学生を取り巻く当世関大事情

山積する学内問題を考える

 新入生歓迎期間にあたる現在、学内には様々な学生団体の立て看板が立ち並び、学舎の壁等には所狭しとポスター・ステッカー類が張り巡らされている。特に、新入生の皆さんは、こうした光景に「大学らしさ」や学生の自主自治活動のパワーを感じることだろう。
 だが他方では、近年、大学内部での様々な新施設の建設や制度的「再編」が矢継ぎ早に押し進められ、それにともない、学生の立場や権利に大きな変化が生じつづけている。講義やゼミ、あるいはクラブ・サークル活動など、それぞれの学生生活における重心は様々であったとしても、学生の権利・自由といった視点から、学内の問題を検証・共有していくことが必要ではないだろうか。

新大学院棟をはじめとした”建設ラッシュ”に見る関大の現状

現在、キャンパスの中心部にあたる「旧第一グラウンド」において、「新大学院棟」の建設が進められている。この建設については、昨年4月発行の本紙において報じたが、その計画の意志決定のプロセスは学生にとって極めて不透明なものであり、それに起因する様々な問題が生じてきている。
 こうした新施設の建設は、ここ数年絶え間なく繰り返されてきたものだ。九五年の新関西大学会館(正門前の南棟および北棟)の着工ー建設以降、工学部「ハイテクリサーチセンター」など、まさに学内「建設ラッシュ」といっても過言ではなく、実際「なんかわからんけど、いっつも工事やってる大学やなあ」というのが、多くの学生にとっての実感である。しかし、実はこうした「建設ラッシュ」は、学生にとって「なんかわからん」ですまされる問題ではない。
 第一に、これらは莫大な資金を投じておこなわれているものであり、上に挙げた計画だけで優に数百億円の予算規模に上るということである。これらは、もとをただせば学生の学費から用いられているわけであって、そのことの意味を見つめ直す必要がある。96年以降、大学当局は、学費の「定額漸増」方式なる「難しげな」名称の制度を導入した。これは入学年度によって毎年学費が自動的に値上がりし(つまり本年度入学の新入生は「自動的」に昨年度入学生よりも高い学費を支払うことになる)、さらに在学期間中も毎年一定の値上げが課せられ、入学時と卒業時の年間学費が大幅に異なるというものである。ようは、学費大幅値上げのダブルパンチが、ここ数年の「建設ラッシュ」の裏でなされてきたわけで、学生生活に深刻な影を落としていることは否定できない。さらに大学当局は、こうした学費値上げに際して「本来、大学の学費については、高等教育の機会均等を実質的に保障していく社会的責任を思うとき、可能な限り低く抑える努力が切に求められておりますが」といった「言い訳」をこととしてきたのだが、学費値上げに反対する学生による、そうした「努力」の検証=抗議には一切耳を貸してこなかったことも付け加えておく必要があるだろう。
 第二に、昨年の「新大学院棟建設」をめぐる本紙取材・報道の過程で明らかになったように、学内運営体制をめぐるコンセンサスづくりの軽視の傾向である。そもそも歴史的にみれば、大学運営をめぐっては「教授会自治」をタテにとりつつ、それと少なくとも対等であるべき「学生自治」が抑圧されるという、それ自体として問題視されるべき経過があった。だが、この間の一連の建設計画の推進をめぐっては、例えば新関西大学会館に対しては経・商教授会(当時)の「緑地保護」の立場からの反対意見が広範な学内議論に結実することなく霧散させられ、さらに大学院棟建設に至っては「大学院の問題」ということで、各学部教授会では形式的な承認以外の議論はおこなわれず、ほとんどの教員が決定された計画内容を何も知っていないという情況だったのである。ましてや学生に対しては、学内広報誌「関大通信」での「決定事項」の通知以外には何も行われていない。新大学院棟のあった第一グラウンドは、通称「段々畑」と呼ばれる日当たりの良いスタンド部分があり、日常的には学生の憩いの場としても機能し、あるいは学園祭時には名物イベント「後夜祭」の会場ともされてきた。また第一グラウンドの使用団体の属する体育会(当時)は、九八年一一月付で「自分たちの活動基盤が一方的に失われ、これに対する納得のいく保証が得られないことに対しては反対」とする声明を出すなど、計画が学生の日常に影響を与えることは明白であるにもかかわらずである。
 広範な学内議論を経ることなく、「上位下達」式に物事を進めることが、何か「力量」であるかのような発想に基づく権力構造が関大の中で着々と形成されようとしているならば、これほど大学の理念に反することはないと言えるだろう。学生の知らないところで、新しい建物がそこかしこに建設されていくことの問題を直視する必要がある。

学生の日常と自主自治活動をとりまく諸問題 

 上に述べたような、「建設ラッシュ」によって、学内の光景は大きく変貌した。それらは、単にモノの面だけではなく、学生をとりまく諸関係や立場・権利情況を「再編」しようとするものであった。学生に対して、ある日突然「決定事項」が押しつけられることを「当然」であるかのようなとんでもない雰囲気が醸成されつつあるのである。
 例えば、これまで当たり前のこととしてなされてきた、立て看板の設置や学舎に対するポスター・ステッカーの貼布に対する規制が飛躍的に強化された。一昨年には、学園祭関連のステッカー貼りを「口実」として関大職員が学生を派出所まで強制的に連行するという事件が起こり、これに対して学部教授会が当該職員の理屈抜きでの「防衛」方針の下、事件のもみ消しに躍起になるという事態となった。さらには、この件をも契機としながら、社会学部の学生自治会に対して、自治会執行委員への脅迫や暴行をはじめ、学舎内活動スペースの強制撤去や自治会配布ビラの回収・廃棄、立て看板の原型をとどめないまでの破壊や隠蔽、講義・ゼミの時間を使ったデマ・悪宣伝の流布など、ありとあらゆる活動妨害が一部の教職員によって加えられた。これらは、クラブ・サークル活動などの自主自治活動総体を一方的な当局の管理・統制の枠に囲い込むことを目的とする動きであって、「許可・承認をする側=当局、される側学生」という構図にすべてをあてはめようとするものである。権利とは与えられるものではなく、克ちとるものであるという学生間での認識と実践を抜きには、関大は今にビラをまくことさえできない管理・統制の場と化してしまうだろう。そんな事態は断じて認めるわけにはいかない。
 また、相次ぐ施設建設の他方で、サークルボックス棟=誠之館をめぐるボックス不足や老朽化の問題は放置されたままである。例えば、関西の学生数が同規模の大学を見れば、必ず学生管理による、共用の集会場や飲食スペースなどを含む総合的な自主自治活動の施設が存在するのが当然となっている。関大においても90年代初頭には、学生部長(当時)が「総合学生会館」建設を公言していたのだが、いつのまにか雲散霧消するという無責任な事態となっているのである。大学当局による自主自治活動に対する、とりわけ近年における姿勢の如実な変化を示すものともいえるだろう。
 より根本的には、こうした一連の情況は、国家・文部省、独占資本が一体となった全国的な「大学再編」政策の脈絡に位置づくものである。特に私大においては経営優先と文部省の政策への接近を、大学内部における学長権限の強化という方向でやり抜こうとするものであり、それが「大学冬の時代」を生き残る唯一の道であるというイデオロギーが振りまかれている。だがそれらは、本来的には学生にとって「百害あって一利もない」ものであり、だからこそ学生の声は一貫して切り捨てられ、無視されてきたと言える。関大における様々な再編を、「学生こそが大学の主人公である」という原則的立場から捉える、批判的実践が今こそ求められているといえるだろう。