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(卒論の目次)

≪ 第3章 「演劇教育」の特性と効用 ≫

[3-序:「演劇」と「教育」について]

 「演劇」と「教育」とは、その本質において、多くのつながりがあるといわれる。演劇の本質とはなにか、ということでは様々な考え方があるが、たとえば、演劇の発生は原始民族の生不安からの解放を求める宗教的な舞踏にあるとし、教育の本質もまた、生不安の積極的な克服にあるという点で深いつながりをもつという考え方がある。また、演劇の出発点や構成要素に『模倣』があること、それは教育の諸要素とつながり、重なるという考え方もある。

 わたしも多くの共通性を感じている。中でも、最も大事だと考えるのは次のことである。

 演劇は、生身の人間が、生身の人間の前で創造する芸術であり、両者の交流によって成立する芸術である。教育もまた、教師という生身の人間と、子どもという生身の人間とのふれあいの中でいとなまれる。生身の人間が、生身の人間に働きかけておこなう創造的なものであるという点、ことばとからだを通じてコミュニケーションを成立させるものであるという点で、「演劇」と「教育」とには何よりも興味深く、発展的な関係があると思うのだ。

 このような関係から、演劇のもつはたらきを教育の中にいかしたり、演劇のはたらきを通して教育を進めようとする考え方がうまれ、それが今日、「演劇教育」と言われるものに発展・確立した背景である。

 演劇教育には大きくふたつの意味がある。ひとつは、文字どおり「演劇の教育」であり、主に専門の演劇人を養成するための教育、または演劇を創造し、上演すること、それ自体を目的とする教育である。「演劇の専門教育」ともいえるだろう。もうひとつは、演劇を創造すること、鑑賞すること自体が目的ではなく、演劇をつくりあげる過程、またその鑑賞をとおして、「人間の教育」をめざすものである。

 ここで考えていく「演劇教育」とは、後者「演劇による教育」である。

 「演劇教育」は、演劇の創造活動に参加することや、演劇の鑑賞をとおして、その人間形成をうながそうとする面と、教科の学習や生活指導の中で、演劇的なもの、あるいは「演劇的な方法」をいかそうとするふたつの側面を持ち合わせている。

          演劇の教育(専門演劇人の養成/上演を目的とするもの)

演劇教育                                  

          演劇による教育     演劇の鑑賞/創造を通じた教育

                      演劇的教育(演劇的な方法の活用)

 演劇が、複雑な構造をもち、さまざまな機能をもっているものであるだけに、「演劇教育」の理論も、方法論として確立されていないのが現状である。しかし、いまの段階で明らかなのは、次の3つのことである。

*演劇は、演ずるものと見るものとの交流により成り立つ芸術である(〜[3−1]

*演劇は、身体的な行動(行為)・表現の芸術である(〜[3−2]

*演劇のもつ集団性(〜[3−3]

[3-1:演劇は、生きた交流により成り立つ芸術である]

 演劇は、演ずるもの(製作に携わるもの)と観るものとの、共通の場での生きた交流によって成立する芸術である。それらが共有する一回性・永遠性の感動こそが、演劇のもつ何よりの魅力である。「演劇鑑賞」の効用について考えてみる。

 メディア社会ともいえる今日、メディアというフィルターをとおしてしか人間存在(他者のみならず、自己の存在さえ)を確認し得なくなっている。それは、わたしたちに生命や身体への実感を希薄なものにさせ、他人事か虚構のもののようにしか感じられないものにしていないか。そこでのことばはコミュニケーションを豊かにしているものかというと、必ずしもそうではない。メディア受信機から一方的に流される人工音は、「おしゃべり」が時・所かまわず見かける光景となり、ことばがことばとして機能しているとはいえない「対話」と重なりあったものに思える。「文明社会」の病巣ともいえる、情報の洪水に溺れ流されるような状況としてのコミュニケーションの欠乏、対話欠如などの一面であろう。

 こういう中で、演劇は、子どもたちの感情をどれほどゆさぶるかということは、はかり知れないが、舞台から直接役者のことば・表情・身体表現が語られるものである。舞台からは、繰り返しもコピーもやり直しもない、生身の人間のそのとき一回限りの表情と一体になって伝わってくる喜怒哀楽の姿や声が発せられ、そこではドラマと舞台上の現実を感じ取ることが可能であろう。演劇は、人と人とのぶつかりあい、ダイナミックな関係を、目の前で展開されている現実を典型化したドラマと、更には生身の人間の肉声を、まざまざと観ることができる。人間関係が見えにくく、成立しにくくなっている今日こそ、息づく人間が表現される、すぐれた舞台を鑑賞する経験を子どもたちに与えたいと考える。それは、子どものもつ柔らかな感受性を磨き、想像力を豊かなものするために保障しなければならない。映像や人工音声の充満する中に、生まれたときから投げ込まれるように育てられているこの時代の子どもたちだからこそ、生きたからだとことばが目の前で躍動するかけがえのない面白さを体験させたいと考える。

