T.はじめに...問題意識と課題の設定
T―1.学校における少年犯罪に関わる問題意識
「教育指導の研究」で提示された各トピックのひとつである「学校における問題行動」の考察の中で、筆者の問題意識は深まっていた。それは、問題を起こす子供の多くが、情緒障害を待っていたり不良仲間やギャング集団に属したりしていない、一見「普通」の子供であり、それゆえ事件の要因が不透明なままにされていること、学校や少年のみにその要因を求めても表面上の手がかりしか得られないこと、そこで少年・学校を取り巻く諸環境に目を向けた場合、それは家族の連帯の実感の消失、政治不信や失業が蔓延化した不安定な社会情勢としてとらえられるが、そのような現状において学校や私たちが目指すところの教員が担う問題解決の可能性はどこにどの程度あるのか―というものである。今回この論文を作成するにあたり以上のような問題意識から上記のテーマで考察することとする。
T―2.課題の設定
以上のような問題意志をふまえ、以下のような課題を設定して考察することとする。@
少年自身の心の問題は何か。A家庭環境はいかなるものか。B社会環境はいかなるものか。
U.テーマの考察方法
<課題の限定>考察課題を現代のアメリカの高等学校における少年による銃撃事件に限定し、1997年のエバン事件、1999年のエリック事件の事例研究という形でテーマを考察したい。というのは、グローバル化が進んだ今日においてアメリカの学校という一地点から物事を見ることはそのまま日本の学校問題を見ることにつながり、特に戦後アメリカの後を追い続けてきた日本にとってそれは非常に有意義であるように思われるからである。
第一章 事例報告
以下が高校銃撃犯エリックとエバンのデータである。
a)事件の日時―エリック:99年4月20日/エバン:97年
b)事件の場所―エリック:高校の図書館/エバン:校内
c)被害者―エリック:生徒/エバン:生徒、校長
d)犯行前の学校における状況―エリック:いじめられていた/エバン:いじめられていた
e)犯行動機―エリック:いじめた者への報復/エバン:いじめた者への脅し、いじめの改善
f)志向性―エリック:バイオレンス映画の愛好、ヒトラー崇拝/エバン:バイオレンスゲームへの傾倒
g)性格―エリック:逆上しやすい、極めて自己中心的/エバン:自信がない、自己中心的
h)生い立ち―エリック:社会的に恵まれた家庭で育つ/エバン:父の投獄、母のアルコール中毒、フォスターファミリー内での暴力など極めて不安定。
このデータから、@犯行前の学校における状況A犯行動機B志向性C性格が両者に共通しており、D生い立ちに差があることがわかる。
第一節 共通点@犯行前の学校における状況A犯行動機
ここでは上記の四つの共通点のうちの@とAの二点について考察することとする。
T.イジメと報復
T―1.@犯行前の学校における状況
エリック、エバンは学校内でいじめにあっていた。二人をいじめていたのは、ジョックと呼ばれる優秀なスポーツ選手やチアリーダーで、彼らは生徒や教師から優遇されていた。彼らは異質性を嫌い、メインストリームから外れている者を徹底的に排除しようとした。
T―2.A犯行の動機
イジメの被害者=エリックらは、そういった悪しき状況を銃乱射という非人道的行為によって解決しようとするとともに、イジメによって傷ついた自尊心を勉学やスポーツ、趣味といった生産的創造行為によってではなく、武器による殺戮という破壊的行為によって回復しようとした。
U.@とAの関連性
銃撃事件は@とAの条件がともに成立してはじめて起こった―ならば、@とAの条件を成立させた諸要因の解明の必要性は必然であり、次節以降ではその点に迫ってみたい。
ここでは、前述した@Aの条件成立の諸要因を解明すべく、銃撃犯の三つ目の共通点=志向性に焦点をあてるが、その志向性とはネクロフィリア的傾向という一言に集約される。
T.ネクロフィリアとバイオフィリア
