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大西ゼミ論文集
 2002年度に行われた国際関係論(基礎)演習の授業に於いて提出されたゼミ論を掲載しています。皆さんに読んでいただき、感想や意見などを頂ければと思います。感想・意見などは掲示板にどうぞ♪
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国際機構における民主主義に関する一考察

―「国連の民主化」論を手がかりに―

                 東北大学法学部3年 齋藤智弘


はじめに

 

 現在、国連に限らず様々な所で国連改革が議論されている。その国連改革の一部にいわゆる「安保理改革」(正式には、安全保障理事会の議席拡大と衡平分配及び関連事項)という国連議題がある。日本の常任理事国入り問題がテレビや新聞等で話題になっており、安保理改革は、日本でよく知られた国連議題であろう。

 安保理の歴史を考えると、安保理改革が議題として議論されるようになった歴史は長いように思われる。なぜなら、冷戦開始直後に、安保理は機能不全(いわゆる「安保理の麻痺」)状態に陥り、この「安保理の麻痺」の解決のために、安保理改革を議論したと考えられるからである。しかし実は安保理改革が国連の議題として議論され始めたのは、冷戦終焉後の1992年のことである[1]。さらに言えば、この1992年に安保理改革を国連の議題として提出したのは、現在の日本のような安保理の常任理事国入りに積極的な国ではなく、非同盟諸国の中心的存在であるインドやインドネシアであった。皮肉にも、超大国の対立が解消された冷戦後に安保理改革の議題が提出されたのである。つまり、冷戦後に安保理改革が議題として提出された背景には、東西対立ではなく、南北問題が大きく関わっていたのである。

冷戦が終焉して、まず国際社会において、東西の緊張関係の解決に伴う国際社会の平和が訪れると考えられた。さらにその国際社会の平和は、冷戦で機能が停止していた国連が再生することにより達成されると考えられた。しかしここで言う「国連の再生」は、最上敏樹が指摘するように国連全体の再生というよりは、国連の主要機関の一つである、「安保理の再生」を意味していた[2]

 しかも安保理は、拒否権や常任等の特権を持つ5つの常任理事国(アメリカ合衆国、イギリス、フランス、中国、ロシア[3])を中心とする機関である。国連創始者のルーズベルトやチャーチルは、安保理における常任理事国を中心に国際の平和と安全を維持しようとしていたのである。このような大国中心の安保理を、モーゲンソーは、国連の中の「神聖同盟」と表現し、常任理事国を「神聖同盟の中の神聖同盟」と表現した[4]。故に、冷戦後の「国連の再生」は、大国の支配の復活(開始)を意味していた。

ここで危機感を持ったのが、非同盟諸国を中心とする発展途上国である。安保理が麻痺している間、国連の総会において多数を占め、大国よりも国連において意見を反映していた発展途上国が、安保理が再生することで発展途上国の国連での影響力が下がってしまうことを危惧したのである。このような経緯から、発展途上国は大国の支配を防ぐために「国連の民主化」を掲げ、安保理改革を議題として提出したのである[5]

その発展途上国の「国連の民主化」論(国連改革案)は、安保理における大国の権限縮小、発展途上国の権限拡大および総会の権限強化を図ることを主な主張としていた。

しかし、発展途上国が主張している「国連の民主化」を、国際機構における民主主義という観点から考えると、以下の3つの問題点が指摘できる。@「国連の民主化」の根拠を、主権平等に置き、形式的平等を主張していること。Aアクターを国家に限り、アクターの多様化に対応していないこと。B国連における民主主義の概念が曖昧であること。

@「国連の民主化」の根拠を、主権平等に置き、形式的平等を主張していること。

 発展途上国が主張している「国連の民主化」とは、形式的主権平等を根拠に常任理事国の特権を縮小することを意味していた。国連憲章第2条第1項の主権平等を、形式的平等と解釈すれば、すべての国家には同等の権利、同等の義務を持つことが保障されている。しかし、この主権平等の解釈は、安保理において妥当するのであろうか。例えば、この発展途上国の意見に対して、各国の国力[6]の差や安保理内での責任の差を鑑みて、実質的な主権平等の観点から拒否権は正当であるとの反論もできないこともない。これは、「国連の民主化」論における主要な議論である。

Aアクターを国家に限り、アクターの多様化に対応していないこと。

さらに主権平等と言うとき国家のみがアクターとして認識されているが、国際社会には現在、政府間組織(IGO)、非政府組織(NGO)や多国籍企業など様々なアクターがいる。安保理においてもNGOがオブザーバーとしての地位を与えられており、それらのアクターについて発展途上国の「国連の民主化」論においては考察されていない。

B国連における民主主義の概念が曖昧であること。

また、そもそも国連の民主化とは何であろうか。発展途上国の民主化では、主権平等の側面しか考えられていないように思われる。国連における民主主義=主権平等ということなのだろうか。国連における民主主義の議論はこんなに単純な図式ではないだろう。なぜなら、もし国連を普遍的な組織であると捉え、国連が国際社会の組織化の一部であるとするならば、国連における民主主義を考察するためには、国際社会における民主主義との関連の中で考える必要があるからである。

民主主義について少し述べると、千葉眞によれば[7]、古代民主主義と、近代民主主義(自由民主主義)とは別のものであるという。つまり理想としての民主主義は一つかもしれないが、歴史上現実に存在していた民主主義は大別して上記の二つ、細かくはいくつもあり、現実の民主主義は多種多様であるというのである。国際社会における民主主義は、単純に国内の民主主義と同じであると考えることもできるが、民主主義の形態が様々であり一つでないのならば、国際社会固有の民主主義があるとも考えられるのではないだろうか。そして、実際に、現在、国際社会における民主主義およびグローバル・デモクラシーを探る研究は盛んである。

 本稿では、発展途上国の主張する「国連の民主化」論を再考し、その問題点を指摘しながら、国際機構[8]と民主主義の議論の考察を行っていく。そして、国際機構における民主主義の考察においては、新たな視点としてグローバル・デモクラシーを採用して考察したい。

ここで、本論に入る前に、発展途上国の「国連の民主化」論で、批判されている安保理の常任理事国の特権である「常任」と「拒否権」について基礎知識として知っておいたほうがよいと思うので、本論に関連する範囲で簡単に述べたいと思う[9]

常任

 まず常任という特権に関して述べる。常任とは、その名の通り、安保理に常に代表を送る特権、より正確にいうならば安保理に選挙を経ずに常に代表を送ることができる特権のことをいう[10]。また常任理事国は、安保理以外にも慣行によって、様々な機関に自国の代表を送ることができる特権も持っている。つまり常任理事国は、政府代表のいない事務局を除く国連内のほとんどの会議において意思決定に参加できるのである。このことにより、常任理事国は国連内で大きな影響力を振るうことができる。

拒否権[11]

 次ぎに、拒否権(veto power[12])について述べる。そもそも拒否権とは、憲章において明示的に保障されている権利ではなく、安保理の非手続事項(実質事項)の決定に関する国連憲章第27条第3項の規定、「常任理事国の同意投票を含む」の反対解釈、もしくは主観的解釈である。つまりこの条文を反対解釈すると、常任理事国一カ国が単独で理事会の決定を妨げることができるとなり、それを「拒否権」(veto power)と呼ぶのである。

この拒否権が行使できる事項には、憲章第6章、第7章および94条2項の一般に安保理の決定とされる事項以外にも、国連憲章の改正、新しい加盟国の承認、事務総長の任命などがある。これらの事項を一国の意見だけで否決できることは、国連内においてだけでなく国際社会においてかなりの影響力を行使できることを意味する。

さらに、付言しておきたいのが、拒否権は使われなくても効果があるという事である。拒否権には、例えば、使うかのようにほのめかし安保理理事国に圧力をかけることができる効果や、そもそも常任理事国が拒否権を使用しそうな決議は始めから提出されないなどの効果があるのである。これはpocket veto(ポケットの中の拒否権)と呼ばれる。27条3項で保障されている拒否権の効果を、法的な効果と言うならば、このpocket vetoは、政治的な効果と言えるだろう。そしてこれら拒否権の法的、政治的効果により、常任理事国は、安保理内だけでなく、国連全体において、権力関係の上で有利な位置を保障されているのである。以上が常任理事国の常任および拒否権という特権である。

では、以下本稿を次ぎのように進める。まず第一章において、発展途上国の「国連の民主化」論の問題点@「国連の民主化」の根拠を、主権平等に置き、形式的平等を主張していること、について考察するために、発展途上国の「国連の民主化」論とそれに対する批判を振り返る。また、従来の「国連の民主化」論において、議論されている「民主主義」の内容を検討する。第二章では、従来の「国連の民主化」論に足りなかったもの、つまりAアクターを国家に限り、アクターの多様化に対応していないこと、B国連における民主主義の概念が曖昧であることを考察する。Aに関しては、アクターを国家のみに限って議論できるのかを考察し、またこのような考え方に対して影響を与えている考え方を指摘する。Bに関しては、そもそも国際機構と民主主義はどのように議論されてきたかを振り返り、それをふまえて今後どのような議論が必要かを検討する。第三章では、第二章で明らかにした今後の国際機構における民主主義の方向性をより具体化し、実際に国際機構が民主的か否かを判断するには、どのような方法ですべきなのかを考察する。そして、実際にその方法で、国連は民主的か否かを考察していきたい。最後に、これらをまとめてむすびとしたい。


 

 

 

第一章 従来の「国連の民主化」論の再検討

 

この章では、従来の「国連の民主化」論が、どのように議論されてきたかを振り返り、その問題点を探っていく。そのために、まず常任理事国の特権を批判している発展途上国の「国連の民主化」論を、次に、発展途上国の「国連の民主化」論に対しての法的、政治的批判を概観していく。

 

1、発展途上国の主張する「国連の民主化」

常任理事国の特権は果たして、妥当なものなのだろうか。妥当でないとするのが、「国連の民主化」を主張している発展途上国であろう。発展途上国の安保理改革における主張や拒否権否定論者[13]によれば、以下の二点において妥当しないとしている。

