[1-序:「人間らしさ」とは何か]
「人間が人間らしくなる」、「人間らしく生きる」ということをいま一度考えてみたい。
「人格形成」という言葉を最初に自覚的に用いたのは、教育思想家のコメニウスだという。彼は、その著作『大教授学』で「人間は人間になるべきであるならば、人間として形成されなくてはならいないこと」という命題をあげ、そこで「人間に生来与えられているのは知識の能力であって、知識そのものではない」こと、「人間は人間性に向かって形成されなくてはならない」ということを論じている。そして、「人間性は、人間を人間らしくしているところの人間の本質ないしは性質であり、人間的自然である」という。その考え方をかりるならば、人間を「人間らしく」している本質ないし性質とはいったいなんだろう。
「人間らしさ」、「人間の本質」という言葉からまず考えるのは、「知性」と「感性」についてである。「知性」とは物事を知り考える能力であり、感覚・知覚からうけとった材料に働きかけて、抽象的・概念的・総合的認識をつくり上げる精神的能力である。「感性」は感受性とも言い換えることができるが、感覚的な刺激や印象を受容したり、経験を伴う刺激に反応するこころの能力であり、感覚的衝動・欲求・感情・情緒などを含む。両者とも、人間が生まれながらにもっている共通のものと捉えられているが、しかし重要なのは、それらが自然とはぐくまれるものではなく、学習などの意識的な働きかけ、仲間との連帯やコミュニケーションなどによって豊かに育てられていくものであることだ。そして、どちらか一方でも欠けることがあってはならないものである。豊かな感性から知的欲求がうまれ、新しい知識・認識を獲得することでよりいっそう感性が豊かになっていくという相互関係があると考えるからだ。
わたしがこれまで大事にしてきた、そしてこれからも深く胸に刻んでおきたいと思うことばに次のようなものがある。
このことばに「人間らしさ」が象徴されているように思う。好き勝手、思うがままというのではなく、自ら『考える(認識・思考・判断)』こと、そうして自らの意志で行動を選びとっていくことこそが『自由』であり、「人間らしく生きる」ことであると思うのだ。
しかし、決められた「枠」の中で上を目指すこと、他人よりうまくやることが出来たとしても、その「枠」がなく、すべてが自らの意志で始まるという状態におかれると、身動きがとれなくなるものである。自分の考え・意志に自信と責任をもつことは容易なことではなく、それを行動へうつすこととなると、生じる不安や緊張もなおいっそうのことだ。けれど、その厳しさを乗り越えてこそ獲得できるのが『自由』であり、「人間らしさ」なのだと思う。だからこそ、知性・感性をくぐりぬけて働きかけ、子どもたちを励ます教育こそが求めつづけられ、いま更に求められていると考える。
[1-1:子どもの変化「新しい荒れ」]
かつて、「校内暴力」「登校拒否」「いじめ」等が登場したとき、それは一部の突出した学校や子どもの問題と捉えられることも少なくなかった。しかし、それまでは落ち着いていた学校でも、担任教師の経験や実績にも関係なく、どんな学級でも起こりうる「荒れ」が、「学級崩壊」と括られ、世間一般の知るところとなっている。
「学級崩壊」と言われる現象をどう捉えるか、確定した定義はない。文部省の委嘱研究『学級経営の充実に関する調査研究(中間報告書)』では、「学級崩壊」現象を「学級経営がうまく機能しない状況」と分析している。ある現場教師のレポートによると、それが広がり始めると、「いじめや暴力が蔓延し、授業が成立しない。仕事をしないばかりではなく、器物破損、エスケープなど、生活のルールがことごとく破られる。教師の指示に子どもが従わないどころか、教師への暴言、無視が横行する」という。
今日の「学級崩壊」は、子どものイラダチ、不安感の強まりによる「新しい荒れ」のひとつの特徴現象であり、更に「犯罪行為」の背景とも深く結びついていると考えられる。
子どもたちの「荒れ」には、確実な変化が見られる。「新しい荒れ」の特徴は、まずその背景が見えにくいことである。まさしく「ムカツク」「カチン」「プッツン」の構図で、子どもたちはそれまでの自分自身をかなぐり捨てて、突然豹変するように見える。
