序論
T―1.問題意識
以下は、先日アクセスしたWEBサイトからの引用である。
筆者はこの投稿を目にしたとき、一種の恐怖感のようなものを覚えた。今まで、刑事裁判の被告といえば、殺人や窃盗など自分とはほど遠い世界の人間であるという認識を持ってきたが、普通自動車の運転免許を取得して車社会の仲間入りを果たした今、この投稿者のように、いつ予想もしない被告となって裁判にかけられるか分からないのだ。交通事故の加害者となる可能性はさらに大きいことを考えると、もはや刑事裁判は他人の問題ではない。この事例に限らず、誤判という国家権力の誤った行使による個人の自由の侵害は数多く存在する。なぜこのように、国家権力の誤った行使により、個人の自由・生命・財産が奪われるのか―日本の裁判官の質にも問題があるのか?
決してそうではない。日本の裁判官は世界屈指といっていいほど優秀であると言われている。にもかかわらずなぜ多くの誤判が絶えないのか。それは、個々の裁判官の問題ではなく、制度の問題であることを示しているように思われる。つまり、現在我が国が採用している「裁判官による裁判制度」のデメリット・限界の露呈―では、この問題を解決し、国家権力の誤った行使から市民の自由を護ると考えられるシステムはないのか?日本以外の多くの国々にとって、その答えは「YES」である。それらの国々では、長年にわたって裁判は「陪審制度」というシステムによって運営されており、それは現在も「最上のシステム」として発展しつづけている。しかし、日本の裁判においてはこのシステムは導入されていない。それはなぜか?理由は単純だ。日本においては陪審制度に対して否定的な立場が主流であるからである。ではなぜ我々日本人は陪審制度に対して否定的な立場をとるのか―そもそも我々は陪審制度の本質をどこまで知っているのか、そこには無知や誤解があるのではないか、そのことが我々に誤った価値判断をさせ、日本における陪審制度導入反対という立場を形成させているのではないか、もしそうであるならば、ここでその諸々の誤解を解き、陪審制度の本質・実際を学んだ上で、もう一度、日本における陪審制度導入問題に対して自分はいかなる立場をとるのかを再考する必要があるのではないか―という問題意識が深まっていた。
T−2.課題の設定
以上の問題意識から下記の課題を設定してテーマを考察することとする。
○VIEW POINT:仮説の設定とその検証―陪審制度に対する誤解とその本質―
○STAND POINT:提言・自らがとるべき立場の表明
U.考察方法
映画「12人の怒れる男」や史実「O.J.シンプソン裁判」等、関連文献・資料からの引用事例により、テーマを考察することとする。
陪審制度への入り口―それは、映画「十二人の怒れる男」である。筆者はここで、陪審制度の功罪を発見するとともに、ある一つの疑問を抱くに至った―。
T. 陪審制度に対する第一印象〜予想されるその制度の功罪〜
T−1. 期待される陪審制度のメリット(意義・可能性)
まず、陪審制度におけるメリットについてであるが、それは「人間は議論を通して意見を変える」という点に集約される。つまり、はじめは少年を「Guilty」とした11人が、議論を通して自らの見解を「Not Guilty」と変えたところに、この制度の大きな意義があるのであり、これは言い換えれば、裁判官による裁判の限界の露呈でもある。というのは、この場合、議論によって変わるのは、裁判官や検察官などのプロではない一般市民、つまり素人に限られるからだ。この点について、越智敏夫氏はこう述べている。「陪審制度において誰も議論によって変化しないのであれば、制度自体が存在価値を失う。そしてこの変化の可能性は陪審員が素人だからこそ生じる。自分の意見が議論によって変化する可能性は法律のプロの間では想定されていない。彼らは自分の技能によってそれぞれが唯一の結論を得る。プロとプロとの間で意見が食い違うことはあるが、一人のプロの中での意見は固定したひとつでしかない。しかし素人の意見は変化する。事実認識に思い違いもあれば、他人の意見に軽く追従し、それまでの意見を変えてしまうこともあるだろう。