 また、専門の劇団による演劇だけに限らず、子どもたちが上演する演劇を仲間のあいだで見せあうことなども、意義あるものとして考えていくことが必要だろう。より身近に感じられる関係の中で、舞台と客席が交流し合い生まれるもの、それは専門の劇団による演劇の鑑賞などではのぞめない具体性や直接的な課題をもったものであり、大きく子どもたちの心を揺さぶると思うからである。

 演劇教育における鑑賞の面の重要さを示したものとして興味深いことを、マカレンコが『愛と規律の家庭教育』の中で述べているので、ここにあげておく。

 「子どもが劇をみるためには、映画にくらべて、ずっと長く、ずっと緊張して注意力を集中しなければならぬものです。この点で劇は映画よりも、はるかにふくざつなものです。それが何幕もあるときなどは、各幕ごとに、またテーマの各部分について、いっそう注意深く、いっそう分析力をはたらかせねばなりません。それに劇をみるのには、たいてい一晩はかかるのですから、子どもの生活では、かなりの事件なのです。親はこれらのことをよく考え、また劇をよく理解するように心がけてください。・・・・・・劇は、映画よりも話題になりやすく、したがって、大いに意見の交換にもならなければなりません。」

 さらに、「演ずるものと見るものとの交流により成り立つ芸術である」という演劇の特質を教育にいかしていくことも考えていかなければならないだろう。

 教育は、学級・学校という集団のなかで行われるものであり、教師と子どものあいだ、子どもたちのあいだには、たえず「見る・見られる」という関係が成り立っており、この意味ではすでに演劇的ないとなみであるといえる。だからこそ、より意識的に「演劇的な方法」を取り入れて、教師と子どものあいだ、子どもたちのあいだで、さまざまな刺激を与え合い、共感し合い、充実した成長をとげさせることは有意義といえるだろう。人に見られながら行動するという緊張感、見るものと見られるものとの交流がもたらす刺激には特有の作用があると考える。

[3−2:演劇は、身体的な行動(行為)・表現の芸術である]

 演劇は、身体的な行動(行為)・表現の芸術である。子どもが、劇のなかである一つの役を演ずるということは、劇という一つの秩序(条件)のなかで、自分のやることに継続的に集中し、能動的に考えたり、感じたり、行動したりすることであり、こうした体験は子どものこころやからだに強い刺激を与える。教育のいとなみも、たんに知的な方法を訴えるだけでなく、子どもの認識を育てていくことが必要である。からだを動かすことによって学ぶことの意味は大きい。

 演技するということは、自分以外の役を生きることを意味するが、それらを(戯曲をつかっての劇に限らず)教育活動にいかそうとすること、「演劇的な方法」をとりいれていくことも有効ではないだろうか。たとえば、ロール・プレイングや即興劇を指導方法へいかしていくことである。自分ではないあるひとつの役割を演ずることによって、その人物の位置や立場を理解し、客観的な認識を深め、経験をひろげることができる。また自己を客観視し、自他の立場に対する理解を深め、子どもたちが社会的な成長をとげることへもつながると考える。

 また、子どもたちのこころとからだをひとつのものと捉え、教育の仕事をすすめること、単に知的な方法に訴えるだけではなく、知覚的(五感)・感性的・身体的・運動的なものをとおして、子どもたちの認識をそだてていこうとすることが必要である。こころとからだ、からだとことばの働きをひとつのものとして活動させることが、「演劇教育」の重要な役割のひとつである。

 ひとつの脚本によって演劇をつくりあげていく場合、子どもたちは、細かいところに気をくばる集中力と強い意志、柔軟なからだとこころ、そして何より想像力をたえず働かせなければならない。そのことが、子どもたちの人格形成にどれほど有効性をもつかは、いうまでもないだろう。脚本(そこにかかれた日常語ではない、選ばれ、磨かれたことば)を読む。そこに生きる人間たちに出会う。自分の経験と想像を重ねあわせながら、その人物をふくらませてゆく。ことばとからだを使って演じること、役を通じてコミュニケーションを重ねることで、自分、そして仲間と出会い直していく。演劇をつくる中では、役を通しての社会的・人間的な「出会い」、新しい発見、日常的生活や仲間との間に横たわる問題の解決をも期待することができる。

