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(卒論の目次)

≪ 序 論 ≫

[はじめに]

 「学級崩壊」などという言葉が聞き慣れたものとなり、少年たちの犯罪も、無抵抗な年少者や弱者を殺すとか、あるいは些細なことで人を傷つけたり、自殺したりという異様な事件があとを断たず、連日のように報道されている。家庭内での虐待、暴力行為や子殺し、親殺しという異常事態も、今では決してめずらしいことではなくなったようにも思う。

 人間が人間らしく生きていくという、人間一人ひとりにとっても、また社会全体にとっても一番根本のところ、土台の部分の腐敗がとめどなく拡がりつつある。わたしたちと次代を担うべく生まれてきた子どもたちは、おそろしい無残な時代に生きていると考えざるを得ない。

 そんなときだからこそ、学校は自分で感じ、考え行動する子ども、人間らしい人間を育てる場所でなければならないと思う。自分で考え、迷いながらも決断して、自分の行為を選びとっていくことが保障される場でなくてはならない。そこには、人間が『考える(認識・思考・判断)』というアイデンティティーが求められ、確かめられ、また他者との関係の中で自己をみつめ、他者との生活の中で更に多くの能力と、総体としての人格も豊かにはぐくまれる原点があると考える。

 しかし、社会、学校の現状はどうかというと、「能力主義・競争主義」の傾向がますますつよく、そうであってはならない学校さえ、人間が人間らしくなる、生きる力(考え、選び、行動する力)を育てる場所とはかけ離れたところに傾斜していくところが多いように思う。だが、決してそうでない学校、教師もいるとわたしは信じている。

 教師が願う教育活動は、子どもの内面に手の届く仕事、知性・感性をくぐりぬけて働きかけることが可能な文化活動であり、それは子どもの中に内存する人間的真実をゆさぶり、励ますいとなみに他ならない。管理主義的な締め付け、非行対策への焦りに終始していては、子どもが見えなくなりはしないかという危惧が、教師の良心の中に必ずあるとわたしは信じたい。

 いま、「集団による創造活動」を通じた教育こそ大事にされて良いのではないだろうか。また、その中でも「演劇教育」に光を感じている。それは「文化活動」といいかえてもかまわないだろう。子どもたちに、彼ら自身の生きる希望をかきたてる「文化活動」、その中にある、とりわけ「演劇教育」の有効性とその方法について検討していきたい。


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