香芝市の歴史



香芝の歴史全編

1.香芝のあけぼの  日本の歴史で原始時代と呼ばれている大昔の様相は、考古学を中心に地質学・人類学など広い分野の科学的研究によって、近年急速に解き明かされようとしている。最近の新聞報道では、宮城県の「中峰遺跡」・「上高森遺跡」などの古い地層から検出された石器が、いろいろな科学的年代測定法の測定結果によって、10万年以上もさかのぼる前期旧石器であると伝えている。もし、人骨の伴出があれば、日本の列島に住んでいた最古の人類である可能性が高い。  大昔の人類は、文字もなく言葉も未発達な原始生活を、何十万年もの長い間、私たちと同じこの地上で続けてきた。その様相は、彼等が地上に遺していった生活用具の、石器や土器など諸遺物と、生活の場であった遺跡からしか知ることができない。  わが国では、土器のなかった旧石器時代から、土器を発明した縄文時代まで何万年・何十万年もの長期にわたって、山野や海浜で自然に産する動植物を捕獲・採集して生活を維持していた。この時代の石器は、日本列島に棲息していた動物の消長を示すかのように、器形が時期によって特色のある変化を示している。また、土器の発明は人々の生活の維持と発展に、画期的な役割を果たしたが、相変らず自然物に依存する原始的な狩猟と採集の生活から脱しきれなかった。果てしなく長く続いた未開の生活も、大陸から稲作が伝えられたことによって急速に文化的な発展をとげる。  わずか2千年ほど前の弥生文化の伝来は、水田での稲作だけでなく、金属器や新しいタイプの弥生式土器の出現によって、日本人が何万年・何十万年も達成できなかった、安定した経済生活を生み出した。そして、米の生産と貯蔵が食生活を変え、農耕の共同作業が人々の集団を拡大して、村をつくり国家を形成するようになり、社会を大きく変化させた。 こうした日本の歴史の黎明期に、私たちの住む香芝市では、人々がどのように歴史の足跡を遺しているのだろうか考察してみよう。 (1) 旧石器文化の遺跡  二上山北麓の香芝市内には、大昔、石器を作っていた跡と思われる所が何か所かあり、考古学の先学によって踏査や研究が進められてきた。嚆矢は本県出身の樋口清之先生が、サヌカイト原石を人工的に粗割りした残片が蓄積している遺跡に着目し、畿内の各地に石器を供給した加工の場と推定された。  最近、新しい住宅地の開発とともに考古学上の発掘調査も実施され、市内を舞台に活躍した人たちは、どんな生活をしていたか考証する手がかりが得られた。  「二上・桜ヶ丘遺跡」や「鶴峯荘第一地点遺跡」の学術調査報告によると、今から約2万5千年〜2万年ぐらいさかのぼった後期旧石器時代の第二段階が、ここでの文化のはじまりとされている。そして、その時期を推定する決め手とされるのが、国府形ナイフと呼ばれるナイフ形の石器である。  国府形ナイフは、二上山の噴出によって形成された大阪層群と呼ばれる地層とその礫流に含まれて産出するサヌカイト原礫を盤状の剥片に大割りするのが製作工程の最初で、次に、この盤状の剥片を石核にして割れ口を調整しながら翼状の剥片に小割りする工程、最後にこの翼状の剥片を調整してナイフ形の石器に仕上げる。こんな製作の技法によって加工されたナイフ形石器は、瀬戸内の中央部から近畿地方に多く分布し、瀬戸内技法と名付けられている。 町内出土の旧石器  現在、日本の各地で発見された旧石器時代の遺物は、地質学上の層序や科学的な年代測定によって、3万年以上も経過した礫器や握り槌など粗加工の前期旧石器と、それより新しい後期旧石器の時代に大別されている。後期旧石器は大形石刃の第1段階を経て第2段階のナイフ形石器、つぎに細石刃から有舌尖頭器へと続いている。  二上山麓の桜ヶ丘から出土した国府形ナイフは、後期旧石器時代の第二段階を代表するような石器であるといわれている。この国府文化が栄えていた頃は、ウルム氷期と呼ばれる地球の低温期とされ、海水面の低下によって日本列島がユーラシア大陸と陸続きであったと考えられ、今日、日本の各地で発見されるナウマン象やオオツノジカなどの化石動物が地上に棲息していたのもこの時代であるという。  一言で2万5千年といえても、それは1000世代もの長い人々の世代交代の期間で、私たちの香芝市には、こんなに長い間の人々の歴史が絶えることなく続いている。その生活の様相は、主に二上山麓の石材産地を舞台に、石器文化の発達とともにこの地で活躍した先人の遺跡によって、徐々に考古学の面から立証されることになろう。  私たちは、日本の石器文化の究明のために、穴虫や関屋を中心に散在する石器製造の遺跡を大切に保存して全てを学術的な調査の対象にしたいものである。 (2) 石器のふるさと「二上山」  石器の原石サヌカイト(讃岐石)は、二上山の北麓に位置する春日山を中心に、大阪層群と呼ばれる地層や、この山から流れ出る谷川の流域から、握りこぶしや人頭ぐらいの大きさの原礫として多量に産出する。関屋方面の原川や羽曳野市側の飛鳥川など流域に流された原礫や、地中から採掘された原礫を材料に、段丘や台地・丘陵上の加工場で、工人によっていろいろな石器に加工されていたと考えられる。  現在、その石器製作所跡と推定されている遺跡が、香芝市の穴虫を中心に関屋・田尻や隣接の羽曳野市で、約35ヵ所も確認され、そのうち「桜ヶ丘遺跡」では、旧石器(後期)と縄文時代の石器が検出され、精査すれば弥生時代の遺物の伴出する石器製造跡も発見できよう。  二上山麓に散在する数多くの石器製作所の遺跡は、旧石器時代のものか縄文時代や弥生時代のものであるのか、まだ大多数の遺跡の実体が不明のままである。それぞれの遺跡の成立年代に関する詳細は、今後、学術的に研究のメスが入れられる日を待たなければならない。また、各地の遺跡から発見される石器はここで完成して運んだものであるのか、半製品のまま運んだのか、その運んだルートや交易の方法など、幾多の疑問点が残されている。  いずれにしても、二上山麓で製作された数々の石器は、狩猟や漁労を中心に生活していた大昔の人々にとって、欠くことのできない必需品であった。今日、近畿各地の遺跡から発見される大半の石器の「ふるさと」は、私たちが毎日眺める二上山の北・西の山麓である。その点私たちの町の先人は、サヌカイトという石器の原石を支配し、長い間石器生産の仕事に従事することによって、近畿地方の産業・文化面での中心的役割を果たしていたと考えられる。  現代流に経済圏・文化圏のことばを使って表わすなら、大昔の香芝市は、近畿地方最大の工業地帯であり、その石器の供給範囲を、二上山の文化圏や二上山の経済圏ということができる。 (3) 縄文期の遺跡と文化  旧石器時代から新石器時代への移行は、日本が大陸から分離して列島になった頃であろうといわれ、地質学上の洪積世から沖積世に移行した時期と符合する。このことから、投槍の先端に着装していたと考えられる有舌尖頭器が姿を消し、小さな石鏃を使った弓矢の狩猟法が現れてくる。それは、日本の列島化によって、棲息する獣類に大きな変化が起きたことを物語っている。同時にこの時代の人々は、初めて縄文式と呼ぶ素焼きの土器を使用するようになった。  我が国の縄文時代は、隆起線文の土器を草創期(今から約1万年位前)に位置づけ、早期・前期・中期・後期・晩期(約2〜3千年前)の各時期に編年されている。縄文土器は獲物を塩漬けにして貯えたり、煮て食べる調理具として利用され、食生活の面で新しい変化を生み出した。しかし、この土器を使っていた約7〜8千年間の生活の基調は依然として、旧石器時代と大差のない狩猟と漁労を中心とした原始生活であった。  香芝市で今日までに縄文土器が出土したのは、「磯壁遺跡」・「狐井遺跡」・「下田東遺跡」・「桜ヶ丘遺跡」などの諸遺跡である。  「磯壁遺跡」は、二上山東麓の扇状地である大字「磯壁」の字渡り落・堂田・堂の前から當麻町の大字「丸柏」・「加守」にまたがり、広大な範囲から遺物が採集されている。昭和10年頃から注目され、『大和志』という当時の史学雑誌に縄文時代前期の爪形文土器の出土が報告され、戦後も金剛砂の採掘坑から磨消縄文を施文した後期の土器が出土した。他に石鏃・石錐・石匙(皮はぎ)・石棒・敲石など多くの石器類が採集されていて、今日でも、なお石屑や土器片などの遺物が多数散布する。したがって、この遺跡は数千年も前から先史人の生活舞台となり、相当長期にわたって幾度か住居の場に選ばれている。  「下田東遺跡」と「下田東」の旧西口町でも、古い形式の縄文土器が出土した。国道165号線と並行して西流する葛下川にそそぐ支流の護岸工事の現場で、昭和52年、当時高校生だった山下隆次君が遺物を発見し、「下田東遺跡」と名付けた。また、葛下川が当時の町道と交差して蛇行する下田橋の近くで、民家の井戸堀り作業中に、現在上嶋亨介氏が所蔵しておられる縄文前期の土器が出土した。遺物が発見されたのは、共に地下2〜3メートルの川岸で、かつて氾濫原とみられる地中の深いところからであった。 下田出土の縄文土器 山下君の発見した縄文土器は、早期の高山寺式といわれる大粒の楕円文を回転施文したもので、香芝市では最古のものであった。同時に、前期の爪形文や後期の磨消縄文など縄文時代の各時期にわたる土器が出土し、考古学界でも注目されている。  「狐井遺跡」は下田東遺跡の南方約500mにある改正池の池底にあり、その池底にあたる部分に包含していた遺物が、築堤の際に露出して水際に散乱したと思われる。昭和10年に樋口清之先生が『大和志』に報告された記録では、後期の磨消縄文と晩期の注口土器が特徴的で、今から3千年ぐらい前からの先史人の遺跡であることがわかる。最近、狐井城山古墳外堤の発掘調査や、改正池近くの「狐井遺跡」などの発掘調査が行われ、そこからも縄文土器の出土が確認され、この辺りまでを遺跡の範囲と考えることができる。  また、「桜ヶ丘遺跡」では、旧石器文化解明のために発掘調査中、細片化した縄文土器が出土した。その報告書では、高山寺式の回転押形文よりも古い神宮寺式に近い原体を押文施文したとみられる土器が検出され、チョッパーや削器など縄文期の石器が伴出したと報じている。  香芝市内で確認されている縄文時代の遺跡のうち、下田東と関屋桜ヶ丘で、奈良盆地の周辺では珍しい早期の土器が出土している。今から7〜8千年前には、和歌山県田辺市の「高山寺遺跡」や大阪府交野市の「神宮寺遺跡」など近畿の諸地域と文化的に交流のあったことがわかる。同時に二上山麓から産出するサヌカイト製石器が分布する大阪湾沿岸や大和川・淀川・紀の川などの各水系や伊勢湾岸の諸遺跡とは、早くから文化的・経済的な交渉があったことを物語っている。  一片の土器や一つの石器が、今、われわれに大昔の歴史や文化を明らかにしてくれる。この市内の地中に埋もれている遺跡や遺物が、学問的に調査のメスが入れられ、太古の人々の文化を究明してくれる機会まで、住民の皆さんと共に、地中の文化財を大切に保存したいものです。 (4) 水田農耕のはじまりと村の起こり  奈良盆地の主な河川が集まる海抜40m位の低地部には、今まで縄文時代の遺跡がないと考えられていた。ところが、最近県営第二浄化センター用地の「箸尾遺跡」の調査で、縄文後期頃に、この低地にも人々が生活していたことが確認され、注目を集めている。  しかし、関屋桜ヶ丘や下田東、磯壁の各遺跡に人々が住んでいた縄文時代の早・前期には、盆地の大半が湖沼のような湿地帯であったと推定される。盆地周辺に降った雨水は、河合町や王寺町に集まり、亀の瀬渓谷を流れる大和川によって大阪湾に注ぐ。この奈良盆地は何千年もの長い間に、低地部に土砂が堆積して水稲栽培の適地となった。  全国的に有名な「唐古遺跡」(田原本町)では、稲作に使っていた石庖丁や鍬・鋤など木器とともに、多くの弥生式土器が出土し、初期農耕のようすを伺い知ることができる。大和に弥生文化が伝来したとき、まず奈良盆地の低湿部に目がつけられ、水田を造成して稲作を始めたと考えられる。いわば、稲作には最も適した土地が、奈良盆地のような低湿地帯だったのである。  香芝市で弥生式土器や弥生時代の石器が出土した遺跡は、縄文時代の遺跡と複合する磯壁・狐井・下田東の諸遺跡と、二上山麓の田尻・穴虫・下田の新池の周辺や葛下川沿いの低地などである。概して水利に便な丘陵の谷間や低地を流れる、川沿いの土地に分布するように思われる。  新しく水稲栽培をとり入れた弥生時代の人々は、食糧を生産自給し、経済的に生活が安定し始める。一方、社会的には、自分たちの耕作する水田の近隣の人たちと共同して生活しなければならなくなる。こうして始まった生活集団が、村のはじまりであり、この村落集団が漸次統合されて小さな国家を形成し徐々に大集団へと発展していくのである。 (5) 上牧の観音山出土の銅鐸  上牧町の「観音山」俗称さね山は、葛下川沿いの香芝市高、上中、北今市などの集落を眼下に見下ろす位置にある。この観音山から、江戸時代の文化年間のはじめ、小形袈裟襷文の系統に属する銅鐸が出土した。  銅鐸は現在、静岡市立の登呂博物館に保存されているが、上牧村で発見され京都から静岡へと移っていった由来が『宝鐸獲之記』として箱書きされ、『上牧町史』編纂のとき出土地確認の手がかりとなった。  日本の銅鐸は、近畿地方を中心に発見される国産の青銅器で、弥生時代の村落共同体がその集団の祭祀に用いた遺産でないかといわれている。当時、舶来の貴重品であった青銅を使って鋳造した宝器ともいえる銅鐸が、この葛下の地から出土したのは、この地域に有力な農耕集落が形成されていたからだと考えられる。  古来、上牧や下牧の地名は、牛馬を放牧していた牧場に由来するとみられ、農耕には不適な丘陵地帯が中心だったと思われる。観音山は現在、上牧領になっているが、弥生時代には、むしろ、香芝市側にあった集落の生活圏だったとみられる。そして、出土した銅鐸を所有していた弥生人は、周辺の弥生遺跡に居住していたと考えて間違いない。  とはいえ、この観音山周辺の弥生遺跡は、下田東字「わたんど」の弥生時代に属する柳葉形の石鏃出土地と南上牧の土器散布地ぐらいで、まだ明確に弥生遺跡と断定されたものではない。しかし、この付近の葛下川は、今日の流路より、もっと両方に蛇行して流れていた可能性があり、法楽寺の付近から「わたんど」や南上牧の一帯に、弥生時代の遺跡が埋没していることも予想できる。そして、各地の銅鐸埋納地に共通的な観音山の上でこの銅鐸は、約2千年もの長期間にわたって、米作りをしていた人々の集落を見下ろし、見守ってきたのである。 香芝の歴史全編

2.大和の大王と葛城の豪族  村ができ、同じ川筋や低湿地など、一つのまとまった地域にあって、村々が共同して水路をつくり水田を開発する集団のなかで支配者が現れ、小国家を形成するようになるのは、稲作の進んだ弥生時代の後半と考えられている。  中国の歴史書『後漢書』の東夷伝や『魏志』倭人伝には、そのようすを想像できる記述がある。なかでも倭人伝には、3世紀頃に耶馬台国の女王卑弥呼が、周囲の小国家を統合して大きな国をつくっていったことが書かれている。そして、その女王卑弥呼が死んだので、径百歩もある大きな塚を造って埋葬したと述べている。  今日、私たちが古墳と呼んでいる大きな盛土の墳墓について、初めての記録がこの卑弥呼の塚のことであって、当時の日本では、強大な支配者が死亡すると、他の集団に負けないよう競って大きな墳墓を造るようになったのではないだろうか。その頃以来、外形や副葬品、内部構造にいろいろと変化をみせながら、7世紀の終りごろまで、約4〜500年間、古墳築造の伝統が受け継がれていく。そして、その古墳の内容が調査研究された今日では、前期から中期・後期・終末期などと築造の時期が区分されるようになってきた。  奈良盆地の東南隅にあたる三輪山の周辺部には、桜井市や天理市の柳本方面に、前期の大形前方後円墳が集中しており、大和政権成立期の大王墓であると考えられている。この頃まだ香芝市や葛城の地方には、大形の前方後円墳を構築するような強大な首長権をもつ支配者が君臨していなかったようである。箸墓や崇神・景行陵、茶臼山古墳・メスリ山古墳などの三輪山を中心とした周辺の前期古墳に比して、市内別所の城山2号墳や瓦口の長谷山古墳など前期と思われる古墳の規模をみた場合、比較にならない小規模なものである。  ところが、4世紀末から5世紀前半の古墳時代中期になると、河内の陵墓を中心に葛城の地方にも、巨大な前方後円墳が出現してくる。それは、郡制下の南・北葛城郡にあたる御所から馬見地方にかけての葛城の地方に、強大な支配権が成立したことを意味している。 (1) 狐井城山古墳と葛城の豪族  香芝市では、5世紀の中頃までに造られたとされる前期・中期古墳が極めて少なく、中期と思われる別所の石塚古墳や土山古墳も、その規模は小さい。しかし、葛城地方でも、広大な耕地に恵まれている馬見や御所地方には、巨大な中期の古墳が数多く散在する。それは、5世紀中頃までのこの地方の豪族の本拠が、そこにあったからだと考えてよい。ところが、6世紀の初頭頃になって、本市内にも中期の巨大古墳の流れを受け継いだ狐井城山古墳のような大きな古墳がつくられる。 別所「石塚古墳」  狐井城山古墳は、全長が140m、後円部の径90m、前方部の幅110mもある大形の前方後円墳で、18mに及ぶ濠が幅広い外堤にとり囲まれ、今日なお満々と水をたたえている。  4世紀前半までに奈良盆地東部の地方に成立した大和朝廷は、中部地方以西の統一を進め、4世紀末に遠く朝鮮の半島にまで進出したとされている。そのため大王の政権は、河内にその本拠を移さなければならなかった。しかし、奈良盆地の西南の葛城地方は、葛城氏とその一族によって占拠されていて、ここを通過するのに大きな問題があったと考えねばならない。 狐井城山古墳  『古事記』や『日本書紀』によると、仁徳天皇のころ内外の政治・外交面で活躍した人に、葛城襲津彦というこの地方の古代豪族の名前がでてくる。この葛城襲津彦の娘に磐之媛という人がいて、仁徳天皇はこの磐之媛を皇后にして葛城氏と外戚関係を結び、襲津彦とその一族を重く用いたのである。  磐之媛は履中・反正・允恭三帝の母となり、中国の『宋書』倭国伝にみえる倭の五王の時代に、政治面でも大きな影響をもっていたと考えられる。当然、葛城襲津彦は三帝の外祖父として権力を欲しいままにして、葛城氏は全盛期をむかえたと思う。  朝鮮半島に進出していた大和政権は、6世紀中頃になって、任那の経営を放棄して半島から引揚げざるを得なくなる。もうその頃には、葛城氏一族に昔日の権勢はなくなっていた。しかし、襲津彦の子、葦田宿禰や玉田宿禰の子孫が、朝統に関係して葛城氏の権勢は維持されている。なかでも、葦田宿禰の孫娘夷姫と玉田宿禰の孫娘韓媛に注目したい。特に夷媛は履中帝の皇子、市辺押磐皇子の妃となり、仁賢・顕宗両帝の母、武烈帝の祖母となって、葛城氏一族の権勢に大きく影響している。(※はえひめ 夷+くさかんむり)被葬者の特定はできないが、この頃の築造と思われる狐井城山古墳の主はこの時期に活躍していた葛城氏の一族ではないかと私は考える。同時に、御所や馬見方面を本拠にしていた葛城氏が、その勢力を西方の新庄から香芝に伸長してきたのもこの少し前頃だと思っている。 (2) 顕宗・武烈両陵のこと  現在、香芝市では、北今市の顕宗天皇陵と、今泉の武烈天皇陵の両陵が、天皇陵として治定されている。『記』・『紀』の記録では、傍丘磐杯の南陵(顕宗陵)と北陵(武烈陵)となっており、葛城氏一族の葦田の夷媛とつながる両帝の陵墓がこの傍丘(片岡)の地に営まれたことは当然と思われる。  ところが墓誌・墓碑がなく伝承にもとづく日本の帝王陵が、後世になって治定される場合、すべてすんなりと異説なく決定したものではない。文字は伝来していたとはいえ、慣用化していなかった時代の顕宗・武烈陵もその例外ではなく、いろいろと異なった伝承や伝説があり、治定に至るまでに相当の経緯があったと想像される。  昭和47年に学術的な発掘調査が実施され、史跡に指定された「平野塚穴山古墳」は、幕末まで顕宗天皇陵とされていた。また、大和高田市築山の陵墓参考地とその南の狐井城山古墳にも、傍丘磐杯の北陵と南陵に比定する説があった。こうした事情のもとで両陵が現在地に治定されたのである。  今日、両陵とも陵域内に立入ることは許されない。大正14年版の『奈良県史跡名勝天然記念物調査会報告』によると、北今市の顕宗陵は前方後円となっているが、武烈陵の形状は単に山形としか記されていない。また、顕宗天皇の異母姉にあたり、同時代とみられる飯豊皇女の御陵が、新庄町北花内の埴口丘陵に治定されていて、今なお濠をめぐらした前方後円の墳形をとどめている。こんなことを総合して考えた場合、陵墓を単に考古学の対象としてとらえると、築山の陵墓参考地を武烈陵(北陵)に比定し、その南の前方後円である狐井山古墳を顕宗陵に比定する意見に案外賛同者が多い。