社会心理学者ユーリッヒ・フロムは著書「悪について」の中で次のように語る。 「人間には死んでいるもの=死体・腐敗に魅せられるネクロフィリア的傾向と生を愛するバイオフィリア敵傾向とが同時に存在し、人によってその混在の程度は異なる。前者の傾向が強い人は生が死へ変貌することに魅せられるが、それは、死と違って無秩序で統制困難な生は彼らにとって脅威であることによる。その代表例はヒトラーである。」
U.エリックとエバンのネクロフィリア的傾向
両者ともにその傾向が強いといえる。エリックの場合、それは「死者には多くのことができない。口論も泣くことも―だからお前との口論を解決する唯一の方法はおれがお前を殺すことだ。」という彼のインターネットサイト上のメッセージからも明らかだ。また、エバンの場合もバイオレンス映画やゲームにのめりこんでいたという点でネクロフィリア的傾向の強さがみてとれる。
前節において、銃撃犯には環境から何らかの脅威を感じた場合、死をもってそれに対抗する性質がそなわっており、それが彼らの犯行動機の起爆剤となったことが明らかとなった。ならば、もしも彼らがそのような脅威を感じない環境にいたり、もしくはその脅威を 感じる程度が低ければその性質は表れないということになる。実際、イジメなどの脅威にさらされた子供がすべて犯行動機を成立させることはまずありえない。だとすれば、銃撃犯は他の子供たちよりも過度に脅威に対して敏感で傷つきやすくなっていたのではないか―そこでここでは、その過度の傷つきやすさという問題に、人間の性格という観点からアプローチし、同時にその脅威を与えた者=ジヨックの問題についても考察したい。そしてその場合、両者の性格的特長は、ナルシストとしてとらえられる。
T.ジョックのナルシスト的傾向
「そして僕は銃口を向けた」の著者、飯塚真紀子氏は、それについてこう述べる。「違いを持った生徒はメインストリームにフィットしていないとみなされ排除されるが、そこには平均生徒はこうあるべきだというユニフォーム性の追及がある。」前述したジョックの異質性を極度に嫌う傾向は「自分と異なるものは受け入れられない、自分こそがすべてである。」という自己中心主義を意味し、それはナルシシズムと同義であるといえる。
U.銃撃犯のナルシスト的傾向
「キラーナルシスト」という視点から銃撃事件をとらえる心理学者バーバラ・ラーナー氏は、「ナルシストは自己重要性が肥大化しているため、容易に傷つきやすく、傷ついたと感じると激しい怒りを感じる。」と述べる。どうやらエリックとエバンの過度の傷つきやすさは、この肥大化した自己重要性=ナルシシズムに起因するようだ。しかし、二人のナルシスト的傾向は、その方向性において顕著な違いがある。まずエリックの場合、それは彼の「俺は法律そのものだ。」という言葉に表れているが、このような自己の絶対化は、前述したジョックのそれと共通する。一方エバンは逆に自己を最もみじめなもの、非力なものと認識している。それは「そのとき僕はただ自分がかわいそうで自分のことだけで頭がいっぱいになっていた。なんで僕はいじめられるんだろう、僕はなんて不幸なんだと。」という証言より明らかだ。そしてこのような両者の相違を見るとき、前章で触れた『生い立ち』という視点が有効である。
V.ジョック・エリック・エバンのナルシストの方向性とその生い立ち
ナルシストの方向性を@、その生い立ちをAとした場合、それは以下のとおりである。
ジョック:@自己過大評価型ナルシストA教育への投資を惜しまない裕福な家庭に育つ。
エリック:@自己過大評価型ナルシストA社会的に恵まれた家庭であるが、両親の彼へのアテンションは低かった。
エバン:@自己過小評価型ナルシストA不安定で脅威に満ちている。
ここで又新たな疑問がわく。ジョックとエリックは自己過大評価型ナルシストという同じ性格的特長を持ちながら、前者はイジメの加害者、後者は銃撃犯というようにその立場とそれが与える社会的脅威の規模には大きな開きがある。次節ではこの問題意識をふまえた上で、当章の小括を試みたい。
