「学級崩壊」などという言葉が聞き慣れたものとなり、少年たちの犯罪も、無抵抗な年少の子や弱者を殺すとか、あるいは些細なことで人を傷つけたり、自殺したりという異様な事件があとを断たず、連日のように報道されている。家庭内での暴力行為や子殺し、親殺しという異常事態も、今では決してめずらしいことではなくなったようにも思う。
人間が人間らしく生きていくという、人間一人ひとりにとっても、また社会全体にとっても一番根本のところ、土台の部分の腐敗がとめどなく拡がりつつある。考えてみれば、おそろしい無残な時代に生きているわけだ。
そんなときだからこそ、“学校”は、自分で考え行動する子ども、人間らしい人間を育てる場所でなければならないと思う。自分で考え、迷いながらも決断して、自分の行為をえらびとっていく。そこに人間が“考える”という知性のはたらきが示される原点があるとわたしは考えるのだ。
しかし、社会、学校の現状はどうかというと、「能力主義・競争主義」の傾向がますますつよく、そうであってはならない学校さえ、人間が人間らしくなる、生きる力(考え、選び、行動する力)を育てる場所とはかけ離れたところが多いように思う。だが、決してそうではない学校、教師もいると私は信じている。
文化は子どもたちに、生きる希望をかきたてる。教師が願うのは、子どもの内面に手の届く仕事、感性をくぐりぬけて働きかける文化活動を通じた教育であり、それは子どもの中に内存する人間的真実をゆさぶり、励ましたいからに他ならないと思う。管理主義的な締め付け、非行対策への焦りに終始していては、子どもが見えなくなりはしないかという危惧が、教師の良心の中に必ずあるとわたしは信じたい。
わたしは今、文化活動、特に「集団による創造活動」を通じた教育こそ大事にされて良いのではないか、と考えている。またその中でも、「演劇教育」に光を感じている。そこで、卒論ではその「演劇教育」の実践的活動(内容・方法)とその有効性について考えていきたいと思っている。