また、近年本市の狐井城山古墳を武烈陵ではないかとする意見もみられる。  いずれにしても、葛城氏と関係深い両帝の陵墓は、葛城氏の本拠とみられる馬見丘陵周辺の傍丘に造営され、権勢を誇る一族の手によって手厚く埋葬されたはずである。 (3) 須恵器と古代瓦の窯跡  平野の堂山周辺の北向斜面で、6世紀後半の須恵器の窯跡が発見され、昭和49年にその確認のための試掘調査が実施された。本来須恵器は、大陸伝来の窯で焼成する硬質の土器で、素焼きの技術しか知らなかった日本人には画期的なものであった。当然その新技術は、朝鮮半島から日本に渡来してきた陶工たちが導入し、彼等が中心となって次第に各地に広められた。そして、その窯は寺院などの屋根瓦を焼くためにも使用されるようになった。  昭和58、香芝白鳳台の土地区画整理事業の施行に先だって、公園緑地として保存される二つの窯跡を除いて、造成のため破壊される一号窯の本格的な発掘調査が行なわれた。この調査中に、道路の敷設によって削られた北側の斜面で2基の窯跡が発見され、合計5基の窯が確認された。  これらの窯跡は、自然の風力を利用するために北向の斜面を利用して作られていた。トンネル状に地下に掘り込んだ登窯と呼ばれるもので、須恵器や瓦を焼く焼成室が登り勾配に作られ、焼成室の一番奥の部分から細長い煙道が地上に通じている。一方、窯の最下段には薪を入れる焚口があり、その奥にある燃焼室で燃された火気が、焼成室から煙道の方へ上昇していく構造になっていた。  平野一号窯の場合、窯の上面が削られて天井にあたる部分がなく、煙道と焚口、灰原も大きく欠損していたが、遺存する部分の全長が約8mもあった。そして、焼成部の床面には、最終回のものと考えられる須恵器片が遺存していた。また、北側の4号と5号窯のうち、5号窯は地下式有段の登窯で布目の平瓦と丸瓦が出土した。  一号窯の遺物の須恵器は、近郷の古墳から出土するものの中に姉妹品があると思われ、5号窯の古瓦は、瓦当部分が一点もなく、どの寺に供給した窯なのか明確にできない。しかし、近くに尼寺の古瓦出土地があり、その特需のために築かれた窯跡の可能性が高い。  葛下郡の片岡や上牧には窯跡が多く遺存する。上牧町下牧の谷間で発掘調査された半地下式の有段登窯は、奈良時代の瓦窯跡であることが確認され、上牧の井戸尻や大谷でも布目瓦の地表に散布するところがある。さらに香芝市内でも平野の杵築神社の境内に、藁スサの混入した焼土や古瓦片の出土する遺跡があり、瓦窯跡の可能性が高いと思われる。  この地方にこんなに多くの瓦窯跡が存在する背景には、この地域に片岡尼寺(般若尼寺)・片岡僧寺(放光寺)・西安寺・加守廃寺など、仏教文化が開花した頃の寺跡が多く、これらの寺院の造立や補修に大量の瓦を必要としたことが考えられる。 (4) 二上山麓の石切り場の遺構  良福寺の阿弥陀橋に利用されていた組合式の長持形石棺は、兵庫県から運ばれてきた竜山石だといわれ、近くの狐井城山古墳のものでないかと考えられている。ところが、この狐井城山古墳の外堤に接する用水路から、現在ふたかみ文化センター前庭に保管されている刳抜式の石棺が発見されている。また、二上小学校にも家形の石棺が移転保存されていた。この組合せ式石棺(現二上山博物館蔵)は、二上山麓から産出する凝灰岩で造られている。  吉野口の駅に近い御所市の「水泥古墳」の蓮花文を彫りこんだ家形石棺、高取町市尾の「墓山古墳」の石棺、明日香の「塚本古墳」、桜井市の「艸墓古墳」・「天王山古墳」など、後期の横穴式古墳には、数多くの二上山産の凝灰岩製の石棺が残されている。さらに、終末期古墳の石槨や石室にも、ここの凝灰岩が利用されている。  凝灰岩は、火山の噴出物が層状に堆積して形成された柔らかい岩石で、石造物の造形が容易にできる石材である。古墳の石棺や石室に加工されただけでなく、寺院の建築などにも幅広く利用され、例えば、法隆寺食堂の基檀の地覆石や束石・羽目石などに用いられている。この凝灰岩を切り出した石切場の遺構が、香芝西中学校への進入路敷設予定地で発見され、発掘調査が実施された。 その結果、遺構の上面の表土を取り除くと、合計12ヶ所の石材の切り出し跡が検出され、切り込みのノミ痕が明瞭に残る古代石切り場遺構に間違いないことがわかった。切り出し遺構の現場は、堆積層が約20度の傾斜で西北西の方向に傾き、露天掘りの要領で、節理の性質を利用し同じ層位の部分を剥ぎ取っている。また、ここから取り出された凝灰岩には、流紋岩粒を多く含む特徴があり、堆積地点によって色彩や含まれている岩粒に相違が見られるので、今後その流通の実態と二上山周辺の石切り場の確認を平行して進めなければならない。最近、高山台の造成工事の現場からも、凝灰岩の石切場跡の存在が確認された。  いずれにしろ、サヌカイトから凝灰岩へ、二上山麓の石材が、周辺の文化に大きな役割りを果たし、今日なお人類の遺産として各地で歴史の証人となっている。 (5) 後期の古墳  巨大な狐井城山古墳に続いて、群集墳と呼ばれる高塚式の墳丘や横穴式の石室を架構した古墳が、一定の地域内に集中して造られた後期古墳の時代になる。香芝市内では、瓦口の御坊中1・2・3号墳、御坊山1・2号墳、鎌田の飛地の勘平山1・2号墳などの一群と、北今市1号墳から4号墳までの藤山丘陵の1群などが後期の群集墳とみられる。この他に形態上後期に位置づけられる平野の車塚古墳・上中の山口古墳・今泉1号墳などがある。  奈良盆地周縁の山麓部には、この地方よりもっと多数の古墳が群集する地域があり、中に千塚と呼ばれる大古墳群がある。これら古墳群に比較して、市内の後期古墳は群集しているとはいえないが、馬見丘陵南端部や藤山丘陵に存在するものにはその傾向がある。五位堂から下田にかけての葛下川の低地部には弥生時代の遺跡が点在することから、引き続き古墳時代に集落が発達し、群集墳築造の母体になったと考えられる。ところが、片岡の谷筋のように基数が少なく散在する状態の地域は、何かその背景になっている理由がありそうに感ずる。  第一に、葛下川は谷間の低地を深い溝状の川流となって流れ、丘陵裾の傾斜地を水利する支流が少なく、水田の開発が遅れていたのではないか。したがって、古くから土着していた集団の有力な支配者がいなかった。第二に、新しい須恵器の製造技術を身につけた技術者集団が移住してきて、この地を支配するようになってから期間が短く、多くの墳墓を構築するまでには至らなかった。など、何か特殊な理由があった地域と私なりに考えている。しかし、経済的に発展してきた6世紀後半になると、集団の力が徐々に上昇し7世紀には巨石を用いた石室の車塚古墳や、平野塚穴山古墳のような立派な石槨式の古墳があらわれてくる。  さて、大和朝廷を支えていた中央の豪族の間で政争が起き、蘇我氏など新しい勢力が抬頭し、渡来系の人々と手を結んで国政の中枢部に登場してくると、日本の政治も大きな変革期をむかえる。推古女帝の摂政となった聖徳太子は、大陸の強国を意識して、それまでの世襲的な豪族の力関係を温存した氏姓制度に改革を加え、能力ある者を役人に任用して天皇の権力を強化する方法をめざした政治を進める。その結果、大豪族の連合的な支配に代わって、新しく中央政府の役人の支配力がだんだんと強くなっていく。645年の大化改新はその具体的なあらわれであり、672年の壬申の内乱後になって強力な天皇統治の国家が実現する。  こうした歴史が流れ変遷してゆくなかで、葛城氏一族の本拠として繁栄したこの地方は、徐々に国政の中心的舞台から遠ざかっていった。 香芝の歴史全編

3 古代律令時代の香芝  日本が中国の隋や唐に国使を送るようになって、大陸から班田制が取り入れられ、新しい律令社会が展開する。豪族の私有の農地は公田として国有化され、国・郡・里の行政区轄が定められて人々の戸籍ができ、斑田収受する仕組みをつくって官制、税制、兵制を整え、天皇親制の古代国家が誕生していく。しかし、大陸の諸制度が日本化して律令政治が完成する迄には、条里制に基づく班田農地の整理、行政組織の確立と中央、地方の役人の配置、徴税、兵役等々、政治の改革に伴う幾多の困難があった。645年の大化改新の宣言から、飛鳥板蓋宮・難波長柄豊崎宮・飛鳥岡本宮・近江大津京・飛鳥浄御原宮など皇宮が転々と遷されたことは、この間の不安定な政情を物語っているかのようである。  続く藤原京・平城京の造営は、唐の都制を模した大規模な都制で、律令政治の完成期に入った国力の充実をあらわしている。同時に天皇中心の律令制政府の上級官僚となった貴族が唐文化を摂取して新しい文化の担い手となって、平城京を中心に華やかな天平文化の花を開かせるのであった。  この時代の前半に太子道に沿う新しい須恵器の生産地となった志都美地方では、寺院が建立されて仏教文化が栄え、皇族級貴人の墳墓とみられる平野塚穴山古墳が出現する。また、市内全域にわたって条里の整理が進行し新しい律令体制の中に組み入れられる。  二上山の雄岳の山頂には、天武天皇第三皇子で天皇の死後謀反のかどで死罪を受け、非業の最期を遂げた大津皇子が葬られている。この大津皇子の悲劇の時代に、官人として活躍していた威奈真人大村の骨蔵器が墓誌を刻字して穴虫山から出土し、威奈氏の出自に関係する土地として注目される。  平城京遷都後の河内と大和を結ぶ古道は、竹内峠から高田、橿原へと通じていた横大路から、やや北寄りの大坂山を越える香芝、王寺、斑鳩を通る大坂道の通行が多くなる。金剛砂が採掘され凝灰岩が切り出されて、この地方の特産として、南都の建築現場に運ばれたのもこの道であったと思われる。  逢坂や穴虫に鎮座する式内の大社、大坂山口神社は、大坂山を越える峠の大和側の山麓に位置し、大和の守護と峠道の安全を祈願する神社であった。また、志都美神社(今泉)や片岡坐神社、舟戸神社(王寺町)、竜田新宮(斑鳩町)など由緒ある古い神社と、片岡尼寺(尼寺)、片岡王寺、西安寺(王寺町)など、法隆寺に連なる古代寺院が、この古道の沿線に点在し、古い一つの文化ルートを形成していたことが知られる。 (1) 平野塚穴山古墳とその被葬者像  元禄時代の山陵図に、すでに石室が開口した状態に描かれており、幕末までは顕宗陵だといわれてきた。凝灰岩の板石を組み合わせた石槨は、玄室部で長さが約3m、幅1.5mもあり、高松塚よりずっと大きいものである。正しくは横口式石槨とよばれて、玄室の前面には約1.5mの羨道が、玄門部をかねて造出されている。墳丘は北と東側の一部が削りとられているが、粘土をたたき固めた版築の工法によって、方形に整えられていたものと考えられる。 平野塚穴山古墳  昭和47年、橿原考古学研究所が、石槨内部の発掘調査と墳丘の実測調査を実施した結果、盗掘によって撹乱された土中から夾紵棺の破片多数と金環・中空玉片などが出土し、一辺21m、高さ4mの方形墳と推定された。槨内に安置されていた布を漆で貼り合せた漆塗棺は、七世紀後半とみられる終末期古墳特有のもので、他の終末期古墳との関係を考える重要な資料となっている。こうした学問上の重要性から昭和49年、文化庁から国の史跡に指定された。  被葬者についてどんな人なのか考えてみるとき、飛鳥の高松塚やマルコ山古墳などとほぼ同時期の塚穴山古墳が築かれたこの頃には、「大化薄葬令」が施行されていて、位階によって墳墓の規模が規制され、被葬者の地位の高さが推測できる。加えて塚穴山古墳のような立派な切石の石槨と漆塗の棺の主は、まさに皇族級の貴人であったことに間違いないだろう。 舒明天皇の弟、皇極、孝徳両帝の父、茅渟皇子の陵墓が、片岡葦田にあると『諸陵式』に記されており、一説では、その葦田の地が王寺の片岡にあったといわれている。もし片岡の地が茅渟皇子の故地であったとすれば、この地方に皇族級貴人が関係をもっていてもおかしくない。そしてこの片岡の谷に、その一族が葬られていても不思議なことではない。  近年、古代史学者の塚口義信氏は、この古墳の被葬者について、各地の横口式石槨墳のなかでも天武・持統陵、東明神古墳につぐ石槨の大きさで、夾紵・籃胎の漆塗棺が埋納されていた。そのうえに茅渟王の父押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)の成相墓が、近くの広陵町三吉の牧野古墳だと推定されていることから、皇極(重祚して斉明)・孝徳両天皇の父、天智・天武両天皇の祖父にあたる茅渟王とするのが最もふさわしいと論説を公にしている。 (2) 尼寺の古瓦と寺院跡  尼寺の般若院の周辺と少し北方にある香塔寺の東側の畑地から、古代の布目瓦が出土する。また、般若院の境内とその東側の薬師堂の辺りに礎石がいくつか残され、香塔寺の東側にも土壇状の遺構があり、古代の寺院跡と考えられる。  ここから出土する古瓦は、鐙瓦(丸瓦)、宇瓦(平瓦)共にその種類が多く、作られた期間も白鳳期から平安時代まで、相当長期にわたっている。ただ、残念なことには、採集された瓦の大半が市外の個人の所有になっていて誰もが容易に見ることができないことである。  だが、古瓦の出土や広い遺構の配置からみて、相当大きな寺院跡と推測はできても、はたして何々寺跡であると断定できる文献資料がない。遺物の古瓦から、白鳳期の七世紀後半には、この地に大寺が創建されたことだけは確実である。  延暦7(788)年の『上宮皇太子菩薩伝』には、尼寺に聖徳太子の建立した般若寺があったと記され、応永6(1400)年の『春日文書』にも、葛下郡に般若寺や放光寺が存在した記録がある。この放光寺は片岡王(僧)寺の伝があり、般若寺を片岡尼寺だとする見方がある。それを裏付けるかのように、現存する般若院の仏像背面には「華厳山般若院、片岡尼寺・・・」の銘が残っている。したがって、この寺の創建は、記録に残されている上宮皇太子(聖徳太子)建立の般若寺か、太子の御子片岡女王の創建か、それとも他の有力皇族級の寺か、明確に証すことができない。  飛鳥古京を中心に栄えていた飛鳥時代の仏教文化圏に対し、遠く朝鮮半島の百済や、新羅、高句麗からもたらされた仏教文化は、大和川をさかのぼった斑鳩の地でも開花した。法隆寺を中心とする斑鳩に接する王寺町の周辺には平群町勢野の平隆寺、王寺の西安寺・放光寺など古代寺院跡があり、片岡尼寺跡も同じ文化圏とみることができよう。  近年、香芝市では国の助成を得て、尼寺廃寺の寺域を確認するための発掘調査を、年次計画に基づいて実施してきた。その結果、香塔寺東側(北遺跡)の土壇から、法隆寺と同じ半地下式の巨大な塔心礎を発見し、鎮壇具の刀子と12個の金環が検出され、北側の金堂跡とみられる土壇と共に、徐々に寺跡の様子が明らかになってきた。そのため、研究者の間では、寺の創建年代や伽藍の配置、建立にかかわった人やその集団などについて、いろいろと意見が交わされている。  古墳時代の後期、大陸の須恵器製造の新技術が導入され、新時代の幕あけを迎えた片岡の里に、僧寺と尼寺などが建立され、仏教文化を通じて葛城山麓の古代文化圏へと接続して、同じ葛城の地域としてのまとまりができていく。 (3) 大津皇子と二上山  壬申の乱(672年)に勝利した大海人皇子は、その翌年、飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。この天武天皇は、自ら現人神と称して絶対的な権力をもって国政にあたり、天皇中心の律令政治体制を確立したといわれている。  天武天皇には、最近発掘された東明神古墳(高取町)の被葬者ではないかと話題になった草壁皇子をはじめ、17人の皇子や皇女がいて、二上山頂に葬られている大津皇子もその一人であり、額田女王の娘十市皇女もそうである。したがって、この絶大な権力をもつ天皇位を継ぐための立太子は、多くの皇子やその後援者にとって重大な関心事であった。なかでも、先帝天智天皇の娘朋野讃良皇女(持統天皇)の草壁皇子と大田皇女の大津皇子が最有力で、とくに幼少時に母をなくした大津皇子は、文武にすぐれた男らしい人物の皇子であったらしい。そのため、草壁皇子の立太子決定後も、朋野讃良皇女の憂いをまねき、謀叛の廉で死刑に処せられ二上山に葬られた。 伊勢の斎宮から都に召された同母姉の大伯皇女は、二上山頂に眠る大津皇子をしのび、      現身の ひとなる吾や 明日よりは            二上山を いろせとわが見む(巻2、165)      神風の 伊勢の国にも あらましを            なにしか来けむ 君もあらなくに(巻2、163)  と、今日なお、われわれの心にひびく、悲痛な叫びを感じさせる歌を残している。  この大津皇子を葬る二上山は、隣の當麻町にありながら、私たち香芝市の住民にとっても、朝日に映え、夕日の沈む雄大な山容に親しみを感じない人はいない。いかにも香芝の山のように思っている人が多いのではないだろうか。そして、大津皇子の悲劇の後、確立した律令体制と天皇の絶対的な地位が藤原京から平城京へと日本の都城を建設していく国力の充実となって示される。 (4) 穴虫の火葬墓  今から約200年前の明和年間、馬場村の農夫が、威奈真人大村の骨蔵器を穴虫山から掘り出した。その時、遺骨を漆器の骨壷に納め、これを金銅製の容器にいれ、さらにこの金銅製の容器を陶器の外容器の中に納入してあったと伝える。その三重の容器のうち、金銅製の容器だけが残されていて、現在は四天王寺の所蔵になっている。 威奈大村の骨臓器  この骨蔵器は、総高24.3cmの台付球状の容器で、合子の壷の部分に391文字の墓誌が刻銘してある。その墓誌名によると、被葬者の威奈真人大村は、宣化天皇四世の孫威奈鏡公の第三子として生れ、文武朝に少納言になった。大宝元(701)年、大宝律令の制定で従五位下侍従になり、慶雲2(705)年に越後城司に任ぜられ正五位下まで昇進している。いわば皇族と血縁関係のある官人として都に出仕し、藤原京のころ当時新しく国域に編入された蝦夷地に近い越後城司の要職に赴任、任地で病歿したので、おそらく火葬して遺骨を穴虫の山中に帰葬したのであろう。墓誌には、「慶雲四年四月二十四日をもって疾にふし越の城に終る。時年四十六才。同年冬十一月二十一日、大倭国葛木下郡山君里狛井山崗に帰葬。」と記されている。  彼の帰葬された山君里の狛井山崗は、穴虫山であり、彼にとってこの地がどんな関係の土地であるのか墓誌には記されていない。ただ、桧前五百野宮の宣化帝の皇統威奈氏は、葛城氏の一族との関係があって、この山君里が故地になって帰葬された可能性がある。いずれにしろ、塚穴山の石槨墳や威奈大村の骨蔵器の出土は、葛城一族の後統が、律令制の成立期に皇室との関わりを持ち続けていたと思われる。  昭和30年、穴虫の字「シロヤマ」からも、奈良時代の火葬用骨蔵器が出土した。この骨蔵器は凝灰岩の家形をした蓋石と、立方体の櫃身の部分からなり現在、奈良県立橿原考古博物館に保管されている。また同じような凝灰岩の骨蔵器を転用したとみられるのが、尼寺般若院の東側の土壇上に、行者像を祀る石櫃として残されている。また、高山台の造成地でも下級の官人の火葬墓が発見されている。  さらに、香芝市に隣接する當麻町加守でも、金銅製の骨蔵器の出土がありこの地域が古代の墓域であったとも考えられる。そうだとすれば、まだ多くの火葬墓が地下に眠っている可能性があり、発見の機会には専門家の調査を受けるようにしてほしい。 (5) 大坂越えの道  大和から二上山の山麓を越えて河内に通ずる道は、古く石器時代のころから石器を運ぶ道として利用され始めたものと思われる。特に大和政権が成立したころには、西日本の各地やアジア大陸への水路にあたる瀬戸内と、奈良盆地の南部の都を結ぶ重要な通路の一つとなった。  大和南部を東西に横切る横大路に接続する竹内峠越えの幹線をはじめ、平石峠・岩屋峠・穴蒸峠・関屋峠など、峠道を利用したいくつかの間道があった。特に、香芝市を通る峠道として、       大坂を 吾が越え来れば 二上の            もみぢ葉流る 時雨降りつつ(巻10 2、185) と『万葉集』に詠まれている、大坂越えの峠道があった。  この大坂越えの道は、歌詩からみて二上山近くにあった峠越えの道らしく、落葉が風に吹き流される谷川沿いを通っていたことが考えられる。一説には、古地名の大坂を、今日の逢坂にあてようとする考えがある。  『日本書紀』には、天武天皇8(689)年11月に竜田山と大坂山に関所を開き、崇神天皇10年9月、箸墓(桜井市)の築造にあたって大坂の石を手送りで運んだ記録があり、『古事記』には、崇神天皇のとき大坂の神に黒色の楯と矛を祭った記述がある。このなかの大坂の石は大坂山でとれる石材をいい、箸墓には柏原市芝山の大山岩が運ばれて用いられているという。大坂の神は大坂山口神社をあてることができよう。したがって大坂山と呼ばれていた山は、相当広い範囲の山系であった可能性が高い。  『万葉』の時代には、二上山の北麓を越える穴蒸峠と関屋峠から逢坂に至る一帯の山地が大坂山だと呼ばれ、その大和側と峠を越えた河内側も含めて、大坂越の道であったと私は考えている。