「学級崩壊とたのしい授業を考える会」熊本・水前寺共済会館 1999.5.2
教師入門教育としての仮説実験授業〜元気に生き続けるために〜
愛知・西尾市立平坂中学校 犬塚 清和
(テープ起こし 上野 詔子)
たのしい授業が基本的な視点になる
犬塚です。僕はあんまりあとがなくて、あと4,5年で退職なので、こういう年齢になると刺激がなくて、つまんないといえば、つまんないですね。若い頃が懐かしいというか…。
今日は「学級崩壊とたのしい授業を考える会」ということで、「学級崩壊とわかる授業」というテーマの会も考えられないことはないんですね。この会はほとんど仮説実験授業に関係している人が多いわけですが、普通の、例えば教育委員会関係の会だったら、「わかる授業」というのが出てくると思います。なんとなく「わかる授業が大事」というのが今の学校の主流という感じが僕はしてるんです。
さっき小原さんの話を聞いてて、石川くんとかブラジルのアイルトンくんとかのことを聞いていて、友達同士がお互いにいい関係になるというか、うれしい関係になるというか、自分もほめられてうれしいし、自分が出せてうれしいし、それを評価してくれる周りの人がいてうれしい。そういうのは、「わかる授業」というテーマだったら、たぶん出てこないと思うんですよね。「わかる」というのは自分がわかったらうれしいんで、他人がわかってうれしいというのは、たぶんないと思うんです。「あの子がよくわかってうれしい」とかは。「あいつがわかったら、俺はもっとわかろう」と、ほとんど、そういうことになってしまうんじゃないかと思います。わかる授業でも、わかる人はうれしいかもしれないけど、僕は友達のすばらしいところとか、そういう雰囲気は出てこないんだろうなと思います。
たのしい授業ということで、学級崩壊の問題を考えるんですが、僕らにとっては当り前なんだけど、これからの一番の基本的な視点になるんじゃないかと思います。この路線でいかないとほとんど解決できないんじゃないかという思いを、小原さんの話を聞きながら、ますます強くしました。
仮説実験授業が「わかる授業」よりも「たのしい授業」ということを前面に出して、板倉聖宣さんの「わかる」と「たのしい」の組み合わせの講演が『科学教育のために』という講演集にありますけど、一番いいのは「たのしくてわかる」あるいは「たのしくてわからない」。どっちがいいかわからない。なにしろ、一番悪いのは「たのしくなくてわかってしまう授業」だと。そういう発想は普通の人にはほとんど何を言っているのかわからなくて、「何だ、あれは?」という感じになります。
「たのしい」ことにふんばる
この会のテーマの学級崩壊ですが、子どもたち自身が「そんなにおもしろいのか」とか「もっとやりたいな」とか「あの子は素晴らしい」とか感じられる授業が広がっていかないとこの問題は根本的解決はできないだろうという気がしています。今は中学校で授業してますけど、僕の授業は「わかる」というのは、ほとんど正常分布で、だいたいこんなもんですよ。でも「たのしさ」は圧倒的にたのしいという子が多いんですよ。これは自信があるんです。ぼくはこれで満足してるんです。たのしいんだからしょうがないの。
たぶん「わかる」授業というのは、いくら熱心にやってもそんなに「わかる」という子は増えないんですよ。少しは違うかもしれないけど。それで「たのしさ」がどうなるか。問題はたのしさで、たのしさがそのままだったら、別にそれはいいんだけど、あまりそれは考えない。小学校の低学年は「わかる」というのは重要だと思うけど、中学校の「わかる」はいくら先生が宿題を出したり、なんかやっても、ちょっとぐらいよくなるくらいで、やればやるほど、ぎくしゃくしてくる状況が多いんだろうと思います。それが学校の現状だと思うし、それでいじめられてる若い先生もたくさんいると思うし、「たのしさ」というのをいいかげんに見てるという気がします。せめて仮説実験授業に関係した人は、「たのしい」ということにもっとふんばってほしいなと思います。どこまでふんばれるかというのは、いろいろあるので、若いうちは適当にふんばって、年齢がくるまで待つ。
ここに来る前に、西尾で飲んでまして、「明日、熊本に行くんだ」って言ったら、「ぼく、熊本城に行きたいんですよ」っていう人がいたんですよ。城を守ったとかで有名な人がいるんだそうですね。その人の小説を書こうと思って、資料を相当集めて、その人はもう今年退職しますけど、もう1度、それを主題とした本を書きたいという人と飲んでたんですよ。小学校の先生なんです。変わった人で一度大学を出たんですが、先生がしたくって、また35くらいから愛知教育大に入って、先生になったんです。ずっと「教頭になれ」と言われて、拒否してて、最後は担任で終わります。 どこまでふんばれるかは、それぞれの状況も違うし、いろいろあるけど、「たのしい授業」ということを意地でも守っていってほしいというか、守っていきたいなと思っています。そういう年寄りがいれば、その学年とか職場も違うんだろうなと思うので、ぼくはそういう存在でいたいと思ってますし、そういう年寄りがこれからどんどん出てほしいなと思ってます。