@国連憲章2条1項で保障されている主権平等を形式的平等と捉え、各国に差を設けることは主権平等違反であること。

A民主主義の原則に反すること。

平等の観点で捉えるならば、これらの主張における、拒否権は「投票」面における形式的不平等、常任は「代表」面における形式的不平等と言えるだろう[14]

発展途上国が、このような「国連の民主化」論を唱えた背景には、新制度論者のマルティラテラリズムとリアリストのミニラテラリズムの論争があると考えられる。1980年代、新制度論者は、マルティラテラリズム理論を提唱した。マルティラテラリズムとは、国際レジーム[15]が、三カ国以上で構成され(R・コヘイン)、決定参加における国家間の「平等」という行動の原理で運用されるとき(J・ラギー)のことを言う[16]。ここでの「平等」は、形式的平等である。このマルティラテラリズム理論によれば、国際機構の決定参加において形式的平等が確立しているため、小国の立場をより反映できるという。

しかし、この新制度論者のマルティラテラリズムに対して、リアリストは以下のように反論した。マルティラテラリズムは形式的なものでしかなく、国際機構の重要な決定は、メンバーの中核をなす少数の(大)国によって決定される「ミニラテラリズム」である。実際国連は、総会においてはマルティラテラルを採用しているが、安保理では、常任理事国を中核としたミニラテラルを採用している。

ここで、発展途上国は、安保理においても、マルティラテラリズムを実現しようとし、「国連の民主化」論を唱えたと考えられるのである[17]

 

2、「国連の民主化」に対する批判

では、次ぎに、発展途上国の「国連の民主化」論に対する批判を見ていくことにしよう。まず@の主張に対する法的な観点から見た批判を見ていく。@の意見に対する代表的な法的な批判としては、常任理事国は、「国際の平和と安全の維持」に関して、実質上重要な義務を負い、拒否権や常任等の特権はそれに見合った権利であるという批判がある。これは、拒否権や常任等の特権を、実質的平等の観点から正当化するものである[18]国家間には人口、軍事力、経済力などによる格差が著しいため、実質的平等を採用したほうがより平等を図れる場合があるというのも事実である。例えば、人口で言うならば、中国とモナコには大きな人口格差があり、扱われる問題ごとにこれらの国家の扱いを変えることは許容されるというのがこの実質的平等の考えである。

また、この批判とは別に、以下のような批判もある。その批判とは、常任理事国の特権は、国際機構設立条約等の内部法上の問題であり、「加盟国の国家としての機構外の機能や地位とは、必ずしも直接に結びつかない」というものである[19]。国際法上、国家は、国際機構設立条約に合意し、加盟した以上、特別な問題がない限り、違法であるとは言えない。故に、加盟国は、加盟の段階で、特権を認めたことになり、常任理事国の特権を主権平等の観点から批判するのは、法的な議論としては成り立たないことになる。そしてこの理論上、もし合意しないのであれば、加盟しないという選択肢を取るということになる。故に、この理論によれば、常任理事国の特権に対する「国連の民主化」論のような批判やそれに対する批判も意味をなさないことになる。

しかしこの理論は、あくまでも法的な議論においてのみ妥当する議論であり、現実を考えると妥当性の低い理論であると考えられる。なぜなら国連などの主要な国際機関の内部制度に不満を持ちつつも、それらの国際機構に加盟するということは往々にしてあることだからである。一般に、国家は国際機構への加入と国際機構内の制度に対する不満を利益考量し、不満を持ちつつも加入するという場合が多いのである。

例えば、多くの発展途上国は、国際機構について不満を持ちつつも加入する傾向にあると指摘できる。その理由として、一つに、発展途上国にとって、国際機構は国際社会において影響力を行使できる数少ない場であるということが挙げられる。先進国は、国際機構を使ってだけでなく、様々な方法で国際社会対して影響力を行使しているし、できるのだが、発展途上国は、主に国際機構を通してでしかほとんど国際社会に影響力を行使できない。

また発展途上国は、先進国とは違い、国際機構に拠出する資金や資源等の額は少なく、意見が通らない機関においては、不利益は意見が通らないというだけである。故に、多数決制度を採用している国際機構であれば、投票権を、援助を引き出す取引材料として使うなどして利用するために、国際機構に加盟しておいたほうが、発展途上国にとってはより利益が大きいと言えるのである

もう一つの理由として、加盟国の構成が普遍的な国際機構においては、先進国、特に覇権(hegemony)を持った国家が有利に国際機構を設立できるという事実がある。このような傾向が強い理由としては、覇権国(hegemon)は、自国が最大の利益を得られる現状を維持するために、国際機構やレジームを形成することと[20]、国際機構の実行力を確保するためには、覇権国の存在がなくてはならないことが挙げられる。そして、国際機構設立に有利な立場にある覇権国は、形式的平等より、自国の利益になる実質的平等に基づく国際機関を設立するのである。

 結論として、加盟国の国際機構設立条約に批准する合意は、不満がまったくないとの意味での合意ではなく、不満があるが利益考量に基づく合意と考えるのが妥当であると言える。国際機構設立条約に合意すれば、国際機構の制度に対する批判は意味をなさないとする理論は現実性のない理論であると言えるのではないだろうか[21]

 では、実質的平等に対する批判はないのであろうか。常任理事国の特権を実質的平等の観点から正当化する意見に対しては、以下のような批判が提示される。従来の国家主権は絶対的なものであり、主権に差を設けたりしてはならないものではなかったのかという批判である。実質的平等を図るためとはいえ、国家主権を制限したり、国家主権に権利という形で差を設けたりすることは妥当することなのだろうか。

では、次に国連における常任理事国の特権の妥当性を、主権平等の観点から検討するために、常任理事国に特権が与えられた経緯や、他の国際機構における主権平等と投票制度の関係を見てみることとしよう。では、まず国連の前身の機構である国際連盟における投票制度はどのようなものであったのだろうか。

 

3、国際連盟における主権平等と投票制度

国際連盟における常任

国際連盟の投票の参加においては、常任という特権がすでに認められていた。常任という制度は、大国による国際社会の運営、例えばウィーン会議や四国同盟などの名残であると考えられる。つまり主権国家体系において、大国が参加しない会議は実行力のないものと考えられており、大国が常に参加する会議や大国だけの会議というのが、普通であったようである。

国際連盟における投票権

しかし国際連盟における投票権は、国連とは違うものであった。国際連盟規約第5条第1項によれば、別段の定めがないときは、全会一致の原則に基づき採決を取ることになっていた。全会一致は、言い換えると、すべての国家に拒否権が認められていることになる。このことを、平等の観点から見ると、一国一票でしかも全加盟国に拒否権が認められているため形式的平等と言えるだろう。また主権の観点から見ると、この全会一致の制度は、国家は自身が合意しないものには絶対に拘束されないことを保障しており、主権の絶対性を完全に認めたものと言えるであろう。つまり国際連盟における投票制度において国家には、主権の絶対不可侵と主権の形式的平等が認められていたのである。この全会一致の原則による投票制度は、近代国家が成立し、主権の絶対性が認められていた第一次世界大戦前後までは主流であった。

国際連合で拒否権が認められた背景

しかし、国際連盟が第二次世界大戦を防ぐことができなかったため、国連においては、国際連盟とは違った制度が導入されることとなった。特に、国際連盟の失敗とされる、全会一致の原則と大国の不加盟に関して、それらを克服すべく投票面において工夫がなされることとなった[22]

まず、全会一致の原則に関して述べると、全会一致の原則は、主権の絶対性は守られ、決定の実行力はあるものの、二つの問題があると考えられる。一つ目の問題は、全会一致の原則は、合意することが容易である事項でしか決定をすることができないというものである。二つ目の問題は、少しでも対立点があれば合意はできないため、合意を得るまでに時間が掛かり、迅速性がなくなるというものである。このため国連においては、安保理の決定の迅速性を確保するために、主権の絶対的保障のための全会一致の原則を修正し、多数決制度を導入することとなった。

次に、大国の不加盟に関して述べると、国際連盟には大国が加盟しておらず[23]、国際連盟は国際紛争に対して有効な行動ができないという事態が生じた。この事態に対処するため、国連においては大国に対して特権を与えた。すなわち大国に常任理事国として常任と拒否権という特権を与え、大国を常に国連に加盟しておくように工夫したのである。

以上のような、経緯により主権の絶対性や主権の形式的平等が修正されていったのである。

 

4、国連、国際連盟以外の国際機構における主権平等と投票制度

では、その他の国際機構においては、どのような投票制度が採用されているのだろうか。またその投票制度と主権平等との関係はいかなるものであるのであろうか。一つの例として、IMF(国際通貨基金)の投票制度を見てみよう。

IMFの投票制度

1945年に設立されたIMFは、投票制度として加重投票制を採用している。加重投票制というのは、分担金にしたがって投票権の割合を決めていく方式である。つまり分担金を多く払っている国家には、多くの投票権を与えられるというわけである。この加重投票制度は、経済面における実質的平等を達成したものであると言えよう。また参加という面では、各国に基本票があるので、一応加盟国全員参加という形式になっている。

このような投票制度が採用されたことには、3つの理由があった。一つ目の理由は、経済的な分野であるため、投票権に差を設けることが比較的容易であったこと。二つ目は、経済格差があるにもかかわらず、一国一票にすると経済力のある国家の不利益が大きいこと。三つ目は、経済問題に対して実行力を確保するために、資金が不可欠であるため、資金源となる分担金を多く支払う国家を優遇する必要性があったこと。

IMFにも「国連の民主化」論と同じような批判がある。なぜなら経済力がある国家とは、先進国であるため、先進国がその投票権の大半を占めているからである[24]。そのためIMFは、先進国の機関であるとの批判がされている。実質的平等を達成するということは、有利にあるものを有利に扱うことであり、国際社会において様々な分野で有利にある先進国が実質的平等を確保された機関では有利になる。故に平等概念をめぐる問題には、実質的平等を推進しようとする先進国と、形式的平等を推進しようとする発展途上国の対立という南北問題が付き物であるようである。

