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8月のはじめ。暑い日差しの中。ベランダで洗濯物を干しながらキリエはふとあることに気がついた。 “私、もう4日も口を利いていない。” 別に希望したわけではなく、会社から取りなさいと言われるままに取った5日間の夏休み。もう4日目。帰る実家を持たず、友達とも都合が会わず、恋人とは半年前に別れていた。どこに出かける気も起こらなかったから、ただ家で何をするともなく過ごす夏休み。人と接触する事もないから、当然一言も言葉を発しない。独り言すら口からついて出ることはなく、出るのはため息だけ。引きこもりのようにも鬱のようにも見えるがしかし、気持ちはとても安らいでいる。ただ、今のキリエには言葉は必要ないだけのことだ。 次の日、キリエは一駅先の大型スーパーまで買出しに出かけた。丁度食料も尽きてきたところだったし、明日からの会社勤めのためにも買い溜めは必至だった。 “それにしても、スーパーには本当に何でも売っている。” 食料品売り場を回りながらキリエは心でそうつぶやいた。そして、もしかしたらそのうち愛や幸せまで売り場に出てくるのではないだろうか。そんなことを思いながら店内を進んでいると、 「“愛”はいりませんかぁ〜。お安いですよ。“愛”の味を試してみてはいかがですかぁ〜」 スーパーの食料品売り場によくある試食コーナーのおばさんの声だった。キリエは自分の考えを読まれたかのようで一瞬ドキっとした。そして、また何か変な新商品が出たなと思い、そおいうのが好きなキリエは内心小躍りしながらその”愛”とやらの商品コーナーに近づいた。 「お客さん、“愛”はいかがですか。ただいまタイムサービスでお安くしておりますよ。」 おばさんが笑顔で話しかけてきた。 「“愛”って、実際中身はどんなものなんですか?」 キリエは5日ぶりに言葉を発した。 “愛って・・・・なんですか。” 5日ぶりに発したにしては、なかなかいいフレーズではないか。そんなことも思いながら、きりえは新商品の”愛”とやらの中身に思いをめぐらせていた。20センチ四方の赤い箱のパッケージはどうやら冷凍食品のようだが、赤い色からしてシュウマイか餃子の類かな、と無意識のうちに頭の中にそんなイメージが浮かんでいた。 「お客さん、愛の中身なんて誰にも分かりませんよ。買ってみてのお楽しみです。どうですか?ひとつ物は試しに“愛”をお買い求めになられては?」 キリエは、うまい、と思った。そして、キリエはこおいう粋な言い回しにはめっぽう弱い。 家に帰ると既に陽は落ちていて、辺りは完全に真っ暗になっていた。キリエは少し買いすぎた買い物袋の中身を暫く見つめ、意を決したようにあるべき場所に片付けはじめた。8割方しまい終わったところで例の”愛”が出てきた。買った時には中身を見るのを楽しみにしていたけれど、一日の疲れも手伝って、そのときはもう中身を確かめる気力もなく、とりあえず冷凍庫の奥に入れておいた。そして、それっきりキリエはその“愛”についてすっかり忘れてしまっていた。独り暮らしなのに買い過ぎてよく物を腐らせていうるキリエに、そおいうことはさして珍しいわけではなかった。 夏休みがあけて会社に出てみると、変わっている事がふたつあった。ひとつは、新しいパソコンが入っていた事。そして、もうひとつは新入社員がきたことである。 「キリエさん、こちら中途採用のヒサギくん。キリエさんの下につけるからよろしく。」 チーフはそう言い置いて、そしてその途中採用とやらで新入社員のヒサギくんを置いて、さっさと自分の仕事に戻ってしまった。 キリエはめんどくさいお荷物を置いていってくれたものだとため息をつきながら、ヒサギの方に振り向き、 「キリエです、よろしく。どうやら私が仕事を教えることになったみたい。私教えるの下手だから、分からない事どんどん聞いて。