どんづる峯(屯鶴峯)
今から2千万年前頃から始まった二上山の噴火により、噴出された火砕流や火山灰が水中で
堆積し、長年の地殻変動などで地上に現れたものです。鶴が群がっているように見えることから
「屯鶴峯」と呼ばれています。昭和26年11月、県の天然記念物に指定されました。
金銅威奈大村骨蔵器(遺跡2の説明)
この球形は何でしょう。いかにも古めかしい色あいをしています。所々はげたような金色がにぶい光を放っています。そして、真ん中に入った線刻より上の部分にはくっきりとした文字が刻まれているのが分かります。
これが貴重な古代の遺品であり、香芝から出土した「威奈大村の骨蔵器」といわれるものです。すなわち古代において、火葬して死者の遺骨を埋葬する際に用いられた骨入れの器なのです。蔵骨器ともいわれている容器のことです。
江戸時代の明和7年(1770)ごろ、穴虫の字馬場から出土したとされています。穴虫西集落の道路元標から左折して狭い道を50mほど行くと、ヤブツ池に着きますが、この池の北側の通称ゴボ山から出ました。
この「威奈大村の骨蔵器」は、発見されたときは三重の容器からなっていたといいます。それは、遺骨が漆器の骨壺に納められ、その骨壺が金銅器に入れられ、さらにその金銅器は大かめの中に入っていたというのです。とても細心に埋葬されていたことがうかがえます。この中で現存しているのは金銅器の部分で、今は大阪の四天王寺の所蔵となり、国宝に指定されて、京都国立博物館に保管されています。
この容器は高台の上に球状の容器を作り、真ん中から二つに折半される形をしています。高さが24.3cm、直径は24.4cmの大きさをしています。そして刻まれた391の文字は、貴重な墓誌として有名なものです。鍍金の金色が所々残る合子の蓋の部分に刻まれている文字は、この器に納められた奈良時代の官人である威奈大村の輝かしい事跡を今に伝えているのです。
それによると、威奈大村は宣化天皇4世の孫である威奈鏡公の第3子として生まれ、文武天皇の時代に少納言に選ばれ、大宝元年(701)の大宝律令において従五位下に叙せられて侍従をかねている。そして、慶雲2年(705)越後城司に任ぜられ、慶雲4年(707)4月24日、年齢46歳で任地で没し、その年の11月21日に葛木下郡山君里狛井山崗に埋葬されたとあります。
この克明な墓誌は、我が国の墓誌銘の中でも最も長文のすぐれた文章として知られています。そして威奈大村その人の高潔な人格や行いが讃えられていることがうかがえます。亡き人をしのんで、送った古代人の敬虔な祈りの声が今にも聞こえそうな文章が刻まれているのです。そしてこうして今日まで、その人となりは伝えられたのです。
この威奈大村の墓誌の他に、香芝では穴虫の火葬墓からも骨蔵器が出土しています。これは二上山の凝灰岩から作られた家形をしたものです。こうしたことから二上山の山麓は、古代の火葬地であったとも考えられています。
高台付きの球形の容器の蓋に、威奈大村の墓誌銘が391字にわたって刻まれています。
美術工芸及び刻字の書道史上貴重な資料であることから国宝に指定されています。現在、四天王寺の所蔵で京都国立博物館に保管されています。