他に加重投票制度を採用する国際機構

他にこのような加重投票制を設けている機構に、一次産品の取引量に基づき、投票権に差を設けている、砂糖やコーヒーなどの国際商品理事会がある。一次産品において、取引を行っている国と、取引を行っていない国に同じ一票ずつ与えたのでは、不都合が大きく、また取引を行っていない国には、投票権が少なくても不利益が少ないため一定の理解を得られているようである。また取引を行っている国は、供給側、需要側の違いはあるものの、南北間での差は、比較的少ないため、投票制度に関しては南北対立による批判は少ない。

まとめ

では、以上のように全会一致原則から、常任理事国に特権や多数決、加重投票が認められた経緯を踏まえれば、主権の絶対的保障かつ形式的平等(全会一致)→形式的平等(多数決)と実質的平等の並立(加重投票、拒否権、常任)というように、主権平等概念は変化したと言うことができる[25]

以上が、常任理事国の特権が、主権平等に反するか否かの議論の概要である。主権平等は、形式的平等だけではなく、実質的平等が認められており、常任理事国の特権が認められる可能性があると、この議論は一応の結論が付けられる[26]

 

5、拒否権は民主主義の原則に反するか

では、次ぎに、発展途上国の「国連の民主化」におけるもう一つの主張である、常任理事国の特権は「民主主義の原則に反する」という点に対する批判を見ていくこととしよう。この点に関して、東は、拒否権と民主主義において、「拒否権が民主主義に反するという批判は、この制度が、国際連合における多数決の原理を否認するものとして」「国連の民主化」論者および拒否権否定論者から主張されていると捉え、これに対し、以下の二つの批判を加え、拒否権は民主的に妥当であるとしている[27]。@安全保障理事会の性格や任務からして、その表決手続を総会と同様に、一国一票のまたはこれに類した多数決制にすることは、適当ではない。A民主主義の理念を否定するわけではないが、完全な多数決が採用された(安保理)理事会において、必ずしも本当に正しい決定がなされるという保障はない。

果たして、この議論で、国連と民主主義の議論に終止符を打ったと言えるであろうか。東の問題設定では、法的な観点、特に民主主義を投票制度としてのみでしか捉えていない。また反論@は、民主主義の観点から批判しているのではなく、多数決制が安保理に妥当か否かを考察しているだけである。さらに反論Aに関しては、何をもって正しい決定とするのかの基準が曖昧であるし、完全な多数決は安保理において必ずしも正しい決定を生まないとしているが、この問題は多数決制度自体の問題であり安保理特有の問題ではなく、常任理事国の拒否権を肯定する論理にはならないだろう。

よって東の以上の議論では、仮に法的に考察しているとしても、国連(拒否権)と民主主義を考察したことにはならないであろう。では、次ぎに、拒否権の政治的な考察において、民主主義という観点はどのように扱われているのかを見るために、拒否権の政治的考察を見てみることにしよう[28]

 

6、常任理事国の特権の政治的考察

東によれば、「拒否権は、全般的な利害得失を衡量したうえで行使される」ため「拒否権制度をめぐる主要な問題は、基本的に政治的なものだ」[29]と言う。拒否権だけでなく、常任という特権も法的に考えれば、違法か否かが問題になるが、政治的に考えれば、必要なものであると考えられる。これは一般に、常任理事国の特権を「必要悪」もしくは「安全弁」と見る議論である[30]。なぜ必要悪であるかというと、常任理事国の特権は、大国を国連に加盟させておくためのものであると考えられるからである。国際連盟が破綻した原因の一つして挙げられるものとして、大国の不存在があると前述したが、拒否権はこれを防いでいるのである。安保理の執行を実質的に行ってきたのは常任理事国であり、もし常任理事国に拒否権がなければ、行いたくない活動もやらされることになる。このことは脱退の要因となるのである。このように拒否権を必要悪と捉えると、いままでの安保理の行動は、常任理事国が、拒否権を使わなかったために行うことができたのであり、常任理事国が行いたい行動を常任理事国が行ってきたということになる。

この安保理の行動の捉え方に関しては、ネガティヴな捉え方とポジティヴな捉え方ができる。ネガティヴな捉え方としては、常任理事国が関わる紛争には、安保理はなにも対応できないことや、「安保理の麻痺」に代表されるように、安保理は大国の意思で機能不全に陥ってきたという捉え方である[31]。この捉え方に対して、ポジティヴな捉え方は、拒否権があったからこそ、大国の紛争は安保理で取り上げられず、大国は国連に加盟していた、もしくは大国間の戦争が防げたと考える。特に「安保理の麻痺」により米ソ(特に安保理内で少数であったソ連)は国連内にとどまり、国際連盟の失敗の二の舞を踏まなかった(国連を巻き込んだ米ソの戦争(第三次世界大戦)にはならなかった)と捉える。

実際に、アメリカ合衆国やイギリスは、自国の政策に合わないとして、ユネスコ等を脱退しており、大国が国際機構を脱退することは、現在でも考えられない事態ではない。そのため、常任理事国を国連に加盟させておくといった意味で、常任理事国の特権の効果は大きい。

以上が、主に政治的な観点から考察されている、常任理事国の特権の意義である。

 

7、小括

従来の「国連の民主化」の議論においては、法的には主に国家主権平等の観点で、政治的には「必要悪」としての特権としてしか議論されておらず、民主主義との関わりではほとんど述べられてこなかった。極端な話、発展途上国の主張する「国連の民主化」は、常任理事国の特権を廃止することを意味する形式的主権平等の達成しか考えてこず、それ以外のことに関して考察してこなかったのである。そして、最上は、このような「国家の主権平等だけに集約されるような「国連の民主化」論議に対して、「不要とは言わぬまでも、いかにも本質的な点から遠ざかった議論だと言えまいか」と言っている[32]

では、次ぎに発展途上国の「国連の民主化」論の足りない部分を考察していき、従来の国際機構と民主主義をふまえて、国際機構と民主主義はいかに語られるべきかを考察していきたい。


 

 

 

第二章 国際機構と民主主義

 

第一章で指摘した通り、従来の「国連の民主化」論においては、民主主義に関して、ほとんど考察されておらず、国連の民主化と言うには、明らかに考察不足であった。そしてこの民主主義の観点から考えた場合、発展途上国の「国連の民主化」論において考察されていない部分は、「はじめに」で指摘した、Aアクターを国家に限り、アクターの多様化に対応していないこと、B国連における民主主義の概念が曖昧であること、である。この章では、これら二点を考察していきたいと思う。

 

1、従来の「国連の民主化」論における陥穽

 まず発展途上国が主張している「国連の民主化」に関して、最上は、発展途上国の主張している「国連の民主化」は、国家間民主主義でしかないと指摘している。この指摘は、本稿の「はじめに」で挙げた発展途上国の「国連の民主化」における問題点のAアクターを国家に限り、アクターの多様化に対応していないこと、を民主主義という観点から捉えたものと言ってよいだろう。また、この指摘は、国連の民主化論議が法的には、(国家)主権平等に陥ってしまっていたことも示唆する。

では、国連の民主化論は、アクターを国家に限って論じてもよいのだろうか。もしアクターを国家に限ってよいであれば、従来の「国連の民主化」論は議論として妥当していたことになる。アクターを国家に限って論じられる可能性は、二つあると思われる。まず一つの可能性として、国連が純粋な政府間機関(interstateorganization)であるということを前提にする場合である。しかしこの前提は、成り立つであろうか。確かに、国連において国家の権限は他のアクターよりも強い。しかし国連に携わっているアクターはもはや国家に限られず、NGOや個人も大きな役割を果たしている。そしてこれから必要なことは、国家以外のアクターを、国連においていかに適切に参加させていくかであり、現状以上にアクターの多様化が求められているのではないだろうか。故に結論として、国連は純粋な政府間機関ではなく、この前提をもって議論することはできないと言える。

もう一つの可能性として残されているのが、国際社会の民主主義を国家間にのみ限って論ずることである。しかし、国連において、アクターの多様化が徐々に進行しているにもかかわらず、国際社会においてアクターを国家に限ることに果たして意義は見出されるのだろうか。国連のアクターの多様化は、国際社会におけるアクターの多様化の影響であり、国際社会の民主主義こそ、国連よりも多種多様なアクターを考慮して考察すべきであろう。

結論としては、国連の民主化論においては、様々なアクターを考慮して議論すべきであろう。従来のようにアクターを国家に限って考察することは、国際社会におけるアクターが多様化している現在においては、時代遅れであり、かつ「本質的な点から遠ざかった議論」と言えるであろう[33]

さらに、国家をアクターのみとしたものが果たして民主主義と言えるかという疑問が提示される。なぜなら、民主主義(デモクラシー/democracy)を、人民/民衆(demos)の統治/権力(kratia)と正確に訳すならば、国家は人民ではないため、正確な意味での民主主義とは言えないし、国家のみを国際社会におけるアクターとした場合、本来民主主義の主役である人民が軽視される恐れすらあるのである。

このように、従来の議論において、国際社会における民主主義を考えるときに、民主主義という言葉が軽視され、民主主義の原則や制度が、単独で議論される傾向にある。この傾向は忌々しき事態ではないだろうか。

このような傾向に従来の議論が陥ってしまった原因の一つには、現在でも根強く残っている国内類推という考え方が強く影響を与えていると考えられる。では、次に、この国内類推という考え方を見ていくことにしよう。

 

2、国内類推

従来の国際機構の民主化(国連の民主化論)に影響を与えている国内類推とは、国際社会を国内社会の類推した形で考えるものあり、国家を個人、国内政府を世界政府もしくは国連と考える考え方である。この考え方では、アクターは国家のみに限られる。例えば、発展途上国に代表される、主権の形式的平等の達成という意味の「国連の民主化」を主張している者達は、国内における個人の一人一票のイメージを国際社会の民主主義における一国一票と対応させていると考えられる。

唯一主要なアクターが主権国家のみであった過去の国際社会において、国際社会の組織化が語られるときに、この国内類推の考え方が広く採られていた。日本においても大正期に、吉野作造が、この考えを基にして、国と国との自由平等の関係を主張していたし、横田喜三郎は、この観点から国連の民主主義の度合いを検証した[34]

