香芝に伝わる昔話
たんだの椿
いつのじぶんのことやろか。
平野(ひらの)の村の、ずっと西のはずれに、
ぎょうさんの家がかたまって建(た)ってたんやて。
「平野千軒(ひらのせんげん)」いわれたぐらいやよって、
きっと、よみきれんほどの数(かず)やってんやろなぁ。
その「平野千軒」の中になあ、今でいう村長さんの家やろか。
まわりをぐるっと土塀(どべい)でかこんだ、大きな家があったそうや。
その家の、門(もん)を入って本屋(ほんや)までの道のわきに、
二抱(ふたかか)えもある大きな椿(つばき)の木があってな、
毎年毎年(まいとしまいとし)見事(みごと)な花をいっぱい咲(さ)かせたそうや。
椿の紅(あか)い花が、ころころとじべたにころがりはじめ、
そのうち、地面(じめん)が見えんくらい、
花で花で一面(いちめん)になると、
村の人らが門のそばまでその椿の花の敷物(しきもの)を
見んに来やはるほどやったそうや。
なんでもこの屋敷(やしき)には、若い娘(むすめ)はんが
一人いやはるという事やが、誰(だれ)も顔を見たもんはない。
「あんまりきれいな娘やから、虫つかんようにしもたはんねやろ。」
という者もいたし・・・
「あんまりへちゃやよって、目につかんように
隠(かく)したはんねんやろ。」という者(もの)もいて、
人の口はさまざまやった。
その年も、椿が満開(まんかい)になった。
花、見に来る人も増(ふ)えて、中には、
花があんまり見事(みごと)やさかいにと、
枝(えだ)ぐち折っていく者まででるしまつや。
そのじぶんから、誰(だれ)いうとなく、
「椿屋敷(つばきやしき)のお姫(ひめ)さん、
寝(ね)たはるらしいで。」
「わけのわからん、重いわずらいやそうや。」
と噂(うわさ)がたちはじめた。
「薬屋(くすりや)はんが入って行かはった。」とか
「お医者はんの籠(かご)が出てきた。」とか、
村の者は寄(よ)るとさわるとそんなひそひそ話をしていたそうや。
そうこうしているうちに、あのいくいくしてた椿の木が、
今日は東っぺらの枝が枯(か)れ、
つぎの日には西っぺらの幹(みき)が腐(くさ)るという具合で、
目に見えて弱ってきよる。
「なんでやろ。」 「どないしたんやろ。」
と、あれこれ手をつくさはったが、いっこうに良うならん。
旦那(だんな)はんは、あんまり気色(きしょく)悪いもんやから、
下男(げなん)にいいつけて椿の木を根本(ねもと)から
ばっさり切り倒(たお)させはったそうや。
娘さんの病(やまい)が、そののちどうなったんかは誰にもわからん。
ただ、「平野千軒」では、ひとり死に、ふたり死にして、
火が消(き)えたみたいにさびれてしもうた。
茅葺(かやぶ)き屋根(やね)にはぺんぺん草が生えるやら、
軒(のき)はかたむくやら、
そのうちくずれかけた土塀(どべい)だけが、
あの栄(さか)えに栄えた「平野千軒」のなごりを、
わずかに残すだけになってしもうたそうや。
それからどれくらいの年月がたったころやろか。
山行きの衆(しゅう)がたまに通(とお)る、
谷道(たにみち)のわきの田んぼのあぜに、
ひとりばえの椿の木が育っていた。
「昔、切り倒されたという長者屋敷の椿のひこばえや。」
「粗末にしたらあかんで。」
誰かがそう言い出して、椿の木の根本に小さなほこらを建てはったんや。
それからというもの、ここを通る人は、
誰もかれもがお花やお線香(せんこう)をあげるようになったそうや。
今でもその椿の枝を折(お)った者は、
きまってえらい腹痛(はらいた)がおこるということや。
谷田(たんだ)へ行って、見てきてみ。
今あるのんは、もう何代目(なんだいめ)もの椿やそうやが、
今日もきっと、線香の煙(けむり)があがってるにちがいないさかい。
ひょっとしたら、昔の子どものこんな歌声(うたごえ)が、
