関大&文化情報

映画紹介

エネミー・オブ・アメリカ

 いわゆる盗聴法をはじめとした、組織的犯罪対策三法や、住民基本台帳法の一部改正による国民総背番号制の導入が強行されたいまに至っては、フィクションとして捉えることができない映画である。映画に描かれた国家による人々の管理が現実として十分に起こり得ると思えてしまう。大変おそろしい話である。
 映画のストーリーを若干説明すると、ウィル・スミス扮する弁護士のディーンが妻にプレゼントを買いに入った店で、偶然にも一瞬、旧友のザビッツと会う。その時、ザビッツがディーンの買い物袋に詰め込んだフロッピーには、ある殺人事件の様子が克明に映された映像のデータが入っていた。しかし、それに気づかないディーンは、殺人事件の首謀者であり、世界最先端の管理システム技術を持つNSA(アメリカ国家安全保障局)によって追跡、攻撃されていくというストーリーである。
 このストーリーだけで言えば、ハリウッド映画によくある、「スリルあふれる」アクション映画だなと思いのみなさんも多いのではないだろうか。しかし、ひと味違うのは事件の首謀者=国家が追跡の際に使う「最強」のシステムである。
 まず、名前、特徴などからその人のありとあらゆる経歴・情報(いつどこの銀行でいくらのカネをおろして誰の口座に振り込んだとか、その時期には誰とつきあいがあったか、といったことまで)を引き出す。携帯電話をはじめとした電波の盗聴などは朝飯前。車種やナンバーからは一瞬にして持ち主の個人情報や運転手の居場所の詳細を明らかにし、頭上からは宇宙で旋回している衛星が人相を正確に捉えるまでに人の居場所を突き止め、映し出す。さらには全国のあらゆる店や道路に設置された監視カメラのデータを瞬時に引き出す。これらを一瞬にして相互にリンクさせてディーンを追跡するのである。これでは、ディーンはまるで、透明な水槽にかわれた金魚のようなものである。
 しかし、これが現実として受け止めざるをえない世の中なのだから怖い。
 先にも述べたように、日本でも人々への管理の強化が為されてきている。昨年には、警察による盗聴の「合法化」や、すべての人々一人ひとりに背番号を定め、国家による個人情報の一括管理をすすめる国民総背番号制の導入が日本政府によって強行されつつある。
 
管理は国家権力が良しとする基準にそぐわない者へと必然的に向けられる。国家のためになるか、ならないかといった、一面的基準による人々への管理が強まる。
 
昨年七月六日の経団連における自由党党首小沢による発言は、治安維持法体制の復活を予感させるようなものであった。「盗聴法は、住民基本台帳法もそうだが、政府は安全保障や治安維持に使わないという。そこに使わないと何のためにやるんだ。正面から『治安に維持に必要だ』『プライバシーを守るために厳重な乱用禁止の規定を設けます』と言えばことがすむ」。
 「罪」は犯さないから、こうした管理が私に関係がないと思っている人がいると思うが、そうはいかない。なぜならこうした管理は、投網のごとくすべての人々にかけられるのだ。それに、そこでは何が「罪」で何が「罪」でないかは、決して私たちの判断に委ねられていない。
 管理の網は私たちの頭上に投げられ、頭のてっぺんからつま先まで、ひいては私たちの胸の内の思想・良心にまで管理は踏み込んでくる。
 国家や警察権力による監視が強まることは、まぎれもなく私たちの生活や精神の自由を奪うものである。
 映画の最後でディーンの妻がテレビで「プライバシー法」に関する討論番組を見ていて「監視する人を誰が監視するの」といったことを言っていたことが印象に残った。