また、一般的な国際法の体系において、国際組織法は、国際法の中の一部分、もしくは国際法と並立していると捉えるかに分かれているのに対し、横田喜三郎は、国際社会を一つの組織とし、一般に言われる国際法を国際組織法として体系化している。そして横田喜三郎は、国際法を体系化する際に、国内類推を用いていたと考えられる。植木によれば、横田喜三郎の国際法の体系は、「「国際法の国内モデル思考」と呼ばれるものの我が国における先駆とも位置付け得るもの」であると言う[35]

この考え方は、現代においても、根強い考え方であり、アクターが多様化した現代の国際情勢において、国連の民主化論や国際社会と民主主義を考える上では、ある側面では基礎となっているが、ある側面では障害ともなっている考え方であると言える。

 このように、「国連の民主化」論は、アクターの多様化に対応できていない。では、そもそも国際機構と民主主義の議論自体は、アクターの多様化に対応しているのであろうか。次ぎにこの点を概観し、国際機構と民主主義はいかに語られるべきかを考察していきたい。

 

3、国際機構と民主主義[36]

国際機構と民主主義というテーマに関して、二人の学者が以下のように分類している。まず最上は、国際機構と民主主義に関する議論を、民主化という観点から、@国際機構自身の民主化(あるいは国際機構内部の加盟国間関係)、A国際機構の外部に広がる国家間関係や加盟国の国内関係の民主化、に分けられるとしている[37]

また、桐山孝信は、国際法の視点から、国際社会と民主主義および国際機構と民主主義は、以下の二つの視点から議論されてきたとしている[38]。@国家平等としての国際民主主義、A民主主義の国際的擁護、である。具体的には、@は「国内社会で個人間の平等のイデオロギーとして民主主義が主張されることと平行して、国家から構成される国際社会では、そうした国家間の平等実現の主張として民主主義が唱えられるということ」を意味している。またAは、国際社会および国際機構による、非民主的国家における民主化を達成するための取り組みを意味する。Aに関して、桐山は、「国内の民主主義体制を実現するために、国際社会は責任を持ってそれに取り組まなければならな」く、国内の民主主義体制が「実現されて初めて国際的な民主主義を語ることができる」としている。

この二人の主張に関しては、最上のAは、桐山の@とA両方を含むものであると考えられる。しかし、桐山によれば、桐山の@において、国際機構のことが議論されていたとしており、最上の@が含まれているようである。このような現象が起こるのは、従来の議論において、「国際機構(国連)の民主化」は、主に国家間の主権平等に限ってしか議論されていなかったからであると考えられる。

桐山の分類は、今までの議論の伝統を引き継いだ分類であると言えるであろう。しかし国際社会におけるデモクラシー(グローバル・デモクラシー)やそれに基づく国連改革案[39]が多く唱えられている現在の議論状況を考えると、桐山の分類は、これらが含まれない幅の狭い分類であると言える。一方最上の分類は、今までの国際機構と民主主義の議論をすべて含んでいると言えるだろう。故に、本稿においては、最上の分類を参考にしつつ、これまでの議論の状況と、これからはどのように議論すべきかを鑑みて、以下のように、国際機構と民主主義を分類したいと思う。

@     国際機構による国際機構外の加盟国間に対する民主化

A     国際機構による加盟国国内に対する民主化

B     国際機構自身における民主主義

である。

@には、具体的に、NIEO(新国際経済秩序)等における結果の平等の主張や民族間の正統性を主張する民族自決権論がこれに含まれる。Aは、国際機構の加盟国における民主主義推進政策や、民主主義の監視や統制が当たる。具体的には、信託統治やPKOによる民主主義推進政策や選挙の監視などが当たるであろう。@およびAは、国際機構が主体として民主化を推進する場合とする。

Bには、具体的には、国連の民主化論やまたその他の国際機構に対する民主主義の観点からの改革論議が当たる。さらにBは、以下の二つに分類できる。B−1、国家間民主主義、B−2、国際機構における民主主義、である。B−1は、アクターを国家にのみ限り、国家間の民主主義とは何かを探るものである。発展途上国の「国連の民主化」論は、これに当たる。

B−2は、アクターを国家に限らず、また国際社会の民主化との関係を念頭に置き、国際機構の民主化を探るものである。国際社会の民主化との関係を念頭に置くのは、国際社会の民主化状況を国際社会の組織化の観点から捉え、その組織化の重要な一部として国際機構を考えるからである。具体的には、グローバル・デモクラシーの達成のための国際機構改革像が当たる。B−2を加えたのは、国際機構の民主化、特に普遍的な国際機構である国連の民主化が、国家間民主主義のみに限られた民主化に陥るべきでなく、国際社会の民主化との関わりで述べられる必要性があると考えるからである。そしてこの点こそが、いままでの「国連の民主化」論において足りなかったものであり、これから議論していくべき箇所である。

 以上のことより、Bにおいて、国際機構は客体として扱われていることがわかる。B−1においては、国際機構における国家間の民主主義はいかなるものとあるべきかが議論になる。B−2においては、国際機構(国際社会)における民主主義とはいかなるものとあるべきか、これを踏まえてのどのように国際機構(国際社会)を民主化すべきかという議論がなされる。B−2は、国際社会の民主主義をも考えるものであるため、国家間関係だけでなく国内社会はいかにあるべきとの議論になりうる、幅広い議論である。

 

 4、国際社会における民主主義は、まだ語れないか

 従来の議論において、国際社会と民主主義を考えるに当たって、すべての国家が民主化を達成しなければ、国際社会の民主化は達成し得ず、すべての国家が民主化してからでないと、国際社会の民主化を議論する意味がないとの意見があった。そして桐山も、桐山のA(本稿のA)が、現在では主な系譜であり、また国内の民主主義体制が「実現されて初めて国際的な民主主義を語ることができる」としている[40]。確かに、民主主義を達成していない国家が現在でも多くあり、それらを民主化していくことは、現在の国際社会の責務とされている。また諸国家が民主主義国家でなければ、国際社会の民主化は達成できないとの仮説も一定の信憑性がある[41]

しかし、世界中の国家を民主化しなければ、国際社会の民主主義を語れないとし、国家における民主主義だけを考察することは、建設的な考察とは言えないだろう[42]。それに、国家における民主主義を考察するにおいても、国際社会における民主主義という視点を一つの視点に加えてこそ、より深い考察ができるのではないだろうか。

また国家以外のアクターの国際社会における民主的な行動を考察するにおいて、国家間における民主主義のみを考慮したのでは、有効な考察ができないのではないだろうか。例えば、国境を越えた市民の社会運動や国際機関の活動などの、民主的であると考えられている国際社会における行動は国家における民主主義だけでは捉えられない。また、こうした国際社会における民主的な営みを手がかりに、各国内の民主化と平行して、国際社会の民主化という課題に取り組まなければならないのではないだろうか。

本稿では、国際機構と民主主義の議論状況に新たな弾みをつけるために、また国際社会の民主化という課題に取り組むために、国際社会における民主主義の一部であるB国際機構における民主主義の観点から国連の民主化を考察していく。

では、実際に国際機構における民主主義を考察すると、国連は民主的と言えるのだろうか。次の章では、前述した分類に沿って、国際機構における民主主義を考察してみよう。

 

 

 

第三章 国際機構における民主主義

 

 第二章では、国際機構における民主主義はいかに考察されるべきか指摘した。それは、国家間民主主義の議論だけではなく、グローバル・デモクラシーの視点をふまえて行うべきであるというものであった。この章では、実際に国家間民主主義やグローバル・デモクラシーの観点で国連における民主主義を考察していく。

 

1、国際機構における民主主義

 国際機構における民主主義を考察するには、以下の方法が考えられる。@国家間民主主義単独による考察、Aグローバル・デモクラシーに照らした考察である。Aグローバル・デモクラシーに照らした考察は、A・マクグリューのグローバル・デモクラシー分類に応じて、(1)リベラルな国際主義、(2)ラディカルなコミュニタリアニズム、(3)コスモポリタン・デモクラシー、の三通りが考えられる[43]。では以下、これら四つの観点から国連は民主的か否かを考察していく。

 

2、国家間民主主義単独による考察

 国家間民主主義単独による考察においては、国連が国家間民主的か否かを判断していく。ここで鍵となるのが、国家主権平等であろう。本稿では、第一章での考察を踏まえて、国家間関係において、原則として形式的平等を採用しつつも、状況によっては実質的平等を採用することとする。これは、国連憲章において保障されている主権平等の原則が形式的平等であると解す伝統を引き継ぎつつも、現在の様々な国際機構において、実質的平等が採用されている事実を考慮したものである。

しかし、国家間民主主義は、国家主権平等のみの議論ではない。民主主義としての制度等を考慮しなければならない。前述したとおり、発展途上国の「国連の民主化」論は、常任理事国の特権を廃止することを目的とした、国家主権平等の議論に換言されてしまったため、不十分であったのだ。では、次に、従来の「国連の民主化」論に重なる部分もあるが、具体的に、国連は国家間民主主義の観点から見て、民主的か否か考察していく。

 

3、国連は国家間民主的か

 国連は、国家間民主主義の観点から見て、民主的と言えるのだろうか。以下、この国家間民主主義の観点から、総会、安保理の構成、常任、そして拒否権の順に検討していく。

 総会

総会は、加盟国全員が参加しており、投票権も一国一票であり、また表決方法も多数決制であり、形式的平等が採られている国家間民主的な機関であると言える。問題は、各理事会であると思われる。本稿では、安保理を具体的に検討していく。

安保理の構成

テキスト ボックス: 【表1】 安保理の地理的議席配分
 
 まず安保理の地理的議席配分について見ていくことにする。安保理は、第一章で見たとおり、常任理事国と非常任理事国により構成されている。安保理の地理的議席配分は【表1】のようになる。議席配分のうちわけは、欧米5(常3、非常2(この2議席は、西欧及びその他枠である))、アジア(常1、非常2)、アフリカ(非常3)、中南米(非常2)、東欧(常1、非常1)である。国連加盟国の大半を占めるアフリカ・中南米地域からは常任理事国が出ておらず、常任理事国の地理的議席配分に関しては問題があると言える。このような現状を憂慮して、国連における安保理改革の議論において、アフリカ諸国やラテン・アメリカ諸国が中心となって、アフリカおよびラテン・アメリカから常任理事国を選出すべきであると主張しているのである。