どっからか聞(き)こえてくるかも知れんで。
「平野千軒 たんだの椿 今もあります 七つ石」
芝の民話 池の主評定
「分川池(ぶんがわいけ)には、主(ぬし)がおるらしい。」
ひとりの男が、突然飲みさしの湯呑茶碗(ゆのみぢゃわん)を
下において言い出した。
ここのところ、何日も雨が続いていて、
山へも野良(のら)へも出られんもんやから、
村の男が何人か寄っては、
昼間から酒を飲んで暇(ひま)つぶしをしておった。
「池の主の話は、あっちこっちでよう耳にするが、
『主』というんは一体何なんやろ。」
ひとりの若い男が、分別(ふんべつ)くさい顔でそう切り出した。
「主と言うのんはなあ。白蛇(へび)や。
何百年も何千年も住みついとる大きな白蛇や。」
一番年かさの男が、まるで自分の眼で見て来たようにそう云う。
皆は、少しの間、押しだまったまま酒を飲んだ。
池へ鮒(ふな)釣りに行ったまま行方が知れぬ男のこと。
山菜(さんさい)とりに分川池の近くまで行った女が
帰って来なかったこと。
それぞれに、そんな出来事を知っていたし、
今あらためて思い出してはいたが、
誰もそれを口には出さなかった。
「あれもこれも池の主のしわざやろか。」
と内心思っていても、
「そうや。」と言われるのが恐ろしかったのや。
長雨もやっとあがって、村の人はもと通り外でよく働いた。
「池の主」の事を考えている暇もないほど、忙しい毎日だった。
ところが、ある日の夕方、
帰り道でつれになった二人の男が、
何やらひそひそ立ち話をしている。
若い方の男が「おれ、池の主を見たで。」と、
ささやいたのが始まりや。
「池の主を見たもんがある。」という噂(うわさ)は、
あっという間にひろがった。
都合の良いことか悪いことか、二、三日して大雨になった。
先の男たちは、ひとり残らず、村のお宮さんの社に集まって来た。
口火を切る者もなく、皆はやたらに酒をあおった。
「実はな。池の主を見たんや。」
やっとのことでひとりの男が切り出した。
「うすくらがりで、あんまりはっきりはせんが。」
男の声は、消え入るように低い。
みなは、じわじわと身を前に寄せて、人の輪(わ)は小さくなった。
「太さは床柱(とこばしら)ぐらいや。」
「ええっ。それで長さは。」
「わからん。頭の方も尾の方も笹(ささ)の中にかくれとったんや。」
「ほんなら色は。」
「わからん。草色やったような。土色やったような。」
「はっきりせんかい。そいつは動いとったんか。」
「わからん。見てるときはじいっとしとったが、
ちょっとよそ見したまに、そこにおらんかった。」
問いつめられて、男は泣き出しそうになった。
「短い足がはえとったやろが。」今までだまっていたひとりが云った。
「水かきあったやろ。」別のひとりが云った。
「えらがあった。」
「尻尾があった。」
「うろこがあった。」
「ああだ」「こうだ。」と、大さわぎになった。
結局みなが、誰にも云わずに、ようすを探りに行ってたんや。
蛇の胴体(どうたい)を見て来た者。
鯉(こい)の背中を見て来た者。
大うなぎを見て来た者。
がま蛙(がえる)に出会った者。
それぞれが、自分が見たものこそ池の主やと思いこんだ。
余りのおそろしさでそれらは全部、とてつもなく大きかった。
「ほんなら一体、分川池のほんまの主は何なんや。」
分別(ふんべつ)くさい顔がそう云った。
こんどはもう、誰も何も云わんかった。
「池の主が何もんでもええ。
近寄って食われんようにさえすればええんや。」
みなは腹の中でそう思っていた。
「今夜は、やけに酒が減った。」
雨の中を、ちりぢりに家に帰る男たちの足どりは重かったが、
誰ひとり酔っぱらっている者はいなかったそうや。
ああ こわい、こわい。
香芝の民話 商地蔵