しかし、そこにこそ陪審制度の価値がある。」では、なぜこのように意見が変わることが、裁判においてこれほど大切なのか、つまり、なぜ一つの意見を固めることに大きな落とし穴が潜んでいるのか―弁護士の四宮啓氏は、著書「O.J.シンプソンはなぜ無罪になったか」の中で、この点について次のように言及している。「陪審員も、ある意味で一つの傾向=偏見を持っている。それは人間である以上避けられない。そのように、同じ傾向を持つことが避けられない人間が人間を裁かざるを得ないのであれば、その傾向が安易に一つの方向を向かないようにすることが重要であり、陪審制度はそれを可能にする。これに対して、裁判官による裁判では傾向が一つの方向を向きやすい。同じ経歴、同じ職業、同じ職場の同僚同士―似たもの同士の集まりであるがゆえに、別の傾向との対立・対話を経にくく、その傾向が正しいかどうかを検証する機会が少ないのである。」このように、筆者はこの映画を通して確かに陪審制度の大きなメリットを発見することができた。しかし、実はこの映画では陪審制度が論理的であるとも、また、最上のシステムだとも考えられていない。その意味で、陪審制度と密接に関わるデモクラシーこそが絶対てきに正しいとも主張されているわけでもない。この映画が示しているのは陪審制度そのものの価値やその導入の賛否でなく、陪審裁判の一つのメリットとその期待される可能性なのであり、したがってこの映画の事例研究のみによって日本における陪審制度導入に対する判断を下すわけにはいかない。実際、筆者の脳裏には陪審制度への懸念も確かに存在している。では、その懸念、つまり筆者の考える陪審制度のデメリットや限界はいかなるものか―
T―2. 懸念される陪審制度の欠陥(デメリット・限界)とそれに対する疑問
それは以下の三点である。
@議論下手な日本人においては、議論によって意見が変わることは困難ではないか
A評決に対して真剣さや責任感を欠く陪審員もいるのではないか
B一般市民=素人による議論は、法の知識や証拠の吟味よりも偏見や感情に流されるのではないか
@とAの懸念に対しては、筆者はすぐに、「これらの懸念は誤解であり、不要である」という結論に達すことができた。というのも、@に関しては、日本人が議論下手という傾向は、何も一般市民に限ったことではなく、現在裁判を行っているプロ=職業裁判官とて同じであるからだ。また、Aに関しても、自分の下した判断が他人の人生を大きく左右するという状況においては、人は重大な責任感を感じるのが自然であり、仮にそうでない者がいたとしても、その代わりに誰か他の人物を適用する等、方法はいくらでもあると思われる。問題はBだ。この懸念は他の二つよりも現実的で説得力がありそうである。しかし、ここで再び筆者は立ち止まる。もし、本当にBの欠陥が存在するのであれば、なぜ日本以外のほぼすべての先進国において、陪審制度が長年にわたって「最上のシステム」として君臨し、今も発展しつづけているのか、この大きな欠陥を孕むシステムを採用する必要性がどこにあるのか―こたえはおそらく「そのような必要性はどこにもない」であろう。そうであるならば、そもそも筆者の予想するBの欠陥は本当に存在するのか、それらは筆者を含め多くの日本人が信じ込まされてきた一つの大きな誤解・謝った固定観念ではないのか―そこで筆者は、これらの疑問に基づき次のような仮説を設定した。
U. 仮説の設定
仮説は、「『一般市民による議論は、法の知識や証拠の吟味よりも偏見や感情に流されるのではないか』という陪審制度への懸念は誤解ではないか」というものである。この仮説を検証するため、次節では陪審制度にまつわるもう一つの事例を見てみよう。
前節に代わって、ここで登場する事例は、かの有名な「O.J.シンプソン裁判」である。なぜ、O.J.シンプソン裁判なのか―それは、この裁判に対する批評が、実は陪審制度に対する数々の根強い誤解を示しているのであり、そこに前述した陪審制度の欠陥の存在に対する疑問を解く鍵があるのである。
T. O.J.シンプソン無罪評決の根拠に対する日本人の一般的見解