そうすれば、『続日本紀』に「大坂の沙を以って、玉石を治めた人…」の記述があるのも、現在の金剛砂の産出する竹田川に沿った地域と合致する。  近畿の中央部を東西に横断して伊勢から東国に通ずるには、この大坂の峠を越えなければならなかった。そして、高田の辺りで横大路に連絡して桜井に至り、初瀬谷を通って宇陀を経由し、伊賀・伊勢に出る「伊勢街道」に通じていた。  一方、西大和を南北に結んでいた道に太子道があった。名前の通り聖徳太子が斑鳩の学問所(法隆寺)から河内の飛鳥に向かわれた道であったといわれている。この太子道は、王寺方面から穴蒸峠を越えて河内・堺に達する道で葛下川に沿って南下する當麻道と畠田で分岐して、下之寺・畑之浦・逢坂を経て穴虫峠に達している。途中、畑之浦で田原本街道と、逢坂で伊勢街道と、穴虫で長尾街道とそれぞれ交叉していて、今日、その岐点には幾多の道標を残し、旧道の面影をとどめている。  ともあれ、太子道もまた古代の大坂峠を越える道であり、大和から河内への旅人が通行した峠道だった。今日では、もう穴虫の峠にも関屋の峠にも、『万葉』時代の峠道の情緒は感じられない。 (6) 古代条里制の名残り  古代の律令制社会は、それまで豪族が土地や人民を支配していたのを、公地公民とし班田収授する方法によって、国家の財政と天皇の権力が強化された社会である。班田制に基づいて口分田を人々に収授するには、全国の耕地を整理して、収授に便利な地割りをする必要があった。一言でいえば、この土地割りのことを条里制とよんでいる。  奈良盆地の条里制については、およそ現在の国道24号に沿って奈良から橿原へ、古代の下津道が通じ、この道を中心に路東と路西の条里が区分されていた。そして南北は下津道を基準に六町ごとに区切って北から順に何条とよび、東西も六町ごとの区切りをして何里とし、この六町四方の大区割りを「里」と呼んだ。里はさらに36の坪に細かく地割りして、その10分の1を一段として公民への収授の対象とされた。  香芝市における条里制の遺構は、自然地形に制約された地割りの困難さもあって、地域によっては判然としないところがある。しかし航空写真によると、良福寺・狐井・鎌田の一帯に、水田の区画や道路の敷設、潅水路など、古代の条里制が遺存していると思われる整然としたものがみられる。  『香芝町史』で木村芳一氏は、香芝の条里復元に一つの試案を示されている。それによると、葛下川流域の狭長な片岡谷の条里に問題を残しながら、今泉の「八ヶ坪」を15条2里18坪にあて、鎌田の「十六坪」を23条8里16坪と、古文献に依拠する隣接地条里との関係を整理し復元しておられる。  古代の条里は、律令制社会の制度としてだけでなく、律令制度がくずれ荘園制に移行したときにも、田地の売券に記され、土地の所在を正確に示す表記として活用され続けた。私は、この条里制にみられるような整然とした市内の地割りが、今日の都市計画に取り入れることができたら、さぞかし立派なまちづくりができるのではないかと思うことがある。   香芝の歴史全編

4 平安京と藤原氏の全盛期  延暦13(794)年、都が平安京に遷されたころから、大和の国は、政治や文化の中心から離れて、一地方の色彩が強くなる。律令政治の確立のために貢献した藤原氏の子孫は、朝廷の政府の要職を占め、次第にその権勢を伸ばしてきた。そして、九世紀の後半から皇室との姻戚関係が深くなり、十世紀末には摂政や関白の地位を独占し、十一世紀にはいると、ますます専横をきわめて全盛期をむかえる。道長が娘の威子の立后に際し、      此の世をば 我が世とど思ふ望月の                かけたることも無しと思へば とその権勢を誇ったのもこの時期であった。  このように、藤原氏が栄耀栄華を極めることができたのは、全国に多くの荘園を所有していたからであった。奈良時代には特例としてしか認められていなかった土地の私有が、十世紀ころになると寺社や貴族の間では半ば公然となり、政治を私物化していた藤原氏は、位階の昇進や官職の任命に手ごころを加え、多くの私有地(荘園)を所有するようになった。  都が大和にあったころの香芝には、塚山穴古墳や片岡尼寺とみられる寺院がつくられ、皇族級要人との関わりが強く感じられる地域であった。ところが、平安京に遷都してからは、政治や文化の中心から遠ざかって、先人の遺産が忘却され、あるいは衰退の方向をたどって、葛下地方の旧跡となってしまう。代わって、貴族の繁栄に伴う日本的な仏教文化が伝わり、葛城の山系を行場とする修験道や極楽浄土の信仰に救いを求める浄土の教えが、この地方の人々の心をとらえ、その遺産とみられるものが現れる。  一方、平安時代初期の『延喜式』神名帳には、「大坂山口神社」や「志都美神社」などの記載があり、伝統的に葛下の里に根づいていた神社信仰がしのばれる。 (1) 律令制から荘園支配への移行  古代律令社会での公地の班田収授は、養老7(723)年の三世一身の法、天平15(743)年の墾田永世私財法にみられるように公地の不足によって班田制がくずれ、平城京の華やかな繁栄の反面で律令制度に動揺がみえはじめていた。それが平安時代になって新しい墾田の私財化が進み、貴族や寺社の特権に保護された荘園の形成によって、著しくくずれていく。当時の香芝市の様子を物語る資料が少ないので、明確には、そのころの状況を知ることができない。  平安初期に編集された『倭名類聚鈔』(和名鈔)によると、大和国の葛城下郡には、つぎの7郷名がでている。  品寺(ほんじ)(王寺?)・神戸(かむべ)(匹田、大畠?)・山直(やまあたえ)(逢坂附近?)・高額(たかぬか)(染野?)・賀美(かみ)(志都美上村?)、蓼田(たてた)(高田?)、當麻の各郷で、『大和志料』では、それぞれ( )内の土地をあてているが確定されたものではない。ただ、この7郷が旧北葛城郡に属していた地域にあったことは、今日、誰でも容易に理解することができる。 このうち香芝市に関係する郷名としては、片岡谷の賀美郷と二上山北麓の山直郷、それに五位堂のあたりまでが域内であったと考えられる高額・當麻の各郷がある。山直郷には、越後城司威奈大村の帰葬された山君里が含まれていたとみてよいのではないだろうか。  ところが最近、私は高額郷を五位堂・瓦口・別所の市内東部と大和高田市の大谷辺りの平地に当て、本市の良福寺・磯壁は當麻郷に含まれていたと考えるようになっている。  大化改新の功臣鎌足や律令制定の立役者不比等を祖先にもつ藤原氏は、平安遷都後も中央政府の役人として権勢を伸ばし、その権勢を利用して各地に多くの荘園をもつようになった。この多くの荘園からの収入が基になって、やがて藤原氏の摂関政治が開始される。このころ葛下郡の各郷の中では、摂関家の荘園としてその支配下に置かれたところが多く、隣接する広瀬郡にまたがる広範な荘園を形成していた。この広大な荘園は、後に平田荘と呼ばれ、摂関家の氏寺であった興福寺の一乗院に寄進され、平田庄司の管理下に置かれる。一方、片岡地方にも片岡荘が形成され、ともに興福寺の荘園として、中世の在地武士団(衆徒・国民)を形成する基盤になった。 (2) 式内の古社  平安初期に編纂された『延喜式』と呼ばれる政令集に、中央政府の神祇官が幣帛を奉る官幣社と地方役人の国司が奉幣する国幣社3132座を、国別に記録した神社神名帳がある。この神名帳に記載されている式内社に対して、記載されていない神社を式外社と呼んで区分している。  香芝市に所在した式内社には、志都美神社、大坂山口神社の2社と、今日社名のみられない深溝神社の3社が市内にあったのではないかと考えられている。古代の律令制度がくずれ奉幣の儀式が励行されなくなると、中には式内社であった由緒ある社歴も、不明確になってしまった神社ができる。 今泉の志都美神社は、明和4(1767)年奉納の手水鉢に八幡宮の刻名があり、『大和志料』にも「俗に志都美八幡と称す」と記されている。また鎮座地の小字名が「清水」なので、志都美八幡と呼称されたとも伝え、社地に清水の湧き出ずる泉が現存することや石清水八幡になぞらえて呼び改めたとする考え方がある。ともあれ、江戸時代の『大和名所図絵』に、上里村(今泉もその一部)にあることがはっきりしており、「神祇志料」にみられるように、志都美八幡社は志都美神社と呼び改めるべきだとし、古代の延喜式内社とみるのが妥当と思われる。 大坂山口神社については、先の「大坂越えの道」でも少しふれたが、大和と河内を結ぶ大坂山の峠道との関係を無視しては考えられない。現在、穴虫と逢坂に山口神社を呼称する2社があり、江戸時代の『大和名所図絵』や『大和志』などは大坂山の入口に近い穴虫説をとっている。しかし、逢坂の山口神社に伝えられる中世文書には、「ヤマノクチ」の記録があり中世に大坂山口神社を呼称していた可能性が高い。いずれにしても、大坂山を河内から大和へ越えてくる相当広い範囲の山地であったと考えると、両社それぞれに式内大社の故地とみてもよい理由がある。  『香芝町史』の「式内社考」で志賀剛氏は、葛下郡内で所在不明となっている深溝神社を、下田の鹿島神社と推定している。そして、その根拠として、「杜の宮」と呼ばれる鹿島神社の社地が条里制の1坪の広さを占め、背景に下田の集落がある。周辺の式内社へは約半里の位置にあって式内社の分布原則に合致し、さらに、下田のあたりは深溝の名にふさわしい築堤のなかった川である。などの理由をあげている。 この鹿島社のことについては、後稿でもさらに述べることにしたい。 (3) 葛城の修験道  逢坂の山口神社の前にある三岡邸の前庭に、凝灰岩製の層塔がまつられている。この層塔は大坂山口神社に奉仕していた大坂直の墓であるとする伝説もあるが、一方、葛城の修験道に関係するものとして、今日でも信者の人たちのなかに、遠くから参詣する人がいると聞いた。  修験道は、飛鳥時代後期に御所市の茅原で生れた役小角(行者)が創始したといわれ、平安時代になって天台・真言両宗の密教と結びつき、吉野の大峯山寺(金峯山)を中心に、捨身の苦行をとおして霊験を得ようとする山伏の修行で知られてきた。この金峯山寺へは、宇多天皇をはじめ藤原道長・頼通・師道など摂関家の人々、さらに、白河上皇など都の皇族や貴族が相次いで入山している。その時、釈迦入滅2千年後にあたる「末法の世」を意識し埋納された経塚からは、道長の経筒をはじめ幾多の国宝や重文の遺物が出土した。  『本朝高僧伝』のなかの役小角伝には、小角32歳のとき家を棄てて葛木山に入り、岩窟に住み藤葛を衣にし、松果を食して、難行苦行の末金峯山に道場を開いたことが記されている。以来、女人禁制の霊場として今日に及んでいる金峯山寺に対して、葛城の山系の金剛山の山頂には金剛山寺(転法輪寺)があり、役行者が開基した山伏の修法の場と伝えられている。  江戸時代の『葛嶺雑記』では、葛城の修験道場の巡礼について、紀州の 友ヶ島から根来寺・粉河寺・和泉の牛滝山、河内の岩湧寺をへて大和に入り、大沢寺・石寺から金剛山へ上り、帰りは朝原寺・一言主寺・當麻寺寺を巡拝して大和川筋の亀尾に出ている。京都を出発して葛城の霊場を巡拝する修験者にとって、逢坂の山口神社のあたりは、當麻から亀尾に至る信仰の道筋ではなかったかと考えられる。そして三岡邸の層塔には、こんな葛城の修験者の信仰が、今も息づいているような気がする。 (4) 源信僧都の誕生地  平安時代中期の高僧源信(恵心)僧都について、その生国とされるこの地方では「恵心さん」と親しみ深く呼ばれ、阿日寺(良福寺)・福応寺(狐井)高雄寺(新在家)などの寺伝とかかわっている。  阿日寺の恵心僧都像 恵信心僧都は、政治の腐敗と武士の抬頭によって社会不安が強まっていくなかで、『往生要集』を著し、人々に極楽往生の教えを説き浄土教をひろめた。当時、盗賊の横行や疫病の発生に苦しみ、末法の世の到来したものと失望する民心を、「永遠の生命と無限の世界に通ずる阿弥陀仏を信仰することによって救われる」と説き、鎌倉時代の庶民仏教の成立をうながした。その意味で恵心僧都の思想は、現代のわれわれにも大きな影響を残している。  説話集『今昔物語集』の記述やそのもとになったとみられる『法華験記』によると、恵心僧都の生国は大和国葛下郡であるとし、大江匡房の『続本朝往生伝』のなかでは、當麻郷の人であったと詳しく生地を指示している。また、これらの僧都に関する伝記には、生母が男子の懐妊を祈願し、後に僧都自身が幼少時に斎戒修行した縁故の深い寺院に、同じ葛下郡内の高雄寺があったと記す。この高雄寺について、『大和志』では新在家村に所在すると注記している。さらに、狐井の福応寺の由緒には、恵心僧都創建の伝えがあり、「版仏如来」という板仏を本尊としていたことが『大和志』に記され、良福寺の阿日寺も僧都誕生の故地であると伝えられている。  このように良福寺や狐井には、名僧恵心僧都との縁故を伝承する寺院がみられ、當麻郷に近く、その一邑であった可能性を考えると、僧都の生誕地がこのあたりだったことが理解できるだろう。  ともあれ、私たちの住む二上山麓のこの地から、日本の仏教思想史上稀にみる名僧を世に送りだしている。この事実に誇りをもち、大先輩の恵心僧都に続く人材を育てるため、市民のみなさまと共に青少年の教育を大切にしていきたいものである。 (5) 平安期の仏教遺産  奈良時代に教学の殿堂として僧侶の研修の場であった寺院は、平安期になると、天台宗や真言宗が開かれて、日本古来の神々と結びついた神宮寺が建立され、加持祈祷を重視する神仏習合の風がおこって、祈りの場となる。さらに浄土宗が発達するに及んで、極楽浄土の華麗な世界へ往生できることを信じ、阿弥陀堂建立の風潮があらわれる。この間、香芝市内にも、密教や浄土教の仏教文化が伝えられていたはずであるのに、現在その遺産は極めて少ない。しかし、皆無ではなく、その面影だけは伝えているようなので、そのいくつかをとりあげてみることにしたい。  逢坂の西念寺は現在浄土真宗本願寺派の寺院であるが、境内の薬師堂に像高56cmの木像が祀られている。堂名に示されているように薬師如来像といわれているが、いたみがはなはだしく何像かは不明としかいいようがない。ただ一本造の木造は、平安初期の古式を示す造像で、密教関係の仏像ではないかと思われる。  宝樹寺阿弥陀如来坐像 そのうえ、石製の神像も一緒に祀られており、共に大坂山口神社の境内にあったと伝えられていることから、山口神社の神宮寺のものであったと考えられる。だとすれば、平安時代の初期に香芝市にも、密教文化が流布していたことが考えられる。  五位堂の宝樹寺には、藤原期のものとみられている阿弥陀如来の坐像が、本尊として安置されている。そして、この阿弥陀如来坐像は、別所にあった阿弥陀堂から移されてきたとの伝承がある。現在、別所に安養院の地名があって、安養院の阿弥陀堂であった可能性が高い。とすれば、浄土教の発達に伴って、この地方の有力者か、荘園の領主が阿弥陀堂を建立して、阿弥陀如来像を造立したとみることができよう。  さらに、下田の鹿島神社の結鎮座文書にでてくる法楽寺には、鹿島社の結鎮座以前から仏教的行事として法楽寺で結鎮祭が行なわれていたとの伝えがある。また、阿日寺の客仏として祭られている大日如来坐像は、近くの廃寺真言宗常磐寺の元本尊で、国の重要文化財に指定されている。平成6年、香芝市の文化財に指定された平野正楽寺境内の「石造阿弥陀如来像」も、平安時代後期の像立で、古墳の石棺材を転用した可能性も考えられる。このように、市内では平安時代の仏像や平安期創建とみられる寺院がいくつか考えられる。 (6) 興福寺の平田荘と片岡荘  延久元(1069)年、摂関家と外戚関係のなくなった後三条天皇は、藤原氏の新立荘園の整理をめざして荘園整理令をだした。  翌、延久2年の『興福寺雑役免帳』には、現在の香芝市内と思われる地域に、平田荘と片岡荘の荘園名がでてくる。南都興福寺は、藤原鎌足の建立した山階寺を、その子、不比等の代に藤原氏の氏寺として奈良に移し、以来、氏神の春日社と共に栄えてきた。とくに藤原氏が摂政関白の地位を独占して専横を極めたころには、隣接する他の多くの荘園をとりこみ、その寺領を拡大していった。  興福寺領平田荘は、康和3(1101)年に法隆寺末の定林寺、妙安寺から、右大臣藤原忠実に提出された解文(訴状)によると、両寺の官省符田(公認の荘園)の農民が、平田荘の庄司の威をかりて所当米を滞納し、代わりにわずかの軽物(絹)しか納めないので、これを止めさせてほしい訴え、さらに、本来興福寺の平田荘は御油と御服の免田が百町歩であったが、いまでは1200余町歩もの出作田をとりこんでいると告発している。  事実、久安4(1148)年の『大和平田庄田数注進状』では、2295町1反12歩に増加しており、平田荘の拡大のはげしさがうかがえる。そして、この注進状に記されている西金堂坪々の十八条三里・十九条一里・弐拾条四里・弐拾一条四里・僧慧融領の十九条一里・十九条二里・僧斉順領の二十二条三里が、香芝市内の条里に該当すると思われる。  また、片岡荘については、『興福寺雑役免帳』に真野条の五里・六里・七里と墓門条の四里に、田畠十七町一反三百四十歩が所在すると記されている。しかし、真野条・墓門条は片岡谷の志都美地区にあてる説と、馬見丘陵内にあてる説があって確定しがたい。ただ、両条里とも自然地形に制約された特殊条里区であったことが想定できる。  これらの荘園の経営は、本所である藤原氏と領家、興福寺のもとに、現地の荘司や寄人がいて、年貢収納などの管理に当たったと想定される。やがて、その荘司、寄人が、衆徒・国民と呼ばれる在地の武士団を形成する時代がやってくる。 香芝の歴史全編

5.中世武家社会の展開  中世の武家社会は、鎌倉と室町の両幕府が政権を掌握していた時代で、前期封建社会ともいわれている。  平安時代には、班田制がくずれて荘園制度が発達し、土地や人民が個々の領主や荘官という私的な従属関係に支配されるようになっていた。そして、荘園の中で成長した武士が中央に上がり政界に進出し、古代の公家(貴族)勢力と抗争をくりかえして、新しい主従関係を中心とした封建的な武士の支配体制をつくりあげていく。  鎌倉時代には、幕府が各地に配置した守護や地頭を中心に武家勢力が拡大し、室町時代には、足利氏から任命された守護が大名化して各地に分国を形成し、やがて天下の統一をめざす戦国大名の対立抗争する戦国社会となる。  以上のような日本の中世史の流れのなかで、古代の伝統がいきづいていた大和では、興福寺別当が守護職をつとめ、大和一円を支配する。もともと大和には、藤原氏一族の荘園が多く、その氏寺の興福寺や氏神の春日神社に寄進され、彼等の荘園の支配に新興武士の侵入を許さなかったのである。その反面、興福寺の衆徒や春日社の国民が、大和国内の庄司や名主となって、在地の武士団を形成していた。もともと武家政権が成立したはじめ頃には、荘園領主で守護職を兼ねる興福寺の勢力が強く、在地の庄司に任じられた興福寺僧(衆徒)や春日社の神官も、守護職別当の強力な支配下に置かれていたと考えられる。しかし土着の庄司は、しだいに荘内の農民たちと密着し、寄人たちを召しかかえて武力を持つ集団へと発展し在地の武士団となる。  このころ片岡荘を預かる片岡氏は、平野の城山を拠点に武力抗争に備え、平田荘のうち二上山北麓の土地を預かっていた岡氏は、畑の居館と背後の城山を結んで地域を死守する体制を整えていった。このように大和一円の衆徒・国民は、武力を強化して、興福寺の権力に対抗するまでに成長する。南北朝の動乱では、興福寺山内の一乗院が北朝(京都)方に、大乗院が南朝(吉野)方に加担し、興福寺別当の支配力が急速に弱体化していく。一方では大和の各地に割拠する在地の武士団は、狭い国内で互いに盟約をとりかわして結びついたり、或は敵対して対立と抗争することがしばしば起きる。  応仁の乱においても大和武士団は、北部の筒井氏が東軍の細川方に加わり、南部の越智氏が西軍の山名氏方について戦闘し、その後も大和国内の諸豪族を二分して争っている。  戦国諸大名が勢力を拡大しつつあるなかで、三好・松永の軍勢が大和に侵入し、大和国内は騒然となり、大和武士団はその統制力を失う。やがて、織田信長が登場するに及んで、大和も彼の支配下におさめられ、在地の武士団は大半が没落していった。 (1) 鹿島社と結鎮座  下田の鹿島神社には、「結鎮座」と呼ばれている宮座があり、鎌倉時代はじめ頃からの宮座衆の記録が残され、奈良県の指定文化財になっている。  鹿島神社「座衆経営録」の一部  その『座衆経営録』によると、鹿島神社の縁起は、平安時代末の承安2(1172)年に、源義朝の家臣であった鎌田政光(光政?)が、常陸国の鹿島大明神を勧請し分祀したのがはじまりだと書いている。この縁起書は、説話めいた物語風に記述しているので、その内容についていろいろな解釈がなされる。