四、答案内容面――言葉のつながり

   1.条文・条文の趣旨・定義がなぜ大事なのか


(一)条文・条文の趣旨・定義がなぜ大事なのか――「形式的理由付け」の「絶対的」出発点


  (1)序

 「条文・条文の趣旨・定義は、基本的事項であり、大事にしないといけない」というのは、多くの合格者が口を揃えて言っていることです。合格者の1人である私もまた、条文・条文の趣旨・定義は、大事であると思っています。
 では、条文・条文の趣旨・定義が大事なのは、「どういう理由」に基づいているのでしょうか。多くの合格者が口を揃えて「大事」だと言っているわりには、その理由については語られていなかったように思います。しかし、条文・条文の趣旨・定義が大事であることには、れっきとした理由があるのです。

 その理由を端的に言ってしまえば、「法の適用・解釈」の結果を論証するにあたって、条文・条文の趣旨・定義は、「形式的理由付け(形式的論理プロセス)」の「絶対的」出発点(揺るぎのない出発点)になっているから、ということにあります。

 では、「法の適用・解釈」の結果を論証するにあたって、条文・条文の趣旨・定義が、形式的理由付け(形式的論理プロセス)の絶対的出発点になっている、というのは、どういうことなのでしょうか。他の例と比べながら見ていきたいと思います。


  (2)形式的理由付け(形式的論理プロセス)が崩れる例

 ある結論Cを導くための形式的論理プロセスは、ごく抽象的にいえば「AならばB。BならばC。ゆえにCである。」というような形で表すことができます。

 ここで、具体例として、「現在Cが甲土地の所有者である」という結論を導くことを考えてみます。この結論を導くための形式的論理プロセスとして、次のようなものが考えられます。「甲土地の所有者であったAは、平成8年5月15日に甲土地をBに売り渡した。Bは、平成12年7月28日に甲土地をCに売り渡した。ゆえに、現在Cが甲土地の所有者である(なお、ABCは、他の者に甲土地を売り渡すことはしていない。)」。
 (※ この具体例では、ある「事実」が存することの論証が問題になっています。そのため、「法の適用・解釈」の結果を論証することとは、異なります。)

 一見すると、現在Cが甲土地の所有者であるという結論を、元々甲土地の所有者はAであったという事実を大本として、何ら問題なく形式的に理由づけることができているように思われます。しかし、実はこれでは十分な形式的理由付けとはなっていません。なぜなら、「元々の甲土地の所有者がAである」という事実につき、本当にそのように言えるのかが、「争いのある」可能性のある状態のままだからです。
 そこで、Aが甲土地の所有者であることを論証するために、たとえば次に「前主Zは、平成4年9月10日に甲土地をAに売り渡した。」という事実を持ち出すことになります。しかし、今度は「Zが甲土地の所有者であった」という事実につき論証がなされていないという問題が残ります。そして、このように次々に前主に遡っていく作業が繰り返されるわけですが、どこまでさかのぼっても揺るぎない事実・揺るぎない出発点にたどりつけないのです。このように出発点が揺らいでしまうものであると、最終的な結論である「現在Cが甲土地の所有者である」ことを形式的論理プロセスで論証することはできなくなってしまうのです。
 (※ なお、実務上は、所有権の存在につき「原告・被告両者が争いのない」人のところで「権利自白」を成立させます。「権利自白」が成立しますと、「その人が所有者であった」という事実は原告・被告とも争えなくなり、裁判所もその事実を基礎として判決を下さなければならないという効果が生じます。その結果、「その人が所有者であった」という事実が、揺るぎない事実となって確定することになります。このような扱いをしているのです。)


  (3)法の適用・解釈の場合

 では、法の適用・解釈の結果を論証する場合には、どうなのでしょうか。

 まず、単に条文を適用するだけで解決できる場合についてみてみましょう。たとえば、18歳のXが自分が締結した売買契約を取り消したいとします。この場合、「民法120条1項により、「未成年者」は契約の取消権者とされている。そして、民法3条により満20年をもって「成年」となるから、18歳のXは未成年者である。ゆえに、Xは当該売買契約を取り消すことができる。」という論証になります。
 この具体例においては、Xは契約を取り消すことができるという結論を、民法120条1項、同3条から形式的に理由づけています。そして、民法120条1項、同3条があり、条文の中身がこのように規定されていることについては「争いのない」事となっています。そのため、民法120条1項、同3条といった条文は、揺るぎない出発点となるのです。

 次に、単に条文を適用するだけで解決できず、解釈論が問題となる場合についてみてみます。ここでは、具体例として、【case2】の錯誤無効の主張者の論点の論証を採り上げてみることにします。この論証は、【case2】の72行目から75行目でなされているわけですが、その論証は、「95条の趣旨は表意者保護にもとづくから、表意者が望む場合に限って無効とすれば足りる。そこで、表意者のみが錯誤無効を主張できると解すべきである。」というものになっています。すなわち、「AならばB。BならばC。ゆえにCである。」という形にしてみるならば、「95条の趣旨は表意者保護に基づく。このように表意者保護に基づくのならば、表意者が保護を望む場合に限って無効とすれば足りる。ゆえに、表意者のみが無効の主張者となると解する。」ということになっています。
 この具体例においては、主張者は表意者のみと解するという結論を、95条の趣旨は表意者保護に基づくことを大本として、形式的に理由づけています。そして、95条の趣旨が表意者保護にあることは、「争いのない」こととなっています。そのため、95条の趣旨というのは、揺るぎない出発点となるのです。