元気と笑顔が基本
一番最初に中野さんが学級崩壊を防ぐには体力をつける、元気がいいと言いましたが、ぼくもそう思うんですよ。ぼくの同級生はほとんど校長をしてますので、採用試験の面接とかやってますが、「ぼくは面接で一番大事にするのは、よく笑う人と大きな声の人」と言ったのがいるんですよ。「面接で話してて、笑顔のいい人と声の大きい人がいい。そういう人がいたら、ぼくは二重丸を打ちます」って。それが中野さんの言った体力だろうなと思うんです。元気でもりもりとか、バシバシとかじゃなく、「あはははは」と笑ったり、小原さんみたいに優しく語りかけたり、それが真理だろうなと思います。何をやるかは、また別の話で。基本的にそういうことって、大事じゃないかと思います。
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学級崩壊について『週間読売』に出てたので、飛行機の中からちょっと借りてきました。何となく手にとったんですが、『学校崩壊』という本、読まれた方もあると思うんですが、その河上亮一の文章が巻頭にあります。この河上亮一はプロ教師の会で昔から名前は知ってたんです。「教育には強制管理が必要だ」とでっかいタイトルで出てます。これ、つまんなかったんですよ。顔が、うれしそうな顔をしてない。昔はこういう人でも通用したと思うんですよ。東大を出て先生になって、有名な人なんです。中学校にこういう人がいたら、嫌だと思うんです。表情が悪いというか、笑顔がないというか。夢もないですよね。
「教育には強制管理が必要だ」というのは、「わかる授業」路線だと思うんですよ。たのしいのに、強制管理が必要なんてこと言う人はいないですよ。わからせようと思ったら、たぶん、強制管理が前面に出てくると思うんです。読んでみると「みんながわかる、おもしろい授業なんて無理。今はくずれていくのを我慢するしかない」と、結局、そんな結論ですよ。なんか淋しいですよね。ぼくとそんなに年齢はかわらないと思うんですよ。もう、あと数年で退職するだろうと思うけど、今までプロ教師の会で学校改革とかでマスコミにも取り上げられてきたりした人なんだけど、もう、この路線は淋しく終わっていく感じですね。
ぼくは、そういう点では「たのしい授業」をしていてよかったなって思うんですよ。週刊誌は3,4ページで終わるから読みますけど、1冊の本は読む気もないし、小原さんも言ってたように気分の悪いことは逃げた方がいいので、見ません。見ても、明るくならない。「今は崩れていくのを我慢するしかない…」で、タイトルは「教育には強制管理が必要だ」というのが、マスコミに取り上げられるという状況では、まだまだ、もっともっと崩壊が進まないと教育は変わらないんじゃないかという気もします。だから、子どもの力を借りて、もっと進めてほしいというのが1つです。
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でも、ぼくは学校崩壊なんていうことはありえないと思うんです。公害で人類が滅亡するとか、ノストラダムスの大予言とかと似たようなもので、嫌ですね。学級崩壊という言葉がだいたいよくわかんないんです。どういうのを学級崩壊というのか、わかんない。これは問題になってるのは、小学校だろうと思ってるんです。中学校では授業崩壊ってありますよね。あの先生の授業は成立しないとかいうのはありますけど、中学校の学級崩壊というのはないんじゃないでしょうか。学校には何人か先生がいて、この先生は普通の先生、この先生はペケとか二重丸とか、いろんな先生がいますよね。普通の中学校だったら、いろんな人がクラスに授業にいくだろうし、例えば、ペケの先生が担任になっても、他の先生も入ってくるので、そんなに影響ないですよね。ある先生の授業がうまくできなくても、その授業だけの問題だから、他の先生がいけば、べつにいいわけです。ただ、小学校の場合だとペケの先生が授業もするし、担任もしたら、やっぱり、ちょっとヤバイなと思いますね。崩壊ということもありうるだろうなと思います。だから、ぼくは学級崩壊は小学校だけの問題だろうと思ってるんです。
その学校の先生がみんなペケになってしまえば、そりゃ学校崩壊するだろうなと思いますけど、教育委員会もそれなりに考えてやってますから。実際、そういう先生がいますけど、1,2年ですぐかえるとかしてますし、500人くらい先生がいて、せいぜい50人くらいですね。数人はぼくから見ても、おかしいというのもいますけど。これから、もしかしたら、そういう人が増えてくれば、学校が崩壊するかもしれない。でも、それはないだろうな。