次の新聞記事(1995年10月4日付朝日新聞夕刊)は、シンプソン無罪評決に対する見解を示したものであり、この裁判に対する日本の代表的報道であるといえる。
以下に、上記の記事の要旨を示しておく。
○証拠はDNA鑑定など圧倒的に検察側に有利だったため、弁護側は争点を証拠から人種問題にすりかえた。
○ファーマン刑事の人種差別発言宣言が裁判の流れを変えた。
○弁護側は最終弁論で、陪審員に対して人種差別について政治的メッセージを送るようパフォーマンスをした。
○その結果、黒人が九人を占める素人集団である陪審員たちは、証拠より感情で、弁護側の示した「人種カード」を買って、わずか四時間足らずで無罪の評決に達した。
しかし、陪審員がシンプソンを無罪にした理由は、本当にこの新聞報道の指摘するように、人種カードという感情論が証拠に対する議論に優先したことによるのか―次項ではこの疑問に迫ってみたい。
U. シンプソン裁判の実際
U―1. 無罪推定の原則=「疑わしきは罰せず」の大原則
まずここでは、前述した疑問を解明するために知っておくべき必要不可欠な知識について述べることとする。それは、「無罪」が何を意味するかという問題であるが、それについて我々日本人は謝った認識を持っているといわざるをえない。我々は「無罪」を「無実=犯人ではない」と捉えがちであるが、刑事裁判における「無罪」の持つ意味は決してそうではない。「無罪」とは、「検察の提示する証拠に合理的疑問が残る結果有罪とはいえない。」ことを示し、したがって刑事裁判の結論は「被告は犯人だ/被告は犯人ではない」のどちらかではなく、「検察の提示する証拠に合理的疑問がある/合理的疑問がない」のどちらかとなる。合理的疑問がないと判断された場合、その被告は「有罪」となり、合理的疑問があると判断された被告は「無罪」となる―英語の「Guilty(有罪)」と「Not Guilty(有罪とはいえない)」という表現は、この点を端的に表している。それゆえ当然、シンプソン裁判においても、陪審員が裁判官から問われたのは、「検察側の証拠に合理的疑問があるかないか」であり、「シンプソンが真犯人であるかないか」ではなかった。12人の陪審員は、「シンプソンが犯人ではない=無実である」という結論を出したのではなく、「確かにシンプソンは疑わしいが、検察側の証拠にも合理的疑問がある」と判断して「有罪とはいえない=無罪」としたのである。これが、「無罪推定の原則=証拠が疑わしきは罰せず」という、現在、世界の多くの国々で採用されている「裁判の基本的ルール」であり、この点を前提としたとき、「シンプソン無罪評決は、証拠の吟味ではなく「人種」という感情論によって下されたのではないか」とする、シンプソン無罪評決に対する我々日本人の一般的印象は、少し違ったものになるのではないだろうか―しかし、「この原則はシンプソン裁判においても実際に忠実に守られたのか?」という疑問の声も確かに存在する。そこで次項では、実際にシンプソン裁判の陪審員を務めた12人の証言の中から、その疑問に対する解答となりうるいくつかを示しておきたい。
U−2. 実際の陪審員の証言
前述したような、シンプソンの無罪評決を「陪審員12人のうち9人を黒人が占めた結果」とする意見は、陪審員たちを非常にがっかりさせた。彼らはこう述べる―「この事件は人種の事件ではありませんでした。我々に、被告の肌の色は関係ないのです。もし証拠が十分なものであれば、彼は有罪になっていたでしょう。最初から最後まで、人種の問題は考えませんでした。」「私は、コクラン弁護士の人種カードも、ファーマン刑事が人種差別主義者であるというカードも買わなかった。私が採用したのは、「ファーマンが嘘をつく」ということだけ。彼の提示する証拠が信用できないとしたら、何が残りますか?合理的疑問が出てきませんか?」「証拠にはあまりにも疑問が多かった。私たちの評決は、肌の色への同情という感情ではなく、証拠と検察立証の不十分さに基づいている。」また、評決翌日の米国新聞各紙の社説も、次のように言及している。「検察の証拠取り扱いの不備が、陪審員に合理的疑問を与えた。(ニューヨーク・タイムズ)」「要するにこれは陪審員の人種問題ではなく、検察側が合理的疑いを越えるまで説明できなかったということではないか(L.A.タイムス)」「それぞれの陪審員が、シンプソンの有罪について合理的な疑問を持ったということだ。(USAトゥデイ)」―各紙はいずれも、刑事裁判の無罪推定原則を前提として、シンプソンの無罪推定原則に理解を示している。特に、USAトゥデイは「この評決は人種による評決ではない。」と、人種問題という感情論の評決への介入の可能性をきっぱりと否定している。