しかし、鎌倉幕府の力が全国に及んできたころに書かれた縁起書であるので、将軍の頼朝が格別の信仰心をもっていた常州の鹿島大明神を、この地に勧請したという話が生れて当然だと考えられる。  この鎌田政光の子孫という鎌田家が鎌田の村に現存し、当麻の北墓にあるその祖先の供養塔(平安末期・重要文化財)と伝える五輪塔を、今も鎌田家で手厚く祀られている。  さて鹿島社の結鎮座は、神社に奉仕して祭礼を行なう役目をもち、鎌倉時代の建久7(1196年から今日まで、約800年にわたる入衆者の名簿が『結鎮座入衆記録』として書き継がれている。  座衆の家に長男が生れると一刻を争って結鎮座に届け出、入衆録に記入されると、その記入順によって上十人衆・下十人衆・三十人衆・平座衆などの段階がきまる。そして、上十人衆の一老と呼ばれる最年長者を中心に、結鎮座のすべての運営が行なわれる。  現在、結鎮座は、桜井市の鹿路の天一社でも行なわれており、祭文の朗読は昔、多武峰の僧侶が行なったと伝えている。鹿島神社の場合も、最初は法楽寺の行事であったと記録されており、仏教に起源をもつ法楽寺の行事であったと思われる。それが鹿島社の勧請によって鹿島座ができ、二座が合体して現在の結鎮座に発展したと考えられる。  ところが、いつの頃か座の主催が鹿島社に移り、江戸時代の文化・文政期には鹿島社から法楽寺のお旅所まで、総勢50人余りの渡御行列が行なわれている。そのころの結鎮座の祭礼には、近郷から老若男女が多数見物に集まり、村を挙げての盛大な行事であったことがうかがえる。 (2) 畑城跡と岡氏一族の砦  鎌倉時代に入ると興福寺の平田荘は、高田・布施・万歳・岡など在地の八荘官によって分割支配されるようになった。なかでも、香芝市東南部の五位堂・鎌田の地域には万歳氏の支配がのび、畑・穴虫・逢坂・磯壁・良福寺・狐井などは畑城を本拠に一乗院系の岡氏が支配していた。  彼等は興福寺に一定の年貢を納め課役を果すと、そのあとは自分の意のままになる地方の政治的実権をもっていた。したがって、彼等は荘園内の治安維持や外敵の侵入に備えて、武力を培いその勢力を強化することができた。特に興福寺が多数の僧兵を擁して大和の守護となり、大和武士団の頂点に立つと、在地の武士団はその配下に属した。これら在地の武士団は、南北朝の動乱を契機にして領主化し、興福寺の荘園支配がくずれていく原因となる。  大字「畑」のダイジョウゴウと呼ばれている山に、岡氏の城跡だと伝える砦の遺構が現存する。この山城の遺構は二上山麓の山頂を平坦にし、中央の鞍部を深く切通して陣地を構築している。城跡には井戸跡もみられ、中世城塁の典型的な姿をとどめる。  この時代の武士たちは、平常は地主として近郷の村落内に居住し、一たび戦乱がおこれば、このような山岳の要害を利用した城塁に篭城して敵を迎撃する。いわば村落内では村役人となって農民と共に生活し、領内の利益と自衛のために武力をもって戦う、兵と農の両面をもった武士であった。  今日、畑城跡に登ってみると、奈良盆地全域が一望のもとに見下ろすことができ、大和一円の武士団と狼煙で連絡しながら活躍する武士たちの雄姿がしのばれる。また、岡氏一族郎党の砦とみられる狐井・岡崎・ヘモンド塁などは、すぐその眼下にあって、一族の動静が手にとるようにわかる位置に築かれている。 大和と河内を結ぶ交通の要地に城塁を構えた岡氏は中世大和の動乱のたびに、河内方面の武士の動向を窺いながら、自らの命運をかけて活躍している。 (3) 岡氏の一族  わが国で南北朝時代と呼ばれているのは、宮方の南朝(吉野)と武家方の北朝(京都)が、政権の確立を巡って対立抗争した時期である。このころ大和を支配していた興福寺でも、一乗院が宮方に大乗院は武家方について、それぞれ隷属する在地の武士をまきこんで対立していた。岡氏の場合は、鹿島社の宮座文書に北朝年号が用いられていることから、北朝方の勢力圏にあったと考えてよい。  畑城跡 やがて南北朝が合一され、室町幕府の権威が確立した応永8(1401)年、岡氏は興福寺の国民(春日社の被官)として南都に招集された記録があり、一乗院の支配下に属していたことがうかがえる。ついで応仁の乱のきっかけとなった畠山家の内紛(文正の乱)ごろには、大和南部の越智・万歳氏と共に、畠山義就方に加わり、畠山政長方の筒井・箸尾・高田などと対立している。ところが、延徳2(1490)年に、岡氏と万歳氏の間に用水をめぐる紛争が起き、岡氏は高田・箸尾・越智などの合力によって万歳氏に圧勝している。このことをみても、かつての盟友が時には対立抗争の関係に変わる戦国の世相をよく理解することができる。  さらに時が経過して、永禄3(1560)年奈良に進攻した管領家の細川氏の重臣三好長慶の家臣松永久秀は、奈良市に多聞城を築いて、大和武士団の一方の旗頭であった筒井順慶の軍勢を打ち破った。そのころ、岡因幡守・岡周防守の一族は、高田氏らと共に松永方に組し、万歳・箸尾・片岡氏らの筒井方に対抗している。ところが全国の統一をめざす織田信長に抵抗した久秀は、天正元(1573)年信長に破れ、大和が再び筒井方に支配されていく。  こうしたあわただしい動きの中にあっても大和の武士団は、小範囲の在地の武士を支配して、相変わらず対立抗争をくりかえしていた。そのために大きく結束し得なかった大和国衆は、分立弱体な武士団となって、天下の動きに対応できず、歴史の流れの中に押し流されてしまう。  天正8(1580)年天下の統領の地位についた信長は、一国一城令を出して大和の諸城をとりこわし、筒井氏の郡山城とその領土を安堵した以外、国衆のもつ田畑・屋敷・山林の一切を指出(報告)させたのである。かくして、地下民衆を度重なる戦火にまきこみながら城主の地位を維持してきた岡氏は、松永に組し筒井・織田方に対抗した結果、ついに城主岡彌三郎が生害して長い間の活躍の幕を閉じる。 (4) 片岡氏とその城塁跡  室町時代の末期に活躍した片岡氏の城跡は、現在、上牧町大字下牧の集落の背後にあって、葛下川沿いの片岡谷を臨む伊射奈岐神社のある丘陵上に位置している。この片岡城は、『片岡系図』のなかの佐門国春のとき「……下牧村居城……」と付記されていて、築城の時期を知ることができる。また『多聞院日記』では、国春の子、新助春利が永禄12(1579)年、松永久秀に攻められ落城したことになっている。  ところが、片岡氏については、鎌倉時代末期の正和4(1315)年の『春日若宮祭礼記』に、流鏑馬を奉仕した衆徒・国民の一人としてはじめて登場する。中世前半の大和の領主は春日社・興福寺であり、その各地の社寺領を預かる荘官が衆徒・国民であった。平田荘の万歳・岡氏ら片岡荘の片岡氏は、春日・興福寺に隷属した荘官で、地方武士の棟梁として成長する。  南北朝から室町時代には、興福寺内の一乗院と大乗院の対立もあって寺門の権威がゆるむ一方、各地の大和武士は徐々に勢力をたくわえて、応仁の大乱ごろには中央の争乱にも参加して活躍する。とくに大和国衆のなかでも河内の畠山管領家領に接する片岡氏は、河内からの侵入に備えて、片岡谷西側の地域を固めなければならなかった。現在、平野と今泉の西山にある城跡は、急峻な山岳を利用した要害の地にあり、下牧城以前の片岡氏の古城塁跡と考えられる。この古城跡を本拠にして活躍した片岡殿とは、前述の鎌倉期以来の伝統をもつ一族郎党で、惣領家を中心に片岡の地方を支配し、大和武士団の双壁筒井・越智の両雄のどちらかを政情や利害に応じて盟主に選んでその地位を守ってきた。  しかし、『大乗院寺社雑事記』によると、明応7(1498)年4月に、畠山尚順の率いる河内・大和の連合軍に攻略され、片岡雲門寺城主(利持)は自害する。この片岡利持には跡目を継ぐ子どもがなく、古片岡殿がここで断絶し、下牧に城を築いた片岡国春の父、弥五郎道春が入って片岡惣領家を相続しているようである。  今泉の字、雲門寺にそびえる古城山は、利持以前の片岡氏の拠点で、享保9(1724)年の『今泉村諸邑明細帳写』に、「此山之儀者神竜山雲門寺ト申古跡ニ而御座候、古来七拾二坊之寺地之跡ニ而御座候、此山内ニ片岡殿本城之跡有之、則片岡之廟所御座候…」と記され、その所在を伝承している。  今後、この雲門寺城塁の遺構を調査解明するとともに、王寺町の送迎山城から関屋の北側への明神の山系一帯の砦跡を考究してみたい。 (5) 伝統産業 ―金剛砂の採掘―  香芝市には、古い伝統的な歴史をもつ産業の一つに、金剛砂(柘榴石)の採掘がある。この金剛砂は、二上火山の活動で噴出した岩石に含まれ、その母岩の風化にともなって流出し低地に沈積したものである。  歴史上、この金剛砂の利用に関しては、古墳時代の玉石の研磨までさかのぼるのではないかと思われる。しかし、記録では『続日本紀』にみえる天平15(743)年「逢坂山の砂を用いて玉石を冶む」とあるのが国史上の初見であろう。その後、貞和3(1347)年の『興福寺造営料段米田数』には金剛砂御園として22町歩余の土地があげられ、特産地としての扱いを受けている。前者は奈良時代中ごろのことであり、後者の記録は南北朝時代のことである。とくに、貞和のころには、興福寺に金剛砂を貢進する御園として、荘園のなかでも特別の扱いを受け、採掘にかかわった座衆が領主によって保護されていた。  また馬場の山田家に残されている江戸時代、天保年間の文書によると、金剛砂の採掘が村全体の共同事業として行なわれ、庄屋の管理のもとに商品として、遠く山陰地方の瑪瑠研磨用に出荷されていたことがうかがえる。  こうして、採掘された金剛砂は、古代から長い間、玉石や金工・木工品などの研磨材として利用されたほかに、宮中の通路に敷きつめたり、建物の壁面の装飾に塗りこんだり、時代によっていろいろの用途があったと伝えている。  二上山麓の大和と河内側に埋蔵されている金剛砂は、その採掘事業の営みも、古代からこの地域の生活と切りはなせない伝統的なものであった。さらに明治以降の近代産業の発達に伴って、機械部品の研磨や光学レンズの研磨のために需要が増大し、ペーパー・砥石などの二次加工品にして全国的に販売されるようになった。そのため採掘の方法にも改良工夫が加えられ、現在ではほとんど既に採掘された土地の下層から、精細かつ広範囲に採集しているようである。  どんな鉱物資源の埋蔵量にも限界があるとはいえ、今後も香芝の金剛砂とペーパーや砥石の生産が、伝統産業としてさらに長い歴史を積み重ねられることを祈りたい。 (6) 伝統産業 ―鋳物の生産―  金剛砂の採掘とならんで、香芝市内の古くからの伝統産業に鋳造工業があげられる。  奈良時代の歴史を記録した『続日本紀』に、宝亀5(774)年、東大寺の造営で大仏や大鐘の鋳造に功績のあった国中連公麻呂死去の記載があり、その公麻呂は葛下郡国中村の住人であったと記されている。現在国中村の所在は不明であるが、葛下郡はこの地方のことであり、公麻呂はこの地方の鋳物師にとって遠祖にあたる人物でないかと考えることができる。 阿日寺鐘  降って鎌倉時代の弘安4(1281)年には、今は亡き長谷寺の鐘が、下田の大工藤井友頼とその一族によって鋳造されたことが知られている。また南北朝・室町時代には、興福寺領の平田荘に属した下田の鋳物師の座が領主から特別に保護され、その遺品が今日全国各地の寺社に保存されている。 応安元(1368)年…(北朝銘)  長野県下諏訪 慈雲寺鐘 大工葛城知盛 至徳元(1384)年…(北朝銘)  岐阜県美濃加茂市 竜安寺鐘 大工葛城友宗 応永28(1418)年  島根県安来市 清水寺鐘 和州住人大工友光 永享6(1434)年  大阪府茨木市 総持寺鐘 大和国下田之左衛門藤原友永 康正2(1456)年  奈良県吉野郡 金峰山風鐸 大工下田住助次郎 延徳元(1489)年  奈良県吉野郡 吉野水分社香盤 下田大工左衛門助 このほかにも奥羽地方や四国地方に、下田の鋳物師の作品が数多く現存しているようである。 ところが江戸時代になると、下田の鋳物師に代わって五位堂の鋳物師の活躍がめだっている。 慶安5(1652)年  本郡當麻町當麻寺蔓茶羅堂鐘 和州五位堂村の住 藤原末次、周防少掾 寛丈13(1673)年  宇陀郡大宇陀町 万法寺鐘 葛下郡五位堂村藤原周防六兵衛末次 貞享2(1685)年  本市良福寺 阿日寺鐘 和州葛下郡五位堂村津田大和 藤原定次 文化5(1808)年  高市郡明日香村 岡寺鐘 禁裏御鋳物師、大和大目藤原定次、津田五郎兵衛、周防少掾、藤原定次、杉田六兵衛、石見藤原昌次、小原善次郎  など、江戸時代に大和の寺々のために鋳造された銅鐘には、この五位堂の鋳物師の手になるものが多くみられる。  私たち下田や五位堂の郷土の先人が、手塩にかけて鋳造した遺産を、各地の寺院で末永く寺宝として伝世されることを祈りたい。 (7) 乱世の歴史を秘める石仏  畑城跡をとりまく穴虫・畑・磯壁などには、中世の信仰の名残りを伝える多くの石仏が、古径の路傍や廃寺跡・墓地などに散在する。これらの石仏を銘文によって年代順にみてみると、畑領内には、  寛正3(1462)年 しまん堂地蔵石仏  寛正4(1463)年 一本松弥陀石仏 一本松の石仏 磯壁領内には、 天文10(1541)年 下堂地蔵石仏 穴虫領内には 天文10(1541)年 馬場墓地弥陀石仏 天文17(1548)年 西穴虫墓地弥陀石仏  同          太子道地蔵石仏  などであり、すべて室町時代末期に造立された石仏である。  これらの石仏のうち、一本松の弥陀石仏には「六斉念仏之為」と陰刻されており、太子道の地蔵磨崖仏や西穴虫墓地の弥陀石仏には、「逆修」の文字が彫り込まれている。この銘文から考えられることは、当時、戦乱の社会に苦しんでいた民衆が、明日の生命さえ図り得ぬ自己の生前の記念碑として、自らの菩提を弔って造立した人びとの信仰がその背景にある。  とくに、この地域は、戦国時代の大和武士団の一人、岡氏の一族郎党が居を構えた土地であり、常に戦乱の渦中にまきこまれながら不安な日々を過ごしていた人たちが少なくなかった。  そのうえ、当時はこの地方にも一向宗(浄土真宗)が進出し、現世の苦悩を稱名念仏によって救わんと、民衆への布教活動がさかんに行われていた。高田の道場(現、専立寺)や馬見のマメ山道場(解散)など道場(説教場)ができ、地域への布教がすすむ。市内でも穴虫の真善寺は、蓮如上人の大和布教のとき、上人に帰依した法西が、自家を道場に開基したという寺伝がある。  したがって、当時この地域の民衆の間には、領主の専制と圧迫に屈しながらも、念仏一向の教えが次第に広まっていったことがうかがえる。そして、その結果として多くの石仏の造立となり、自らの生命を観念した逆修像となって、現在にその姿をとどめているものと考える。もし石仏が答えてくれるものなら、造立した人たちの願いと訴えを、現在の私たちに語り聞かせてほしいものである。       香芝の歴史全編

6.幕藩体制の確立と近世社会の展開  日本史で近世と呼ばれる江戸時代は、封建制度の確立した後期封建社会ともいい、徳川の将軍家とその将軍から所領を与えられた大名たちが、絶大な権力を背景に領民を支配した時代であった。  織田信長から豊臣秀吉に引き継がれた天下統一の事業は、徳川家康によって完成され、江戸幕府の将軍専制の政治体制が整えられていった。幕府は江戸を中心に全国総石高の約4分の1の天領と軍事・経済上の要地を支配し、「武家諸法度」を制定して大名など武士階級を統制する。一方、武士のほかに農民・町民(工・商)・賎民(穢多・非人)などの身分階級をつくり、父権の強い家父長的な家族制度をとり入れて、身分の上下や主従関係を重視した。それは民衆を分裂支配する封建的な秩序をうちたて、この体制を一日も長く維持し徳川の天下を守るためだった。  こうして出発した近世封建社会は、18世紀のはじめ、元禄時代ごろから貨幣経済が発達し、幕府・大名の財政を圧迫するようになった。もともと、その財政を支えていたのは、貢租課役を負担していた農民であった。しかし、貨幣経済が農村にも波及してくると、金肥の使用や農民の副業などがすすみ、農村の窮乏や農民層の分解がはじまって、各地に百姓一揆が起き、農民の上にたつ武士階級の生活まで困難にしていった。  8代将軍吉宗の享保の改革(18世紀の前半)、松平定信の寛政の改革(18世紀末)・水野忠邦の天保の改革(19世紀前半)の3回の幕府の政治改革は、この武士階級の困窮を救うためのものであった。しかし、幕府はついに彼等の生活を回復することができず、財力をもった町人や地主階級の台頭を許してしまった。  幕末になると、開国の問題を契機にして尊皇攘夷の運動が起き、西南雄藩の下級武士、豪商・地主などによって、倒幕の運動が進められる。そして、慶応3(1867)年、江戸幕府15代将軍慶喜の、大政奉還によって、260余年間の徳川氏の天下は終わる。  この幕藩体制下の香芝市では、天領、藩領、旗本領など村々の支配に同異があっても、封建的な武家の支配に変わりはなかった。例えば、文政年間には、逢坂と穴虫の一部が小室藩(小堀氏)領、鎌田が壬生藩(鳥井氏)領、別所・瓦口が旗本水野石見守の所領で、他の多くの村々が郡山藩(柳沢氏)の支配下におかれていた。そして、村政の実務は、領主に協力する村々の庄屋の責任として処理された。  一般の農家は、江戸時代初期に米作り中心であったが、貨幣経済が発達してくると、年貢も銀納が認められ、綿花、菜種、たばこなど商品作物を作るようになった。そうなると、この地方にも都市の町人の資本が流入して、副業的な綿商人や油屋・酒屋など商工業を営むものがあらわれ、しだいに専業化して村内の新しい富豪に成長する。この富豪や大高持百姓に対して、日々の生活に困り幼児の間引きや離村していく小前百姓(零細農民)も少なくなく、村方を大きくゆり動かすような騒動が相つぎ、武家政治はその終末をむかえるのである。 (1) 大和検地と刀狩り  江戸時代の幕藩体制に基づく中央集権の後期封建社会は、豊臣秀吉の行なった検地・刀狩り・人掃令など、一連の政策が基礎になっている。  戦国時代末期の天正年間、京都に進出してきた織田信長と手を結んだ大和武士の雄、筒井順慶は、信長から大和一国の支配をゆだねられ、郡山城を修築して一国の城主となった。ところが大和は古来より寺社の勢力が強く、その支配下で成長した武士団の衆徒・国民を支配するためには、外部から徹底的に制圧する必要があった。そのため信長は、明智光秀・滝川一益らを大和に遣わして、寺社や国衆(武士)に所領を申告させる「指出し」を命じ、松永久秀に組した高田藤七郎・岡弥三郎らを処分した。このとき動揺のあった岡氏の城下へ滝川の軍勢が進駐してきたことを、奈良の多聞院英俊という人がその日記に書いており、この政変が大和ではいかに重大でかつ深刻であったかを伝えている。  その後、信長は本能寺の変に倒れ、秀吉が天下統一の事業を受け継ぐ。そのとき問題の多かった大和には、異父弟の豊臣秀長や五奉行の一人益田長盛を郡山城に入部させ、強力に弾圧する政策を実行している。 瓦口の検地帳  この間天正13(1585)年8月には、多武峯の僧徒に武器の提出を命じ、武装解除を強行して、寺社の武力反抗の防止に着手している。このことが3年後の全国的な「刀狩り令」に発展し、兵農を分離して武家政権の長期安定化に役立つのである。また文禄4(1595)年、さきに信長が大和武士に命じた「指出し」を全国的に徹底するため、調査の役人を現地に派遣して、村単位に田畑や屋敷の面積を測り、その土地の等級・収穫高・耕作者など詳しく調べる全国検地を始める。この「検地」の実施によって、全国の村高が算出され、領国大名の基礎がつくられた。香芝市では、このときの検地帳写しが、瓦口の池原家に残されている。  さらに天正19(1591)年、「人掃令」がだされて全国の人口が調査され、武士・百姓・町人を別ける「身分統制令」によって、近世の封建的支配者にとって都合のよい政治の仕組みをつくりだす。 (2) 新しい武士の支配と農民の生活  江戸幕府は、将軍家を中心に少数の武士による全国支配を安定したものにするため、秀吉の行なった「検地」や「刀狩り」を土台に兵農分離をおしすすめ、士・農・工・商など身分による差別をきびしくした。なかでも年貢を負担する農民を工・商などの町民の上に置き、さらに町人の下に穢多・非人の賎民階級をつくり、農民の不満をそらせる分裂支配の政策をとった。  こうした幕藩体制下の香芝市の村々は、時代によって支配者に変遷がみられるが、幕府の天領や郡山藩などの大名領にわかれていた。そして、農民は親子代々耕作する土地から離れることが許されず、「郷村の百姓共は死なぬ様に生きぬ様にと合点いたし、収納申付ける様」『昌平夜話』、「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほど出る」『西域物語』、といわれたように武士階級を経済的に支える年貢の負担者として働かされた。  