磯壁(いそのかべ)の北のはずれの方に、ひっそりと一体のお地蔵様が立っていらっしゃる。
両側には五輪(ごりん)を刻んだ石の碑(ひ)が、お地蔵様に仕えるかのように立っているのを見ても、何ともいわれのあるお地蔵様とお見うけできる。
ところがこのお地蔵様、よく見ると、お鼻が欠けていらっしゃる。
温厚(おんこう)なお顔立ちで慈悲(じひ)に満ちたご器量(きりょう)は、お鼻さえ欠けていなければ、なかなかのものだといえる。
「何時頃(いつごろ)の事でございますか。」
「何があったのでございますか。」 と、
おうかがいを立ててみても、おこたえはない。
誰にも何もわからないままである。
人々はこのお地蔵様を「鼻欠け地蔵」と呼び、丁重(ていちょう)なご供養(くよう)を怠りがちになっていた。
このお地蔵様のご勘気(かんき)かどうか、この界隈(かいわい)では、鼻欠けの娘が多かった。
鼻が欠けておらぬ娘も、何故か容姿(ようし)がかんばしくないという事だった。
さて、磯壁の南のはずれで、豆腐(とうふ)を作って商う正直者があった。
朝まだ暗いうちから、豆をひく音がし、夜、月あかりの中で、豆を洗う音がした。
働き者の豆腐屋は、豆腐の味もよく、値もやすいと商売はよく、はやっていた。
ある晩の事。おかみさんが仕事場を洗いながら首をひねった。
「おまえさん。わたしはこの前から考えてるんやが。
豆腐がよう売れる日とあんまり売れん日があるのんはなんでやろ。」
「そう云えば、昨日(きのう)は余ったのに、今日は足らんかったなあ。」
二人は、商いに波があるのはあたりまえやと、その日は寝たのだが、四、五日たったある晩の事。
おかみさんが仕事場を洗いながら、また首をひねった。
「おまえさん、不思議(ふしぎ)な事に気ついたで。
朝一番に鼻欠け地蔵のそばの娘さんが、豆腐買いに来た日は、一日中商売繁盛(しょうばいはんじょう)や。
あの娘さんが買いに来てくれん日は、商いはあがったりや。」
「そう云えば、今朝一番の客はあの娘やった。
豆腐は早くに売り切れて、今日は早じまいやなあ。」
二人は、おかしな事もあるもんやと話しながら、まぐれかも知れんからしばらく様子(ようす)を見ようと、その日は早寝をする事にした。
四、五日たったある晩の事。おかみさんは仕事場を片づけながら、またまた、首をひねっていた。
「おまえさん、もうまちがいはないと思うで。」
「わしもまちがいないと思う。」
二人は、そんな事がほんまにあるのかと、信じられない気もするにはしたが、とにかくあしたは早う起きて鼻欠け地蔵さんへお礼に行こうという事になって、その日はそのまま寝たのだった。
あくる朝、二人はいつもより早く起きた。
空にはまだ星が光っていた。
鼻欠け地蔵さんは、いつもと少しも変る様子はなく、やはり鼻の欠けたお顔で立っていらっしゃった。
豆腐屋夫婦は、地蔵様の前にひざまづいて、お礼を申し上げた。
その日から、豆腐屋は日増しに商売繁盛になり、次第にお金持ちになっていった。
これを伝え聞いた近隣の商売人は、お地蔵様のご利益(りやく)を頂こうと、日毎に参詣(さんけい)人が引きもきらず、お花やお供物(そなえもの)がたえることはなくなった。
人々は、このお地蔵様を「商地蔵」と呼ぶようになり、もう「鼻欠け地蔵」という人はいなくなった。
それとともに、村の娘達の間に無器量(ぶきりょう)は影をひそめ、今では、容姿整(ととの)った娘ばかりだと誇(ほこ)っているそうや。
香芝の伝説
伝 説 あらすじ
田尻こっこ(田尻) 田尻は昔、山林が多くオオカミ・イノシシ・キツネ・タヌキ・ウサギなどのけものがたくさん住んでいました。オオカミのいたところはオオカミ谷という地名がありました。オオカミと山犬とが交わってその混血の子が生まれました。これを「田尻こっこ」と言ったそうです。