子どもはシステム化された、「競争主義・能力主義」に支配された学校と、こころの居場所ではなくなりつつある家庭で、孤立感を深めている。すべての結びつきはきわめて間接的であり、それは人間的実感を伴うものではない。そんな不安定感の中で、子どもたちは不安や恐れを抱き、傷ついている。一人ひとりの子どもがそれぞれの思いを抱えて生きている。けれど、大方その思いを意識化できず、ましてや言語化することもできないまま、自己を否定的に見てしまっている。たとえ「いい子」「おとなしい子」に見えたとしても、子どもはからだの変化を伴う思春期の到来を契機に、それまで閉じ込めつづけていた感情(ストレス)をいっきに噴き出す、これが「キレル」子どもたちの行動の本質だと言えるだろう。それが自らの意識を越えて突出されるために、また「キレル」子どもたちのそれまでの存在の理解が不足しているために、文脈や背景の見えにくい「荒れ」になるのではないだろうか。
[1-2:「新しい荒れ」の特徴]
「新しい荒れ」、今日の子どもの変化の特徴を考えてみたい。
<1:特定の子の問題ではない>
以前は、いわゆる問題行動を起こすのは、特定のグループを形成した子どもの場合がほとんどで、日常的に教師が注意を払うことが可能であったのだが、「新しい荒れ」は、必ずしも問題行動を重ねてきた子どもに限らず、予想できない子どもが突然驚くような行為をおこすことも多い。
「非行」を起こす子どもは「低学力」が指摘されることが多かった。しかし、いまは必ずしも「低学力」の子どもだけが問題行動や事件、「新しい荒れ」を起こすわけではなく、目立たない子どもや、むしろ勉強やスポーツもよく出来、学級のリーダー的な子どもも事件に関与している。
<2:繊細な子どもの「荒れ」が増えている>
以前、大変な事件を起こしたり、暴力をふるう子どもは「気が荒い」、「気が強い」子というのが一般的であったのに対し、「不登校」であったり、「集団に入れず孤立した」子どもであったり、「繊細で気の弱い」子が「荒れる」事例が増えている。傷つきやすく、過敏な子どもが起こした暴力的・攻撃的で、残虐な事件も増えている。
<3:「家庭崩壊」が隠されている>
過去の問題行動や「非行」に走る子どもの家庭は、貧困であったり、家庭不和があったりとその困難が外から見えることが多かったのに対し、「新しい荒れ」の子どもの家庭は、一見何不自由なく、経済的にも中・上流で、両親も教育熱心という場合が少なくない。過剰な期待・干渉、放任・虐待、人間不信、冷たく間接的な人間関係など、「見えにくい家庭崩壊」が「新しい荒れ」には隠されていることが多い。
<4:不明確な対象・原因で突発的に起こる事件>
以前は、「対教師」「対母親」「特定の子」など、いじめ・暴力や反抗の対象が明確であったが、「新しい荒れ」では、その対象もそして原因もはっきりせず、あったとしても些細なきっかけに過ぎないことが多い。
また、問題行動を繰り返し、次第にその行動が深刻化していくことが常だったのに対し、「新しい荒れ」では、大きな暴力事件や問題行動がいきなり、突発的に現れることもすくなくない。
<5:すさまじい攻撃性>
「死ね」、「殺す」等という言葉が、小学校低学年でも平気で使われている。カッターを振り回したり、プロレス技をかけたり、一つ間違えば大変なことになりかねない行為も日常的に見られる。幼い子どもとは思えない恐ろしい目つきをすることもある。「ぶっ殺す」は単に脅しだけではなく、その攻撃性はすさまじい。手加減などないように見えることも多い。
行為が残虐で、非人間的であるにもかかわらず、その行為の重大性を認識できず、集団の中ではその暴力・残虐な行為が、あくまで遊び的で、ショー化している例が増えている。
<6:文化状況による影響>
テレビゲームやアニメ等、マスコミ文化の中で、現実社会の暴力や殺人事件とゲームの世界、そこでの現象との境界が限りなく曖昧になると同時に、「仮想現実」(バーチャルリアリティー)の中に楽しみを見出していることが少なくない。もともと子どもは虚構世界と現実世界を往行しながらイメージを膨らませ、豊かな感性を育てていくものである。今日ゲームの中の殺人や暴力的世界に浸かっていることで、子どもたちはとても危険な体験を重ねていると思われる。子どもをとりまく文化状況の影響によるものも無視できない。
