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(卒論の目次)

≪ 第2章 子どもたちに向き合う ≫

〜「新しい荒れ」にどういどむか〜

[2-1:子どもたちにどう向き合うか]

 小さいころからのストレスやイラダチ、不安感と抑圧感を抱えた子どもたちと、いかに向き合うか。親や教師、おとなに求められていることは何か。

 「新しい荒れ」は、子どもたちからのメッセージでもある。「あなたはあなたでいい」という言葉を、「自分は自分であっていいのだ」という思いを子どもたちは求めているのではないだろうか。居場所のある、安心できる家庭、学校や地域社会を、自己存在の確かさを求めているのだ。「育ててやっている」とか「教えてやっている」という立場ではなく、この厳しく、人間らしく生きることの難しい時代を共に生きるものとして、おとなは寄り添わなければならない。

 最も大切にすべきことは、子どもとの対話、語り合いだと考える。対話を通して、子どもの背景にあるものを、子どもと共に探っていく。子どもを操作したり、支配したりすることなく、こういった現実の中でどう生きてゆくのかを、共に考えていく。子どもたちは、自分をそうさせている背景を意識化し、言語化することで成長し、いずれ社会で生きていく道筋をみつけていくものである。まずは、子どもが自分を語ること、そこにすべての出発点があると思うのだ。

 ひとは誰にでも自分を語ることが出来るわけではない。自分を愛し、励ましてくれる人、ありのままの自分を受け止め、そこから出発することを認めてくれる人に、本当の自分をさらけだし、悩みや願いを語ることが出来るのだ。子どもたちは、安心して寄りかかり、自分自身を語れるおとなを求めている。一括りの中のひとりとしてではなく、かけがえのない自分として受け入れられることを望んでいる。「子どもだから」とたかをくくることなく、また「こうあるはず」「こうあるべき」等という先入観にとらわれることなく、対話し、共に見通しを探ってくれるおとなとの出会い、そういうことをバネにして、自分らしく生きていく力を獲得できるような、確かな出会いを求めている。

 おとなでさえ、「競争社会」の中で、自分の生き方を模索する現代。さまざまな価値観が揺れ動いているように錯覚されがちな現代。「学級崩壊」が、さらなる学校不信や教育への失望さえも呼び起こしている現代。そんなときだからこそ、子どもたちがさらされている過酷な現実を見据えた上で、子どもたちが安心して近づける、安心して自分を語れるおとなが求められている。

[2−2:教師に求められる実践]

 最近の子どもたちは、「自ら考え、行動することが少なくなった」「いつまでも幼児性が抜けない」というようなことが指摘されることが多い。しかし、子どもたちだけではない。度重なる指導要領の改訂の中で強められてきた拘束性、そして反動的な教育行政が進められることによって、教師もまた自発性や創造性が奪われてきている。

 そんな、いま、教師に求められる実践を考えてみたい。

<1:問題行動を子どもの信号として受け止め、訴えていることを解読する>

 子どもとのすれちがいをなくすためには、いまの子どもの在り様を事実として認めながら、何が子どもをそうさせているのかについて教師が分析し、把握することが必要である。それが子どもを受け入れることであり、実践の出発点だと考える。

 まず、子どもたちの行為、行動の裏側にある本当の願いを読み解くために、子どもの分析を進めるとともに、こころを開くような対話、特に子どもたちの願いを語らせることによって問題の所在を探り、指導方針をたてることだろう。そして、教師が共にからだを動かしたり、たのしく興味のもてる活動を持ち込んで、活動意欲と一人ひとりの子どもの良さを引き出すことを目指したい。また、問題行動をその子だけの問題として捉えるのではなく、他の子どもたち及び学級の問題として受けとめ、学級の中で居場所を獲得する契機とすることが求められる。

<2:子どもをトラブルの解決の主体と位置づけ、討議を保障する>

 子どもが自由に自分の考えを表現する場を保障し、考える場をつくり出す必要がある。また、ある事実が何を問題提起しているのか、何が大事なのか、何を考えるべきかについて教師が話したり、問題提起することに加え、納得をつくりだす指導が大事になっている。子どもと教師、子どもと子どもの間で、対話・討論を通じてより豊かな理由や根拠が明らかになり、理解と納得が共同の意欲や活動をつくりだすものにならなければならない。