「こっこ」には、足のところにオオカミに近い証拠がいくつもありました。他の犬より強くてどんな犬でも「こっこ」の顔を見たらしっぽを巻いて逃げたといいます。この犬が何代か続いていました。
田尻の村にも人身御供(ひとみごくう)があったといいます。その身代わりにこの「田尻こっこ」という犬がなったともいわれているそうです。
狐(五位堂) 昔、ある家へお通夜に来ての帰り、杉田という家の松の木の所から狐がついて来てごちそうを取ろうとしたのですがどうしても取れませんでした。そのうち小便をすると急に辺りが水つきになってしまい、着物を脱いで頭に乗せて、手で泳ぐまねをしてウロウロして帰っていきました。
家へ着くとごちそうは何もありません。小北の稲荷神社(広陵町)の狐がとりついたのだそうです。
鶯の森(今泉) 平野から尼寺へ行く道中の野の中に竹やぶがありました。そこは「鶯(うぐいす)の森」と呼ばれていました。鶯がよく鳴いていたからなのですが、今は家が建ち並んでしまっています。
千畳敷の蛍(田尻) 千畳敷は楠木正成(楠公)の古戦場でした。楠公は矢がなくなってしまったので苦しい戦いを続け、石を削って矢じりにしていました。今でも石の矢じりが土の中からたくさん出ます。これはおそらく石器時代の矢じりですが、楠公もその原始的な矢じりを使ったのでしょうか。その時代に戦死した霊が蛍となって、現れるのだといわれています。
大根を食う虫(穴虫) 昔、穴虫に木熊という人がいました。あるとき、馬場の畑の大根を盗んだので村人か捕まえて、そしてみんなの見せしめのために穴を掘って生き埋めにしてしまいました。木熊は首だけを出して、苦しまぎれに「私が死んだら虫になって馬場の大根を食い荒らしてやるぞ!」と言って死んでいきました。それからというもの、馬場の畑にできる大根は虫に食われたものが多いといいます。この虫を「きくま虫」と地元の人は呼んでいます。今も「馬場穴虫小在所でこわい、木熊うすんだ、生きながら」という唄も残っています。木熊は「喜久間」とも書くそうです。
白い蛇(五位堂) 昔、定井という家の屋敷に白い蛇が住んでいました。ある日、捕まえてトウシで押さえておいたのですが、次の朝見ると、逃げてしまっていません。白い蛇は、神様だから自由に抜けられたのだと信じられています。
一本松(西穴虫) 池と池との間、一本松と呼ばれるところに一本の古い松があります。木の上で昼寝ができるほど大きく、この木は「弥右衛門松」とも呼ばれ、弥右衛門という人が弥太郎という子どもといっしょにここへ植えたものだそうです。そこに元知足庵という大師堂がありました。昭和4年、近鉄線が敷かれるときに他へ移されたそうです。ここは、貝塚、岸和田方面から鮮魚を大和高田・桜井方面へ運ぶ人達が休息したので一軒の茶店さえあったといいます。
菊ま松(東穴虫) 昔、菊松という男が馬場村に住んでいました。そして、農作物を荒らして村人を苦しめていました。これを捕まえてお仕置きすることとなり、庄屋さんがその処罰を加えることになりました。「首から下は全部土に埋めて顔だけ出しておけ」と命じました。最後になって、菊松の遺言に「わしにはこの罪があり仕方がないが、ここへ松を一本植えてほしい。枝は北の墓の方へ伸びないようにしてほしい。庄屋の子孫を七代アホ続きにしてやるぞ」と言った。この松の名を菊ま松と呼びました。その松は、明治15、6年頃の台風で倒れ、今はもうありません。
一夜竹(狐井) 赤土家の庭にある。ここの先祖が昔、竹の杖を挿しておくと一晩にして葉が出て根がついたそうです。今は美しい竹がたくさん生えていますが、切ると腹痛が起こるといいます。この竹は別名「大名竹」とも呼ばれています。この竹は屋敷の守り神だと言って竹の下に石が置き、それを拝んでいます。今ではこの石に腰をかけても腹痛が起こるといわれています。