今日の子どもの大きな変化、「新しい荒れ」の特徴を挙げたが、対人関係における人間的実感、自己の存在に対する肯定感が希薄になり、不安定になっている状態が見てとれる。母子関係をスタートに、多様な人間関係をはぐくむ家庭という人格形成の基礎が揺らいでいることからくるものが大きいように思う。この不安定さに発する問題性・攻撃性が出現していることが、様々な「少年事件」からも見えてきている。とすれば、今日の事態は当面広がると考えざるをえない。いまの「荒れ」がすべての子どもにあてはまるものであるだけに事態は深刻だと言えるだろう。背景としての社会・家庭の崩壊の急速な改善が予測できないことからも、「学級崩壊」や「学校崩壊」という状況がさらに広がることは、避けがたいことだと思われる。
[1-3:「新しい荒れ」の原因]
「新しい荒れ」はどこからくるのか考えてみたい。
<1:「能力主義」の強まり・自己肯定感の喪失>
学校や社会における「能力主義」が強まる中で、子どもたちの夢や希望が、子ども自らの意志ではなく、点数によって振り分けられ、選択を「他者の力」によって決められることになっている。こうした状況の中で、子どもは些細なことで「不安」「自信喪失」「絶望感」にとらわれ、自暴自棄や自己嫌悪に陥りやすくなっている。それが「イラダチ」「ムカツキ」、そして「荒れ」につながっているのではないだろうか。
子どもが本来もつ能力、豊かに生きていく力を伸ばすことではなく、学ぶたのしさを感じさせるものではない「能力主義」。仲間とせめぎあいながら、互いによりよく成長していくこととはかけ離れた「競争主義」。子どもをがんじがらめにし、さらに小さな殻にとじこめようとしている「管理主義教育」。それらは、子どもたちから自発性や創造性を奪っていると考える。
<2:家庭・家族の変化>
「新しい荒れ」の背景には「見えにくい家庭崩壊」がある。母子関係をはじめとし、多様な人間関係をはぐくむ家庭、人格形成の基礎が揺らいでいる。今日の社会状況では、地域での子育ての協力や交流が困難であり、また子育てを助け、励ます父親の存在が家庭内にないことも多く、母親は子育てへの自信を喪失しがちである。子どもはそのことを「感じ」、家庭で「いい子」でなければならないという思いを強め、学校で「荒れ」ざるを得ないのではないだろうか。
親が「あなたのため」と優しく励ますことが、実は子どもには「責め」になる場合がある。「あなたのため」という前提が説得力を持つほどに子どもはそれに反論できず、自分を責めつづけ、たまらなくなって「荒れる」こともあるのではないだろうか。
「経済的にも社会的にも安定し、親も教育熱心ないい家庭」と思われていても、実は冷たく、きわめて間接的な人間関係につつまれ、家族が互いに傷つけ合っているということが珍しくない。家庭がこころの居場所、本来の自分をさらけ出せる場所ではなくなりつつある。学校などにおける子どもの「荒れ」を、その反動として見ることも必要かと思う。
授業が終わってもなかなか帰らない子ども、「下校拒否(不帰宅)?」傾向も見られることを付加しておきたい。
<3:「商業主義」におおわれた文化>
子どもたちは「商業主義」にさらされ、今日の消費社会の中で欲望が肥大化させられ、常に欲求不満に陥ったり、他人との違いを必要以上に気にして「不安」と「イラダチ」を募らせたりしている。「商業主義」がつくり出す「流行」に振り回され、「他人(他者)」と違うことに不安を感じ、それが時には他者を攻撃することにつながったりもする。
「商業主義」と深く結びついた子ども文化は、ますます刺激的になっており、性(売買春を含む)・暴力・殺人をゲーム化し、それを何とも思わない感覚が日常的につくり出されている。ゲームのつくる仮想現実(バーチャルリアリティー)につかることによって、安易な暴力やいじめが増えているのではないだろうか。
被加害者を問わず、「金銭感覚」の希薄さも見逃せない現状である。
子どもの「新しい荒れ」、変化がどこからきているかを考えてみたが、もちろんこれで充分とは言えない。一つ二つの簡単な原因ではなく、今日までの教育政策は無論、政治・経済、文化状況全体の中で生み出された、複合的なものだと考える。ただ、「競争主義・能力主義」と「商業主義」の拡大が子どもたちの生活を変容させ、その内面に様々な困難を生じさせていることだけは断言できる。
*この章の補足として、「学級崩壊」および「新しい荒れ」にかかわるデータを
本論文の最後に添付する。