領主や代官は、毎年の年貢を確保するために、農民に対していろいろな制限や干渉も加えている。例えば耕地が細分化して年貢を負担する力のない農民が増加しないよう、幕府は「田畑永代売買禁止令」・「分地制限令」を出して土地もちの本百姓を確保した。日常生活でも最低の生活を維持して多くの課役に応じられるよう、衣類は木綿の着物に制限し、みだりに米を食べないで雑穀を食べさせ酒・茶・たばこなどを禁ずる「覚書」や「触書」を出している。  幕府は本途物成と呼ばれた年貢量の決定について、江戸時代初期には「検見法」によっていたが、享保6(1721)年以降は「定免法」に変更する。初期の「検見法」では、作柄を調べ坪刈りして全体の収穫高を見積る、実際に近い収穫量をもとにした現実的な課税であった。ところが、後期になって採用された「定免法」は、何年かの平均収穫量をもとに一定の課税高が決められ、豊凶にかかわりなく年貢がとりたてられるので、凶作の年には農民の保有米すら残せないこともあった。  こんな農民に対してあくまで貢納の責任を果たさせるため、最寄りの5軒の家を組み合わせて、「五人組」の制度をつくり、この五人組の人たちに連帯して責任をもたせる方法で、武士はその支配の徹底を期していた。 (3) 近世の村とその変遷  江戸時代の村は、今日の大字がほぼそれにあたる。享保21(1736)年に書かれた『大和志』には、現在の香芝市に平野・今泉・中筋・高・上里・今市・田尻・関屋・逢坂・穴虫・畑・磯壁・良福寺・狐井・下田・五ヵ所・瓦口・五位堂・別所・鎌田があったと記録されている。  これらの村名を、徳川政権の成立した関ヶ原戦直後の慶長10(1605)年から元和元(1615)年ごろの資料と比較すると、今泉(西)・中筋・ 高・今市(北今市)・田尻・五ヵ所の6村が新しく生まれたことになっている。なかでも、今泉・中筋・高・今市の各村は、地域的に接近していて、慶長・元和年間に上里村と称し、村高2000石を越える大村であった。この大和屈指の大村上里村から上記の4村は分離独立した新村のようである。確実な高分けの時期が不明であるが、おそらく、郡山藩の治下に入ってからではないかと推定される。 上里村絵図  慶安3(1650)年の古文書には、中筋・今市・高・西村の名がみえ、その後、中筋村から上里村が旧名を用いて分離し、西村も今泉と改称、今市村も同じ郡内の南今市村と区別するため、享保ごろから北今市村を称するようになる。この分村の経緯について、正確な年代等は今後文献によって明らかにされることを期待したい。なお、現在の上中は、明治になって上里と中筋が合併して成立したものである。  田尻村については、万治2(1659)年の文書にその名がみえ、関屋村の支郷と書かれた文書もあるので、関屋村から分離独立したと考えてよい。また五ヵ所村もその頃下田村から分村して独立しているようである。  約2世紀半にわたる江戸幕府の統治下で、これら村々の支配は、大名統制の手段とされた加禄・減村を伴う改易によって、ときにその支配者を変えながら明治まで封建的な幕藩体制下におかれる。そして、明治21(1888)年の町村制実施によって、二上・下田・五位堂・志都美の近代の各村が生れ、近世の村々はその大字名として現在まで受け継がれている。 (4) 村々の政治とその仕組み  幕府や大名など領主側の役人であった郡代・代官には、その家臣団の中の武士が任命された。そして村方の三役との間に、大庄屋の制度が設けられるのが一般的であった。  大庄屋は、およそ10ヵ村の庄屋(名主)を組下に置き、領主に従って「触」や「達」を領民に伝え、苗字帯刀が許されて組下各村の監督にあたった。村々の庄屋は、村の責任者として村民を代表し、村民の行為に対しても連帯して責任を負っていた。同時に実務面では、年貢の割付と徴収、水利土木に関する仕事の処理から、宗門改め・宗旨送りなど戸籍に関すること、風紀・消防・衛生など警察的な治安に関すること、訴訟の仲裁・各種の証明など村政の全般に関わっていた。  庄屋とともに村方三役と呼ばれた年寄(組頭)、百姓代は、すべて高持ち(田地持ち)の百姓から選ばれ、年寄は庄屋の仕事を補佐した助役のようなもので、百姓代は村民に代わって庄屋の仕事を監視する役目をもっていた。  とくに郡山藩の領内では、天保4(1833)年、『庄屋勤方心得書帳』…(『町史』参照)を下達している。その中には、 一、米の刈入れから皆納まで、米穀を取散させぬよう取締り、免状が令達されれば、村役人とよく打合せ、村高に準じて不公平なく免割し、期限内に皆済する。 一、五人組ならびに高改めの場合隔年帳面を作成、五人組の箇条は村民の末々まで読み聞かせ調印のうえ大庄屋に提出する。 一、非法のものがないように精々取締る。  など、12箇条の庄屋心得が記されている。  各村々には、『検地帳』に所有地とその石高が記載されている本百姓と、土地を所有していない水呑(無高)百姓がいて、本百姓が村政の中心になった。また、全戸を網羅して組織された五人組は、相互に連帯する扶助と検察の両面の働きが、巧みに支配者に利用され支配者の意のままに統制された。一方、地縁的な垣内や講の組織があって、冠婚葬祭や宗教行事を通して、村内の人々は強く結ばれていた。今日、当時の政治のしくみは変わっても、その慣習は村々の中に残されている。 (5) 貨幣経済の発達と農村の変化  近世の初頭、農民の自給生活をもとにしていた経済の仕組みが、幕府の金座・銀座などでつくられた金・銀・銭貨の流通と藩札の発行によって、村方にも貨幣による交換経済が浸透してきた。そして、年貢を銀納するため米の換銀を必要としたことが、現金収入を多くする商品作物の栽培に着目させ、この商品作物の栽培の普及によって新しい地方産業の発達をうながした。こうした貨幣経済は、5代将軍綱吉の元禄時代に全国に及んだ。  そのころ、香芝市には、伝統産業の金剛砂の採掘と鋳物工業が全国的な特産として存在し、加えて、搾油・酒造・綿織物などの工業が発達してくる。  搾油は、菜種や綿実を原料として灯油・食料油を生産する仕事で、大和では主に京都で消費される灯油を供給するため、株仲間の組織が認められた。株仲間は冥加金を幕府に納める条件で、独占的な営業の特権が与えられていた。天保13(1843)年、幕府の命令により株仲間が解散させられる天保の改革以前には、人力株と水車株を合わせて下田村に4軒、磯壁村・五位堂・北今市村の各村に1軒ずつの油屋が公認されており、解散後は更に業者が増加している。  酒造業については、酒運上銀を幕府に納入して、鑑札の交付を受けた者に限って営業が許された。享保9(1724)年には、五位堂・磯壁・五ヶ所・今泉の各村に酒屋が一軒づつ存在し、油屋とならんで農村における新しい事業家の成立がうかがえる。  また、農村の女子の副業には、農閑期や夜なべの木綿織りの稼ぎがあった。この綿織物の織機の貸し付けと繰綿(原料)の需給、製品の仲買・販売にあたる新しい商人も出現してきた。  こうした、油屋・酒屋・木綿屋などの新興産業の事業主は、当時の富豪といってよい大地主や庄屋に多かった。そして、彼等を中心に新しい貨幣経済が農村に進展していく。その結果、生産力のない貧農は、旱魃や風水害などの自然の災害に弱く、災害のたびに襲ってくる物価高といった経済変動のため農地を失って没落していくものがあらわれた。  農村に間引きや離村の現象が現れたのもこのころであった。幕府は、農民の離村を取締り「人返し」と称して帰村を奨め、荒廃した農村の復旧を企てるが、新しい経済の流れにさからえきれず幕藩体制は崩壊していくことになる。 (6) 「おかげ参り」の流行と送迎の太神宮  伊勢への参宮は、五穀の豊穣を祈願して参拝し、榊をいただいて帰る。こんな参宮の風習は伊勢講の出現によって、急速に庶民の間にひろまった。この榊をいただく参詣を「おかげ参り」といい、慶安年間ごろから全国的に波及し、多いときには白衣の軽装で箱根の関を2000人も通ったといわれる。宝永2(1705)年のおかげ参りでは、50日間に350万に達したことが、本居宣長の『玉かつま』に記されている。ついで、明和8(1881)年、文政13(1830)年、慶応3(1866)年にも、爆発的な伊勢参りの風習が流行したと当時の記録に残されている。 和州送迎太神宮之図  播磨・摂津・河内・和泉などの諸国から伊勢にむかう老若男女の列は、この地方の諸街道を通って伊勢街道へと送りこまれた。伝承によると、当時の街道筋は、すれ違いも困難なほどの雑踏状態で、村人がいろいろな施し物を参詣人に送り、熱狂的な流行を支持したという。  ところが、文政13年7月18日、「畠田に御幣が天下り給うた」とも、「西山手日るめ畑田亀山江伊勢大神宮御手被成候…」とも言いだし、9月には社殿が建立されたという。橿原市山之坊町『吉川家文書』によると、内宮を「送迎太神宮」、外宮を「亀山太神宮」と号し、大阪より石の鳥居が寄附され、天岩戸もこしらえられて、伊勢神宮さながらの神城が造成されたようである。そして、翌年の5月、領主柳沢家から焼き捨て処分されるまでの約1年間、「…依之日々参詣弥増ニ相成申候、御影踊何れも日るめ江踊込申候…」と書かれている如く、近郷近在から毎日畠田参りがつづいたという。こうして、爆発的な伊勢参りとともに、畠田村の太神宮詣でが、武家政権下の民衆の間にひろまって、深いわけもなくうかれ踊り狂ったのである。このことは、単に物見遊山的行楽や平素の領主や代官の圧政に対するうさばらしだけでなく、他地方の人々と交流する中で新しい民衆の時代をつくりだしていく、多くの人々のエネルギーの表現であったとも考えられる。 (7) 農民の娯楽と旅行  幕府や領主の厳しい統制下にあった江戸時代の農民にも、氏神の例祭や寺の法会・講など宗教的な行事のみは、村人が集会し飲食することが許されていた。  今日でも農村には、正月にはじまり、2月の初午、3月の節句と彼岸、5月の節句、7月の夏祭りとお盆、秋の彼岸や秋祭りなど、宗教や農耕儀礼にもとづく年中行事が残されている。この日には、村民こぞってきびしい労務から解放され、慣習化された行事とともに、季節の献立を作って酒食を楽しむことができた。ことに、お盆の盆踊り、秋祭りの神輿やだんじりひきなどは、毎日、単調な生活を送っていた老若男女にとって、大きな楽しみであった。  また、日待講や観音講・伊勢講・昆比羅講などの講仲間があって、恒例の集会には、ご馳走を作って酒を汲みかわし、仲間との話し合いを楽しんだ。こんなとき講元では、こどもまでが給仕にかりだされ、地域社会の人々と親しく接し、世の中を意識する絶好の機会となった。このことが、こどもの日常生活のなかで、家族間だけではなく社会人としての自分をみつめる態度を育て、教育的にも役立ったことにちがいない。  当時、倹約を厳命されていた農民は、生まれ故郷から遠方に旅行する機会が少なく、京都の本願寺などそれぞれの宗門の本山への参拝、伊勢太神宮への参拝、西国三十三所霊場巡礼の旅など、一生の思い出となる最大の娯楽であった。  そのうち伊勢参宮の旅では、講仲間による講田の耕作から得た収入や掛金をもとに、講中の代参人として費用や餞別までもらって旅立った。代参人の留守宅では、留守見舞いを受け、帰村するときは「下向迎え」といって村はずれまで出迎えたという。さらに、講の頭屋に講仲間が集って、酒宴を開き、旅先での見聞を語り合ったのである。  このような参詣・巡礼の旅とはいえ、旅行には面倒な手続きを要し、出村の許可と往来手形を必要とした。とくに、その往来手形には、請寺が旅行者をその信徒であることを証明し、旅の用件や目的、病気や死亡時の処置についての依頼など、寺院の名で各方面の役所・関所の役人に宛てた文言が記されていた。  いずれにしても、旅行は各地の人情や風俗に接するだけではなく、農業の技術や生業の実情を見聞して帰り、地方の産業振興に役立つ場合も多く、広く世間の事情を知る重要な機会となった。 (8) 天災による飢きんと幕末の世相  幕末の農村の荒廃は、貨幣経済の発達にもその原因はあるが、自然の災害による飢きんの続発が大きな要素であった。とくに、江戸時代の後半には、旱害・水害・風害・虫害などによる凶作が目立って多くなる。  この地方でも、天明元(1781)年と翌2年、および、天明6年と翌7年の夏には、続いて風水害が発生して凶作が相つぎ、多数の餓死者を出したと伝えられている。天明7年6月16日の郡山藩主柳沢保光の記録によると、「昨夜郡山下田村の民家へ多数来りて、門戸をきびしく打ちたたきしによりて、早鐘を撞て、ふせきの人数をあつめしかは大方は逃げ去りしが、50人ほどのこりし一揆等米穀を出し買して去りぬ。又、今夜狐井村、長尾村、南今市村の民家へも多人数来りて米穀等猥に奪取去りしよし申出によりて…」とあり、下田村、狐井村で富豪の米倉が襲われたことを知ることができる。  また、天保7(1836)年、別所村の村役人たちが領主の旗本水野氏に対して、「乍恐追訴御願奉申候」と歎願している文書には、大要「村内の百姓なかに飢きんのため餓死するものがでるので、それぞれの用意している飯米を分け与えて助け合っている。もう貯えもなくなり共に餓死するようになったので、極く難儀している者に米百石を貸してほしい」と訴えている。  その翌年の天保8年には、大阪町奉行所の与力(役人)であった大塩平八郎が、民衆を動員して富豪の倉庫を襲撃し、金穀を奪う暴動を起こしている。  さらに、市内の各村々の旧家に残されている古文書によると、弘化2(1845)年の冷害と風水害、嘉永元(1848)年の洪水による葛下川の欠壊、文久2(1862)年の風水害、嘉永2(1849)年のウンカの大発生、嘉永6年夏の80日間に及ぶ日照りつづきの大旱魃、翌安政元年の2度にわたる大地震等々、自然の災害が相次いで農民を苦しめる。  とくに、天災が起きるたびに大きな被害を受け苦労した人たちは、日ごろから生活に余裕のない小前百姓(零細農民)であった。彼等は村方の諸費増額にからんで、村役人の銀子取込みの不正を問題にし、村方帳簿の公表を求めて村役人と対立、庄屋を退陣させるような村方騒動までおこしている。 (9) 村方騒動の頻発  幕末が近づくにつれて各地の村々では、大地主や新興の高利貸商人が貧農の田地を手に入れて寄生地主となり、小作料だけで生活できる富豪になるものがあった。その反面、稲小屋や物置きに居住して小作生活する零細農民ができ、農民の中での階層分化が急速に進展する。こうした農村社会の変化にともなって、村内の共同生活でも世襲的な村方役人層に対する村民の反撥が表面化し、村びとの新しい動きが各地でみられる。  穴虫村では、安永5(1779)年の正月、古百姓と呼ばれる人たちの旧来の村座に対抗して「けいちん座」と称する新座が組織される。旧村座に属する村役人は、新座に解散を命じ、領主小堀氏もこれを支持して解決する。しかし、文政5(1822)年、座衆と非座衆の婚約問題から話は再燃し、非座衆は新しい座屋を立て、村座の支配する村から独立することを願い出、領主によって新村の「高分け」が許された。  逢坂村の場合は、嘉永(1852)年、村方の入用銀がかさむため、村方組頭や穴虫村方の入作者が立合いで調査したところ、庄屋に取込みがあったことが問題になり、庄屋が出銀して事件は穏便に処理された。しかし、7年後の安政5年には、村方勘定の諸帳簿が点検され、十数件の取込みがあると庄屋を代官所に訴え、ついに庄屋を引退させ銀6貫余を弁済させている。  また、嘉永6(1853)年には、磯壁村の大庄屋や庄屋の銀子取込みの訴えが藩役人に出され、上里村では、文久3(1862)年、中筋村からの入作者が年貢割付諸帳簿の公開を求め容れられている。一方、安政3(1856)年には、五ヶ所村で村人の要求に応じ庄屋の隔年交代制が実施されている。特に幕末には、相つぐ天災による凶作で、米価をはじめ諸物価を引き上げ、小前百姓の生活苦は一層深刻になった。同時に村々の諸経費の増加と絡んで村方役人の銀子取込みといった不正も表面化する。  こんな村方役人に対する小作農民の不信感が、諸帳簿被見要求から村方騒動にいたる動きとなってあらわれた。そして、こうした村方騒動は、新しい世の中の出現を乞い願う、小農民たちの闘いであったともいえる。 (10) 倒幕運動と村々の動き  文久3(1863)年8月、尊皇攘夷派の中山忠光卿と土佐の吉村寅太郎・備前の藤本鉄石、三河の松本庵堂らは、幕府の五条代官所を襲い、代官の鈴木源内らを殺害して、世にいう天誅組の事件をおこし、倒幕運動の先駆となった。  彼等は、各方面から参加する国士や十津川郷士の協力を期待し、大和で江戸幕府天誅の義旗をあげた。ところが、その翌日、長州藩を中心とする攘夷派は、公武合体派の薩摩・会津に京都を制圧され、天皇の大和行幸が中止となる政変が起き、その名分を失った。そのため、天誅組は近隣諸藩の軍勢の追及を受け、五条を脱出して十津川・北山・川上郷を敗走、組織した兵力が潰滅してしまった。  天誅組追討の命令は、郡山藩を中心に高取など大和の諸藩と彦根・紀州・津藩にも出され、郡山領内の上里村には『文久三癸亥年八月十八日天中組ニ付御地頭様御用夫人足帳』と題された天誅組関係の村方の記録が残されている。この記録によると、村民のなかから追討軍の松明持ち人足として戦場にかり出された者、藩と村の連絡役や藩の雑用に使役された者など、延240日の人足が割り当られている。また、その費用960匁のうち890匁が藩から支払われ、残り70匁は村費から支出、村人が負担している。  こうした村方農民への負担の重さは、他の村々でも大同小異であって、社会不安とともに政治への民衆の支持を失うものであった。その意味では、薩摩・長州の倒幕運動は時流にのった動きでありええじゃないか≠フ乱舞は民衆の政治不信のあらわれだったともいえる。  民衆が新しい世直しを期待して、昼夜の別なく踊りまくり、信仰に擬装して不満を爆発させていく中で、江戸幕府は倒壊し、明治の維新政府が発足する。       香芝の歴史全編