平野長者・たんだの椿(平野) 昔、平野に長者がありました。大きな屋敷を構えて豪華な生活をしていました。ところが古くから大事にしていた椿の大木を切ってしまってからは、家族がひとり死に、二人死に、とうとう家族全部が死んでしまい、屋敷もなくなってしまいました。あまりの悲惨さに村人が、その屋敷が建っていたあとに一本の椿を植えてやりました。その椿は今でも花が咲いているのですが、花を取ったり枝を折ったしすると腹痛が起こるといわれています。
弘法大師の柳(関屋) 下池(籏尾池)の東南に三本の柳の木があります。それは弘法大師の柳といわれています。弘法大師がご飯を食べられて、その箸をさしておかれたのが柳となって大きくなったのだといわれています。
「寄るな、さわるな柳の木の幹に。我は、これまで行をなすぞ、柳生大神」と立府に記してあります。この柳を折ると病気になるといわれ、折る人は誰もいません。昔、じゃことりに来た下田の人二人が寒いといって柳の枝を折ってしまいました。まもなく二人とも死んでしまったといいます。昔は一文銭を二枚ずつひもに通して投げ上げて、枝にひっかかると運がよいとよく投げ上げられたものでした。
はつぼんさん(畑) 宇井出池(イダイケ)の北にハツボンサンとよばれている所があります。くぬぎの大木があって、注連縄をかけてあり、巳さんを奉っているそうです。
蓮池の蓮(別所) 阿弥陀寺の蓮といわれていて、この蓮池の蓮が當麻寺へ運ばれて中将姫が當麻曼陀羅を織ったのだと伝えられています。
ケヤキのたたり(五位堂) 昔、定井義徳さんの屋敷にケヤキの大木が二本ありました。日本が外国と戦争をしたとき、この木を献木しなさいという通知が国からありました。多分、船を作るのに必要だったのでしょう。その時、祈祷してもらって大工さんに切ってもらったのですが、その大工さんは、たたりにあって死んでしまったそうです。
雷が落ちない(五位堂) 昔、雷が宝樹寺の境内の井戸に落ちたときのことです。本堂に奉ってある阿弥陀如来が、ご自分が背にしていた唐笠で井戸を封じてしまわれました。雷は天に帰ることができないので「天に帰りたいから許してくれ」と頼んだので許してあげられました。「もう二度とここへは落ちません。」と言って天に昇ったといいます。それからこの村へは雷は落ちないということです。
雷を鐘で押さえた(五位堂) 昔、雷が神社の井戸へ落ちたときのことです。神様は鐘でその井戸をふたしてしまわれまし。雷は「もう落ちませんから堪忍してください」といった。それで神様に許されて天に昇ったといいます。それ以来この村へは雷は落ちないということです。
七つ石(平野) たんだの椿の木のある所に七つの石の一つがあります。杵築神社に一つ、平野の街道筋に三つ、吉村幸治郎さんの屋敷の中に一つ、その他に一つあります。街道筋の七つの石の一つを割ろうとして穴をあけて爆薬を仕掛けた人がありました。でもその人は病気になってしまい、その翌年に死んでしまいました。そんなことがあったので、石には誰も触らなくなりました。
七つ石は平野の神社を中心にして置いてあり、平野長者の繁栄の頃は「平野千軒」と言われていました。雲門寺山という地名が今もありますが、ここに千軒あったということです。後には高村の高専寺に移りました。地名が変わって今は上牧町の中筋出作にあります。
最初にあった雲門寺のところで天誅組の人々が集合したといいます。伝えには七つ石のところで長者が部下を集めて評定したとき、部下の中で勘気を受けた者は石のかげで隠れていたと伝えられています。
ずべら山の馬蹄石(田尻) 屯鶴峯の西側は谷になっており川が流れています。昔、楠公が赤坂城から河内を通って大和路で応戦した時、騎馬で駈けてきた蹄の跡を残すという石があるそうです。