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この河上亮一が学校崩壊というのは、何となくわかる気もするんですよね。今までの学校のイメージした、きちんと子どもに授業を受けさせる。嫌な授業でも、意味がないと思っても、それなりに形をつくっていくというのができにくくなった。わかるけども、これは崩壊しなければいけない。
学級崩壊というのは、たぶん、たまたま起こるんじゃないかな。他の先生たっだり、他の子どもたちだったりしたら、わかんないですよね。たまたまそういうことが起こりうるのだろうと思います。大河内くんが自殺したのも、やっぱりいくつかのことが重なってるから、みんなにはないけど、そういうことはありうるんだろうと思います。危険性があるということです。
ここにいる人は絶対学級崩壊にならないと思います。こういう会に来る人はならないんですよ。何故、ならないかというと、本当に悩んでたら、ここに来ないと思うんですよね。学校の保護者会でも来てほしい人はだれも来ないんですよ。どっちでもいい人が来るんですね。先生にもんくを言われると思ったら、行かないのが普通ですね。中学校でも全校集会とか学年集会やって、本当に話を聞いてほしい子は来ないんですよ。そういう子は集会に来ない。それで、どうでもいい子がぐちゃぐちゃ言われて、嫌になってくる。本当に聞いてほしい子はいない。そういう状況と似てますね。
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この会に来るということで、資料をつくりました。「学級崩壊と組織論について考える」という資料です。『たのしい授業』の(1999年の)3月号に、さっき小原さんが学級崩壊の会を一緒にやったという牧衷さんが書いた文章に「あれ?」と思って書いたものです。
ぼくがイメージしている学級と『たのしい授業』に牧さんが書いている学級とか、子どものイメージが違うなと思いました。この3月号に載った「見立ての効用」という文章です。牧さんは学級の子どもたちを気体の分子に見立ててる。要するに子どもはみんなバラバラだから、それに力を加えれば、圧力が増して、いつか爆発するというようなイメージです。
ぼくは学級とか子どもの空気というのは三態変化だろうというイメージです。固体・液体・気体ですね。ぼくは若い頃は、やはり、他の先生の目が気になったりして、子どもにどうでもいいことを言ってしまったり、まずいなと思いながらも、こちらの身の安全のためにとか、こわいからとかで言ってしまったこともあります。「あなたの学級は生活指導がなってない」とか「汚い」とか「整頓が悪い」とか言われるとそうだなと思いながら、気になったこともあります。学級崩壊の問題も、子どもは固体・液体・気体の状態を行ったり来たりするだけの話で、たまたま気体状態だったら、教室を飛び出したりもするだろうけど、教室にはいるけど、なんかごちゃごちゃやってるとかいうのもあるわけです。普通のあまり勉強しない校長たちというのは、きちんと座っている(固体状態)以外はみんな崩壊と思ってるような感じできてる。それを「問題だ、問題だ」と言ってるじゃないか。たまたま、若い先生だとか、心優しい先生だったりすると、ちょっと液体状態とか気体状態が多いかなという感じになって、その時に他の先生がぐちゃぐちゃ言うから、なんか気になって、力がないのにきちんとしようと思って、混乱したりしてしまう。
「まあ、こんなもんだ。そのうち、変わるだろう」と思ってればいいんだけど、そう言ってもなかなかほっとけないから、その時にどうするかというと仮説実験授業をやってみる。なんかおもしろそうだし、授業書もあって、楽にやれそうだし、とにかく10時間確保する。授業書をするために資料を集めたりすれば、自分の気持ちも前に向くと思います。なにしろ、付き合ってほしいという気持ちでやっていくといいんじゃないかな。
だいたい、子どもに「付き合ってほしい」とか言わないんですよね。「〜してください」とか。「〜しなさい」とは言うけど。「お願いします」とか「ありがとう」とかあんまり言わないんですよね。
まあ、こんな状態だから、ゆっくりいきましょう。そのくらい子どもは信用できるんだろうと思うんですよね。このままの状態で10年も20年もいったら、おかしくなると思うんですけどね。下手に力を出すとバラバラに壊れるだろうと思います。
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ぼくも若い頃、「しつけが大事だ」とよく言われていました。しつけをやればうまくいくと。資料(「学級崩壊と組織論について考える」)にも書きましたが、「始めにピシッとしつけをすることが大事」と、何度言われたことか。でも、できない。こっちにする気がないんです。でも時々は、ちゃんとすればよかったと思うんですけど、する気がないんだからしょうがない。そう思って諦めてきた。でも、それができなかったから、子どもたちとの別のいい関係が見えたと思うんですよ。そしてわかってきたことは、「始めにちゃんと指導しておけば後はうまくいく」というのはウソだということだ。うまくいくためには、「始め」もちゃんと指導し、それを「最後まで手を抜かず」に続けるということだったんです。
