教育制度


教育学部の友達及び高校生に母国語を教えている友達が口をそろえて言うのは 「アメリカにおいて高校生は勉強しない」ということでした。 実際私も高校のクラスを見てそう思いました。 確かに勉強する子供はしています(じゃないとトップ大学なんて存在しないですよね)。 しかし、大半は勉強していないそうです。というか、授業にならないそうです、やかましくて。

「勉強しろ!」と言って「何で?」と聞き返されて「将来のため必要だろ!」と答えたところ 「仕事はいくらでもあるよ。したい奴が勉強すればいい。」と言われて言葉が出なかった友達もいます。 「価値観の多様化」というのでしょうか、「こうあるべき」とか「こうすべき」という価値基準が、 個々人によって違い、かつそれらは無数にあり、かつ曖昧です。 当然、このような状況では「社会規範」の形成は難しいと思います。 「パレート最適状態」、「最大多数の最大幸福」なんて有り得ないのでしょうね (まさしく今年のアメリカ大統領選がそれを如実に表していたと思うのですが・・・・・)。

ブッシュ政権は「教育制度の充実」を政策の重要課題として位置づけていますが、 一体何をするのか(この社会に何を残すのか)興味があります。 「アメリカ国民の希望と夢の実現」のため「大学進学率の向上」「ハード面の充実」等、 いろいろな形で教育制度改革を挙げていますが、「そもそも何で勉強が大切か?」 「アメリカの望まれるべき将来とはそもそも何か?」という社会価値に係る根本的問題を無視し て教育制度を語る事は、短期的には目にみえる形で成果があっても、 長期的には新たなる問題と矛盾を生み出すのではないのかと思えて仕方ないのですが・・・・。

アメリカの学生はよく発言するといいます。確かにそうです。 でもそれらが常に内容があるものとは一概に言えません。 しょうもない経験談(それも明らかに授業と関係のないこと)をグダグダ語る奴とか、 先生の言った事を繰り返すだけの奴などしょっちゅういます。 こっちの文化では、「沈黙は何も考えてないこと」らしいですが、 だからといって大したことない事をべらべら喋って 自分の無学や馬鹿さを露呈してしまうのは私にはできません (だから私はアメリカ人になれません、しくしく??)。

こっちの高校の教育制度は(学区内によっても特徴がありますが)大学のそれと似ています。 すなわち履修科目が日本的「国数社理英」じゃなくて、もっと多様化しているという事です。 「スペイン語」コース、「PC」コース、「中世ヨーロッパの歴史」コース、 「教育論」コースなど様々です。私の知り合いは高校で「指導者論」コースなるものを取ったそうです。 講義形式は移動式で、学生はクラスによって教室を転々とします。様々な興味深いサービス(科目やプログラム) を提供することは、 学生の能力向上と将来に対する様々な可能性を模索させるという意味で十分に意義があると思います。

こっちの大学では1年生で日本の高校レベルの数学や科学を勉強します。 なんで大学生になって素因数分解勉強しなきゃいけないのかと思います。 「アメリカの大学は学生によく勉強させる」ことは認めます。 でも高校で勉強しなかったら大学で大変なのは当たり前ですよね。

確かに私が受けてきた教育みたいに「機械的」「無機質」な情報をインプットすること のみ授業で焦点が置かれるのもどうかと思います(このやり方は見方を変えれば“必要な知識の享受” という観点からは「効率的」かつ「網羅的」なんですけどね)。

ただ、最近の主流となりつつある教育制度のように、 「創造性」と「個性の尊重」の名のもと、履修科目を特化(選択制に)し、 専門性を高めることのみを教育の主要目的とすることは、 結局「頭でっかち学生」の可能性を増加させるだけでどうかと思います。 「創造的思考」と「専門ばか」とは全然違います。 科学者になりたいから「国語はいらない」のでしょうか?サラリーマンになるから 「物理・化学はいらない」のでしょうか?何でもかんでも欧米のやり方を模倣するようではいけないと思います。 文化も人も言語も歴史も違うんですから。

社会システムには必ず弱点があります。見た目の長所だけに気を取られて、短所と潜在的危険性を過小評価してしまうことは 新たな問題を生み出す根本的原因だと思います。 「バブルの最終的な勝ち企業は、実のところバブルの波に乗り遅れた企業である」ことはあまりにも皮肉過ぎる事実ですね。

今の日本で起きている社会問題を概観するたび 「教育の重要性」をシミジミと感じます。一部の人を除いて、多くの人(教育者も含めて)は 「一体自分達は今現在どこにいて、どこに向かっているのか」を分からないまま、日常に埋もれている感じがします。 戦時中や高度成長時代のように国家的イデオロギーが確立していた時代には 我々は(良い悪いは別にして)強力な力を発揮できていました。 しかし、それら社会の価値基準がバラバラかつ曖昧模糊になった今、我々は「何に頼って生きていけばいいのか」 「何を信じればいいのか」明確な答えが持てないままです。 そしてそれらを我々大人ができないのに子供ができるのでしょうか?

我々がまず必要なのは、戦後から今までの歴史の中で バラバラになった社会規範と一般常識を再構築し、「今までの日本人とは?」「今の日本人とは?」そして 「これからの日本人とは?」という質問に対して明確な答えとそれに基づく未来へのビジョンをきちんと定義し、 その枠組みの中で実効性と価値のある教育制度を模索することが必要なのだと思います。