弘法井戸(穴虫馬場) 馬場の山口神社の南、社前の井戸を弘法井戸といいます。昔、弘法大師が巡錫の際に掘られたものだといわれています。今も清水がこんこんと湧いています。もともとこの村には弘法井戸が六つあったと伝えられていますが、新畑の池尻の井戸は今、埋められてなくなっています。
きつねの井戸(狐井) 昔、狐井の鎮守の森に狐が住んでいました。狐が穴を掘っていくと水源に当たり、その穴から水が流れ出たといいます。狐井はもともと良い水がなかったので、この清水が神社の隅にあったので村人は飲料水として利用していました。そして、村の名もこれにちなんで狐井と名付けられたといいます。。
「いやあん」の井戸(下田) 字中筋にあったと伝えられています。弘法大師がお通りになった時、良い水がないので井戸を掘ってくださいと頼んだところ、「今忙しいからイヤアンとおっしゃいました。そこで村人は、「よく水は湧くが中筋は水が悪くて困り果てています」と、もう一度頼んだそうです。この願いが叶い、掘ってくださったそうです。そこでこの井戸の名を「いやあん」の井戸と呼ばれたということです。
弘法井戸(下田) 字山崎にあり、村の共同井戸にもなっていました。昔、弘法大師がここを通られて水を一杯汲んでほしいといわれました。山崎のお婆さんは井戸が当時なかったので遠方の小川まで水を汲みに行って大師に与えたそうです。ところが水の中に川ダニシが入っていたそうです。そんなに水がないのならといって持っていた杖で少し地面を掘られると清水が湧き出たということです。今に残るこの井戸を弘法井戸と呼んでいます。
清水八幡井(今泉・上中) 志都美神社はもと清水八幡といった。拝殿東方約50m、小字清水に井があった。昔、盲目の法師が来られて洗眼するとたちまち霊験があらわれ、21日満願の日に丈余の不動明王が現れて開眼しました。以来、三年間、法師は神社、明王院に奉仕し、藩主郡山侯より明和年間別当職としての待遇を受けました。よって石灯籠を奉納されたと伝えられています。金メッキの三鈷は、高の牧浦医院が所蔵されています。
志都美神社の拝殿より50m東側にあった御井は、今は、民家の屋敷内あり、字宮前といいます。明治28年の日清戦争の時、井戸は埋められましたが、その際、井戸の中から文久銭、八文銭(天保銭のこと)、百文銭、ビタ銭がみつかっています。
五井戸(五位堂) 昔、この村の五ヵ所に井戸が掘られていました。それで五井戸村といっていたといいます。いつの間にか佳い字にかえて五位堂にしてしまったという言い伝えです。
籏尾池(上中) 手のひらを広げたような形のこの池は、聖徳太子の築造と伝えられています。その記録は法隆寺に保存されています。推古天皇の15年に掘られたものですが、もともとこの付近は水が不足していて米が取れなませんでした。聖徳太子が灌漑用として掘られたのでこの地の農地は潤い、大和米のモミ種子を作る場所と発展しました。
まわし池(狐井) 昔、相撲の祖とされる當麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)が相撲を取ったときに、ここでまわしを締めた、また、まわしを洗ったところといわれています。また、四角い枡形の池であるから、「枡池」とも呼ばれています。
葦ヶ池(磯壁) 昔、壬申の乱の時、6月に将軍大友吹負は近江の軍が大坂の道から攻めてくると聞いて、すぐに軍隊を率いて西に向かい當麻の入口に着き、壱岐史韓国という武将とおおいに葦池のそばで戦ったと伝えられている。
甚兵衛川(畑) 昔、上の池は小さく、川の水は村内を流れていた。それを郡山藩が上の池を築くことになり、村内を流れている川筋を変えることになりました。岡甚兵衛という人がお百姓さんたちのために一所懸命川を作りました。そして、この川のことが甚兵衛川と呼ぶこととしたそうです。
