夏の孤独

              

 夏だった。湿気が熱い霧となって、この空気の悪い東京に充満していた。

僕は、窓を締め切って外界との接触を断つ。そうして、実家から送られてきた、新鮮な真っ赤なトマトを齧り齧り、生活をしていた。

外には出られなかった。酷い咳が、後から後から僕の体の中の悪いものをすべて吐き出すように出てきた。けれども、いつまでたってもそれは終わらなかった。のどの粘膜が焼け爛れたように熱かった。体には、一層不快な重みが増して、汗で濡れた布団に沈み込むようにしていた。

 何度目の目覚めだろう。夢はもう支離滅裂で、何も面白みがなかった。健康なときは、少しは願望を充足させてくれたり、子供みたいな冒険を楽しんだりする。知的な会話を夢の中の人物(夢なのだから、すべては僕の思考なのだろうが、まったくそれは信じられなかった!)とすることもあった。けれども今は、暗いイメージが何の感慨もなしに、ただ流れていた。

 時計を見ると、四時。どっちの四時だろう、厚いカーテンの向こうはわずかに明るかった。夕方だった。僕は重い寝返りを打った。布団の中の人いきれのような厚い不快な空気が、顔に降りかかった。腹が減ったと思った。

 しばらくして、久しぶりの能動的な意思を発動して、起き上がった。二日ぶりに食事を摂ろうと、冷蔵庫を開けるとトマトが二つあったが、一つは腐り、一つはかろうじて食べられるほどであった。もちろん美味くなかった。振りかけた塩だけが、妙に美味かった。

 腹は満たされなかった。久しぶりに起きたのだから、偶に外に出るのもいいだろう、何か体も良くなったような気がする、と起きただけでそう思う。この部屋も空気も、さすがに外よりは悪いだろう。あの、暑苦しい外よりもこの部屋の空気のほうが不快だ。そう思った僕は、食材を買い込みに出ることにした。出掛けにウイスキーを軽く口に含んだ。頭がすっきりしたような気分になった。

 スーパーの中は、夕方の食材を買う客でいっぱいだった。 ゆっくりと野菜のコーナーから回り、肉のコーナーへと差し掛かる。

そのとき咳が出始めた。後から後から、それは止まらず息が苦しくて、胃がせりあがってきそうだった。前かがみになって、耐える。そんな中でも不思議と僕は回りの人のことを考えていた。食品のあるところでこんな咳をしてはいけない。早く止めなければ。息を止めるようにして、僕は耐えた。

溢れるように咳は来て、決壊するダムのように流れ出る。それを二度三度繰り返しただろうか。

その間、僕は絶えず回りの人に心から申し訳ない気持ちでいたのだった。早くその場を立ち去りたかった。激しく咳をする僕のほうを、ちらりと見る客の視線にある、無言の非難がはっきりと聞こえた。

咳は突然に止まった。

 もう誰も僕のほうを見なかった。

 けれども、何か視線を感じて後ろを振り返ると、とても小さな女の子が、僕のほうをじっと見ていた。三四歳だろうか。母親らしき人に手をつながれて、こちらをじっと見ている。母親はチーズを真剣に見ている。女の子はおそらくは何も考えていないで、こちらを見ているのだろう。

 母親はチーズをようやく選び終わったようで、女の子のほうを見た。そして、僕をじっと見ている女の子を叱るようにして、鮮魚コーナーに移動した。ちらちらと見る女の子を、母親は小声で叱っていた。

 僕はその場を離れ、ゆっくりとほかのコーナーを回った。何度も咳の発作が襲ってきたが、何とか耐えることができた。

ドリンクのコーナーで二本のウーロン茶を買って、菓子のコーナーに向かう。そこでまた、先ほどの女の子に会った。また、目が合った。

僕はすぐに目をそらすと、近くのチョコレートを一袋乱暴に取ると、レジに向かった。レジの人は、太った三十代ほどの女の人だった。甲高い声で値段を読み上げた。ずっとその顔は、商品とレジスターを見ていて、一度も僕のほうを見なかった。

 レジを済まし、袋に買ったもの――わずかにペットボトルとチョコレート一袋――を入れていると、隣の台にあの親子連れがやってきた。

ちらりと横を見ると、またあの女の子と視線が合うので、何かうんざりする気分になった。そんなにもおかしな顔をしているわけでも身なりをしているわけでもあるまいに、それとも何か本統に顔についているのか、髪がとんでもないことになっているのか、いろいろな疑惑が襲った。心は何か沈んだような、悲しいような気持ちだった。言いようのない、不安感に襲われた。僕はそれを振り払うように、その子の視線から、目を離そうとしたときである。

 ぷっと、女の子は僕から目を離し、母親がいそいそと詰めている袋の中のお菓子に興味を移してしまった。

 寂しさが確かに僕の中に湧き上がった。

そして気づいたことは、女の子から僕を見つめていたのは、最初の咳の時だけであり、それは単に興味からであっただろうということ、後は、苦しい咳をしていても誰も振り返ってくれない僕が、寂しさからあんな小さな女の子の視線を欲しがったのだ、ということだった。

無表情の女の子の無垢な視線の中に、僕への同情という絵を書き込もうとしていたのだった。あんな小さな女の子の同情すら今の僕には、必要なものだったのだ。

 外は暗くなり始めていた。冷房のきつい店内から、外へ出ると生暖かい誇りっぽい風が僕に付きまとうようにあった。僕は堪えていた咳をした。

のどの粘膜がひりひりと焼けついて、痛かった。それでも僕は出来るだけ大きな咳をしながら、人々が過ぎてゆくとおりを、部ら理ぶらりと買い物袋を大きく揺らして、歩いていった。

もどる