ぼくが小学校3年生の担任をしている頃に、親が「宿題をする習慣をつけさせてください。だから、宿題を出してください」って言うんですよ。「宿題をする習慣」なんて、そんなものつくはずないと思うんですよね。1、2年生のうちは、だいたい親の言うことも聞くし、先生の言うこともきちんとやります。でも、3年生ぐらいになってくると、だんだん自分を出すようになるから、親の言うことも聞かなくなるし、ぼくも宿題を出さないから、だんだんのさばってくるから、「ちゃんと宿題を出してください」って言われてたんです。でも、習慣がついたら、ずっと最後までやるかっていったら…「じゃ、お母さん、今でも習慣で勉強してますか?」って聞きたくなりますよ。習慣なんてあるわけない。ある部分、小さいことでは、「指導したらうまくいく」ということもあるかもしれないけど。
いわゆる外から見て指導力があるなという先生は本当に最後までやってるんですよ、やっぱり。だから、そういう先生が休むと子どもが喜ぶっていうのがあるんです。そういうのは、始めはなかなかわからなかった。言われると「そうか」って思ったんです。日光さる軍団は、芸ができるとみんなバナナやってますから、えらいなって思うんですよ。先生もいつもポケットに飴かなんか入れて、できたら配ったりしたら、もしかしたら、やるかもしれない。「習慣をつけろ」とか「指導できるもんだ」とか、なんか錯覚してるんじゃないかな。
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しつけとかは、うまくできなかったけど、うまい具合に仮説実験授業に出会って、仮説実験授業に関わっている人たちと出会って、「学校とは違うな。こういう世界もあるのか」と思いました。同じ先生をやりながら、「わかる授業が大事」というのとは違う集団があって、そういう人たちと若い頃から接してきて、「こっちの方がいいな。こっちの方が気楽だし、楽しそうだし、いいな」ということで、学校の中ではごちゃごちゃしながらも、その気持ちを守って、30数年が過ぎて、授業とか、教育とか、子どもたちや若い教師に期待を今でも持っていられるというのは、幸せだなと自分でも思います。
仮説実験授業をやってる人たちの間では当り前というか、あまり「楽しい」ということの深刻さに逆に気がつかない気がするんですけども、「楽しい」ということが変えていくんだろうなと思います。楽しい授業をもとに自分の楽しさとか子どもたちの授業での生き生きした姿とかを求めて、新しい教育の姿、学校の姿、先生の姿をつくり出していかなかったら、たぶん根本的な改革にはならないだろうと思います。今はとても心細かったりするけれども、楽しい授業をもとに「これしかない」と思って進んでいく人が増えていってほしいし、必ず増えていくだろうと考えてます。
『私と組織論』(ガリ本図書館)の中で板倉さんはこんなことを言っています。
理想主義は、だんだんと個人が独立していく方向に行くわけです。それまではみんな寄り添い合って生きてきた。実際、寄り添わないと生きていかれないんですが、と同時に、必要以上に個人が寄り添わなくて済むようになったのが、近代社会です。
個人が豊かに生きていけるようにする。すると、個人というものを大事にしながら、この結合の仕方を考える必要がある。これが組織論です。
ぼくの組織論の特徴は、「個人」というものをすごく大事にしているということです。そして、この結合で個人をつぶさないように、その結合を考える。「将来は個人がすごく強くなる」といくら理想を唱えたって、個人はバラバラにならないんです。やっぱり、人間は他人との交流なしには生きていかれない。必ず結合する。そういう社会というものを考えていって、今の組織を考えていくことです。
わからないことはたくさんあります。でも、そのとき、「わからないことはわからないままにしておこう」というのが、もう一つの組織論です。わからないことはわからないままにしておこう。だから「各自バラバラ、勝手にしろ」というわけです。しかし、わかることは「個人を大事にしなければならない」ということです。