安保理の地理的議席配分を、国家間民主主義の観点から判断するためには、まず国家間に実質的平等を採用することが合理的で民主的であることを保障する基準が必要である。なぜなら、正当な基準がなければ、実質的平等と差別を区別することができないからである。では、安保理の地理的議席配分の基準とはなんであろうか。憲章上には、その基準は見られない。そして、憲章以外にもない。つまり、安保理における地理的議席配分を保障する基準はないのである。故に、正当な基準がない安保理の地理的議席配分は、国家間民主的ではないと言える。

では、安保理における議席配分は何を基準とすべきだろうか。まず国内の自由民主主義の制度を参考に議席配分ということを考えると、地域ごとの国の数、人口は採用されるべき基準であろう。なぜなら、民主主義においては、人民が基本であるからである。また国内の自由民主主義の制度としては、地方の意見の代弁者として議員が選ばれる選挙制度が採られているが、同じことが国際社会においても期待できるからである。

但し、地理的議席配分(地域代表)および地域ごとの国の数には、注意が必要である。なぜなら、国際社会における地域代表は、地域の意見を代表するとは限らないからである。そのことは、現在の常任理事国を見れば明らかであろう。例えば、アメリカは、北米の意見を代弁しているとは言えず、やはりアメリカ自身の国益を代弁しているとしか言えない。現在の国際情勢において、地域代表は地域代表の役割をなさないと言える。故に、安保理の地理的議席配分については、国内における地域代表のシステムと同じ効果があると考えることはできないだろう[44]

しかし、現在の国際社会において、民主的な地域代表の萌芽が見られる。それは、最近の安保理改革でアフリカの動きに見られる。アフリカ諸国は、安保理改革の議論において、OAU(アフリカ統一機構)を中心にまとまりを見せ、もしアフリカに常任理事国枠が与えられた時は、アフリカの常任理事国を、OAUの代表として、エジプト、ナイジェリア、南アフリカのローテーション制にすることにしようとしている。OAUのこのような動きは、地域代表と呼ぶのにふさわしく、常任理事国が国家民主的か否かを問わなければ、歓迎すべきことであろう。

では、次に、常任理事国の特権について、常任、拒否権の順に、国家間民主的か否かを判断することにする。

常任

では、まず常任は、どのように捉えられるか考えてみよう。常任を制度として捉え、世襲とみなせば、民主的ではないと言えるだろう。では、常任を漢字通りの意味、つまり常に任命されていると捉えるとどうだろうか。一国内民主主義の観点から考えるならば、民主主義体制であると認められるいかなる国家の代議制にも常任という制度はなく、常任という制度は民主的であるとは言えないだろう。

 では、国際社会において、常に任命されていることは、国家間民主的であると言えるだろうか。国家間民主的であると言えるためには、実質的平等の適用条件を考慮すると以下の三つの点から、国家間民主的であると言えなければならないだろう。@国家間民主主義においては、国家に差を設けてもよいのか、A常任は、国家間民主主義において許容される国家間の差であるのか、B常任という特権が与えられる国家を選ぶ国家間民主的と言える客観的な基準は存在するのか、という論点である。

 まず@の国家間民主主義において、国家間に差を設けてもよいのかとの問いは、言い換えれば、国家間に実質的平等を認めてもよいのかとの問いになるだろう。故に、これは、従来の国際機構と民主主義の議論の一部であると言える。第一章でも述べた通り、結論を言えば、実質的平等は、国家間民主主義において認めてもよいであろう。

また、本稿では、実質的平等だけでなく、国内における民主主義諸原則は、国家間民主主義においては、国際機関の目的や実行力という点を鑑みて、それらの原則は修正されると考える。なぜなら、国家間民主主義の要件を厳しくすると、それらの要件から導かれる国際機関が現実的なものでなくなり、国際社会における国際機関の有効性が低くなるからである。国際機関にとって、もっとも重要なことは、国際社会において、その設立目的を達成することであり、そのためには実行力を確保することが必須である。国際機構における民主主義を考えるにおいては、国際機構の目的と民主主義の諸原則とのバランスを図ることが重要である。

 以上のことをふまえて、次ぎに、論点A常任は、国家間民主主義において許容される国家間の差であるのか、について考察していく。以下、実質的平等を適用し常任という特権を認めることが、安保理の目的達成のための必要条件であるかという観点から[45]、常任の意義を探る。そして、その常任の意義と民主主義のバランスを考慮しつつ、常任は国家間民主的か考察していく。

歴史を振り返ると、この常任という特権は、安保理の目的である[46]、国際の平和と安全の維持のために、当時の常任理事国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国)に対して、認められたのであった。そして、常任は、安全保障分野の議論に軍事大国が加わる必要性があるとの認識において、常任理事国に与えられたものである。実際、第二次世界大戦直後の安保理において、常任理事国が参加しない状態で審議することは、審議自体の有効性が低く、また軍事力や分担金の面で審議の実行力がないなどの問題があった。

以上のことを考慮すると、常任の意義とは、安保理の目的の達成のための安保理の実行力確保であったと言える。そして、この意義を達成するために必要なものは、「その時代の主要な軍事大国(地域大国)の存在」という要件であろう。故に、「常に」ある国家が安保理に代表を送る権利は、安保理の目的は導けない。「その時代の主要な軍事大国の存在」という要件から導かれるものは、入れ替えをともなった、常任理事国制度である。

では、常任理事国を入れ替える民主的な制度的保障は、現在の国連にあるのだろうか。これは、論点B常任という特権が与えられる国家を選ぶ国家間民主的と言える客観的な基準は存在するか、という問いと同じである。国連において、常任理事国の入れ替えを念頭においた制度は、憲章改革を除いて、存在しない。しかも、憲章改革において、常任理事国は、拒否権が使えるため、自国が常任理事国に相応しいか否かの判断は、常任理事国自らが行える仕組みとなっている。「何人も自らを裁けない」という民主主義の原則に則れば、この制度は、常任理事国の入れ替えを民主的に行える制度とは言えず、現在の常任という特権は、実質的平等の保障とは言えず、また国家間民主的とは言えないだろう。

では、常任理事国を選定する客観的基準には、なにを採用すべきであろうか。基準を決めれば、現在の国連に限られない安保理改革議論における、様々な基準を持ち出しての、ある国は常任理事国に相応しい、相応しくないといった議論にも、国家間民主主義上は結論を出せるだろう[47]

国家間民主主義という観点から常任という特権を考えると、客観的基準として、地域ごとの国の数、人口、軍事力、分担金を基準とすべきであろう。地域ごとの国の数、人口は、前述した通り、民主主義という観点から採用されるべき基準である。(但し、前述した通り、地域代表の意義には注意が必要である。)軍事力や分担金は、純粋な民主主義という観点から考えれば、民主的ではないと言える基準であるが、国際機構の目的や実行力の確保の観点から、国家間民主主義においては、妥当され得ると考えられる。なぜなら軍事力や分担金という基準は、安保理の国際社会における平和と安全の維持という目的や実行力確保において、必要不可欠ものであるからである。この基準は、拒否権を与える基準としても使えるだろう。

結論として、国家間民主主義の観点から、現在の常任という特権は許容されない。但し、常任理事国の一定の客観的基準による入れ替え制度を確立すれば、常任という特権は許容される可能性がある。しかしそうなると、常任の意味は、「特権を与えられ得る国家である限りは、常に任命される」との意味になる。国家間民主主義における実質的平等においては、各国の実質的な差異を、正確に制度に反映でき、かつその制度が民主的でなければならない。

では、もう一つの常任理事国の特権である拒否権は、以上の点を満たしていると言えるだろうか。

 拒否権

 拒否権に関しても常任と同じように検討できる。しかし、国家間に差を設けるのは許容されるかについてと、拒否権が与えられる基準については、先ほどの常任の議論と同じなので、常任の論点のAに当たる、拒否権が国家間の差として許容されるか否かについてのみ考察していく。

では、拒否権が、国家間の差として許容されるかを判断するためいかなることについて考慮すべきであろうか。以下、常任を考察したときと同じように、実質的平等を適用し、拒否権を認めることが安保理の目的の達成のための必要条件かという観点から、拒否権の意義を探り、その意義と民主主義のバランスを考慮しつつ、拒否権は国家間民主的か考察していく。

では、まず、拒否権が国連において認められている背景をもう一度見直しながら、安保理の目的と拒否権の意義との関係を明らかにしてみたい。過去の国家主権は絶対主権であり、国際連盟においての全会一致は、言い換えれば、加盟国全てに拒否権があることを意味していた。しかしこの絶対的主権の保障の伝統は第二次世界大戦後、修正され、多数決原則が採用された。以上のことは前述した通りである。故に、拒否権は時代遅れの制度であると言えるが、残されている事情を鑑みれば、大国の拒否権、言い換えれば大国が自らの意思に反する決定に従わないことを保障することになんらかの意義があるのではないか考えられる。

では、大国が自らの意思に反する決定に従わないことを安保理で保障することは、何を意味するのだろうか。それは、安全保障の問題に対し行動する場合は大国間の意見を合わせる、言い換えれば、大国間の意見が合わないときは、安全保障の問題に対して行動しないということを意味する。そして、大国の意見が合わなかったときに安保理が行動をして、安保理(大国)対大国(世界大戦)という戦争に陥ることを防ぐのである。この議論は、拒否権を必要悪と考える議論と同じである。従って、拒否権の意義は、安保理を巻き込んだ大国間の戦争を防ぐという意義であると言える。

そして、大国間の戦争を防ぐというのは、まさに国連が設立された第一の要因であり、国連の第一の目的であると言ってもよい。そして大国間の戦争を防ぐことは、少なくとも冷戦までは、国際社会の至上命題であった。現代においても大国間の戦争を防ぐ意義は、大国間の戦争の危険性が減ったといっても、未だ大きい意義であると考える。なぜなら、大国間の戦争はそれだけで大きな破壊力を伴い、最悪の事態になれば、核戦争という事態にも成りかねないからである。