7 近代化への歩み  19世紀のなかばごろ、江戸幕府は欧米列国の圧力のもとに、210余年の鎖国政策を解いて開国した。日米和親条約の締結をきっかけに、市民革命や産業革命を成しとげた欧米の列強国と開国の条約を結び、通過貿易を開始することになった。このことが、江戸幕府の政権をゆり動かし、尊皇攘夷から倒幕の運動へと発展させた西南雄藩の活躍によって、ついに慶応3(1867)年10月、幕府は政権を朝廷に返還することになった。代わって政権を握った維新政府は、明治天皇の親政を旗印に、中央集権政治の実現をめざして新しい近代化政策をつぎつぎと実施する。  翌、明治元年、新政府は抵抗する反政府勢力を武力で制圧し、日本国内をほぼ統一した。そして、新しい中央集権体制の確立のため、諸藩の土地や人民を返還させ、廃藩置県を断行して新政府の支配体制を完成し、藩閥政府と呼ばれる官僚政府の基礎をかためた。つづいて、新しい近代化政策の財源確保のため地租の改正が行なわれ、富国強兵をめざす殖産工業政策のために官営工場を設け、郵便制度・官営鉄道・新貨幣制度など西洋の諸制度が導入された。一方、西洋の近代思想や生活様式も伝えられて、封建的な身分制度を撤廃する四民平等が唱えられ、暦法や学制にも欧化の政策が進められた。  当然のように西洋の主権在民思想に啓蒙され、藩閥政府の専制化に対抗する自由民権運動がたかまり、立憲政治の実現を求めて国会の開設をうながした。政府は、明治18(1885)年に内閣制度をつくり、21年には市制・町村制を施行して近代政治の基礎をかため、翌22年に大日本帝国憲法を発布して立憲体制を確立した。  こうして誕生した近代日本は、殖産工業と富国強兵政策の展開によって国力が充実し、対外的には欧米列強への不平等条約の改正交渉と後進的な大陸に植民地を求める侵略戦争をはじめる。日清・日露の両戦役は、日本の近代化と密接に連動する戦争であり、香芝の政治や産業にも大きく影響する。 (1) 明治の政変と奈良県の成立  慶応3(1867)年10月、徳川慶喜は政権を朝廷に奉還し、薩長を中心とする倒幕勢力と岩倉具視らの公卿が新政府の主導権を手にした。ところが、旧幕府方は鳥羽・伏見の戦いをはじめとする戊辰の内乱をおこし、1年有余の間、新政府に抵抗した。この戊辰戦争が新政府軍の勝利に終ったとき、幕府の所領は新政府に没収され、名実ともに江戸幕府が滅亡した。  大和国内にあった天領や旗本の知行地は、鳥羽・伏見の戦いの後いちはやく新政府によって没収され、慶応4年5月奈良県が編成された。しかし、この時の奈良県には、郡山藩をはじめ、高取・柳生・小泉・柳本・芝村・田原本・櫛羅の8藩領は含まれていなかった。香芝市でも、天領の逢坂村や旗本水野氏の知行地瓦口・別所村が奈良県の管轄下に組入れられ、下野国の壬生藩領に属した鎌田村と郡山藩領であった他の大半の諸村はいぜんとして両藩の治下におかれていた。  明治4(1871)年7月、新政府は旧藩主の版(土地)籍(人民)奉還の願いを受け入れ、藩制を廃止する廃藩置県令をだした。このとき、旧藩領は一時的に県名をとなえ、前述の奈良県と郡山・高取・柳生・小泉・柳本・芝村・田原本・櫛羅・壬生などの諸県が、大和国内に成立している。したがって、私達の住む香芝市は、逢坂・瓦口・別所が奈良県、鎌田が壬生県他の村々は郡山県と呼ばれた一時期があった。  ところが、その年の11月大和国内の諸県は、中央集権化をめざす新政府の施策にもとづいて統合され、新しく奈良県を呼称するようになる。しかし、その後この奈良県も、政府の府県統廃合の方針によって、明治9(1876)年には金剛・葛城山を越えた堺県に合併され、同14年にその堺県が大阪府に合併されている。  大阪府に合併された大和は、大阪府政のなかで、風水害に対する復旧費の配分や地租に関係する地価の減額で、摂津・河内・和泉などの地域とは不利な扱いを受けた。そのため、奈良県を復活再設置する運動をおこし、その運動が成功して、明治20(1887)年11月、旧大和国一円が再度奈良県として独立することになる。 (2) 大・小区制度と旧村の伝統  明治初年における地方の支配体制と村人の生活は、早急な世直しの期待に反して、廃藩置県ごろまで旧幕時代と大きく変化することはなかった。  新政府は、権力を強化して日本の近代化を促進するため、明治4(1871)年4月、従来の寺請制度と宗門人別改帳をやめて、新しい戸籍の編成に着手することになった。そのため、明治3年には、一般に姓を名のることを認め、村々で『村中苗字名前書上帳』や『村方家別苗字書上帳』を作っている。 今泉の苗字書上帳  明治5年には、大区の割方や小区編成の方法と戸籍事務の詳細が通達され、大和全体を管轄する奈良県が15の大区に区割された。葛下郡は第10大区に置きかえられ、そのなかに16の小区が編成された。  この大区・小区制は、その後たびたび改編され、明治11(1878)年7月「郡区町村編成法」が公布されるまでつづく。例えば、明治7年10月の編成をみると、奈良県を10大区に分けて、それぞれに会議所を置き、各会議所(大区)内の小区が改編されている。この時現在の香芝市は、第3大区(龍田会議所管内)の第9、第10、第11小区となり、第9小区には別所・瓦口・五位堂・良福寺・鎌田・狐井・下田・五ヶ所の各村が、第10小区には磯壁・畑・穴虫・関屋・田尻・逢坂・北今市・今泉・平野が、第11小区に 高・上里・中筋が香芝市外の隣接諸村とともに組織された。  また、明治9年12月の堺県時代には、大和国が5大区と24小区に改編され、北今市・今泉・平野・高・上里・中筋の各村が第2大区第4小区に、他の村々は第4大区第1小区に組織されている。  このように、政府が幾度か大区・小区の行政区画を改編したのは、政府が旧来の村々を合併して、行政上の最小単位である小区に統合していこうとする意図からである。だが、旧村々には長い間住民のくらしの基礎となってきた村落共同体としての機能があり、その機能を失うことなく維持しつづけていた。したがって、明治11年の「郡区町村編成法」の実施は、住民の現実の生活を無視することなく、小区に統合し新しい村を組織する布石となった。 (3) 地方制度の再編成  大区・小区の行政組織は、新しい郡区町村制のもとに再編成されることになった。明治11(1878)年7月、府・県と町・村の間に行政区画としての郡を置き、旧来の行政単位としての地位を回復し、県令1郡長1戸長(町村)といった新しい支配体制をつくりだした。  明治13年4月、葛下郡は忍海・葛上・高市の各郡とともに御所市の円照寺に郡役所を開設し、管内に7ヵ町の連合戸長役場を配置する。このとき、香芝の村々は、王寺・藤井・上牧・下牧・加守の諸村とともに、第三連合戸長役場の管内にまとめられ、下田村の真宗寺内に戸長役場を設置している。  明治14年2月、堺県が廃されて大阪府の管内になった大和では、所轄区域の広い連合戸長役場の制度が廃止され、原則として村ごとに1人の戸長を置く制度に改められた。そして、各村の戸長は、戸主の投票で選ばれ任期が2年で、郡長の監督のもと税の徴収、戸籍・徴兵など国政の委任事務の処理にあたった。  ところが、明治17(1884)年、公選の戸長が大阪府知事の任命制に改められ、再び戸長役場の管轄区域が拡大されることになる。そのときの区割りをみると、第39戸長役場の区域に五位堂村外(別所村・瓦口村・良福寺村・鎌田村)が、第41戸長役場は穴虫村外(磯壁村・畑村・関屋村・田尻村)、第42戸長役場は下田村外(狐井村・五ヶ所村・北今市村・逢坂村)、第44戸長役場は上中村外(高村・今泉村・平野村・畠田村)に分けられている。そして、番号付戸長役場の呼称が改められ、それぞれ頭書の村に連合戸長役場がおかれ、例えば下田村外四か村のように○○村外○か村戸長役場と称するようになる。  一方、明治13年4月公布の「町村会法」は、公選議員による村会の開設を規定し、議決機関としての機能を与えて自治の形をととのえ、村財政に相当する協議費の審議などを行なわせている。ところが、間もなく国内に自由民権運動が高まり、これをおさえようとした政府は、地方住民の自治に制限を加え、村々を官僚支配の末端に組み入れようとする。そのため、村会や連合村会の招集権を、官僚化した戸長の手に集中して、執行・議決の両面に府県や政府の指導が浸透するよう地方の諸制度をつくりかえていった。 (4) 近代化への歩み  明治の新政府は、幕藩時代の旧弊を一新することを標ぼうしていたが、維新当初の人びとのくらしのなかには、依然として封建的な色彩が強く残されていた。同時に新政府の諸施策は、民衆の期待に反したものが少なくなかった。  慶応4(1868)年3月14日、新政府は江戸城の総攻撃を予定していた。その前日、かの有名な「五ヵ条の御誓文」を公にする。その内容はきわめて進歩的と思われる政治の根本方針に関するものであり、新政への国民の支持を集める意図がうかがえる。  しかし、同じ日に、旧幕府の高札ととりかえた「五傍の掲示」には、徒党を組んで強訴や逃散することを禁じ、キリシタン宗門の信仰を許さず、住民の浮浪と本国脱走(移住)を禁止するなど、国民の行動をきわめて高圧的に制限している。こんな新政府の矛盾した施策は、香芝市内に残されている文書でもうかがえる。  明治3(1870)年3月、江戸時代と同じように、まだ宗門改めの寺請制度が逢坂村で実施されており、年貢の収納についても本途物成・小物成など旧法と変わらない方式がとられている。また、庄屋・年寄・百姓代など村役人や五人組の制度なども従来通り受けつがれていた。  こうした維新当初の状態から、近代化をめざす政府は、きわめて不充分ではあったが社会の古い制度を改めていく。そのいくつかをあげると、四民平等と戸籍法の制定、地租改正と徴兵制の実施、文明開化と学制の発布などがある。なかでも四民平等については、封建的な身分制度の撤廃をうちだして、かつて支配階級がもっていた武士の特権を廃し、一般に姓を名のることを認め、乗馬や羽織・袴の着用、住居の移転や職業選択の自由を認めるようになった。  このとき、特権のなくなった士族には「秩録公債」を発行して生活を保護したが、幕府が最下層の身分において差別しつづけてきた賎民階級は、大政官による解放の布告がだされただけであった。そして、260余年の分裂支配のもととなった身分制によって、農民にしみ込んだ被差別部落への差別意識は、解放令に反対する農民一揆さえも生みだし、今日なお日本の真の民主化をはばみつづけている。  国民皆学をめざして明治5(1872)年には学制が公布され、翌々年に五位堂宝樹寺に栄商舎、下田真宗寺に誠弘館、逢坂西念寺に健学舎、中筋村万善寺に奨道館など、各地の寺院を仮校舎に最初の小学校が創設される。 (5) 地租改正と小作農の増加  明治新政府の財政を確立するための地租改正事業は、明治6(1873)年7月に実施された。そのころまだ旧幕藩時代の慣行にしたがっていた租税は、主に米を中心とする現物納であり、豊凶や相場の高低で国の歳入が変化し、計画的な財政運営が困難であった。そこで政府は、国の税収の大部分を占めていた地租の徴税方法を統一し、現金による収納を企画する。その前段階として、まず明治4年に江戸時代以来の作物の作付制限を解き、換金作物の栽培を公認する。続いて翌5年には、百姓を土地にしばりつけていた田畑の永代売買の禁令を解除し、土地の売買を自由にした。そして、土地の所有者に地券を交付して課税の基礎を明らかにし、その所有者(地主)に地価の100分の3の地租を現金で納付するよう義務づけた。 地券之証(逢坂村)  こうした近代的な地租制度の導入も、政府が国の歳入を減らさない方針のもとでは、農民の負担は江戸時代とほとんど変わりがなかった。かえって、農産物価の下落した経済の不況時には、貨幣収入が減少して農民の生活は深刻であった。一方、地券の交付によって、土地そのものが売買の対象となると、生活に苦しむ小農民は、土地を手放して小作農に転落するものも少なくなかった。  小農民の手放した土地は、経済的に余力のある地主や自作農のものとなり、地主の寄生化とともに小作農の問題が社会的な重大事となる。しかも、小作農は地主に従属して耕作権が不安定なうえ、高率の現物小作料を納めなければならなかったため、江戸時代以来長く続いた苦しい生活から解放されることはなかった。  奈良県の統計によると、明治23(1890)年の葛下郡の小作面積は総耕地面積の44.4%、日清戦争後の明治33(1900)年には北葛城郡(葛下・広瀬両郡合併)の小作地率が58.7%となっている。それが、昭和5(1930)年の香芝市域の小作地率は、五位堂村63%、二上村74.6%、下田村57.7%、志都美村60%となっていて、割合では小作地が増加の一途をたどっている。  こうした、小作地漸増傾向の中で、大正14(1925)年、志都美村で小作料の軽減を求める小作争議が起き、農民は慢性的な農村不況の中で呻吟する。この小作制度の変革は、第2次世界大戦後の農地改革の課題でもあった。 (6) 町村制の公布と新村の成立  明治維新以来、幾度かの改編を重ねた地方政治の単位と組織は、明治21(1888)年4月に公布された「市制および町村制」によって、ようやくその成案をみた。最後の連合戸長役場の管轄にあわせて町村合併をおこない、新しい町村に自治体としての法人格を認めることになった。  新しい町村の合併は、政府に直結する県当局の指導のもとにすすめられたが、形式上各町村から合併を願い出て、それを承認する方法がとられている。このとき香芝市内では、五位堂村、二上村、下田村、志都美村の4か村が成立し、翌明治22年4月から新しく発足する。以来香芝市の成立する昭和31年4月に至る地方行政単位となる。そして、新しく発足した各村の役場は、それぞれ、五位堂、畑、下田、今泉に置かれ、近代村政の中心として徐々に村民生活と結びつくようになった。  新村の村長はそれぞれの村会で選出され、その村長が助役・収入役を指名した。このために各村々では村会議員の選挙が実施され、直接国税2円以上を納める25才以上の男子に限られた選挙人の中から、連記無記名の投票によって当選者を決めている。しかも、直接村税の納付額の多少によって、選挙人を1級と2級に分け、選挙人全員の村税総額の半ばにあたる村税の負担者何人かを1級とし、残る多くの選挙人を2級として、級別に半数ずつの村会議員を選出する方法がとられた。したがって、高額の村税を納める少数の財産家は、多くの議員を選出することができ、村の政治に大きな発言力がもてる選挙制度であった。この制度は、大正15(1926)年の普通選挙が実施されるときまでつづき、財産家を中心とする日本の保守的な政治基盤をつくりあげた。  また、新しい村は、中央政府の行政機関としての役目をもっていて、その自治には大きな制限が加えられた。例えば、村長が村会議長を兼ねることをたてまえとし、国の委任事務の遂行を村々に義務づけ、村役場の仕事のなかに位置づけられた。一方、村民生活に密着してきた旧村は大字として新村の下部機構に組み入れられ、「常設委員条例」(五位堂村・二上村・志都美村)や「常設土木委員条例」(下田村)によって、旧村所有の溜池や用水路の管理など複雑な旧来の慣行を処理しつづけるが、次第に伝統的な機能はうすれてしまう。 (7) 新しい村の政治  明治22(1889)年、新しく発足した近代の各村々は、明治30(1897)年8月に、旧来所属していた葛下郡と隣接する広瀬郡を合併した新しい北葛城郡の誕生によって、その管下に入る。  このころ、五位堂村では年間の財政が膨脹し、全410余戸のうち400戸近くが、多少の村税を負担しなければならなくなった。賦課等級は1等(1円58銭7厘)から18等(1銭1厘)まで細分化されていたにもかかわらず、毎年異議の申立てがあったと伝えている。それは軍備の拡張による戦費調達の必要から、従来地方税であった営業税を国税にしたことや、わずかな国庫補助金の交付で政府が地方自治体への委任事務を増やしたことなどによる。  こうした地方自治体の深刻な財政難を打開するため、各村々は、村民に勤倹貯蓄を奨励し、村長はじめ村会議員、役場吏員が先頭にたってこの運動を展開した。村当局も現金をもたないで村基本財産、学校基本財産を株式投資や債券にかえ、資金を蓄積する一方、軍事資金の献納にも協力したために、政府の民間資金を吸い上げる国策にそう結果になった。  明治32(1899)年、下田村が決定した「北葛城郡下田村勤倹貯蓄規約」(『香芝町史』)をみると、その目的は他日出費に備えるとしながらも、その第12条に 一、社寺、祭礼、法会其の他の式典に付、神輿・太鼓台・他車等の引廻しを廃し、虚飾華美に流るべからざること。 二、何れの場所を問わず、総て盆踊を廃止すること。 三、歳首、五節句の祝宴及び物品の贈与を節すること。    中  略 八、上棟開店等の費用を節し、且物品の贈与を廃すること。 九、年忌の仏事の費用を節し、総て禁酒すること。 十、婚礼の式費を節し、且物品の贈与を節すること。 十一、出産に際し、見舞及祝いを廃すること。但し配偶者の親元は此限にあらず。 十二、葬式の費用を節し、且禁酒となすこと。    以 下 略  など具体的に勤倹する多くの内容を示している。  当然この規約は、住民に財力をつけ担税能力を高める目的で制定されたものであり、住民の自発的なものではなかったので、その後何回か改正されているようである。  こんなに各村が努力しながら、実際には税金の滞納額が多く、国や県への納税すら期日内に徴税できなかったという。特に、明治37〜8(1904〜5)年の日露戦争ころには、村費を極端に切りつめた緊縮財政とみられ、村民の台所はますますその苦しさを増すのであった。     香芝の歴史全編

8.近代産業の発展と人々のくらし  日清戦争後のわが国では、官営工場から発展した軽工業中心の産業革命がさらに進展し、綿花の輸入とともに工場制機械工業が急速に発展、綿製品の輸出量が急増していった。また、日露戦争後には、立ちおくれていた重工業部門の発展のため、官営の八幡製鉄所が操業を開始した。こうして、西欧諸国に先行されていた産業の近代化もようやく軌道にのり、資本主義経済が成立する。反面、資本主義の発展にともなって工場労働者が増加し、それら労働者の低賃金、長時間労働など苛酷な労働条件が社会問題化して、労働運動が社会の注目を集めるようになる。  文化面でも欧米の近代文化が急速に取り入れられ、教育や学問、通信・報道など、国民の生活に大きな変革をもたらした。しかし、その影響は大都市に多くみられ、地方の農村では交通・通信・電燈・洋服などの近代化はおくれ、旧暦による江戸時代の年中行事や信仰が受けつがれ、都市と農村の生活に大きなちがいが生じた。  大正3(1914)年、ヨーロッパでは列強の帝国主義的抗争に起因する第1次世界大戦がはじまり、日本も日英同盟に基づいて、ドイツに宣戦を布告して参戦する。この間、遠く離れたヨーロッパの対戦国に代わって、日本はアジアの市場へ進出して大きな利益を得たため、産業界は空前の好景気となり戦争成金がぞくぞく出現してきた。  しかし、工業生産の飛躍的な増大も農村の生活を潤すことなく、大正7(1918)年ごろには、米価の高騰に苦しむ労働者・小作人など、低所得層の生活苦は日増に厳しさを加えていった。地主は米を売り惜しみ米屋は米を買い占めて、たがいに米の値上がりを見込んで投機にはしった。そのため消費者は、この米の安売りを要求して、「米騒動」を起こす地方もあらわれた。  第1次世界大戦が終結すると、ヨーロッパ諸国の工業生産力が回復して、大戦中好況であった日本の景気は急速に不況化し、深刻な経済恐慌によって失業者が続出する。この恐慌の中で、わが国も独占資本・金融資本の時代に入り、財閥が形成される。そして、この財閥は軍部と結託して、大陸に市場を求め侵略戦争を始める。 (1) 農産物の変遷と農家の経済  大和の国中(くんなか)では、年貢の銀納が認められるようになった江戸時代の中期ごろから、綿花や菜種などの商品作物の栽培がさかんであった。それは、現金収入の多い換金作物であるという理由だけでなく、降雨量の少ない自然条件下で、奈良盆地の水不足を軽減し、水田の用水を確保するためにも必要であった。このことでもわかるように、奈良盆地における中心的な農産物は米穀であり、水稲栽培を軸にした作付計画が主流になっていた。したがって、農家の現金収入源としての綿花や菜種の栽培は、家計の余裕を生みだすための副次的な作物として、江戸時代以来の長い伝統があった。  明治10年代のなかばには、関屋村で5戸、磯壁村で30余戸の農家が綿花を栽培していたし、各村々の産物として綿実があがっている。そのうえ婦女子の副業的な仕事として紡績機織が盛んで、多くの農家は綿花に関係し相当の収入をあげていたようである。  ところが、明治20年代を境にして、この二つの作物の栽培が急速に減少していく。綿花は良質の外国産綿花の輸入に圧迫されたためであり、菜種は石油ランプの普及による燈油の需要減少がその原因であった。この大打撃をうけた村々に新しく養蚕業が台頭し、明治30年代から前二者に代わる地方産業とした発展してくる。  この地方の養蚕業は、明治のはじめごろわずか自家用の程度であったとも伝えられている。ところが、明治政府の殖産興業政策に基づく軽工業の近代化とともに、生糸・絹織物の輸出の好調を反映して、この地方の村々にも盛んにとり入れられてくる。  先進地の大阪から巡回教師を招いて、桑畑の管理や蚕の飼育方法など新技術が導入され、その振興計画が着々とすすめられている。蚕業講習会などくりかえし実施されるなかで、夏・秋蚕2回の飼育が一般化することによって、ようやく養蚕農家に相当の現金収入をもたらすようになっる。  しかし、ほどなく第1次世界大戦後の生糸の暴落、繭価不安定期の掛け目取引、アメリカでの人絹糸発明による輸出市況の悪化など、不利な事情が相ついでおき、農家の副収入源であった養蚕も徐々に衰退していく。とくに、太平洋戦争に突入したころには、食糧の増産のため桑畑が甘薯畑となり養蚕が消滅してしまう。 (2) 農家の副業から発展した工業  香芝市内における金剛砂の採掘と加工、鋳物の製造という二つの伝統産業については、すでに中世の項でとりあげたが、ここでは他の近代になってからの工業の発展についてふれてみたい。 靴下工場の内部  江戸時代以来のこの地方の綿花の栽培に関連して、綿織物の製造が農家の副業としてさかえ、多くの農家の主婦は木綿織屋の賃織りに従事した。その伝統は綿花栽培が急速に減少した明治20年代になっても、輸入原綿の紡績糸を使用して続いていた。明治37(1904)年当時の下田村では製造家9軒、賃織264名、手機織り308名で、年間109,905反の木綿が生産されている。それが大正元(1012)年の資料では、家内工業10軒、織家7軒、賃織農家254戸となり、家内工業や専業化が目立ってくる。  しかし、その後間もなく第1次世界大戦となり、戦後の恐慌で大都市の近代工場の生産に圧倒され、伝統の木綿織りは没落する。  この不況の木綿織りに代わって、大正時代の中ごろから新しく貝釦やメリヤス製造の家内工業が大正時代の中ごろから市内の各地に導入される。  なかでも靴下の製造業は、旧陵西村(現大和高田市)や旧馬見村(現広陵町)の先進地から、当市の先駆者によってとり入れられ操業されはじめる。その靴下産業は、幾多の苦難の時代を経て、副業的な形態から脱皮しながら着実に発展し、現在の郷土産業の地位を確立してきた。しかし、従業員数によってその規模を詳しくみると、1人〜3人規模の工場が過半数を占め、まだ家族労働を中心とする経営の実態がある。  