あめの日曜日。たこやきたべたい。

かつてねえさんからよくおこられた、「かっこつけすぎだ」と。かっこいいおとこならかっこもつくんだろうけど、おれだからなーどうしようもない。まー、わけのわからんおんなに「にげてんじゃねーよ」とさげすまれるぐらいだから。そんなことばっかいってるとまにあのみなさんにはおこられるかな。今度こそは全力をつくしたい、思いっきりとおくまでにげることができるように。


10/5/sabato  「目撃者」casiopea

またしても夜中の3時にめがさめる。ぼけりんこないちにち。布団をほす。みーこはかえってこない。とてもあつくてのどがかわくのでビール3本ものんじゃった。さんまのバッテラ。

世界観もなにからなにまでちがうのかもしれない、でもこれまた不思議なことに「だからわかりたい」「しりたい」「理解したい」なんて全然おもわない。どこまでわかりあえないのか、いけるとこまでいってみたい。


10/4/venerdi  「amore」r s

師匠がテレビにでてた。いろいろ大変だな………と思いつついそがしいことはいいことだとも。夜中3時にめがさめてしまう。ちょこっと FM をつけてみた、何語だかよくわからんが女のひとがしゃべってる、なんじゃ?と思いつつきいているとどうやら曲名と演奏者をしゃべっているらしかった、しかもことばそのものは日本語のようだ(演奏者名がそっちのひとのようだった)。おれは英語(「英」語)なんてよみもかきも勿論会話も全然できないが、そのおれがきいてもひどいと感じるような(なんというか「でぃすいずあぺん」風のというか)発音でクラブ DJ 風のというか(わからないので)とにかくはやくちでしゃべりまくっているだけ。ほんとに何語でしゃべってるかわからない感じで、ほんとにはき気のするようなきもちわるさだった。

「ねぇ」などというタイトルのメールがきた、誰だろうと思ったらヒゲだった………おえー(吐)。日記更新したのでよんでください、という内容。テキスト庵に登録はしていてもパスワードわすれたと以前いっていた。あのーあなた十分いいとしこいた「おとな」(おっさん)だと思うんですけど………なんでヤローにこんなメールもらわんといけんのだ、と思いつつ、女性から「ねぇ」などというメールがきたらそれはそれでとてもこわいと思う。


10/3/giovedi  「二つの手のように」

「ひととひとは結局わかりあうことができない」と某作家がかいていた。だからこそわかりあおうとする、とも。なるほどなあと思う。相手のことが何から何までいわなくてもわかるようだったら、もう「あなたをわかりたい」と思ったりしないだろうしわかろうとする行為もなくなるだろう。

今まででもっともなるほどなあと思わせられたことばは、某哲学者のいう「ひとは誰ともわかりあえなくてもいきていける、それが人間の本来もつつよさだ」ということば。別にそれが苛烈にわかるような実体験なんて全然ないのだけど、なぜかつよくなるほどなあと思わせられたしいまでもそう思う。


ハルモニとはもう何年かのつきあいだと思うが。今日したことは喧嘩だといえるかもしれない。先週からとりかかっていた文化祭の展示の作業だが、ハルモニは今日突然(とおもえるのだ)自分の作品を展示することはまかりならん、といった。展示するむねを説明したうえでの共同作業であったのに、だ。今日はなぜだか全然我慢する気になれなくて、「ああそう、それならもうせんでいいよ」といった。投げ出し(刑事)た。こんなふうになげだしたのははじめてだったかもしれない。不思議と今日は何の躊躇もなくなげだしてしまった(いつもはこれでも結構躊躇するのだ)。ほかにするべき作業がふたつほどあり、それにかかりきりになってしまったので今日はハルモニの相手を実質ほとんどしてない。おれのコミュニケーション能力がひくいのかもしれない、それと同時にいってみれば少々わがままがすぎるようだ。よくこれまで我慢してきたね、と少々思いあがり気味に自分をほめてあげてもいいのかもしれない。1対1コミュニケーションでは解決できないことかもしれないし、他の誰かの介入をよべばよかったのかもしれない。ほんとに不思議だが今日はそんなことする気さえ全然なかったのだ。


わかりあえないからわかりあおうとする、とは今日ボランティアにいくまえから考えつづけたことば。そして、わかりあえなくてもいきていけるとはそのとおりだと思う。もっと怒らなくてはいけないような気がしてる。なげだしてしまってはいけないのは、この自分の今の怒りという感情なのだ。


10/2/mercoledi  「can't you see me」roy ayers

あさの番組で女性レポーターが味噌づくりに挑戦していた。そこの主人に味噌づくりのコツというかむづかしいところをたずねていた。そしたら主人いわく「むずかしいことはなんもありません」といった。それは、ほんとはむずかしいのだけどそれはてめえの技量や経験がたりないだけで、つまりおれはこのみち何十年もやってるからむずかしいなんておもわねえんだよ的なみくだしのことばではなくて、まーまーおしえてあげるから、味噌づくりなんて何もかたく考えることはなし・やさしくてたのしい作業なんだよという感じのいいかただった。非常に好感がもてた。

何かに挑戦しようとしているひとに接するときにはこうでありたいなあと思う。実際本当は味噌づくりにもいろいろとむずかしいことやコツはいっぱいあるのだろうが。最初に接するひとにはそれはわからないしできないことでもあるだろう。いってもしょうのないことかもしれない。でもそこで、「もう二度とやりたくない」と思わせるかどうか。「もう一度やりたい」とか何(十)年後かに「そういえばいつか味噌つくったな、もう一度やってみたいな」とかいう余韻をのこせるような接しかたでありたい、と思う。


某国について。本当にひどいはなしだと思う。某国あるいは某国による情報そのものが信用できないというのはもっともか、とも思う。ここからさきがよくわからず不思議なのだが、もと某国工作員とかいうひとからもたらされる情報は信用できるという根拠は何なのだろうか?おなじぐらいに・おなじように信用できない(できる)というのならわかるのだが、一方のはまったく信用できなくてもう一方のはまったく信用できる、と。何か根拠でもあるのか?あるいは根拠なんていらない、と。


10/1/martedi  「ルール」古内東子

超ひさしぶりの師匠へのたび。いつもより1本はやい電車。なんとらくらくすわれのりつぎもよい。今度からこれにするか思案中。めのまえにすこしかすんだ山がせまる、背後にまだ夏のような雲。

師匠のはなしはなんと先週からはじまっていた。質問紙調査と同時にききとり調査も進行しているらしい、そのはなし。師匠があまりにインタビュー調査を「これは名人芸だから」といわれるのには反発。そんなことばかりいってたらききとり調査とかインタビュー調査をしようというひとの気がなえてしまうのではないか?質的調査対量的調査という二項対立はただ不毛なだけ、もうすこし先鋭的というか最新の調査論についてやりたい。みんなそう思っていると思うのだが。師匠によるアンケート(統計)調査の解釈もかなり恣意的だとみえる、だから、ききとり調査が恣意的で主観的で統計調査はそうではないなんてとうに失効している・というかそもそもはじめからそんな議論がありえたのか疑問。電車のなかのバカ男子高校生軍団(進学校?)。はっきりわかる、サル以下(というかサルに失礼)。今日はいろいろいわれのないことをいわれたように思えて憤慨。いやもっと怒るべきだ。が、つかれた。餃子・きんぴら。


 過去も結構おとなげない