ここでは、第一章の@犯行動機A犯行前の学校における状況B志向性C性格D生い立ちという諸要素同士の関連性をマクロ的に見てみることにするが、特にBとCとの関連性に着目したい。というのも、前節の疑問を解く鍵がここにあるからだ。ネクロフィリア的なエリックに対し、ジョックはスポーツという生産的創造行為にうちこんでいた。この点から、彼らはバイオフィリア的傾向が強いといえる。そこで、@〜Cの関連性を以下の図を用いて見てみたい。
ジョック:(人格)Bバイオフィリア+C過大評価型ナルシスト (行動)Aイジメ
エリック:(人格)Bネクロフィリア+C過大評価型ナルシスト (行動)@報復殺人
エバン:(人格)Bネクロフィリア+C過小評価型ナルシスト
重要なのはCナルシシズムがBネクロフィリアと結びついて、Aへの報復という@犯行動機が成立するということである。そこにD生い立ちを加えたものが下図である。
ではこの図中のX・Yは何か―次章ではその考察を試みたい。
結論からいって、ジョックのCナルシスト化の家庭的要因Xと銃撃犯のBネクロフィリア的傾向の家庭的要因Yは、それぞれ自己重視型教育、野放し教育である。
心理学者ラ―ナー氏はこう語る。「90年代、教育は専ら子供たちのセルフェスティーム=自己評価を上げることを重視してきた。体罰などのしつけによりモラルを教えることは幼児虐とみなされ、その結果子供が過度に甘やかされるという問題が生じた。」つまり、自己評価レベルの上昇が子供たちの自己重要性を肥大化させ、それが公的モラルの欠如とあいまってナルシシズムの土壌は形成されたのである。
このネクロフィリ的傾向がなぜ生まれのたかという問題は、いいかえればバイオフィリア的傾向がなぜ育たなかったのかという問題でもある。
T.バイオフィリアの発達に必要な条件
フロムによると、それは「子供が生を愛する人々とともにあること、つまり幼児期に常に暖かい愛情にふれること、脅威がないこと、内的な調和=自我の強さを導く原理を教え込まれること、品位ある生活の保障、人としての正義」であるという。では、銃撃犯エリック・エバンの場合はどうか―。
U.銃撃犯の家庭環境
まずエリックのケース―「僕の親は何でも僕の好きなようにやらせてくれるんだ。」彼のこの言葉は、それが愛によるものではなく、無関心やアテンション不足の表れであることを意味する。実際、両親は彼が部屋でマリファナを吸い、爆弾を製造していたことに気づかなかった。次にエバンの場合であるが、前述したとおり彼の生い立ちは不安と脅威に満ちており、当然そのような環境において彼が親の愛とアテンションを十分に実感することは困難であった。いじめの悩みを打ち明けた彼に対し、母親は「スー(里親)に相談してみたら?」と一言言っただけだった。では、このような野放し教育と、前節の自己重視型教育は、90年代アメリカにおいていかにして形成されたのか―最終章ではその社会的・経済的背景に迫ることとする。
ここではその背景を、80年代アメリカの政治・経済的側面とアメリカ建国以来の文化・社会システム的側面の二方向から探っていきたい。
T.80年代以降のアメリカの政治不信
これは、保守からリベラルへの移行と保守への回帰現象にみてとれる。70年代から80年代の世論のリベラルへの傾斜、つまり現状改革を求める声の増加によって、93年民主党政権が誕生―アメリカを変えようという人々のクリントン政権への期待は大きく、確かに数字の上では、アメリカの景気は回復に向かっていた。しかし、不幸にもその恩恵は一部の富裕家に集中し、一般家庭の生活向上の実感は薄く、失業者の増加も目立った。変化への期待の大きさゆえに、変わらない状況への失望は大きかった。国民の心には現状への不満と焦燥が蓄積し、それは保守への回帰という形で表れた。進藤榮一氏は、著書「アメリカ黄昏の帝国」の中でこう述べる。「多くの共和党員が80年代レーガンの『強いアメリカ』=レーガノミクスへの郷愁を募らせ、国民はかつてのアメリカの繁栄に思いをはせた。」拡大するペシミスト的思考とかつての栄光への固執―90年のアメリカをおおった自己重視型教育は、自己以外の依拠点を失ったそれらの動向の裏返しかもしれない。
U.アメリカの大衆文化と資本主義的精神