 演ずること、役者以外にも、演劇創造には多くのスタッフが必要とされる(即興劇など、場合によってはそれを必要としないこともあるが)。演出・舞台監督をはじめとし、装置・小道具・照明・音響効果・衣装などをあげることができる。道具や衣装、効果を考えること、それらにも子どもならではの想像力をいかしていくことができるだろう。また、それらの製作は、手足、からだを使っての作業であり、そのことを通じての対話・コミュニケーション、知識・技能の修得などの教育(学習)も可能であると考える。自己表現として、演劇づくりにスタッフとして携わることも意義あることだろう。そして、スタッフでの活動参加は、決して役者に比べておとることのない仕事量と評価の質を内包している。演ずることに抵抗の大きい子どもでも、他の参加手段があり、そのことは、演劇創造が教育に有効であることの、ひとつの理由になり得ることだと思う。一人ひとりの違いを認めあいながら、集団のなかに生きる連帯感をもつ個性的かつ創造的な人間を育てることが、「演劇教育」の大きな役割である。

[3−3:演劇のもつ集団性]

 演劇は「総合芸術」、あるいは「集団の芸術」である。演劇のもつ総合性・集団性は、教育のさまざまな対象・内容・方法・課題に対して有意なものである。

 自他の要求・条件を認識、理解することからスタートし、一人ひとりの違いを認め合いながら、ひとつの共通性のある目標にむかって共同の行動が可能になる集団が形成されていくことは、教育的な意義をもつであろう。集団の中で、自分の立場や役割がつかめ、そして、集団に受け入れられているという自信がつくことで、より確かな自己表現ができるようになる。自信のもった表現は伝達性を強め、それをさらに発展させていくことは、人間関係をより発展的(公平・公開)なものへとつながるだろう。集団のなかでは、個々の

 主張のぶつかりあい、具体的な活動を通しての励ましあい、認め合いが蓄積され、それぞれが自分の居場所として自覚できるようになっていくだろう。自己認識・表現は、自己実現と結びつくのである。そして、妥協ではなく、納得を生み出す作業を繰り返す中で、仲間はさらに深く結びつき、集団の質的向上が達成されていくだろう。その中でこそ、個人の学習・発達が保障されるのだと思う。「集団による創造活動」に、何より光を感じてきたのは、その中にわたしを見出すことができるからである。

 演劇をつくりあげるということは、「集団的な創造」である。スタニスラフスキイも「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために仕事をする」ことを強調している。演劇をつくりあげる過程には、様々なトラブルや、人間関係のつまづきが次々と出てくる。しかし、かえって子どもたちに人間関係の複雑さ、微妙さを気づかせ、また連帯の意識と行動をうみだす貴重な体験となるだろう。「演劇の創造」は、集団の協力や連帯感をつくりだすものとして教育に有効であるとわたしは考える。

 また、「演劇の鑑賞」後、そのテーマについて討論すること、脚本・舞台・キャスト・スタッフなどについての対話や意見交換の時間を大切にすることで、意識的に集団的活動、そして集団と、それを構成する個人の集団的力量をはぐくむことも可能だろう。演劇の創造や鑑賞に限らず、演劇のもつ総合性・集団性を教育にいかしていくことを多様な内容・方法として実践的に検討すべきと考える。孤立感にさいなまれ、必要以上に他人との違いに不安を感じている子どもたちには、いまこそ、自己確認の場、更に自己表現、自己実現を可能とする集団が求められている。

[3-4:「演劇的な方法」の考え方とその導入]

 「教育は、人間関係であるといえる。だから、生徒同士の人間関係、先生と生徒との人間関係が、はりきっている場合に、よい教育がおこなわれるのにきまっている。そして、そういうときには多分に演劇的なものである。それを集約的に表現したものが、いわゆる演劇的活動であり、それが逆に、日ごろの人間関係にはねかえってゆく作用、それが学校劇の大きな役割になるだろう。また、もっとも高まった学習活動がおこなわれるときは、かならず演劇的であるといえるだろう。だから、子どもたちを、ひとりのこらず活動させたいとおもうならば、どうしても教師は、演劇的な方法を考えなければならない。演劇というのは、子どもを活動させる原理とさえいえるのではないか。」