<3:自己肯定感を生み出す「文化活動」を追求する>

 多くの子どもたちが「今の自分でいいのか、自分はだめなんだ。」という不安を持っている中で、「自分は自分でいいんだ。自分だって出来るんだ。役に立つんだ。」という自己肯定感を高めることが必要である。そのことが子どもたちの生活を取り戻すきっかけになると考える。また、自分たちのことは自分たちで決めることを通して活動の主人公に子どもたちが育っていくだろう。

 子どもたちの生活が「商業主義」に囲い込まれている中で、「商品文化」に対する同調が広がっている。そのことがまた「学級崩壊」の一つの要因となっている。だからこそ、商品を必要としない交わり、「文化活動」の世界を子どもとともにつくっていくことを目指すことが大事であると考える。「居場所」「活動の拠点」を実感できる活動を、子どもの価値観(生活感情や要求)を大事にしながら行うことが求められる。

[2-3:子どもたちに求められる「生きる力」]

 さらに、子どもたちにどんな力が求められているか考えてみたい。

<1:しなやかな「からだ」> 

 子どもたちのからだの危機については、十数年前から指摘されている。大脳の活動水準の低下と骨格・筋力の脆弱化。手足をつかわない、表現しないことからからだの筋肉が弱まり、そのために大脳への刺激量が減少して、大脳活動の水準低下がもたらされているという。

 生活の身辺自立(食べ、眠り、排泄し、健康な生活をすること)、生活技術の獲得(手足をはじめとしたからだを使って、仕事をすること)といった、もっとも基本的なからだづくりさえままならない子どもたちが多くみられる。バイオリズムの未確立、身体発達の未分化、それらの克服なしには、感じること、考えること、行動すること、表現することのできるからだはありえないだろう。

 しなやかさが失われているということは、ことばや音、リズムに反応しないからだになっているということであり、そのために身振りや表情、からだの動かし方といった、基礎的な表現の稚拙な子どもたちが多くみられるように思う。

<2:自分の思い・考えを「ことば」にする力> 

 多くの子どもが自分の抱える思い、考えを意識化すること、ましてや言語化することのできないまま、自己を否定的に捉えてしまっている。

 また、いまの子どもたちは、「情報社会・文明社会」といわれ、膨大な情報と豊富なことばの中に生活しながらコミュニケーションが機能しないところにおかれ、「コミュニケーション欠乏症」ともいうべき症状に陥っている。ほとんど騒音とも言うべき私語、おしゃべりは、時・所かまわず見かける光景になっているが、それは人間関係を深めたり、自己をみつめることへつながる対話やコミュニケーションではない。ことばがことばとして機能してはいないのである。

 「話す」ということは対象に働きかけることであり、「行動」である。「ことば」は、人間と人間が理解しあえる関係をつくりだす働きをするといえるだろう。それが欠けるがゆえに子どもたちの人間関係に否定的要素(いじめや様々な暴力行為等)が生まれるともいえるのではないだろうか。

<3:自分を信頼する力> 

 不安感・孤立感をさらに深め、自信を喪失させる要因の数知れない今日。子どもたちは「自分は自分であっていいのだ」という実感、そして「自分らしさ」を求めている。自己存在の確かさを感じ、自分を信じることが出来てこそ、子どもたちは本来の力を発揮し、さらに成長していけるのではないだろうか。

 自己肯定があって、はじめて自己決定することができ、自ら選びとったことだからこそ、子どもたちは積極的・能動的に取り組み、多くの発見をしていくのだと思う。

<4:集団と交わる力>

 自分の願いや要求を人に伝え解決するための関係を深める力、集団と交わる力、信頼する力が求められている。励ましあいながら、共に生きていく「仲間」のなかでこそ自己存在を肯定することができるのではないだろうか。また、他者の痛みや悩み、苦しみや喜びがわかり、自分の思いと重ねて共感できる感性や、まわりの意見も参考にしながら自己決定してゆくことが求められていると考える。

 いま、子どもたちに求められている力、それは「生きる力」である。人間らしく生きる力である。これら4つを育てていくことに有効なのが「演劇教育」であるとわたしは考える。


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