米国の大衆文化の本質は個人主義と実力主義であり、前者は開拓者精神ともいうべき自助努力への過度なまでの信仰に、後者は「弱者が淘汰されることで生物は進化する」という社会的ダーウィニズムに根ざしている。又、この大衆文化が具現化したものが資本主義的精神であり、それは個人主義=利己主義、弱肉強食=市場原理という関係より明らかだ。
V.結果と影響
政治不信に伴う不安と焦燥―それを米国人は自助努力によって解決しようとするが、その実現に不可欠であったのが自己への自信という概念であり、さらにそれが米国のスポーツ文化の振興と結びつき、その素質に恵まれた子供たちへの自己重視型教育を生み出すに至ったのである。
T.80年代の政治・経済
それは二度の減税改革の増税効果による共働き世帯・母子家庭世帯の生活の困窮化である。進藤氏はこう述べる。「米国には西欧的な児童扶助制度はなく、AFDC(わずかな援助制度)すら、受給者の労働意欲を低下させるものとしてレーガン政権によって大幅に削減された。」 二人に一人が離婚する母子家庭国アメリカにおいてこの打撃は大きく、エバンもその犠牲者の一人であった。そして米国におけるこのような社会保障制度の未発達は、以下で述べるアメリカの大衆文化・資本主義的精神と密接に絡んでいる。
U.アメリカの大衆文化と資本主義的精神
自助努力や社会的ダーウィニズムを基調とする文化は、根本的に社会福祉の概念と相反するものであった。資本主義的精神について、進藤氏はこう指摘する。「ラッファー曲線に集約されるレーガノミクス的思考には、人間の行動と勤労の源泉を収益に求めて単純化するあのアダム・スミス流資本主義の欠陥が潜んでいる。」又、フロムは著書「愛するということ」の中でこう語った。「現代社会では愛を実践することは難しい。現代社会は人を人ではなくモノに変えていくからだ。」
V.結果と影響
ヒトよりもモノ・カネを優先する現代アメリカ社会のひずみは母子世帯を直撃し、それにより親子間のコミュニケ―ションは量・質ともに大きく変容した。子供たちにとって、コミュニケーションの相手は生身の母親でなくコンピュータに、遊び相手は一人でも可能なTVゲームやビデオになった。エバンは犯行後こう語る。「僕は人間の命について考えていなかった。僕は理解できなかった―人間を撃つことも動物を撃つことも同じ次元だと考えていたから。」―ここに、生を愛するバイオフィリアはみじんも存在しない。
以上、第一章の事例報告を受けて、第二章から第四章にわたって、少年と少年を取り巻く諸環境(家庭・社会)について考察を深めてきたが、これらの一連の「結果(現象)ー原因」の流れを「原因ー結果(現象)」の流れに組み立て直したものが、以下の図である。
このようにみていくと、学校で起こったこのような事件・問題については、決して少年や学校のみにその要因があるのではなく、その諸環境=家庭・社会と密接に関わりあっていることがわかる。したがってその解決は、それら諸背景との関連の中でのみ有効であり、この点をふまえた上で改めて今学校に何ができるか、今後何をすべきかを模索することが必要だ。子供たちは学校で銃撃事件を起こした。それは、学校こそが家庭と社会のパイプラインであり、彼らにとって脅威の場であると同時にSOSのサインを送れる唯一の場所であったからだ。これらの事件はイジメへの報復であると同時に、誰もに内在する自己防衛手段としてのナルシシズムの最もネガティブな形での表れでもあり、その意味においてすべての子供たちに関わる問題である。エバンは言う。「ただ学校で話を聞いてほしかった―」ここに、学校による問題解決の責任とその可能性がある。その具体的解決策の提言については、今後の考察における課題としたい。
飯塚真知子 著「そして僕は銃口を向けた」草思社 2000年
進藤榮一 著「アメリカ黄昏の帝国」岩波 1994年
大石紘一郎 著「現代アメリカの心と社会」朔北社 1997年
岡田光世 著「アメリカの家族」岩波 2000年
平野裕二 著「学校犯罪と少年非行」日本論社 1999年
松本良夫 著「図説非行問題の社会学」光生館 1984年