では、拒否権は、安保理を巻き込んだ大国間の戦争を実際に防いだと言えるのだろうか。実際に大国間の大規模な戦争は、戦後起きていない。そして、実際に拒否権は、常任理事国が当事国になっている武力紛争に関して、紛争を安保理で取り上げることをある程度阻止してきた。また常任理事国が不満に思っている事案に対して、常任理事国は拒否権を行使してきており、安保理が常任理事国の武力紛争相手国となり、常任理事国と安保理が戦争をする事態などの、安保理を介在した大国間の戦争を防いできたと評価できるだろう[48]

では、拒否権の意義と民主主義とのバランスについてはどうだろうか。拒否権は、一国の意思により、多くの国の意思を破棄できる権利であり、明らかに民主的ではないと言える。故に、拒否権という特権を、一部の国家にのみ与えるというのは正当化できないことなのではないかと考える。しかし、仮に、幾らか緩やかに考えて、拒否権の恣意的な行使が規制される制度が確立している限りにおいてという条件があれば、拒否権という制度は、国家間民主主義において許容されると考えてみると、今の国連の拒否権は許容され得ると言えるだろうか。現在の国連の憲章上に、大国の恣意的な拒否権の行使を規制する条項はないため、やはり国連の拒否権は国家間民主的であるとは言えない。

結論としては、拒否権の意義が大きく、拒否権を大国に与えておくことが必要であっても、拒否権という権利は、明らかに民主的でないため、国家間民主的と言えるためには、最低限、何らかの形で、拒否権の恣意的行使を規制する制度がある必要があると考えられる[49]

以上のように、国家間民主主義は、一国内民主主義の観点と、国家間民主主義独自の観点から考える必要がある。しかし、国家間民主主義に関する議論、特に安保理改革の議論においては、政治的な主張が多く、主張の差が激しい。そのため、国家間民主主義の独自の観点を採用し議論するときには、より一層慎重な態度が要求される。このような政治的な主張が多い安保理改革の議論状況、特に南北対立[50]が激しい状況に対して、最上は、「国連が、選民主義(大国中心機関)に立つ機構なのか、それとも大衆民主主義的な(国家間民主主義的な)平等主義に立脚する機構なのかは、緊張をはらみつつ、時代状況と機構内の勢力関係の関数として決まる事柄となろう」としている[51]。(括弧内は、本稿に即して筆者が加えたもの。)

そして、以上のように、国家間民主主義を考察したのみで、国際機構における民主主義のすべてを考察したとしては、問題がある。むしろいままでの、アクターを国家のみに限った、上のような国家間民主主義、またその背景にある国内類推を超えることこそ、今この国連の民主化論に必要なことであると考える。では、次ぎに、これらを超えるべく、実際にアクターの多様化を視野に入れた、グローバル・デモクラシーを概観し、実際にグローバル・デモクラシーの観点から国連が民主的か否かを考察していきたいと思う。

 

4、グローバル・デモクラシーによる考察

 本稿において、グローバル・デモクラシーとは、世界大で展開されるデモクラシーを指す。そして、具体的には、グローバル・デモクラシーを、A・マクグリューの分類に従い、三通りあると考える[52]。これらの具体的内容に関しては、【表2】を参照してほしい。本稿では、この三つにおけるアクターの扱い方に関して詳しく見ていくこととする。但し、これらのモデルは、理念型であり、実際には存在しないことに注意しなければならない。

 

【表2】 三つのグローバル・デモクラシー・モデル[53]

 

リベラルな制度主義

ラディカルなコミュニタリアニズム

コスモポリタン・デモクラシー

誰が統治するのか

国際レジームや国際機構に責任をもつ諸政府を通じた人民

自治的共同社会を通じた人民

コスモポリタン法に服する国家・自発的結社・国際機構を通じた人民

グローバル・ガヴァナンスの形態

Polyachy

主権を共有する多元的かつ断片的システム

Demarchy

主権を欠く機能的・民主的ガヴァナンス

Heterarchy

コスモポリタンな民主主義法に服する分割的権威システム

主なアクター/手段、民主化のプロセス

加速する相互依存より民主的で協調的なグローバル・ガヴァナンスの形態の創出における権力の主要なアクターの自己利益

新しい社会運動、切迫した地球・環境・経済の危機

立憲的・制度的再構築、グローバリゼーション・リージョナリゼーション・新しい社会運動・切迫した地球の危機の強まり

民主主義思想の伝統

自由民主主義理論―多元主義・防禦的民主主義・社会民主主義・改良主義

直接民主主義・参加民主主義・市民的共和主義・社会主義的民主主義

自由民主主義理論・多元主義・発展的民主主義・参加民主主義・市民的共和主義

グローバル・ガヴァナンスの論理

共通の諸権利と共有された責任

人道的統治

民主的自律

政治転換の様式

グローバル・ガヴァナンスの改善

グローバル・ガヴァナンスのオルターナティヴな構造

グローバル・ガヴァナンスの再構築

 

 1)リベラルな国際主義

 川原彰によれば、このリベラルな国際主義は、「国際政治学・国際関係論・平和研究の視点から主張されている考えであり、国連システムを中心に「グローバル・ガヴァナンス」の改革を目指すモデルである。」と言う[54]。このモデルは、主にグローバル・ガヴァナンス委員会によって主張されている。グローバル・ガヴァナンス委員会によれば、いままでのグローバル・ガヴァナンスは、「基本的には政府間の関係とみなされてきたが、現在では非政府組織(NGO)、市民運動、多国籍企業、および地球規模市場までを含む」としている。またグローバル・ガヴァナンス委員会は、これらのアクターと「双方向に作用しあう」マスメディアを含めた「グローバルな市民社会」のイニシアティヴにも注目している。故に、このモデルにおいては、アクターは多様化していると捉えられる。現に、同委員会は、全世界的な「市民社会フォーラム」の開催から、国連総会を保管する審議機関として「人民の議会」の設置を主張している[55]

 2)ラディカルなコミュニタリアニズム

 このラディカルなコミュニタリアニズム[56]は、「政治理論(政治哲学)、民主主義論の視点から主張されている考えであり、新しい社会運動などの社会諸勢力を中心にグローバル・ガヴァナンスのオルターナティヴな構造を目指すモデルである。」[57]この考え方は、具体的には、ラディカル・デモクラシー[58]の議論の一部であり、「越境する参加民主主義(transborder participatory democracy)」を志向している。そのため、「下からの」民主主義の意識が最も強いモデルであるとも言える。このような考えであるから、アクターは、人民(市民)と考えられており、国家は排除されている。

 3)コスモポリタン・デモクラシー[59]

 コスモポリタン・デモクラシーは、デヴィッド・ヘルドが提唱した概念であり、世界市民を基礎とし、ヘルドの言う「自律性」に基づいた、グローバル・デモクラシー・モデルである。ここで注目されるのは、世界市民を基礎としつつも、国家を消滅したものとはせず、「補完的」なもの、つまり、下で処理できない問題は、その上で処理するとの考え方を採用し、国家をその一部とする。故に、このモデルでは、世界市民をアクターの基礎としながらも、国家もこのモデルを構成する一つのアクターとみなされている。また、国際機構や自発的結社もアクターとしている。このグローバル・デモクラシー・モデルを基礎とし、国連の改革案を主張している者に、例えばダニエレ・アルチブギなどがいる[60]

 

5、国連はグローバル・デモクラシー的か

 グローバル・デモクラシーに照らした場合、国連は民主的と言えるであろうか。国連は、国家を中心とした機関である。国連におけるアクターの多様化状況といえば、国連によって認められたNGOが審議に参加できるくらいであり、世界市民が国連の審議や意思決定に参加できるとの規定はまったくない。故に、国連はグローバル・デモクラシーに照らした場合、民主的であるとは言えない。

 では、国連はどうすれば民主的となるだろうか。この点に関して、(1)と(3)においては、世界市民(人民)が参加した議会が設けられれば、国連は民主的となると判断できる。このことは、国家間民主主義を、各グローバル・デモクラシー・モデルがどのように捉えているかの違いによるものである。では、次に、各グローバル・デモクラシー・モデルが、国家間民主主義をどのように捉えているのかを考察していく。

 

6、国家間民主主義とグローバル・デモクラシー

グローバル・デモクラシー・モデルには、アクターとしてどのアクターを認めるかに違いがあることは、前述したとおりである。そして、このアクターの違いが、国家間民主主義をどう捉えるかの違いの一側面となっている。

 まず、国家をアクターとして認める、(1)と(3)のグローバル・デモクラシー・モデルにおいては、国連のアクターが多様化すれば、国連は民主的であると判断できる。つまり、総会のような国家だけの機関とは別に、世界市民(人民)の機関ができればよいのである。実際に、これら二つのグローバル・デモクラシー・モデルにおいては、国連に市民院を設け、グローバル・デモクラシーを達成しようとの試みが伺える。これらのモデルは、国家間民主主義を内包した、グローバル・デモクラシー・モデルと言える。

 しかし、一方で、(2)のラディカルなコミュニタリアニズムにおいては、国家はアクターとしては認められていない。つまり、国家が中心である限り、国連は民主的ではなく、現在の国連や国家間民主主義といった考え方とは共存不可能であると考えられる。しかしこのモデルは、「人民の統治」という名の民主主義をもっとも忠実に守っているものであると考えられる。つまり、国家間民主主義を達成した場合、各国家間には、人民の数で違いがある。そのため、人民を基本とした場合、一票の格差がかなり大きくなり、人民をかなり無視したものとなるのである。このモデルに立って考えると、国家間民主主義は、いかに民主的ではないものかがわかる。

ここで、このラディカルなコミュニタリアニズムの主張の妥協案として、人民を基本に考えた国連改革案と言える案を紹介しておこう。それは、総会での各国の票数を、人口の単位ごとに区切り、それに応じて各国に票数を与えるとの改革案である[61]。この改革案は、人民に焦点を当てた改革案と言えるが、問題点として、各国の代表が民主的に代表されることが前提となることが挙げられる。

 