 さきほどの(2)の例では、大本と考えられている部分(「元々の甲土地の所有者がAであるという事実」)に「争いがある」可能性があったために、形式的論理の出発点が揺らいだままになってしまい、形式的理由付けがうまくいかなかったのです。
 これに対し、(3)の法の適用・解釈の結果の論証の場合には、大本と考えられている部分(「民法120条1項、同3条」「95条の趣旨は表意者保護に基づく」)については、「争いがない」のです。そのために、形式的論理の出発点が揺らぎのないものとなりますので、形式的理由付けが十分なものとなるのです。

このように、法の適用・解釈の結果につき、形式的理由付けで論証をするにあたっては、とある条文が存在すること、とある条文の趣旨がそのようなものであること、とある定義がそのようなものであることについては「当然の前提としてよい(=論証不要)」・「これより前には遡らなくてよい」という扱いになっているといえるのです。たとえば、「民法95条なんて存在しない」というように、現行法上生きている条文を「そんな条文はない」と言い張ることはできないのです。
 その結果、このような条文・条文の趣旨・定義は、形式的理由付けにおいて、揺るぎない出発点・絶対的出発点となります。そして、このような揺るぎないものを出発点として、論理をつなげていけば、その結果導かれる結論については、形式的理由付けは盤石なものとなり、大いに説得力が出てくるわけです。


  (4)注意点

 なお、今まで述べてきたことは、あくまで「形式的理由付け」の話であることには注意をしておいてください。実際に理由付けをするにあたっては、この「形式的理由付け」だけでなく、別途「実質的理由付け(結論が妥当であること)」も必要となります。

 ただ、それにもかかわらず、ここまで長々と「形式的理由付け」のことについて述べてきたのは、「形式的理由付け」が実際にはかなり大事であるにもかかわらず、受験生が「形式的理由付け」をあまりに軽視しているという思いがあるからです。受験生は形式的理由付けを安易に考えているのかもしれませんが、試験委員や実務家は「形式的理由付け」にはかなりこだわります。口述などで試験委員から「条文上の根拠は?」と聞かれることはザラです。なぜなら、法の適用・解釈の形式的なよりどころは、条文・条文の趣旨・定義にしかないからです。
 したがって、司法試験の知識習得(INPUT)作業をするにあたっては、条文・条文の趣旨・定義がどのようなものであるのかを強く意識して、これらのものに重点を置いて知識習得を図るとともに、正確にしておく必要があるといえます。また、ある条文・条文の趣旨・定義と、他の条文・条文の趣旨・定義との「異同」というのも意識して、知識習得を図っておいた方がいいでしょう。



 (二)「条文」の重要性──「問題提起」は、「条文」から始まる
   
 条文の文言にあてはめただけで問題が解決できるのならば、単にその条文を適用するだけで足ります。この場合、あえて解釈論をする必要はありません(これは、方法論第2 二、2.でいうところの、「A解決するのに必要ではあるが、重要ではない→答案に「少なく」「書く」、に該当します)。
 そうしますと、解釈論(いわゆる「論点」)が生じるのは、条文からしてはっきりしないからであるといえます。この条文からしてはっきりしないというのには、次の2つがあります。すなわち、(1)条文はあるのだが、条文の文言からでは明らかではない場合、(2)条文がない場合・明文がない場合です。この2つの場合に、解釈論となるのです(これは、方法論第2 二、2.でいうところの、「@解決するのに必要不可欠・重要→答案に「多く」「書く」、に該当することが多いです)。

 この(1)(2)のいずれにせよ、解釈論が生じるのか否か、すなわち問題提起をしなければならないようなところなのか否かについて判断する基準は、「条文」にあるのです。
 したがって、ある解釈論をするにあたって「問題提起」をするときには、「条文」とからめて書かなければならないことになります。具体的にいえば、(1)の場合には、「問題提起」の末尾が、「『○○』(××条)の意義が条文上明らかでなく問題となる。」といった形になります。また、(2)の場合には、「問題提起」の末尾が、「明文なく問題となる。」といった形になります。裏を返せば、こういった形になっていない問題提起(たとえば、「動機の錯誤が問題となる」といったようなもの)は、「条文を意識していない」ことになり、十分な問題提起とは言えないことになるわけです。

 もっとも、条文の文言が明らかでないところすべてが解釈論となっているわけでもありませんし、明文のないところがどこもかしこも解釈論となっているわけでもありません。としますと、解釈論となっているか否かを知るにあたって、「条文の文言が曖昧、あるいは条文がない」という形式的アプローチだけでは十分ではないことになります。解釈論として「論じる実益」があるのかという実質的なアプローチも見ておく必要があることになります。たとえば、動機の錯誤が「錯誤」(民法95条)に含まれるかという論点が出てくるのは、「錯誤」の文言からだけではよく分からないという形式的アプローチがあるとともに、実際上頻繁に生じる動機の錯誤を「錯誤」(民法95条)に含めないと表意者保護という95条の趣旨が没却してしまうのではないかという実質的な問題があり、論じる実益があるからなのです。



 <第4回終わり>     H.A

 


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