ENEMY OF THE STATE

制作:ドン・シンプソン、ジェリー・ブラッカイマー

監督:トニー・スコット

出演:ウィル・スミス、ジーン・ハックマンほか



 音楽紹介

レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン

 筆者自身、音楽には門外漢で、鑑賞するのがもっぱらである。ただ、素人考えにさしたる理由も解せずに「ロックはやっぱ反体制的であり、抵抗の音楽じゃなきゃ」と、さも自分がロック通であるかのように、カッコをつけて思っていた。それには、日本に溢れる、恋し恋されの「たよりのない」中身の「ロック」に嫌気がさしていたこともあった。
 そんな時に、一つ年上の知人から紹介されたのがレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのCDであった。知人は当時、自らがライブハウスで活躍する関大きってのロックミュージシャンであった。そんな彼が、僕の心情を察してか、これは「お勧めや」と紹介してくれたのである。
 初めて聴いたのは2ndアルバムの「EVIL EMPIRE」であった。ヒップホップとパンクが混じり合ったような音に乗せられる、ボーカルの直情的な声に驚いた。気づいたときには柄にもなく、頭を縦にズンズンと振っていた。それだけでない、現代社会の矛盾を作り出すものに牙をむくかれらの直接的なメッセージは僕の心を捉えてやまなかった。
 日本の巷に溢れる西洋的なものへの「崇拝」として、あるいは、商業文化としてのみに、人々の間で解消してほしくないバンドの一つだ。
 あとは音楽評の「専門家」に任せるとして、最後に、少し長くなるが、本3rdアルバムの中で印象に残った彼らの「怒り」のメッセージを一つ載せたい。
 『・・・このマイクという装置で俺はノンフィクションを吐き出す◇力を手にしているのは誰だ◇それが俺の質問だ◇この引き裂かれた国の少数派の中の多数?司祭、本、それとも信者たち?力ずくで盗みお前の領域を押さえ込む政治詐欺師?あるいは自分の家の鍵を盗人に渡す人々か?殺人者を解放する豚?はったり屋?それとも行動を起こして人殺しの仕返しをする生存者?』(マイク・チェック)
 みなさんも是非一度彼らのほとばしるパワーと熱くとがったメッセージに触れてみてはいかがだろうか。



 書評

「ニュースの虚構メディアの真実」

 昨年末に「九〇年代を振り返る」、「一九〇〇年代を振り返る」といったものが、新聞・テレビでさんざん流されていたのをみなさんは覚えているだろうか。ほとんどの企画が「過去の出来事」をただ羅列するのみで、「過去」は「現在」を生きる私たちとは切り離されたもの、として捉えていたように思う。「懐かしいなあ」や「こんなこともあったな」という感慨しか湧き上がってこず、「過去から学ぶ」といった姿勢を微塵も感じさせないそのつくりに、私はうんざりしてしまったのを覚えている。同じような企画の多さに、食傷気味になった人も多いのではないだろうか。
 そうした「過去」をただ消費する企画が蔓延する中、昨年一一月に発刊された本書は、「現在」と「過去」を切り離すことなく九〇年代を振り返っている。
 この本は、読売新聞社の現役記者である著者が、九〇年代に書き綴ってきたコラムを一冊にまとめたものである。この本では、九〇年代のテレビ・新聞の報道が検証されており、まさに「九〇年代を振り返る」ことができる。
 そして本書を読めば、著者のマスコミへの一貫した批判精神を読み取ることができるだろう。マスコミは九〇年代の一〇年間のうちで、一体どれだけの「誤った報道」を犯してしまったのか。そしていかにマスコミが無反省に何度も同じ「誤り」を繰り返していることか。「事実」を「事実」として報道せず、「誤り」を「誤り」として報道していないマスコミの九〇年代が綴られているとも言える。
 しかし、責められるべきはマスコミだけであろうか。「誤った」報道を何度となく繰り返してきたマスコミを、看過してきたのは「誤った」報道の受け手であった私たちではないのか。
 ジャーナリズムとは、何も一部のマスコミ人によって形作られているのではない。受け手である私たちもまた、ジャーナリズムの一翼を担っているはずである。
 そうした観点から読めば、この本に書かれているのは、「誤り」を繰り返してきたマスコミと、それを見過ごしてきた私たちへの「告発」である。
 「…こんな有害で無責任な新聞は、今のままでは『週刊金曜日』連載の『買ってはいけない』リストに加えられても仕方がないと思う」という一文でこの本は締めくくられる。この「告発」に対して、マスコミ人だけでなく、わたしたちも応えていかなければならないのだ。二〇一〇年著者が再び一〇年を振り返った時、「もうどうしようもない」リストにマスコミと私たちが載らないように・・・。