7、小括

 以上のことより、国連は、国家間民主的でない部分があるばかりでなく、グローバル・デモクラシーに照らした場合、まったくと言っていいほど民主的ではないということが言える。もし国際社会が民主主義をもっともよい政治体制とし、広めていくならば、真の国連の民主化も必要になってくるのではないだろうか。しかしグローバル・デモクラシーがアクターの多様化、もしくはアクターの交代を必要とするものならば、現在のような国家が未だ国際社会の上位アクターとしてあり、国家にアクターの多様化を容認する権限がある状況は、グローバル・デモクラシーの達成において、とても困難な状況であると言える。このような状況において、グローバル・デモクラシーを希求するならば、アクターの多様化に関しては、慎重な計画が必要である。それは、例えば、ヘルドがコスモポリタン・デモクラシーの達成のために、短期目標と長期目標を設定したが、それでも慎重さが足りないくらいであろう[62]

 

 

 

むすび

 

 以上、国連の民主化論を再考し、国際機構と民主主義がいかに語られるべきかについて述べてきた。最後に、これらの議論を振り返りつつ、この議論における将来の展望を指摘し、結びとしたい。

本稿では、まず国連の民主化論を概観しつつ、従来の「国連の民主化」論における陥穽、つまり従来「国連の民主化」論は国家間民主主義として語られてきたことを指摘した。これは、国際機構における民主主義の議論においても近年まで見られた陥穽であった。そして本稿では、アクターの多様化に注目し、これからの国際機構における民主主義の議論としては、グローバル・デモクラシーの文脈の中で語られる必要性があると主張してきた。なぜなら、国際社会おけるアクターが多様化した現代において、国家間民主主義のみに限って国際社会における民主主義を考えることは、もはや国際社会における民主主義を考えているということにはならないからである。国家間民主主義は、その名の通り、国家の間の民主主義であって、正確な意味での民主主義ではない。正確な意味での民主主義、すなわち「人民の統治」という名の人民・市民を中心とした民主主義を、将来的には、国際社会でも実現すべきであると主張した。

 それでは、国家間民主主義を、これからの国際機構における民主主義において考えなくてもよいのだろうか。この問いに対しては、前述した通り、グローバル・デモクラシーの各立場で、議論の分かれるところであった。しかし現実的に考えるのならば、現代の国際社会において未だ国家が上位アクターである状況においては、国家間民主主義を達成しつつ、世界市民の国際社会への参加を広げていくべきであろう。国家間民主主義は、グローバル・デモクラシーと別の課題として理解するのではなく、一つの通過点、もしくは足がかりとして理解して、国家間民主主義を踏まえた、グローバル・デモクラシー・モデルを考察していくほうが、より現実的と言えるのではないだろうか[63]

最後に、もう一度、主張したいことは、真の意味での国際機構における民主主義を考えるのであれば、すべての国際機構における民主主義を考える文脈において、グローバル・デモクラシーを念頭に置いた上で考察すべきであるということである。そうでなければ、簡単に民主主義という言葉を使うべきではないだろう。民主主義という言葉が多義的になることは、害以外のなにものでもないと言えるからである。特に、民主主義という概念が国内社会より曖昧な国際社会においては、より慎重になるべきである。

グローバル・デモクラシーの国際機構における実現は、理論的なものであり、現実的にはまだまだ先のことであると言える。しかし、NGOの国連や世界会議での実績やEC/EUなどの地域機構における民主主義の実践[64]など、この現象の萌芽は、すでに見られていると言ってよい。そして、このような萌芽を丁寧に拾い、グローバル・デモクラシーと国際機構の関係をさらに考察することが必要であろう。なぜなら、そうすることで、国際関係論と民主主義理論との関係における新たな発展や[65]、また国際機構論、国際組織法の新たな発展において影響を与え、それらの学問的発展が、グローバル・デモクラシーと国際機構の関係の考察をさらに深めていくと考えられるからである。



[1] 冷戦期の安保理の麻痺に対して、国連内で議論されなかったわけではない。例えば、「平和のための結集決議」は、安保理の権限を弱め、総会の権限を強めた国連改革の一種であると言えなくない。しかし安保理改革を議題として取り上げ、作業部会を作り、本格的に取り組むようになったのは、1992年以降である。

[2] 冷戦によって機能不全になったのは安保理だけであって、総会は機能していた。詳しくは、最上敏樹『国際機構論』、p.136.参照。

[3] 国連憲章中では、中華民国とソヴィエト社会主義共和国連邦となっている。しかし、現在では、中華人民共和国とロシア連邦が正統な代表となっている。

[4] モーゲンソー『国際政治 権力と平和』現代平和研究会訳(福村出版刊)、p.486.参照。 

[5] 本稿における発展途上国の主張する「国連の民主化」論は、以上のような文脈で唱えられたものであり、本稿における議論の中心は安保理改革である。この点に関しては、注意してもらいたい。

[6] 国力と言っても、様々である。例えば、軍事力、経済力、人口等が考えられる。本稿では、特に定義はしない。ただ、安保理においては何を考慮すべきかについては後述する。

[7] 千葉眞『デモクラシー』(岩波書店、2000年)、pp.1-54.参照。

[8] 国際機構(international organizations)という言葉には注意すべき点が二点ある。その二点とは、訳に関してと、国際機構という言葉が何を指すかに関してである。まず訳に関して述べると、international organizationsの訳には3種類ある。国際機構、国際組織、国際機関である。国際機関は、一般的にinternational organsの訳に当てられるため、実際は、国際機構と国際組織に限定できる。植木俊哉によれば、国際機構と国際組織という二つの用語は一般的に同義的に理解されているという。しかし一方で植木は、我が国では、法学的分析アプローチが採られる場合には「国際組織」という名称が、政治学的分析アプローチが採られる場合には「国際機構」という名称がそれぞれ用いられることが、少なくとも従来は比較的多かったとしている。詳しくは、植木俊哉「「国際組織法」の体系に関する一考察(四)―「国際組織法総論」構築への予備的考察―」『法学』(1998)、pp.1-29.参照。本稿では、この分類に則って、国際機構という名称を用いることとする。次ぎに注意すべき点として、国際機構という語が何を指すかを明らかにする必要があるという問題がある。国際機構には、多種多様な国際機構があり、国際機構と言う語でそのすべてを表現すると誤解を与えかねないのである。最低限、普遍的国際機構と地域的国際的機構は区別すべきであろう。本稿では、国際機構という言葉を使うときは、断りがない限りは、普遍的国際機構を指す。

[9] この他に、憲章には規定されていないが、一般に言われる特権としては、情報が得られる特権が挙げられる。安保理は、国際の平和と安全の維持に責任を持つ機関であるので、自然と安全保障に関する重要な情報が集まり、それを常任理事国は常に得ることができるというわけである。また常任理事国は、国連内に独自の部屋や非公式会議ができる部屋を持っており、ここでの議論自体が重要な情報となる。

[10] 安保理は、常に代表を送ることができる常任理事国(P5:アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア、中国)と2年ごとに選挙が行われる非常任理事国10カ国から構成されている。非常任理事国は、連続で任期を務めること、つまり再選はできない。

[11] 拒否権には、様々な論点がある。しかし本稿では、必ずしも本題とは結びつかないので、拒否権については、本題の参考になる概要程度に留めた。拒否権についてより詳しくは、本稿において引用されている文献を参考にしてほしい。

[12] この他に、right of vetoとも言う。

[13] 本稿では、国際機構において拒否権そのものが妥当であるか否かを考察するため、拒否否定論者とした。一方、東は、拒否権に対する批判を、3つに分類し、拒否権批判論者としている。その3つの分類というのは、(1)加盟国の主権平等という国際連合の基本原則に反する、(2)民主主義の原則に反する、(3)拒否権の対象範囲が広すぎる、というものである。(3)の主張は、現在の拒否権の対象範囲をより狭くすれば、拒否権は妥当であると考えるものであり、拒否権そのものが妥当であるか否かという問いとは関係ないため、本稿では取り上げない。これらの分類に関して、詳しくは、東泰介「国連安全保障理事会の拒否権制度の再検討(二・完)」『国際法外交雑誌79巻6号』pp.18-26.参照。

[14] 植木俊哉『基本論点国際法(改討版)』、p.54.参照。

[15] 国際レジームの定義はさまざまである。例えば、一般的な定義とされている、S・クラズナーの国際レジームの定義は、「国際関係の特定の分野においてアクターの期待が収歛する明示的ないし暗示的な原理、規範、規則、意思決定手続のセット」と言うものである。またR・コヘインは、「国際関係の特定の分野において複数の政府が合意した明示的な規則を伴った制度」と、クラズナーよりは狭く定義している。土佐弘之『グローバル/ジェンダー・ポリティクス−国際関係論とフェミニズム』、p.83.参照。また、磯村早苗は、国際レジームとは、「そのメンバー間で、紛争解決の原理や規範が共有され、そのための具体的手続きが合意されている体制」、としている。磯村早苗「主権国家システム以後のデモクラシー−グローバル・ガバナンスの文脈において」内山秀夫=薬師寺泰蔵編『グローバル・デモクラシーの政治世界』(有信堂、1997)、pp.44.参照。

[16] マルティラテラリズム理論は、国際レジーム理論から派生したものであり、さまざまな定義が存在する。その中でも代表的なラギーの定義を本稿では引用した。詳しくは、磯村前傾論文、pp.43-45.参照。

[17] ラギーのマルティラテラリズムは、国際レジームにおける参加決定における国家間の形式的平等を確立することを意味しており、日本語訳も多国間主義となっている。しかし、マルティラテラリズム(multilateralism)には、国家という言葉は入っておらず、アクターの多様化を鑑み、アクターを国家のみに限らずに議論すべきであるとの指摘がある。詳しくは、最上敏樹「国際機構の時代」『世界を読むキーワード』(1997年世界4月臨時増刊)岩波書店、pp.48-51.参照。他に、マルティラテラリズムの訳として、多角間主義という訳語がある。

[18] 植木前掲書、p.54.参照。

[19] 横田洋三「現代の主権国家と国際機構」『国際問題 No.378』(1991年9月)、pp.2-13.および国連システムにおける表決制度の意味―機構論的再検討―」『国際法外交雑誌85巻1号』、pp.1-48.参照。横田は、表決制度についてしか考察していないが、常任という特権も国連内部だけに妥当する国際機構の内部法の一部であると捉えることができることから、この議論が妥当すると考えられる。