 『総合研究・学校劇のめざすもの〜演劇と教育のむすびつきについて』(演劇教育実践シリーズ第19巻所収)の中で宮原誠一がこのように発言している。「演劇の教育」よりも、「演劇的な方法」を大事にしようという主張は、非常に興味深い。

 「ひとりのこらず活動させたい」要求をもつ教師は、『参加・自己決定』を保障することが、現状、最大の実践課題であると自覚し、前述の演劇のもつ総合性・集団性の教育的有効性に納得するだろう。「人間関係がはりきっている」状況を「劇的」と重ねてみよう。

 「劇的」という言葉がつかわれるとき、そこには様々な対立と葛藤、そこから生まれる発展と安定への期待があることを意味する。前述した3点の演劇の基本的性格・機能を活用していくことに加え、その「劇的」なものを直接、教育活動にいかしていこうとすることも、「演劇的な方法」といえるのではないだろうか。もともと、教育は成長する子どもたちの未来への期待と不安を解決し、発展、安定へと導くことをその仕事としているのだから、「劇的」なものと交差せざるを得ないだろう。「劇的」な内容を分析、検討し、いっそう意識的に実践として展開していこうとすることによって、充実した「演劇的な方法」が前進するものと考えられる。

 子どもたちの感情が対立したり、主張がぶつかりあうことで、様々な緊張や興奮がうまれ、知的な欲求や意志が高まり、それらを通して教育(学習)はさらに充実したものとなる。「演劇的な方法」を学級・学校のいとなみにいかしていくと、子どもたちのからだとこころがのびのびと解放され、自分の気持ちを素直に表現できるような人間関係も生まれ、子どもたちを、豊かな感性、高い知性や意志的な行動力をもった人間に育てることができるだろう。「演劇的な方法」は、いきいきとした学級と、そこでの興奮・緊張・平安な活動を効果的につくりだすのである。

 冨田博之著『演劇教育』のなかに、「演劇的方法として意識されてはいないが、これまでの、すぐれた教育実践のなかには、かならずといってもいいくらいに、演劇的方法がいかされている。」として、いくつかの実践が紹介されている。

 たとえば、小学1年生に数字を教えるときに、6や8という数字を、からだで実際にやらせたり、子どもが自分の前に座る友だちが机のよこに投げ出した足のかたちが「く」の字に似ているというのを発見したら、その発見をほめ、実際に、足で「く」の字のかっこうをやらせてみせるという方法で教えたという実践。ここでの紹介はひとつにするが、その本に紹介されているどの例も、「演劇的な方法」を意識的に活用したというものではないように思われる。

 人間はこころとからだをもち、それを複合的に機能させて生きている。教育は人間の心身全体に働きかけていく仕事であり、演劇のもつ総合性(身体運動・知覚認識・言語思考)と集団性(他者との関係づくりとその発展)は、子どもの学習活動のより積極的なものへの転化に効果的な条件(要素)をもつものと考える。これらを「演劇的な方法」は内包していると思われる。

すぐれた教師が、子どもたちとの関係(指導)を血の通ったものにするために、また教科・教科外の論理やテーマを感動的に汲み取れるように、からだごと揺さぶるような方法を考え、創意工夫した実践や、教科学習における感動的な発見や一人ひとりの子どもの疑問や誤りを含む模索の蓄積が、生身のからだを動かすことによって得られたとすれば、たとえ演劇的方法ということが意識されていなかったとしても、客観的には、すぐれた「演劇的な方法」だと言えるのではないだろうか。

 子どもは、こころとからだ、そしていのちを持って社会の中に生きている、社会的存在である。たしかに、子どもは基本的な意味での生産活動には少なくとも直接は携わらず、おとなのような社会的・政治的な行動にも参加しない。けれど家族や友達、周囲のおとなたちと生活する中で、さまざまなことを考え、気持ちを動かし、生活感情を形づくっている。日常的に起きるさまざまな事象についての情報により、欲求や知識を増大させ、いろいろな遊びに興じ、「勉強」を強いられたりしている。その是非はあるが、社会や労働から隔絶されて、子どもは存在し得ない。

 教師は、さまざまな学級のいとなみの中で、子どもたちを社会の形成者として、主体性をもった人間へと導くことに、いっそう自覚的にならなければならない。そのためにはまず、この内部に無限の可能性をもつ子どもたちの意志や感情や、知的な欲求が、対立したり、ぶつかりあったりする、いきいきとした活動が保障される学級がつくりだされることが大切だと考える。子どもと教師とでつくる教育(学習)活動は、そういった「劇的」な状況で進められてこそ、いっそう充実したものになるであろう。


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