質問されない事に関しては分かってるものと思うから。」 と、淡々と述べて仕事にとりかかった。ヒサギはキリエの態度に嫌な顔もせずに「分かりました」とだけ言ってキリエの指示通りに従い、キリエの言ったとおりどんどん質問をしてきた。 はっきり言って、ヒサギはキリエにとって仕事上申し分のないパートナーだった。教えるのが下手なキリエだったが、ヒサギが間髪いれず重要なポイントを押さえて質問してくれるので、それに答えているだけで、一通りの事を教える事ができた。何よりも、ヒサギは人の扱いが上手だった。 ヒサギがきて一月くらいだろうか。それが自然の成り行きであるかのようにキリエとヒサギは付き合いはじめた。 “こんな楽な恋愛があっていいのかしら” 恋人としてもヒサギは申し分なかった。キリエはそんな楽な恋愛に十分甘えていた。キリエが何もしなくてもヒサギはなんでもしてくれた。 しかし、長くは続かなかった。あっという間に燃え上がったその恋は、冷めるのにも時間がかからなかったのだ。結局最後はヒサギが別の女の人に心を移し、キリエはヒサギの心変わりに少しも気づくことなくただ突然に別れを宣告された。 楽な恋愛で、本気でヒサギを愛していた自覚も無く、何の努力もしていなかったキリエだったが、しかし何かこう、説明のつかない喪失感だけは残った。 急にポカンと暇になった週末。 “いつも何をしていたかしら。” 無意識に冷凍庫を開けてみるとそこには3ヶ月も前に買ったあの例の”愛”が目にとまった。ヒサギと別れたばかりのキリエには、それが嫌味にも癒しにも思えて、とりあえず、食べてみる事にした。 “愛”は買った時よりかいくぶん軽く感じられ、箱から出してみると丸い不透明のプラスチックの容器が出てきた。蓋の上には“開けずにそのままレンジで5分間暖めてください。”と書いてあった。きりえは素直にそれにしたがって、容器をそのままレンジにかけた。 5分もかからず内に、レンジの中から壮絶な爆発音が聞こえてきた。その音は、キリエが思わず手にしていた雑誌を床に落としたほどで、レンジを開けてみると、粉々に飛び散った容器の残骸だけが残っていた。 キリエはなんだか無性に腹が立ってきて思わず箱に書いてあるお客様サービスセンターに電話をかけた。 「はい。こちら愛をお届けする○×社お客様サービスセンターです。」 声の主は底抜けに明るくそう話しかけてきた。それが余計にキリエを腹立たせ、キリエは爆発の一部始終をまくしたてて 「これ、不良品じゃないんですか?第一、“愛”なんて商品名自体、人を馬鹿にしてますよ。」 と少し嫌味を言った。しかし、電話の主は一向に調子を変えることなく底抜けに明るく 「お客様、賞味期限の方はご確認なさいましたか?」 と、慣れたように尋ねてきた。 こんな冷凍食品の類、どうせ賞味期限なんて1年以上先でしょう、と箱の横に賞味期限の印刷を探してみれば、なんとそこには約3ヶ月も前の日付が書いてあったのだ。 「えっと、8月15日になってます。今年の。」 キリエはちょっと拍子抜けしたような、納得いかないような、間の抜けた声で答えた。 「それでは、お客さま、賞味期限が過ぎておりますので当社では商品に関して責任を負いかねます。」 またしても底抜けに明るいオペレーターの声を聞いてキリエは我に帰って、そんな不条理なことがあるかと、またまくしたてた。 「これ、賞味期限の記入間違いじゃありませんか?だって、これ買ってからまだ3ヶ月しか経っていないのよ?」 「お客様、3ヶ月も経っていれば十分です。当社ではそちらの商品の賞味期限は一週間に設定しておりますので。」 「そんなバカな話ありますか。冷凍食品で賞味期限が一週間なんて!」 「お客様、愛の賞味期限は短いのです。」 キリエは、言葉を失った。 “愛の賞味期限は短いのです。” 確かにそうだ。 何故そのことにもっと早く気がつかなかったのだろう。 キリエは受話器を置いた後、崩れるようにしてその場で泣いた。 |