[20] 覇権国と国際レジームの関係に関して、詳しくは、田中明彦『新しい中世』、pp.63-112.参照。

[21] 本稿においては、国際法における合意の考察は行わない。故に、本稿においてはあくまで、国際政治学の観点から見て、この理論は国際社会における現実を捉えていないとだけ結論づけておく。

[22] この他に、国際連盟が軍事制裁手段をもたなかったことも国際連盟の失敗として挙げられる。

[23] 国際連盟には、アメリカ合衆国は加盟していなかった。また日本とドイツとイタリアが脱退をしたり、ソ連は除名されたりと、国際連盟の構成はかなり不安定であった。

[24] 特にアメリカは、投票権の半分近くを占めている。

[25] 「国連の民主化」論等の安保理の特権と主権平等を論じる論考は、法的に意味を成さないとした批判においても、主権平等の概念は変化したと言える。なぜなら、主権の絶対性や主権の形式的平等に基づかない国連憲章のような国際機構設立条約に国家が加盟するということは、加盟した国家が主権の相対性や実質的平等を認めるようになったということを意味すると考えられるからである。故に、主権の絶対性は形骸化し、実質的平等が国家の間で認められるようになったと、この主張においても言えるのである。

[26] 常任理事国の特権が実質的平等で許容できるかについては、国家間民主主義の文脈で第三章において考察する。詳しくは、第三章、3、国連は国家間民主的か、参照。

[27] 東前掲論文(二・完)、pp.20-21.参照。

[28] 東は、拒否権問題は、法と政治の間にある問題としながらも、法的な問題というよりはむしろ、政治的な問題であるという認識を示している。

[29] 東前掲論文(二・完)、p.37.参照。

[30] 東前掲論文(二・完)、pp.26-27.参照。

[31] 山下康雄は、国連創設から10年の拒否権の行使状況について、「国連の十年は、拒否権の濫用に明け暮れした」と振りかえった。詳しくは、山下康雄「拒否権問題」『国際法外交雑誌55巻2・3・4合併号』、pp.161-178.参照。

[32] 最上敏樹「国際機構と民主主義」坂本義和編『世界政治の構造変動2−国家』(岩波書店 1995)、pp.208-209.参照。 

[33] アクター間に、未だ権限等の差が見られるのは確かであるが、国際社会において、国家以外のアクターが台頭してきているという事実を否定することはできないようである。例えば、いわゆるリアリストと見られる、クラズナーは、国際社会における国家を主要なアクターとしては不動であると主張しているが、アクターの多様化について、明確ではないが認めていると考えられる。スティーブン・D.クラズナー「グローバリゼーション批判―主権概念の再検討―」渡辺昭夫 土山實男編『グローバル・ガヴァナンス―政府なき秩序の模索』(東京大学出版会)、pp.45-68.参照。また国際社会におけるアクターの多様化(特にNGO)の認識については、遠藤貢「「市民社会」論―グローバルな適用の可能性と問題」『国際問題484号』(2000年7月)、pp.2-16.参照。

[34] 桐山前掲書、p.6.参照。

[35] 詳しくは、植木俊哉「「国際組織法」の体系に関する一考察(三)―「国際組織法総論」構築への予備的考察―」『法学』(1997)、pp.1-33.参照。

[36] この問題を論じるにあたっての注意事項すべき点については、詳しくは、最上敏樹「国際機構と民主主義」坂本義和編『世界政治の構造変動2−国家』(岩波書店 1995)、pp.177-209.を参照してほしい。

[37] 最上は、国際機構と民主主義をテーマとして議論するには、いくつかの陥穽があり、注意しなければならないとしている。そして、国際機構と民主主義の議論を分類することにも注意を払っている。詳しくは、最上、前傾論文、参照。

[38] 詳しくは、桐山孝信『民主主義の国際法』、pp.5-15.参照。

[39] 詳しくは、次章参照。

[40] 桐山前掲書、p.5参照。注意しておきたいのは、桐山は、国際法の観点からこのように考えていると思われることである。

[41] このような研究として、ノルベルト・ボッビオ「民主主義と国際システム」がある。詳しくは、田口富久治「新世界秩序の一構想―『コスモポリタン・デモクラシー』に寄せて―」『政治理論・政策科学・制度論』(有斐閣、2001)、pp.272-273.参照。このような考え方は、国家間民主主義や国内の民主化を考えたから出てきたのではなく、国際社会の民主化を、国内社会を含めて考えたからこそ出てきたと考える。つまりこの考えには、国際社会におけるデモクラシー(グローバル・デモクラシー)のモデルが基礎にあると考えられるのである。

[42] 例えば、カントは、「平和連盟」を構想したが、当時はあまりにも理想的であった。しかし、時を経て、この構想は、国際連盟、国際連合の創設へ大きな影響を与えた。

[43] この文献を紹介したものとして、川原彰「ラディカル・デモクラシーとグローバル・デモクラシー―重層化する民主主義の問題領域―」『年報政治学 20世紀の政治学』(1999年)、pp.175-179.もしくは、佐々木寛「「グローバル・デモクラシー」論の構成とその課題―D・ヘルドの理論をめぐって」『立教法学48巻』(1998年2月)、pp.178-181.参照。本稿では、川原を参考にした。

[44] このように、地域代表の意義に疑問が提示されるのであるが、安保理改革の議論の中で、多くのアフリカ諸国やラテン・アメリカ諸国は、各地域から安保理代表を選出することを要求している。また、地域の秩序維持のために各地域(南北アメリカ大陸、西欧、東欧、(東)アジアしか念頭になかったようであるが)に常任理事国が必要であるとの考えは、ルーズベルトの戦後構想の中にも見られる。

[45] 言い換えれば、形式的平等を修正できるだけの正当な根拠となりうるかとなる。

[46] 憲章第1条により、国連の目的は、「国際の平和および安全を維持すること」となっている。また、憲章24条により、「国際の平和および安全の維持に関する責任を安全保障理事会に負わせるものと」するとなっている。

[47] 本稿で客観的な基準として設けた基準も、常任理事国を選ぶ基準をいかにするかという議論における基準の一部でしかないという矛盾が存在する。この矛盾を考慮しつつ、本稿においては、あくまで国家間民主主義という観点で捉えると、常任理事国を選出する基準はどうなるかを考えた。

[48] このことの例として、例えば、ヴェトナム戦争においては、安保理は行動を起こさなかったことが挙げられる。また、中国のウィグル自治区に対する措置やチベットに対する措置、ロシアのチェチェンに対する措置に対して、安保理は行動を起こしていないことも例として挙げられる。

[49] 例えば、大国間の戦争になる恐れのある事項に関してのみ拒否権を与える、もしくは二カ国が同時に拒否権を使わなければ、拒否権は発動されないなどの制度が考えられる。ただ拒否権の恣意的な行使といった場合、何が恣意的であるかについてもう少し明確にしなければならないだろう。本稿では、一応、国際社会のほとんどが賛成しているのにもかかわらず、常任理事国の一国が反対しているような状況を指して、恣意的な行使と原則として考えている。但し、大国間の戦争になる恐れのある事案に関しての拒否権の発動は、これに含まれない。

[50] 安保理改革における議論においては、単純に北と南という対立軸では捉えられない。安保理改革における主な対立軸は、常任理事国、改革推進、地域大国、改革反対、非同盟諸国である。(一カ国が二つ以上の枠組に属している場合もある。)

[51] 最上敏樹「思想としての国際機構」『岩波講座社会科学の方法]Tグローバル・ネットワーク』(岩波書店、1994年)、p.110.参照。

[52] あくまで、現在議論されているグローバル・デモクラシーに関してであって、三通りしかないわけではない。

[53] 川原前掲論文および佐々木前掲論文を参考に、筆者が本稿に則して作成。

[54] 川原前掲論文、p.176.参照。

[55] グローバル・ガバナンス委員会 京都フォーラム監訳『地球リーダーシップ』(NHK出版、1995)、参照。

[56] コミュニタリアニズムに関しては、藤原保信『自由主義の再検討』(岩波新書)、参照。

[57] 川原前掲論文、p.177.参照。

[58] ラディカル・デモクラシーは、統一された理論ではなく、未発達の段階にあるものである。詳しくは、千葉眞「デモクラシーと政治の概念―ラディカル・デモクラシーにむけて」『思想』No.867、pp.5‐24.参照。

[59] 詳しくは、デヴィット・ヘルド『デモクラシーと世界秩序 地球市民の政治学』(NTT出版、2002)、参照。

[60] ダニエレ・アルチブギ「国連での民主主義」猪口孝=エドワード・ニューマン=ジョン・キーン編『現代民主主義の変容―政治学のフロンティア』(有斐閣、1999年)、pp.171-181.参照。田口富久治によれば、日本の武者小路公秀の紹介する「新世界立憲秩序」や坂本義和と最上の「世界秩序モデル・プロジェクト」は、ヘルドと多分に共通性を持っているという。詳しくは、田口富久治「D.ヘルドのコスモポリタン民主主義論」田口富久治『政治理論・政策科学・精度論』(有斐閣、2001年)、pp.31-63.参照。

[61] これは、アルチブギが国連の総会の第二院における構想の転用である。他に、ルイス・ソーンなども人口による総会の議席配分の国連改革案を構想している。

[62] 例えば、ヘルドは、国連第二院の設立を短期目標にしている。しかし、これは、すぐには達成可能な目標とは言えないだろう。世界市民の審議への参加の目標など、より実現可能な目標を、短期目標にすえるべきである。

[63] グローバル・デモクラシーはあくまで理念型であり、現実味が薄い。故にグローバル・デモクラシーを通して国際機構を考察するときは、常に現実を意識して考察しなければならないことは言うまでもない。

[64] EC/EUにおける民主主義の実践は、厳密な意味でグローバル・デモクラシーとは呼べないかもしれないが、国際機構における民主主義を実践する試みとして、今後研究してみたい。

[65] 川原は、一国単位で構成されてきた民主主義理論(政治理論)と、主に国家間システムに焦点を当ててきた国際政治理論(国際政治学)との「相互無視状況」を打開し、少なくとも共有され始めたアジェンダとしての《グローバル・デモクラシーの問題領域》を新しいパースペクティブから理論化していく方向が必要であるとしている。詳しくは、川原前掲論文、p.175.参照。