楠公塩煎の滝(田尻) 田尻の矢除観音寺へ行く境内の左にあります。山の池から水が流れて滝となり、村の人々は塩煎の滝と呼んでいました。楠公(楠木正成)の身代わりになった本尊の流血の滝をここの水で払われたといいます。楠公はそこから西一丁のところにある潔の滝、俗に一の滝というところで身を清められたと伝えられています。
いなば坂(穴虫西) 穴虫西の共同墓地の北側にイナバザカ、イナヲサカというところがあります。威奈大村または因幡守のいたところだということから、いなば坂と呼ばれています。
穴虫峠と吾田姫(穴虫西) 昔、崇神天皇の頃、夫婦そろって謀反をおこした人があったといいます。夫の名は武埴安彦といい、山城の国からその妻の吾田姫(あだひめ)は大坂から大和の三輪の都をおとさんとしたそうです。天皇は五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)を遣わして伐たれた。五十狭芹彦命は、吾田姫の軍をさえぎって大いに破り、姫はこの穴虫峠で命を落としたと伝えられています。
ドヤマ(尼寺) 昔、「尼寺(にんじ)千軒」といって多くの寺があった。特に、尼寺(あまでら)が多かったといいます。そのなかで、薬師寺の跡を「ドヤマ」といいます。そこには刀剣類がたくさん埋められてあり、大正時代に雨で土が流されたあとから古い刀剣が発見されました。村の人々は、このドヤマに木造の薬師如来を祀り、傍らに役行者が石の館の中に祀られている。この薬師堂のところに柱の礎石が残り、これも尼寺の名残です。
伝助山(関屋) 下池の北側に伝助山という山があり、昭和の中頃までは松茸山にもなっていました。大阪から田原本に通じる旧街道があ通っていました。ここは、昔、金の瓦が埋めてあると噂され、掘られたこともあるそうです。関屋の伝助という人の山であったと伝えられるところからこの名がついています。
五位堂(五位堂) 昔、武内宿禰という人が竹之内(今の當麻町)に住んでいました。その娘の名を「五位」といいました。その人がこの村に嫁いできたところから「五位ど(所)」といったとも伝えられています。この娘は、後に尼となって、別所の安養院に堂を建てて一人で住まわれたといいます。夫も位が正五位であったので五位の死後これを供養し、その堂を今の五位堂村に移したそうです。それではじめは五位堂殿と呼んでいたそうですが、その後、殿を言わなくなり、五位堂となったといいます。
下田は大和の江戸(下田) 昔、京都から吉野の奥へ帰る権の守という人がいました。釜屋という旅籠へ来たとき、明日、十津川へ帰るから「カゴ一寸出せと郡山の殿様に申せ」と怒鳴り込んだそうです。そして、郡山から鉄砲組が来て、ズドンと一発、権の守の頭上をかすめました。権の守は、「さすが下田は知恵者が多い、下田は大和のお江戸じゃ」と感心してお縄についたといいます。それから誰言うことなしに「下田は大和のお江戸」というようになったといいます。
鹿島神社と鎌田(鎌田) 昔、源平合戦があった頃、源氏が敗れてその家来に鎌田という人がいました。大和のこの村へ逃げて来て、百姓になりました。それでこの村を鎌田と呼ぶようになったそうです。その時に、鹿島大社の分霊を奉じて来て、この村で鎮座したのが今の鹿島神社だということです。
腰折田(良福寺) 良福寺の西南、県道の近くに腰折田というところがあります。昔、野見宿禰と當麻蹴速とが天皇の御前で大相撲をとったそうです。當麻蹴速は組み討ちして倒すことが得意であったが、野見宿禰は足蹴りで倒すのが上手であった。それで、宿禰は當麻蹴速の腰を蹴り飛ばしたので蹴速は脇腹の骨を折って死んでしまいました。野見宿禰は、そのほうびとして蹴速の地を賜りました。それが、良福寺の腰折田ということです。