V. シンプソン無罪評決への正しい評価とそこから学ぶべき陪審制度の本質
以上のような、裁判運営の大原則と実際の陪審員の証言、米国新聞各紙の見解から、「素人である陪審員は法律の知識や証拠の吟味よりも感情に流されるのではないか」という、多くの日本人が持つ陪審制度への懸念は誤解であることが導かれた。そしてこの3つ目の懸念が誤解であると判明したこの時点で、陪審制度に対する3つの懸念はすべて解消されたことになる。では、このことを前提とした上で、筆者は日本における陪審制度導入問題に対し、いかなる立場をとるのか―次章ではその点について述べることとする。
以上の「陪審制度の功罪についての仮説の設定とその検証」から、以下の提言を行う。これはいうまでもなく、日本における陪審制度導入問題に対する筆者の意見表明・とるべき立場の明確化でもある。
『日本の裁判制度に陪審制度を導入することに賛成する。』
そこで次節では、日本における陪審制度導入の意義や、その期待される効果についてまとめてみたい。
ここでは、「日本における現行の裁判官による裁判システムのどこに問題・限界があり、それが陪審制度の導入によってどう解決されるか、陪審制度の意義はどこにあるか」に焦点をあてることとする。陪審制度導入の意義―それは、「陪審制度は真に@自由でA民主的な社会の形成に大きく貢献する。」というものである。
T. 陪審制度は自由の砦である―権力の誤った行使から市民の自由・生命・財産が守られる社会であるために…
権力の誤った行使―ここではそれは冤罪にあたる―から市民の自由が守られるために、世界各国の裁判はある一つの原則・ルールをもとに運営されている。このルールこそ、前述した「無罪推定と、検察官の合理的疑いを越えた立証責任」=「検察の証拠が合理的疑問を残さない程度に十分でない限り被告は有罪とされず、生命や自由、財産が奪われることはない」という、現在の裁判の国際的な基準となっているものであり、不十分な証拠で生命・自由・財産が奪われた多くの犠牲の歴史の上に、人類がようやく到着した、人間の自由を国家権力から守るためのひとつの知恵である。では、この原則は果たして日本の現実の裁判、つまり職業裁判官による裁判においてでも本当に生命力を持っているだろうか?被告が犯人ではないかと疑わせる証拠はあるが、その証拠に疑問も残る場合、その被告は「有罪とはいえない」とされているであろうか?そもそも、証拠に合理的疑いがあるかないかは、裁判官によってどの程度正確に判断されているのであろうか?その判断を下す者として、裁判官は本当に適任であるのか?残念ながら、これらすべての疑問についての答えは「否」といわざるをえない。というのも、日本の職業裁判官は、この「証拠が疑わしきは罰せず」の原則以外に、「真犯人を見逃してはならない」という、本来検察のみが背負うべき命題を背負わされているからだ。裁判官は、その重すぎる命題のため、検察官への過度の信頼と被告への過度の不信を持ちがちである。そしてこのことは、法秩序の維持に関わる職業公務員が一般的に持つ、前述した「ひとつの傾向=偏見」ではないか。しかも、多種多様な経歴、職業、職場に身を置く構成員の同士の対話、つまり多種多様な偏見・傾向の対立により、その傾向が正しいか否かを十分検証できる機会を必然的に持つ陪審制と異なり、似た者同士の集まりに過ぎない裁判官による裁判は、その機会に恵まれていない。そのため、「証拠が持つ合理的疑問を頭の中で消し去ること」が簡単に行われ、国家権力の誤った行使=冤罪が引き起こされているのではないだろうか。関西学院大学教授の丸山隆氏によると、「陪審裁判の生命は、無造作に選ばれた市民が(無造作性)、裁判官から独立して判断し(独立性)、任務を終えた後市民に戻っていく(一回性・非連続性)の三点にある」という。陪審員には、職業裁判官のような、検察への過度の信頼や被告への過度の不信はない。彼らは、与えられた法律に基づき、市民としての良識だけで、検察の証拠を吟味することが可能である。陪審制度は、このように「権力の誤った行使から市民の自由が守られる」という目的を達成する可能性を十二分に持っているのである。しかし、実は実際にこの目的が達成されるには、ある一つの重要な条件が満たされなければならない―