昭和49(1974)年の香芝町の工業統計では、製品の出荷額のトップに立っているのが繊維工業で、約5分の1の大差で金属製品製造業がつづき、電気機械製造業、窯業土石製品製造、パルプ・紙・紙加工品製造業など上位を占めている。  これら工場の分布をみると、その多くは国道165号とJR・近鉄沿線にあたる、交通機関の発達の早かった地域に集中する傾向があった。ところが、最近、西名阪に近い地域や新設の道路網の通じた地域に、新しい工場の進出が目立ってきている。 (3) 商業の変遷と発展  江戸時代の農村では自給自足の生活を基本としながら、上層の地主階級を中心に、油屋、酒屋、木綿織屋、藍染紺屋など、各種の商品生産がすすめられてきた。しかし、江戸や大阪のように見世棚を構えた専業の商家は極めて少なく、前記の製造業者のほか古手屋・小間物屋など、大抵は販売の特権をもつ一部の株仲間に限られていた。  ところが、江戸時代の終りごろから明治になると、貨幣による交換経済が一般化し、農村でも商品の流通がさかんになってきた。その影響をうけて、この地方の中心であった下田では、毎月の4日と正月前の12月25日、盆前の7月10日に市が開かれ、大正の中期ごろまで続いたといわれている。  一方、大阪鉄道(現JR)の開通した明治24年ごろから、下田付近では商家ができ、市場とともにこの地方の商品流通の中心となった。現在、大字下田に「市場」の地名があり、そこの地蔵堂から南へ100mほどの間で、盆と正月前のごとう(5・10)日に、約70の出店が日常品や衣料品の市を開いたと伝えている。しかし、この下田の市も昭和2年の近鉄大阪線の開通によって、その姿を消し、ごとう(5・10)市や定期市に代わって各種の商店が増加してきた。  その後、鉄道の下田駅付近を中心に商家が増加し、人びとの生活に密着して商業が発達する。その商業の発達に関連して、明治29(1896)年、高田銀行が開設され、大正8(1919)年には五位堂村信用購買販売組が他地域に先んじて営業をはじめる。これら金融機関は、以後合併と変遷の経過をへて、現在の南都銀行や農業協同組合となっている。  昭和49年の商業調査によれば、市内の総商店数295、そのうち小売商は241を占め、卸売業が12、飲食店42となっており、規模別には従業員4人以下の零細企業が全体の約95%を占めている。このことは、鉄道交通の発達にともなう、大都市を中心とする商圏の拡大に主な要因があり、日常生活の最寄品以外は市外で充足する比率が高くなった結果とも考えられる。  近年、市内の各地に新しい団地がつくられ、とみに人口の増加傾向が目立ってきた。その人びとの需要に応えるために、新しい商店やスーパーの誕生がみられ、商業や金融業の発達もめざましいものがある。  かつて、下田で市が開かれ地域住民の生活と結びついて、「下田よいとこ大和の江戸や、お宮三社に寺五つ」といわれたような活況ある流通の中心を、新しい都市づくりの中に位置づけて、一段と地域の商業が発展することを祈りたい。 (4) 街道の変遷と鉄道の開通  今日、香芝市内でみかけられる道標には、二上山塊の国分と穴虫の両峠を越えた河内から大阪・堺方面を示すものと、はせ・いせ・はしお・たはらもと・たへま・かうや・よしの・大峯山上・つぼさか・だるまじ・たった・ほうりゅうじ・なら、など主に大和国内の寺社詣での道筋を示すものが多い。  これらの道標の建つ旧街道で東西に伸びているものには、国分峠を越えて下田を経由し初瀬・伊勢に至る伊勢街道、伊勢街道から分岐して高村・上牧を経て馬見丘陵を横断する田原本街道、穴虫峠を越え畑・磯壁・狐井を通り瓦口で伊勢街道と合流する堺街道などがあげられる。また、南北道としては国分峠から穴虫・畑・磯壁を経て當麻・御所・五条方面に至る長尾街道、王寺から下田を経て當麻に至る當麻街道、當麻街道と畠田で分岐して山裾を穴虫峠に至る太子道などがあった。 道標  ところが、明治10(1877)年頃に、高田から下田への伊勢街道と、下田から王寺への當麻街道が拡幅改修され、同13年には、田尻嶺(海抜110m)の開削工事が行なわれて、仮定県道「下市街道」が完成する。特に、田尻嶺の開削は、大和から河内へ越す荷車の大半が、従来の竹内峠(海抜293m)から田尻嶺の方に集中するようになり、穴虫・関 屋・田尻の街道筋では人びとの往来が頻繁になった。その様子は、船木寛氏の「二上村是後篇」に「殊に新道開通以来下市街道、田原本街道は往来頻繁にして大字穴虫・関屋・田尻は非常の繁栄を極め旅舎櫛比して山間の一小都会を為せるが……」と述べていることによって知ることができる。  明治年間の主要道路の多くは、近世以前の旧街道を改修したものであった。しかし、大正5(1916)年には、畑と下田間の道路が新設され、昭和初期には瓦口と別所にバイパスができ、昭和28年国道165号となるなど現在に連なる新道も徐々に整備された。  一方、明治24(1891)年、王寺と高田の間に鉄道が敷設され、明治40年の鉄道国有法によって、大阪鉄道から国家に買収され国鉄線となった。また、昭和2(1927)年には、近鉄大阪線が完成し、同4年に開通した南大阪線とともに通勤や通学に利用され、私たちのまちの発展に大きく貢献している。 (5) 第1次世界大戦と大正デモクラシー  大正3(1914)年7月から4年間余の第1次世界大戦は、主戦場となったヨーロッパ諸国の日本商品に対する需要が急激に増加し、わが国にかつてなかった経済の好況をもたらした。しかし、貿易と商取引が盛況をきわめる反面で、国内の諸物価は急騰し、各村の財政も急に膨脹して住民にその負担が重くのしかかった。  大正3年の二上・志都美両村の歳出決算額を100とすれば、大正10年には二上村で217、志都美村では317と、それぞれ2倍3倍に膨脹している。こうした地方の歳出をまかなう収入は、その約60%から70%が村税収入によってまかなわれ、地租や所得税など国税付加税や県税付加税・戸数割付加税など、すべての本税に付加して村民から徴収された。  大正10(1921)年の「志都美村役場事務報告」では、「本村予算ハ逐年異常ノ尨大ヲ加ヘ、殊ニ十一年度予算ノ如キハ、多額ノ郡費ヲ負担スル結果、勢ヒ、歳入ニ於テ、其財源ニ窮シ、就中、唯一ノ財源タル村民ノ負担力ヲ考察スルニ、到底一時ニ賦課シ難キヲ以テ、財政緩和シ、基本財産ヲ歳入ニ繰入レ数年度ヲ期シテ、之ヲ補填セントスルニアリ。」と記されており、村が積立ててきた基本財産を、一時歳入に繰入れねばならないような非常事態なっている。  こんなに急速に地方財政が膨脹していく中で、多くの人びとは、物価の急騰によって日常生活に大きな影響を受けることになった。値上がりを見込んだ大地主の売りおしみや米穀商の買い占めのため、米価は大戦前の4・5倍にも上昇し、全国各地で米屋を襲い、米の安売りを求める「米騒動」が起きたのもこの頃であった。  一方、こうしたインフレ経済下にあった大正中期には、米騒動といった民衆の大運動と大正デモクラシーと呼ばれる民主主義運動によって、国会開設以来制限されてきた国民の選挙権が拡充される。明治23(1899)年の第1回総選挙には、直接国税15円以上を納める25歳以上の男子に限られていた選挙権が、明治35年の第7回総選挙から国税10円以上となり大正8年には3円以上の納税者と改正され、翌大正9年の総選挙が行なわれている。そして、ついに大正14年には、納税額による選挙権の制限が撤廃され、25歳以上の男子による普通選挙法が成立する。しかし、同じ議会で治安維持法が可決されて、普通選挙の実現に対して思想の統制が強化されていった。     香芝の歴史全編

9. 軍部の台頭と戦時下のくらし  日本は大正末期から昭和初頭にかけて、中国に対し米英と協調しての内政不干渉の立場をとっていたが、これを批判する軍部では、山東出兵や張作霖の爆殺事件を起こし、徐々に中国侵略の方向をたどり、満州一帯の軍事行動を拡大して満州国の建国を強行した。  一方、国内のインフレと膨脹した財政経済を改善するため、浜口内閣は昭和5(1930)年1月に金解禁を実施した。第1次世界大戦中から禁止していた金の輸出を解き、わが国の経済が世界の市場で競争できる方向をめざした政策であった。ところが、前年の十月にアメリカに起きた経済恐慌が全世界に広がっていたため、日本の金解禁は、外国から安い商品を流入させる結果となり、国内の物価が急落して中小企業を圧迫し、農村の不況は深刻となった。  昭和6年12月、犬養内閣はこの経済恐慌に対応するため、金の輸出を再度禁止することになった。その結果、円相場が下落して輸出が飛躍的に増加し、満州事変の勃発による軍需の拡大と相まって産業界の活況は回復した。特に、綿製品の輸出急増は、先進国イギリスとの厳しい対立を招き、新しい市場獲得競争がはじまった。  昭和12(1937)年7月、遂に、北京郊外の蘆溝橋で日中両軍が衝突し、政府の戦争不拡大方針に反して、軍部は強硬に戦場を拡大して収拾できない日中間の長期戦争へと発展した。国内では急速に戦時体制が整えられ、軍人の召集はもとより労働者の軍事工場への徴用や衣料・食料など生活必需品の配給制の実施等々、国民あげての総力戦体制が強化されていった。  日中戦争の長期化する中で、ヨーロッパではポーランドに侵入したドイツ軍に対して、イギリス・フランスが宣戦を布告し、ドイツとソビエトの間にも戦争が拡大して、第2次世界大戦へと発展した。  昭和16(1941)年12月8日、日本海軍のハワイ真珠湾奇襲によって太平洋戦争がはじまり、ヨーロッパの戦場とともに世界的な大戦争になった。日本はアメリカ・イギリス・オランダなど連合国側に対抗して、ドイツ・イタリアと結ぶ枢軸国の陣営に入って世界的大戦争の渦の中にたった。しかし、生産力や軍事力の低さは、戦争が長期化するにしたがって戦局に不利となり、連合国のポツダム宣言を受諾して無条件降伏することになる。  かくして、戦争という理由で日用品や食糧の不足に耐え、アメリカ空軍の機銃掃射を体験した人びとにとって、期待に反する敗戦という結果で長期戦争の幕が閉ざされた。 (1) 経済恐慌と農村の変化  第1次世界大戦によるわが国の好況は、戦時特需の消滅した大正の末期から一転して不況となり、立ち直る気配をみせず慢性化する傾向にあった。そして、昭和2(1927)年の金融恐慌などの余波を受けて農産物価は下落し、そのうえ好況時に都市の工場労働者となって失業した一族をかかえ、農家の経済は極度に緊迫の度を加えていった。  この農業不況に対処するために、政府は、農山村経済更生計画をはじめいくつかの農村救済政策をうちだした。五位堂村と志都美村では、小作農家を自作化して安定した中農層をつくるため、政府の自作農創設維持資金を借り入れることを議決している。  また、五位堂村では、困窮した農民を救済するための土木事業として、鎌田−今在家間の道路改修工事(昭和2年)、五位堂−良福寺間の道路整備工事(同4年)が実施された。しかし、政府の資金で行なう救農事業は、3年間で打ち切られ、各村が経済更生事業を独自に進めなければならなくなった。  また、この頃、現在の農業協同組合のもととなった産業組合が各村に創設され、農民生活の維持・発展をめざして、信用(金融)、販売・購買(農産物の販売と消費財購入の共同化)、利用(施設設備の共同利用)など、農民の共同化が進められた。  第1次世界大戦をピークに農家の現金収入に大きな比重を占めていた養蚕業は、人絹糸の影響で繭価が下落し、次第に衰退の道をたどっていく。それにともなって各村々では、米・麦に加え換金性の高い果樹や蔬菜などの園芸作物がとり入れられ、農家の収益向上がはかられている。良福寺・鎌田の(力)西瓜、尼寺付近の(志)西瓜が大阪・神戸・東京へ出荷され、柿・ぶどう・みかんなど果樹も栽培されるようになった。それを大八車で下田駅まで運んで汽車で出荷したり、トラックで輸送していたことが今も伝えられている。しかし、日中戦争から太平洋戦争に発展する頃には、食糧増産のため養蚕業は壊滅し、果樹や蔬菜の園芸作物の栽培も、次第にその光景が見られなくなった。 (2) 不況下の村政  経済恐慌下の農村の窮状を打開するため、農家と各村々や産業組合が一体となって、土地利用の合理化、裏作や園芸作物の増殖、自給肥料の生産と有畜農業の普及、農作業の共同化などの施策を実行していった。こうした農村の窮乏は、当然ながら村税の徴収にも大きく影響し、各村々の財政をだんだん苦しくしていった。  昭和6(1931)年、五位堂村の予算審議の村会では、予算の規模縮小の問題がとりあげられ、どの費目を減額すればよいか、議員の間でいろいろと論議されている。神餞料、用紙代、土木費、小学校正教員の俸給減額などを求める意見の中で、議事録には、 六番議員「農村窮乏ノ折柄、出来得レバ、高級者ヲ整理シ、初任級ト更迭ヲシテ戴キタイト存ジマス……」 三番議員「米価十六円位ニ暴落シタノデアリマスカラ、全ク負担ニ堪ユルコトデキナイ……」 四番議員「農村ノ窮状ヲ県当局ヘ訴フル外ナイト思ヒマス」 村長「私ハ村ヘノ御奉公デスカラ、カマイマセンガ、他ノ吏員ノ給料ニ対シテハ、何トカ御考究ヲ……」 などとの論議があり、結局村会議員の日当を減額することを決定している。  この頃(昭和9年)二上村でも、県税や村税の滞納する者が増え、次の事務報告が出されている。 「時代ノ要求ニ伴フ、国費地方費ノ膨張ハ村民負担ノ増加ヲ来シ、加フルニ経済界ノ不況、思想界ノ動揺ハ納税成績ノ著シキ低下ヲ招来シ、之ガ挽回向上ニハ鋭意研究ト努力ヲ払ヒツツアレ共、滞納ノ整理ニハ専務吏員ノ必要ヲ痛感セラル」  とあり、志都美村では、政府所有米を困窮者に払い下げるため、村長専決の追加予算を組んでいるほどで、当然、税金の滞納者が増え財政が緊迫していることが考えられ、下田村とて同じような状態だったと思われる。  ところが、一方では、この頃各村が役場の庁舎を建設しており、その費用の捻出もあって、財政面の窮状を深めている感が強い。大正13(1924)年の五位堂村役場の新築、昭和3(1902)年の二上村役場の改築竣工、昭和6(1931)年、法楽寺、下田小学校を間借りしていた下田村役場の新築、さらに、昭和15(1940)年、志都美村役場の専用庁舎完成へと続く。明治の町村制施行以来ここへきてようやく村政の拠点となる役場の建設が完了する。 (3) 日中・太平洋戦争と村政  昭和のはじめに全世界を襲った経済恐慌の嵐は、日本の政界や財界にとって、尋常の策では克服しがたい課題となっていた。そのために、国外の市場を確保しようとする財界の要望と結びついた軍部の大陸進攻の画策は、満州事変(1931年)をきっかけにして、なしくずし的に大戦争への道を進む。  昭和12(1937)年7月7日、北京郊外の蘆溝橋での武力衝突が導火線となって、日中間に戦争が始まった。戦争の勃発とともに各村役場では、銃後の務めとして、出征兵士の家族の援護活動、勤倹貯蓄の奨励と国債や献金の消化など、村民が戦争に協力する運動を展開することになる。そして、各村は全国的な大政翼賛会の結成と相まって、消防組を民兵的な警防団に改組し、村会に代わる村常会を設置して、町内会・隣組など上意下達の下部組織を強化する。こうして戦争遂行にむけ、村民の総動員体制がつくられていった。  昭和16(1941)年12月8日、日本軍は長期戦に備える戦略物資調達のため、南方方面へ侵略を拡大する。当然、日本軍の侵略を阻止しようとして経済封鎖策をとる強国のアメリカ、イギリス、オランダとも戦争状態になり、太平洋戦争が始まる。翌年、奈良県では高田に葛城地方事務所を設置する。政府の訓令や通達などを迅速に各町村に伝達し、軍事優先の政治統制を強化するためである。村役場の行政は、生活必需品の配給や戦時公債の消化、徴兵をはじめ徴用や女子挺身隊・勤労報国隊などの動員事務等の国策を政府―県―地方事務所の指導のもとに進めていった。  特に、挙国一致や大政翼賛会の名のもとに結成された村常会は、村会議員、各種団体の責任者、学識経験者などから選任された参与が集まって、村議会にかわる審議機関として重視された。そして、役場・農会・産業組合・翼賛会などから提出される議案を審議し、戦時下村政の全般にわたる重要方針を決定すると同時に、生産、配給などの実権までもつようになった。もちろん、各村々の財政面は、通常の一般経費のほか戦時特別費、時局費、警防費など戦時歳出が増加し、村民の租税負担が高まる一方であった。そのうえ強制的な貯蓄と戦時国債や献金の割り当てのために、村民の家計は困窮し、日々の生活にさえ不安を感ずる人びとも現れてきた。 (4) 戦時下の村民生活  日中戦争から太平洋戦争へと戦域が拡大する中で、国家総動員法、国民徴用令、大政翼賛会、大日本産業報告会、学徒出陣、学徒動員など、次々に戦時政策が打ち出されて動員や統制が強化されていく。この間、香芝の村々では、働き盛りの若者や壮年が相次いで動員され出征していった。郷土に残された村人たちは、出征軍人の見送りや慰問、留守家族の援護活動、武運長久の祈願など、毎日が戦争に関わる明け暮れの日々であった。  緒戦での中国大陸における南京や武漢三鎮占領のニュースに、村人がわきかえり祝賀の旗行列をした。この頃から、負傷者や戦死者の公報が多くなってきた。そして、多くの日本人は、戦争への憎しみより勝利への執念といった感情をもつようになり、防空演習、軍用機献納などの銃後活動に積極に協力し、挙国一致の戦時政策に取り組むようになった。  戦局の進展にともなって国内の物資は少しずつ欠乏し、生活の必需品は、分配の公平さを期するために配給制が実施される。なかでも、日常生活に欠くことのできない食糧は、米で大人1人1日2合3勺とその配給基準が決められた。やがて配給米の中に麦や甘薯が代替として加えられ、魚や野菜の副食物まで配給制になった。しかも、配給日に遅れることや欠配することすらあって、非農家の人たちにとっては大変であった。一方、農家では、自家用の保有米を残して米・麦など食糧のすべてを供出し、その割当量を完納するのに人手や肥料不足で苦労する家が少なくなかった。  また、衣料品の購入には、切符の点数制が採用され、品目別に決められた点数が購入の際に切りとられて、点数がなくなると買えなくなる制度であった。このほか、マッチ、砂糖、酒、タバコなどすべて配給制で、その数量は少なく、抽選や順番制による分配方法がとられ、隣組や町内会の仕事も大変なものであった。  軍部が本土決戦を叫ぶ戦争の終り頃になると、国民は戦局の真相を知らされないまま、人びとの生活は耐乏の極に達していた。小学生は学校の運動場を開拓して甘薯をつくり、中学生や女学生に学徒動員令がでて軍需工場への動員があり、田植えや稲刈りの勤労奉仕にも出動した。  日本の多くの都市が空襲されて焦土化する頃には、軍需工場は破壊され軍部の抗戦力がとみに低下し、空も海もアメリカ空軍に制覇されてしまう。そして、ここなら安心と思っていた香芝でも、艦載機の来襲することがあって、村人はいよいよ戦争の終結の間近いことを感ずるようになった。  今日、戦争を否定する大人は多いが、こうした戦時下の自分の体験を、子どもたちに語ろうとする人は少ないのではないだろうか。しかし、悪夢の戦争を二度とくり返してはならないことだけは、心から念じずにはおれないのが戦争を体験した人たちの願いである。       香芝の歴史全編

