さて、忠臣蔵を分らなくしてる一つの要因として、
「信用のおけない記述の氾濫」があるようです。
これは、吉良に斬り付けた浅野さんがその動機を「過去の怨恨」
としか言ってなかったり、実際に殿中抜刀を見た人の記述は
「梶川与怱兵衛筆記」しかないはずなのに、
「忠臣蔵」を美談にしたい「儒学者」が勝手に抜刀の状況を記述していたりするからだそうです。
これらの本の信憑性については100%の解答は出来ません。
ただ、記述者の立場や異なる立場の者、利害関係のない者の記述を対比し、
情況を分析するコトであたりはつくはずです。
以下は
「中央公論社:日本の歴史O元禄時代:児玉幸多 学習院大學元教授」
と
「小学館:日本の歴史R元禄時代:尾藤正英 東京大學元教授」
を参考資料としています。
「刃傷松の廊下」
(主に「浅野さんを止めた梶川さん」の記録←この人の記述が全ての元。理路整然、一貫性あり
目付の多門さんの記録も若干←尾藤教授によれば、浅野に同情的すぎで「信用できない」)
元禄十四年(1701)3月14日、なんだかんだでいろんな人が将軍に挨拶に来てた。
私(梶川さん)は吉良さんに連絡があった。松の廊下でちょうど会ったんで話してた。
そしたら吉良さんの後ろから
「このあいだの遺恨おぼえたか(覚えてるか)」
と言って突然浅野さんが吉良さんの背中を斬り付けた。
吉良さんは驚いて「これは」と振り向いたところを
また二回、額を斬られた。
吉良さんはうつぶせに倒れた(←気を失った)。
私は浅野さんに飛び掛り、刀ごと押さえた。
みんなが駈けつけて、浅野さんをとりおさえ、大広間へ連れてった。
浅野さんは
「上野介(吉良さん)はこの間中から遺恨があるので、
殿中と申し、今日のことと申し、かたがた恐れ入ることではあるが、
是非に及ばず討ち果たしたのだ。」
(吉良さんには前から恨みがある。
ここは殿中だし、今日は挨拶の日だし、
今日ここで殺すのはどうかと思うが、
仕方がないから斬ったのだ。)
とずーっと繰り返す。
私達は「もう終わったこと、殿中で大声はやめなさい」と言って黙らせた。
浅野さんは
「もう放してくれ。失敗したし、処罰してくれ。
もう乱暴しないから、服を直させてくれ。武家の決まり通りにさせてくれ。」
「拙者も5万石の城主だ。場所柄をはばからないのは重々恐れ入るが、
乱暴な取り押さえで服が乱れた。お上にはなんの恨みもないから刃向かわない。
殺せなかったのが残念だ。」
と言う。
でも私は押さえていた。
そしたら目付の人(多門さん達4人)が浅野さんを受け取って服を直して連れていった。
浅野さんは「私の遺恨があったんで、殿中でしたが斬りました」と言った(多門記)
吉良さんは気を失っていたので2人に抱えられて医者の部屋へ連れて行かれた。
途中で気がついて、「医者を頼む」と大声でわめいた。
私(梶川さん)は老中・若年寄・大目付列席のもと、質問された。
老中が
「吉良さんは刀に手をかけたか、または抜いたのか?」
と聞いたので、私は
「帯刀には手をかけ申さず」と答えた。
「処断」
老中らは、浅野さん、吉良さんも取調べて、将軍に伝えた。
将軍の裁断で、「浅野さんは切腹」・「吉良さんは罪なし。養生しろ。」
となった。
切腹申しつけの文言に
「折柄と申し、殿中をはばからず、理不尽に切り付け候段、ふとどき至極に思しめされ候」
(とあるので、時期と場所をわきまえずに暴行した点を罪としており、
刃傷の起こった原因を問題にしていない〜尾藤教授)
(児玉教授→この処断は当然。
尾藤教授→両成敗論者の人は、これを片手落ちと言う。・・・この点別記(さいとー))
「切腹」
浅野さんは田村右京大夫さんに預けられた。
大目付、目付の役人がきて、切腹を告げた。
場所は日が暮れていたので、チョウチンを並べた庭だった。
庭上で切腹させたコトについて、本家の広島浅野家から抗議があり、
大目付は5日後に免職となった。
「浅野家」
浅野家は、城主が切腹であるので、領地召し上げ、お家取り潰し。
浅野の妻は出家した。
浅野の縁者も閉門(外出禁止、謹慎処分)。
浅野(内匠頭=長矩)さんの分家(弟)の浅野大學さん等。
「討ち入り」
翌年の12月14日、赤穂浪士(46か47か定かでない)は、
吉良邸へ討ち入り。
居合せた家人(警護のものなど)十六人を惨殺、二十余人を負傷させた。
吉良さんは首を取られる。
また、討ち入りから逃げ回った吉良さんの息子は切腹(侍としてあるまじき行動と認定)。
刃向かわず降伏した吉良邸の侍は全員「斬罪」(同上)。
(罪人である)大石内蔵助を見逃したとして、吉良の隣人上杉綱憲父子は領地召し上げとなった。
(↑と、書いたんですけど、上の3行は「史実と思われない資料」だそうです(尾藤教授)。
浪士よりの人が吉良方に重く書いたまがいものだそうな。
上の3行は削除して考えてください。ちなみに吉良家の処遇については「忠臣蔵考察」で。)
討ち入りの際の口上書きには
「上野介殿を討ちとめられなかった内匠末期残念の心底を、
家来ども忍びがたく、ここに推参したのは、ひとえに
亡き主の意趣をつぐまでの志である。」
とある。
「切腹」
儒学者の室鳩巣さん(児玉教授は浅野びいきとおっしゃる)のごとくは忠義と賞賛。
しかし、柳沢吉保につかえた荻生徂徠は、
「46士の行為は、義ではあるが、私の論である。
長矩(浅野さん)が殿中もはばからないで罪に処されたのを、
吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、
法をまぬがれることはできない」
と論じ、武士の礼をもって切腹させるが良いと言った。
この論が用いられ、46人は切腹になった。