U. 陪審制度は民主主義の学校である―市民が自ら自治を行う民主的な社会でありつづけるために…
「権力の誤った行使から個人の自由が守られる」―この受動態の一文を能動文に変換してみよう。「Xは権力の誤った行使から個人の自由を守る」このXとは何か?つまり、誰が個人の自由を守るのか―それは、一人一人の市民の政治参加=民主的でありつづけることに他ならず、この「民主的でありつづけること」こそ、前述した「権力の誤った行使から市民の自由を守る」という目的を達成するのに満たすべき条件である。そして陪審制度はまさにその民主主義の精神そのものであり、市民自治の典型的な制度である。その意味で、19世紀最大の政治学者といわれるアレクシス・ド・トクビルは、陪審制度を「民主主義の学校」とした。現在日本が採用している裁判官による裁判は、この「民主主義の学校」足りえているであろうか。決してそうではないだろう。わが国の市民にとって、裁判は「お上」が行うべきもの=自分とは遠いものという印象が強く、そのため「冤罪は許されない」という意識は持っていても、その意識は「ではその問題をどう解決するか」といったレベルにまで発展せず、問題は未解決のまま今日まで残されてつづけてきた。硬直した「プロの世界=公」を変えられるのは「一人一人の素人=私」しかいないという意味で、陪審制の導入は、この問題解決に対する市民の意識の高さという点も大きく変えることであろう。
以上、第一章・第二章にわたって、日本の裁判に陪審制度を導入すべきか否かという問題に対する自分の立場を明らかにするため、映画「12人の怒れる男」から仮説の設定を、事例「O.J.シンプソン裁判」からその仮説の検証を試みた。そしてその結果、日本の裁判に陪審制度に対して我々日本人が抱いていた数々の懸念は誤解であり、その導入は民主的・リベラリズム的観点から大きな意義があるとして、「陪審制度導入に賛成」という立場を表明するに至った。陪審制度は、「疑わしきは罰せず」の大原則が生命を保つためのシステムである。システムがその原則に忠実であることで、はじめて「権力の誤った行使から市民の自由が守られる」という目的が達成される可能性が生じる。そしてその可能性は市民参加・市民自治=民主的でありつづけるという、陪審制度のもうひとつの側面によって実現化の方向へ向かっていく。もちろん陪審制度も人がつくり、人が運営していく制度であるから完全ではない。誤った評決もあるであろう。しかし、人がつくる制度に完全無欠の制度はない。それは今の日本の制度とて同じことであり、私たちは誤りをなるべく少なくするシステムをつくりつづけていく以外にない。陪審裁判に必要なものは、法律と証拠と良心であるという。そのうち法律と証拠は法律専門家が与えてくれる。私たちに必要なものは「市民としての良心」だけだ。人が、民主的で自由な社会でありつづけることを望み、その実現のための現実的努力を怠らない限り、陪審制度は、今後ますます多様化していく日本の社会が、国家権力の誤った行使から個人の自由・生命・財産が守られる真に民主的で自由な社会でありつづけることに大きく貢献するであろう。今回、日本における陪審制度導入問題に対する自らの立場を明らかにするために、いくつかの根強い誤解を解き、その真の意義に気付くことができた意義は大きい。
・四宮啓 著 「O.J.シンプソンはなぜ無罪になったか―誤解されるアメリカ陪審制度」現代人文社 1997年4月10日
・メルビン.B.ザーマン 著・篠倉満 訳 「陪審裁判への招待―アメリカ裁判事情」日本評論社 1990年2月28日