『平成患者学』プロデューサーとして
オフィス・トゥー・ワン
エイズプロジェクト 藤枝 亜弥
「もう少し早くもう少し正しくエイズのことを知っていたら、
僕はもう少し長く生きていられたはずなのに・・・」  

こんな言葉を残して、私の友人のジェームスは
昨年の夏に37歳で亡くなりました。

ロサンゼルスに生まれ育った日系人のジェームスと出会ったのは
1993年の夏、翌年の1月に放送を控えていた
テレビ朝日系列の特別番組『平成患者学』の取材を通してでした。
当時の彼は、家族や周囲の人達には自分がHIVに感染していることを
告げていましたが、テレビ番組の取材を受ける
というのは初めての経験でした。

その日から約4年間、毎年ロサンゼルスの彼の元を訪ね
彼が実践している「諦めない生き方」の取材を続けました。
1995年の冬には、私達が東京で実施した『エイズ・フォーラム'95』
に出演するために来日してくれたジェームスは
「僕は日本語は話せないけど、
体の中に流れる血はみんなと同じ日本人です。
そのことでも分かるように、エイズは外国や外国人の病気ではなく、
僕たち日本人にも感染する病気だということを分かって下さい。」
と会場に参加してくれた人達に呼びかけました。

 このとき既にエイズを発症していた彼が、風邪が流行っていた
寒い冬の東京に来ることが彼の命にとって如何に危険なことだったか
を知った会場の人達は、舞台から降りるジェームスに
惜しみない拍手を送り、
ひとりの若者が彼に握手を求めたのをきっかけに、
何十人もの人達が彼を抱きしめてくれたのです。
この光景に一番驚いたのはジェームス本人でした。

「日本にはエイズについて誤解している人が多いと聞いていたから、
冷たくされても仕方ないと覚悟してたのに・・・・。
僕は自分の体に流れている日本人の血を誇りに思うよ。」
4年間に及ぶ取材を続けていて、私はいつも自分の選択が
正しいものかを悩んでいました。

番組を通してひとりでも多くの人達にエイズを正しく理解してほしい
と思う反面、ジェームスのやさしい気持ちを利用しているのかもしれないと
自責の念にかられることもありました。

そんな揺れる思いを支えてくれたのは、『平成患者学』を放送するたびに
送られてくる視聴者からジェームスへの励ましの手紙でした。
この手紙をジェームスに手渡す度に、
「僕がテレビに出ることで、少しづつでもエイズについて
知ってもらってうれしいよ。こんな僕でも、何かの役に立てるんだね。」
とうれしそうな笑顔を見せてくれました。
ジェームスとの約束通り、最期の瞬間までを取材し
日本中の人達に「掛け替えのない命」の意味を伝えて欲しい
という彼の意志を受けて、私は彼の葬儀の取材のために
ロサンゼルスに向かいました。
出会う人すべてに安らぎを与え、諦めない生き方を教えてくれた
ジェームスが、最期に思いがけず彼のお母さんを通して
私に残してくれたのは「亜弥の仕事を手伝うことで、
僕は自分が生きている意義を見つけることができたと伝えて欲しい。」
という言葉と「エイズになったことは悲しいことだけど、
そのことで日本まで行って日本の人達の前で自分の思いを話せたことは
人生で最良の思い出でした。」
という遺言でした。
 ここ何年かの間に、私はジェームスを始めとする
多くの友人をエイズで亡くしましたが、
彼らの中の誰ひとりとして自分からHIVに感染したくて
感染した人はいないと思います。
ごく一部分ではありますが『平成患者学』を御覧頂き、
彼らが命を懸けて私達に手渡してくれた『命のバトン』
を受けとめて、たったひとつしかない命の大きさと
その形や色までも感じて頂けたらと思います。
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