「ニュースの虚構メディアの真実」山口正紀著、現代人文社、一九九九年



関大学生生活の壺

新入生のみなさん、入学おめでとう。さて、新入生のみなさんにとっては、学生としての新しい生活のスタートなわけであり、いろいろ戸惑うことが多いのではないでしょうか。特に下宿生のみなさんにとっては、生活全般のリズムが切り替わるわけで、期待と不安が半々ぐらいという気持ちだと思います。まあ、もっともそうした「試行錯誤」のうちが何事も楽しいというところもあって、大学に結構!?長くいる筆者にとっては、そうした気持ちがうらやましいという面もあります。それはともかく、そうした試行錯誤する新入生のみなさんの参考にすこしでもなればと思い、以下「関大生活の壺」と題して記していきます。

【学ぶ】

  大学に入ってくる学生すべてが勉強好きなわけではなということは、知られざる事実というよりも、もはや常識に属することですが、かといってそうした常識に自らが縛られる必要もありません。自分の興味に応じて勉強することは、それ自体楽しいことですし、必ずしも無駄なことではありません。
 まず、床面積が東洋一という、自慢になるのかならないのかよくわからない特徴を持つ図書館を利用しましょう。関大の図書館は、テスト期間中だけは対戦相手に巨人を迎えた甲子園球場のように混雑するという難点がありますが、平日はそうでもなく、特にテスト終了後の期間などは、ロッテを対戦相手に迎えた大阪ドームのように静寂に包まれ、大変勉強がはかどることでしょう。実際、蔵書数は豊富ですし、利用しがいがある図書館なのではないでしょうか。
 またみなさんが気にするテスト対策について。大学の授業は、必ずしもすべての科目が出席を単位認定の条件にしているわけではないので、そうした場合は講義ノートなどの情報収集で補うこともできます(勧めているのではありません・・・念のために)。まじめに授業に出席し、ノートをとっている学生には、テスト前に突然友達が増えるという現象が毎年観測されていますが、いっそのこと学生同士でインターネットなどを使った互助組織でも立ち上げればいいのではと、個人的には思っています。あと大学正門前には講義ノートを印刷して売っている店(すべての科目を取り扱っている訳ではない)があり重宝されていますが、著作権との関係はどうなっているのかという余計な心配をしてしまいます。

【食す】

  学内で飲食物を提供しているのは、すべて関大生活協同組合です。ですがお店ごとによって、営業時間や扱っている中身に違いがあり、それを理解しておけば便利です。ちなみに、平常時に比較的遅くまで営業し、U部生やサークル帰りの学生に重宝されているのが経商学舎内のカフェテリア店と、正門右手の建物四階にあるレストラン・ボンプラットです。特にボンプラットは、それまでの生協食堂イメージを払拭した学内唯一のフルサービスのレストランとして好評であり、ボンプラットってほんまに生協なん?という疑問を持つ学生さえ多く存在するといいます。間違いなく生協です。
  学外に目を転じれば、”関前”(関大前通り)には数多くの飲食店が林立しており、いちいちあげていくことはできません。ただ、やはり関大生の認知度がもっとも高い店といえば、王将(通称、キング)でしょう。今時、餃子一人前一八〇円という値段も魅力的ですし、特に大人数でご飯を食べるときにはおすすめです。
 また、一見してにぎやかな関前にもまずい店はあっという間につぶれる(一年ももたない)という厳しい原理があるため、迷ったときは昔からやってそうな店を選んでいけばよいのではないでしょうか。

【クラブ・サークルで過ごす】

大学で授業以外の時間は、クラブ・サークルで過ごそうと思っている新入生の方も多いことでしょう。数多くのクラブ・サークルのボックスが集まっている建物が誠之館(せいしかん)です。はっきりいって建物自体は老朽化しており内部も薄暗い(これは学生施設を軽視する大学当局の責任!)ので、新入生のみなさんがいきなり訪れるのは勇気がいるかもしれませんが、学生の自主自治活動の場として重要な機能を果たしています。壁一枚を隔てて、関大生同士がお互いの想像をはるかに超えるようないろんな活動に打ち込んでいるわけで、おおげさに言えばそこには無限の可能性があるといえるでしょう。個人的には、もっとそこで学生同士の横のつながりがあればもっといいのに、と思っています。新入生のみなさんは、 是非、いろいろなクラブ・サークルを積極的に訪ねていってはいかがでしょうか。もちろん関大新聞会でも、みなさんのボックスへのお越しを大歓迎しています。
 以上、長々と書いてきましたが、やはり大学の中で一番貴重なのは、多様な人との出会いだと思います。あまり「大学生活はこういうもの」と決めてかからず、自由な好奇心と行動力でいろんな分野にチャレンジしてみてはどうでしょうか。