10.香芝の誕生と発展  ポツダム宣言を無条件に受諾した日本は、連合軍の占領政策のもとに支配されることになった。その基本政策は、旧日本軍の解体と全体主義を排除するための、平和的な民主国家をめざす政治の実現であった。 香芝町旧庁舎  連合軍の日本進駐後、戦争責任者の軍事裁判や公職追放、自作農創設のための農地改革財閥解体と株式の民主化、天皇の人間宣言と新憲法の制定施行など、政府を指導して次々に日本の民主化政策を推進していった。その結果婦人の参政権がみとめられ、労働者の諸権利が保障され、税制改革や経済安定9原則の実行など、日本の政治や経済の再建に向っての新しい歩みが始まった。  戦後の世界は、連合国側にあったアメリカとソ連の両大国が、国際秩序を巡って鋭く対立するようになった。この対立は、資本主義体制を維持しようとするアメリカと社会主義体制を拡大しようとするソ連の抗争で、アジアの諸国の政治にも影響を及ぼし、各国の内戦にまで発展した。特に、昭和25(1950)年6月、38度線を巡って始まった朝鮮戦争は、戦後日本の経済復興に大きく影響し、昭和30(1955)年以降の神武景気・岩戸景気をはじめ、高度経済成長の時代を迎えるのであった。  予期しなかった科学技術の進歩と経済の高度成長は、家庭の電化製品・合成繊維・冷凍食品の浸透など、消費革命にともなう使い捨て時代を招き、産業構造の高次化や国民生活の高度化へと社会の様相を大きく変化させた。そして、大都市への人口集中と農山村の過疎化が進行すると、都市では交通や公害の問題が発生し、農・漁・山村では所得の低下が目立ってきて、政治や社会の深刻な問題となってきた。  大阪に近い私たち香芝市では、都心のドーナツ化現象と相まって、人口の増加が目立つようになった。その人びとの多くは、過疎化する地域から新しい仕事を求めての転住者であり、巨大化して住みにくくなった都市から新しい住宅を求める移住者であった。そして、これら新しい仲間を迎えるにあたって、市内の公共施設の拡充・道路整備や住宅団地の造成のため、未来像を設定して都市計画を推進する課題に取り組むことになる。 (1) 戦後の経済復興と諸産業の発展  戦後すぐに自作農の創設をめざす農地改革が実施され、小作農家の自作化は進んだが、経営の規模は零細化して耕地の集約的利用が必要になってきた。食糧不足の続く戦後の一時期には、稲作を中心に麦類や菜種の裏作、甘薯、馬齢薯の畑作に精を出すが、徐々に、西瓜や果樹類など現金収入の多い商品作物の栽培にも手をのばしていく。その結果、農家の経済は隆盛の一途をたどり、専業農家の戸数もその頂点に達する。  しかし、昭和30年代に入ると、農産物の豊作と工業製品の輸出の伸びによって「神武景気」が起こり、兼業農家の割合がめだって増加し始め、農業経営は機械化・省力化の方向へと急速に変化するようになった。一方、農家の副業的な仕事から発展してきたこの地方の工業は、靴下の製造、砥石や研磨紙の製造などが、戦前の生産基盤を受け継いで郷土の特産品として復活する。特に靴下の製造業は、戦時中の衣料不足に悩まされていた消費者の需要に支えられて、年々その生産が飛躍的に拡大し、常用労働者を他府県から求める企業が多くなった。このように靴下業界の発展はめざましく、地域の経済活動全体を活況ある方向に導いてくれた。  また、伝統的な金剛砂産業は、軍需産業時代に引き続き、金属機械工業の復興と発展にともなってますますその需要が増加する。かつて軍需産業として栄えた鋳物工業も、戦後の経済回復とともに平和産業の民需に転じ、五位堂を中心に郷土産業として復活した。こうした諸工業の復興は、地域の産業と経済にかつてみられなかったような活況をもたらしたのである。  京阪神という大消費地の近郊に立地する農家の経済的繁栄と、経営の基盤が確立していた伝統的な諸産業の復興によって、香芝の村々は、県下でも財政的に富裕な自治体といわれるまでに発展する。しかし、農村地域に点在する諸工業は、その工場の規模が小さく、家族的な労働力に依存した零細企業が多く、数少ない中企業もその製品の流通過程での販路に関わって、大企業の下請けや系列にくみこまれていく傾向が強くなってきた。特に、「神武景気」以降の「岩戸景気」「いざなぎ景気」と続く日本の高度経済成長下では、技術革新による産業合理化への対応が難しく、大企業の巨大資本の傘下に向かわざるを得なくなっている。 (2) 香芝町の誕生  明治22(1889)年の近代町村制の実施によって成立した五位堂・下田・二上・志都美の各村は、わが国の近代化とともに歩み続け、第2次世界大戦後の「地方自治法」のもとに、地方公共団体としての新しい自治組織が確立する。しかし、新しい6・3・3制の教育制度を推進する中で、先の4か村は、昭和24(1949)年に組合立の香芝中学校を発足させた。  地方自治の具体化による行政の多様化は、全国の弱小な自治体にとって大きな財政的な負担となった。その課題の解決策として、政府は町村合併を促進し、地方財政の確立をめざした。昭和28(1953)年法律第258号で、「町村合併促進法」が公布され、市町村の行政区域を拡大する取り組みが始まる。全国の各地で町村合併が成立した報道が多くなってくると、香芝中学を組合方式で設立した4か村は、法律にもとづく審議会を設置して、合併の協議を軌道にのせる。  まず昭和30年9月に五位堂村と下田村の間に合併約定書が交換され、合併促進協議会が設置されることになった。続いて同年12月に二上村で「香芝中学校関係村の合併を理由として漸進すること」の決定があって、合併促進協議会がつくられる。翌31年2月には志都美村で五位堂村・下田村・二上村・志都美村合併促進協議会が設置され、4か村の合併に関する協議が本格的に進展した。  2月の中旬になって、志都美村のうち畠田の一部は1年後に王寺町へ境界変更すること、新しく建設する庁舎の位置は近鉄下田駅周辺とすること、新町名を香芝町とすることなど合併のための基本方針がまとめられ、遂に3月13日下田村役場会議場で正式に調印されるはこびとなった。  式後ただちに合併申請書が奈良県知事に提出され、おりよく開会中の県議会の本会議に提案議決されるスピード決定で、県から政府に上申書が提出された。昭和31(1956)年3月29日付け総理府告示第80号には、「地方自治法第7条第1項の規定により、奈良県北葛城郡五位堂村・下田村・二上村及び志都美村を廃し、その区域をもって香芝町を置く旨、奈良県知事から届出があった右の廃置分合は、昭和31年4月1日からその効力を生ずるものとする」と官報告示され、住民待望の新しい「香芝」が誕生した。 (3) 農業の変化と住宅地の増加  昭和30年代になると、日本の経済が急速に成長し、産業構造はより高次な方向へと進み、第2・第3次産業の就業率は年々高まってくる。その結果、市内の専業農家戸数は急激に減少し、兼業化する農家、特に第2種兼業の農家の増加が目立ってきた。  大阪方面への通勤に至便な市内からは、都市の工場や会社などへの通勤者が増え、離農して他産業に従事する農民が多くなった。裏作を放棄して省力のための機械化が進むと、専業の農家でも副業的に小規模な事業を始めたり、勤務の休日を利用して自家用の飯米だけを確保する農家が増え、農業収入以外の収入の道に重点を置く農家の生活にかわる。  昭和40年代に入ると、輸入食料品の増加傾向が強くなり、政府が水田の作付減反の休耕政策を実施し、農業の収益性が徐々に悪化の一途をたどる。一方鉄道による大阪への通勤圏にあった市内にさらに西名阪高速道路が開通し、大阪のベッドタウン化が進み、農地は次第に住宅地に転用されていく。そして、昭和35年に358戸あった専業農家は、10年後の昭和45年には81戸に激減し、農業生産額の市民所得に占める割合は急速に低下した。農地の宅地化は、従来少しずつ近鉄や国鉄の駅周辺を中心に進められていたが、昭和43(1968)年に制定された新都市計画法にもとづき、市街化区域及び市街化調整区域の線引きが行なわれ、新しいまちづくりが計画的に推進されることになった。  ともあれ香芝市では、磯壁や良福寺などかつての田園地帯に新しい団地がひらけ、明神山の東南斜面や馬見丘陵の南部の丘陵地帯も造成されて新興住宅地がひらけつつある。そして、石器時代以来幾世代もの先人たちが、生活の舞台としてきた二上山北麓は、今や近代的な住宅都市に変貌しようとしてしている。 (4) 香芝市の発展  香芝町の誕生にあたって、4か村が提出した合併申請書には、「北葛城郡五位堂村、下田村、二上村及び志都美村は、二上山麓の北東部に位置する平坦地区にして、何れも隣接し、祭礼、風俗、習慣を同じうし、地理的条件経済事情も類似し、……」と述べている。また、新町名についても、香芝町と決定するまでには、新町域の大同団結と平和な町づくりを願い「大和町」と呼称しようとする意見も強かった。こうした合併に対する新町民の期待にこたえ、各地域の住民は、徐々に旧村への断ち難い郷愁と愛着を超越して、今日まで新町の発展のために結集してきた。  そして、20年後の昭和51(1976)年までには、町役場の新庁舎建設をはじめ、小学校・中学校の新、増改築や上水道、町道敷設などの公共事業を、次々と遂行する。以後引き続いて総合体育館や中央公民館の建設、都市計画街路の敷設、河川・水路の改修事業など計画的なまちづくりが着々と進められている。  一方、各地域の住宅団地の造成が進み、昭和61年度には、総世帯数は12,000世帯を越え、人口が5万人を超える日も間近くなってきた。こうした町勢の急速な発展の背景には、香芝市の未来像が商都大阪のベッドタウン化の方向にあって、将来その機能を整備していかなければならない課題を鮮明にしている。  ことに近年大都市には、大気汚染や、騒音公害、交通問題など幾多の都市問題が生じ、郊外への人口流出が目立ってきた。こうした社会情勢の中で、大阪の都心部から25kmの近距離に位置する当市は、大阪市とその周辺の各都市への通勤圏であるため、住宅地としての地理的な有利さに注目を集めるようになった。したがって、香芝市の未来には、近畿圏東部の地域開発に関わって、奈良盆地西部における中心的役割をもつ新しい都市づくりの課題もある。  これから私たちは、香芝の市内に新しく住居を求めてやってくる人びとと共に、豊かな自然美と秀れた歴史的風土を大切にして、住みよい都市づくりをめざして取り組まなければならない。  

香芝の沿革


 「香芝」。その名の歴史はまだ新しく、命名の由来は、昭和31年の五位堂村、下田村、二上村、志都美村4村合併の少し前、昭和24年に開校した4村及び當麻町の一部の組合立「香芝中学校」の「香芝」を採用したものです。  この名は、広く一般から公募し、当時の県視学中川良秀氏らによって命名されました。「香芝」は、香芝中学校がある小字「香の池尻」の俗称地名「カマシバ」の転訛の説が有力で、大字の「鹿島」があったことや下田の鹿島神社の鎮座する「鹿島(カシマ)」との間に小字「鹿島前(カシママヘ)」があったことや、これが、「カマシマヘ」と訛り、音節の転倒によって「カマシバ」・・・「コウノシバ」「香の芝」となったのだと考えられています。
昭和元年以降  昭和50年以降  平成元年以降  平成10年以降 年月日 沿     革 明治 初め頃 このころ、穴虫出身の安川亀太郎が金剛砂を売り歩き、やがて全国に知られるようになる。
明治5年 奈良県管轄 第10大区6小区 別所・瓦口・狐井各村
第10大区2小区 北今市・今泉・平野・高・上里・中筋・畠田各村
第10大区4小区 逢坂・穴虫・関屋・田尻各村
第10大区5小区 磯壁・畑各村
不詳 五位堂・良福寺・鎌田・下田・五ヶ所各村
明治7年2月 五位堂村1村で一公立小学校を設立。五位堂村宝樹寺堂宇を仮校舎とする(現五位堂小学校)
明治7年3月 学制発布により奨道館並びに分校今泉支校設立(現志都美小学校)
明治7年4月1日 下田・狐井・五ヶ所による誠弘舎、逢坂・北今市による健業舎を設立し、学校として創設する。(現下田小学校)
明治7年5月1日 穴虫校区に小学校が創立され、旧寺小屋の師匠や寺院の僧侶が指導にあたる。(現二上小学校)
明治7年 奈良県管轄 第3大区9小区 別所・瓦口・五位堂・良福寺・鎌田・狐井・下田・五ヶ所各村及び今在家・染野・新在家・野口各村
第3大区10小区 北今市・逢坂・穴虫・関屋・田尻・磯壁・畑・今泉・平野各村及び加守村
第3大区11小区 高・上里・中筋・畠田各村及び上牧・下牧・門前・王寺各村
明治9年 奈良県管轄から堺県管轄へ 第4大区1小区 別所・瓦口・五位堂・良福寺・鎌田・狐井・下田・五ヶ所・逢坂・穴虫・関屋・田尻・磯壁・畑各村
第2大区4小区 北今市・今泉・平野・高・上里・中筋・畠田各村
明治13年 堺県管轄 高市・葛上・葛下・忍海郡役所(御所)第3連合戸長役場部内(役場:下田村)
明治14年 大阪府管轄 下田村・五ヶ所村連合戸長役場
各村戸長役場
明治17年〜21年 大阪府管轄から奈良県管轄へ 第39戸長役場 五位堂村、瓦口村、良福寺村、別所村、鎌田村
第41戸長役場 下田村、北今市村、逢阪(坂)村、五ヶ所村、狐井村
第42戸長役場 穴虫村、関屋村、畑村、田尻村、磯壁村
第44戸長役場 上里村、中筋村、高村、畠田村、平野村、今泉村
明治20年 上里村と中筋村が合併。上中村となる。
明治22年3月2日 葛下郡五位堂村、瓦口村、良福寺村、別所村、鎌田村が合併。五位堂村となる。
葛下郡穴虫村、関屋村、畑村、田尻村、磯壁村が合併。二上村となる。
葛下郡下田村、北今市村、逢阪(坂)村、五ヶ所村、狐井村が合併。下田村となる。
葛下郡上中村、高村、畠田村、平野村、今泉村が合併。志都美村となる。
明治24年3月1日 大阪鉄道下田駅開業(現JR下田駅・大阪鉄道は明治33年関西鉄道に合併吸収、明治40年国有鉄道になる。)
明治40年頃 奈良県に靴下産業が興る。
昭和 昭和2年 大阪電気軌道株式会社(現近鉄)五位堂駅・大軌下田駅・二上駅・関屋駅開業
昭和4年 大阪鉄道二上山駅開業(現近鉄二上山駅)
昭和6年 奈良自動車(現奈良交通)下田・王寺間営業開始(開戦とともに営業停止、終戦後再開するも営業不振で営業停止)
昭和24年4月1日 下田村・二上村・志都美村・五位堂村組合立香芝中学校(現香芝中学校)が開校
昭和30年12月27日 国鉄(現JR)志都美駅が開業
昭和31年4月1日 北葛城郡五位堂村・下田村・二上村・志都美村が合併。香芝町となる。
昭和32年1月1日 大字畠田の一部を王寺町に編入。香芝町大字畠田を大字尼寺に改称。
昭和36年10月 商工会が発足
昭和38年7月 中央公民館(現香芝幹部交番前)が開館
昭和42年3月 下田小学校の改築現場(通称藤山)から約1300年前の石棺などを発掘 昭和42年12月15日 下田小学校の新校舎が完成 昭和43年2月20日 二上小学校の新校舎が完成 昭和43年4月1日 みつわ保育所開所 昭和44年3月 西名阪自動車道開通(香芝料金所営業開始) 昭和44年8月1日 上牧町の一部を香芝町に編入 昭和45年5月 人口が20,000人を突破 昭和45年10月 葛城広域市町村圏協議会(大和高田市・御所市・広陵町・新庄町・當麻町)が発足 昭和46年2月26日 五位堂小学校の新校舎が完成 昭和46年4月6日 関屋小学校が開校(二上校舎・関屋校舎に分かれて授業開始) 昭和46年11月20日 ゴミ焼却場が完成 昭和47年2月2日 水道タンクが完成し、旭ヶ丘地区に水道部が移転(現香芝市水道局) 昭和47年4月8日 五位堂幼稚園・下田幼稚園が開園 昭和48年4月9日 二上幼稚園が開園 昭和49年4月9日 志都美幼稚園が開園 昭和50年7月1日 下田、畑及び磯壁の一部を下田西一丁目〜四丁目、藤山一、二丁目及び本町に町名変更並びに一部住居表示を実施 昭和50年10月 消防本部・消防署を設置 昭和51年4月 新庁舎が完成。旧庁舎(現シルバー人材センター)から移転 昭和51年4月8日 関屋幼稚園が開園 昭和51年8月1日 下田及び北今市の一部を下田東一丁目〜五丁目に町名変更並びに一部住居表示を実施 関屋、田尻、上中及び今泉の一部を関屋北一丁目〜八丁目に町名変更並びに一部住居表示を実施 昭和52年4月5日 三和小学校が開校 昭和52年8月1日 磯壁及び良福寺の一部を磯壁一丁目〜七丁目に町名変更並びに一部住居表示を実施 畑、下田、逢坂の一部を畑一丁目〜七丁目に町名変更並びに一部住居表示を実施 昭和53年2月 人口が30,000人を突破 昭和53年4月 老人福祉センター(現シルバー人材センター)開館 昭和53年4月5日 三和幼稚園が開園 昭和54年4月 総合体育館が開館 昭和54年6月23日 下田及び五ヶ所の土地区画整理地内を西真美一丁目〜三丁目に町名変更 昭和55年4月1日 中央公民館(現モナミホール含む)が開館 奈良県立香芝高等学校が開校 昭和57年4月5日 香芝西中学校が開校 鎌田小学校が開校 昭和58年4月5日 真美ヶ丘東小学校が開校 昭和58年6月 人口が40,000人を突破 昭和59年4月 いこいの広場がオープン 昭和59年4月5日 香芝東中学校が開校 昭和59年7月 総合プールがオープン 昭和59年10月 第39回国民体育大会「わかくさ国体」バレーボール競技成年男女9人制開催 昭和60年4月 真美ヶ丘保育所が開所 昭和61年2月26日 平野、今泉及び尼寺の土地区画整理地内を白鳳台一、二丁目に町名変更 昭和61年5月6日 別所、瓦口、下田、五ヶ所の及び鎌田飛地の土地区画整理地内を真美ヶ丘一丁目〜七丁目に町名変更及び住居表示を実施(広陵町との間で一部行政界変更) 昭和62年4月 健民テニスコートがオープン 樟蔭女子短期大学(現大阪樟蔭女子大学)が開校 昭和62年5月 高塚地区公園が開園 昭和63年3月28日 下田、五ヶ所及び瓦口の土地区画整理地内を西真美一丁目〜三丁目に町名変更 昭和63年4月6日 真美ヶ丘西小学校が開校 昭和63年4月11日 真美ヶ丘東幼稚園が開園 鎌田幼稚園が開園 昭和63年11月 人口が50,000人を突破 平成 平成元年4月 香芝・広陵消防組合が発足 平成2年4月 財団法人香芝市文化振興財団が設立 青少年センターがオープン 平成3年10月1日 県下10番目、全国660番目の市として市制施行、「香芝市」が誕生 逢坂、畑及び藤山二丁目の一部を逢坂一丁目〜八丁目に町名変更 尼寺及び平野の一部を尼寺一丁目〜三丁目に町名変更 大字・小字を廃止、すべて新町名に(例:大字上中→上中) 平成4年3月1日 葛城広域行政事務組合(大和高田市・御所市・広陵町・新庄町・當麻町)が発足 平成4年4月 市民図書館、二上山博物館、市民ホールの複合文化施設「ふたかみ文化センター」がオープン 平成5年9月 二上山博物館が、市町村立として県内初の登録博物館に指定される 平成5年11月30日 香芝市が関西ハイビジョン・アウォードKHCグランプリ企画賞を受賞 平成5年12月 五位堂派出所が五位堂駅前に完成 平成6年5月1日 JR下田駅前自転車駐車場がオープン 平成6年8月1日 北今市、逢坂、畑及び上中の一部を北今市一丁目〜七丁目に町名変更 平成7年4月5日 旭ヶ丘小学校が開校 平成7年7月 高田バイパスの穴虫−加守間が開通 平成7年9月1日 ごみの完全分別収集を実施 平成7年11月 香芝・広陵消防組合消防本部、香芝消防署の新庁舎が完成 平成8年4月10日 尼寺廃寺跡で日本最大級の心礎が発見され、金環などが出土 平成8年11月3日 市民まつりの「ふれあいフェスタ」が始まる 平成9年5月1日 郵便局・保育所に市民課連絡所を開設 平成9年6月 二上駅前北側広場オープン 平成9年7月 青少年野外活動センターがオープン 平成9年8月 人口が60,000人を突破 平成9年12月 近鉄下田駅前広場、地下自転車駐車場オープン 平成10年4月 休日(土曜日)サービスコーナーをふたかみ文化センターに設置 平成10年9月 台風7号が本市付近を直撃、甚大な被害を受ける 平成10年10月1日 総合福祉センター、かしば・屯鶴峯温泉オープン 平成10年10月5日 無料公共バスの運行を「すみれ号」「ふれあい号」「ふたかみ号」の3車で開始 平成11年2月 総合福祉センターに福祉図書館がオープン 平成12年2月7日 五位堂及び鎌田の一部を五位堂一丁目〜六丁目に町名変更 平成12年1月18日 社団法人香芝市シルバー人材センターが設立 平成12年4月8日 香芝北中学校が開校 平成12年6月1日 ペットボトル、紙パック、有害ごみなどの分別収集を開始 平成12年10月20日 高山台一丁目〜三丁目の新町名が誕生 平成12年11月 「香る芝生」ローマンカモミールをまちの新イメージとして発信 平成12年12月 情報公開条例を制定 平成13年3月5日 戸籍事務をコンピュータ化する 平成13年3月13日 平野2号墳から特殊構造の横穴石室が発見 平成13年3月22日 近鉄五位堂駅に快速急行が停車 平成13年3月 香芝市男女共同参画プランを策定 平成13年3月 香芝市生涯学習基本計画を策定 平成13年4月 近鉄関屋駅前広場供用開始・関屋駐在所・志都美交番新装 平成13年4月15日 社会福祉法人鳳雛会が重度身体障害者療護施設「どんぐり」を開設 平成13年4月29日 今池親水公園開園 平成13年6月1日 知的障害者デイサービスセンター「すみれの里」がオープン 平成13年8月 二上駅南側駅前広場が完成 平成13年9月13日 香芝中学校大規模改修 平成13年9月 尼寺廃寺南遺跡で法隆寺の創建瓦が出土 平成13年10月1日 香芝市制施行10周年 平成13年10月1日 香芝市民憲章制定 平成13年10月1日 香芝市マスコットキャラクター「カッシー」誕生 平成13年11月16日 文化審議会が尼寺廃寺遺跡を国指定史跡に答申 平成13年12月23日 冬の夜を彩る光と音の祭典「冬彩」がこの年から始まる 平成13年12月24日 香芝中学校陸上部が全国駅伝大会を制覇 平成14年1月 下田東遺跡で帆立貝型前方後円墳を発見 平成14年1月18日 県下市町村初の女性模擬議会を開催 平成14年6月18日 ワールドカップサッカーで香芝市出身の楢崎正剛選手が日本代表ゴールキーパーとして決勝トーナメントに出場 平成14年8月20日 第19回奈良県消防操法大会で香芝市消防団が2回目の優勝 平成14年9月15日 公共バスを1台増車し、「カッシー号」と名付ける 平成14年11月3日 日本代表ゴールキーパー楢崎正剛選手に「香芝市民栄誉賞」を贈呈