わかることは、一番基本的なことは、個人を大事にすることです。「教育には強制管理が必要」という論調は違うなという感じがします。徹底的に個人を大事にするんだから、「個人を大事にする」ということをいいかげんにしてしまってはもともこもなくなる。「個人を大事にする」ことを第一に考えていく。そういう一番基本的なことをわからなくしてしまってるのが、マスコミの「学級崩壊キャンペーン」だと思います。「学級崩壊」とか、「学校崩壊」という単語を見るのが嫌なんですよね。「ほっといてくれ。おまえはなんだよ。おまえが何とかしてくれるのかよ」って言いたくなりますね。きっと子どもが喜ぶから、こういうことをやってくださいよということが言えるならいいんだけど、ただ「大変だ、大変だ」って言うだけで。日教組も調査をして、何割は学級崩壊とか、先生の何割は担任をやめたいとかいうのを出してますけど、それも「なんだよ」って思いますね。「こういうのをやってほしい」「こういう具体的なものがあるから」というのを出して、それでもダメならまた考えればいいけど。
今までのきちんとさせるというような路線のままでは、実際にはもうできない。これは事実なんですよね。努力したって、ちょっとはよくなるかなっていうぐらいで、この路線のままではだめだってことは明らかなんです。なのに、この路線は変えない。「わかる授業、たのしい学校」かなんか知らないけど、それでは、もうどうしようもないんじゃないか。
仮説実験授業が始まって、35年ぐらいたってますけど、まだまだ歴史の惰性は強いです。仮説実験授業に関わる人っていうのは、まだまださらしものになるというのが現実だろうし、でも、わかってくれる人が出てくるのも間違いないと思います。自分だけは、違う路線で、仮説実験授業というのは、ほんの一部しかできないけど、子どもと授業をする中でうれしいことを大事にして、自分の中の楽しさを膨らませていく。そういうことで持ちこたえてほしいと思っています。
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最後に「ののちゃん」の漫画を紹介します。(「学級崩壊と組織論について考える」)「なにごとも無理にそろえると、ろくなことはない。ほっとけ、ほっとけ」と、こういう雰囲気が学校の中にももっと増えてほしいですね。それぞれあるんだという。ぼくが、30数年も見てると、だんだんこういう雰囲気がへってきてるんですよね。細かいことをぐちゃぐちゃ言ってるし、あれなら、おれでもグレるぞというのがありますね。子どもはよく我慢してるなって。ぼくがキレそうなんですよ。ぼくが子どもだったら、たぶんキレてると思うんですよ。「うちはどっちみち百姓だし、食いっぱぐれはないから、もうやめた」って、言うと思うんです。今の子どもって、本当に我慢してるんじゃないか。だから、いつでも授業中に、わいわいとなってしまうのは当り前だと思うし、もう、そういう状況になってると思うんです。
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ぼくが好きなのが、五味太郎なんですよ。学校って、どうも色気がないんですよ。なんかふわっとして、しっとりとした空気がなくなってきてる。「楽しい授業」というのは、まず、そういうしっとりとした雰囲気を教師の中にもつくり出していくと思うし、「わかる授業」「わからせる授業」というのは先生をますますぎくしゃくさせると思うし、学校だけでなく世の中にもまだまだそういう風潮が残ってると思います。マスコミにはいい大学の受験のことを書いたり、一流高校のことを取り上げたり、そういう風潮というのはあるわけです。
もっとみんな素直な自分の感性で考えていってほしいな。自分の中の気持ちを強くというか、自信を持っていくには、具体的に子どもたちとの授業の中で、自分の生きがいや喜びを見つけていくことだろうと思います。
仮説実験授業の授業書をつくっていく運動は、教育の研究の革命であることはもちろんだけど、教育全体をゆっくりゆっくり変えていくもとになってだろうと思っていて、そういう会に関われた自分をうれしいなと思います。そういう人をこれからも応援していきたいなと思っています。
ぼくは話すのが苦手で、子どもに話すのも嫌なんですよ。学年集会とかも嫌で、「先生を困らせるのはいいけど、先生を悲しませんでくれ」とか、そういう話をして終わります。
なんか「たのしい」というのはとても大きいんだな。これは全部を変えるんだぞという雰囲気が伝わってくれればいいなと思っています。今まで「ああしろ」「こうしろ」と言われてきたことがあまり効果がないというか、逆の効果が多いということが、長年の中でわかったので、子どもに組みして、進んでいけたらいいなと、そう思っています。
【テープ起こしを終えて】
「楽しいことはすごく大きい。それがすべてを変える」というのが、とても印象に残りました。子どもが「楽しい」と言ってくれることの大きさを改めて、考えました。私が今、少しでも自信を持てることがあるとしたら、仮説実験授業をした時は子どもが「楽しかった」と言ってくれることです。その「楽しい」ということが大きいなんて、すごく明るい気分になれました。「楽しい授業は時代の必然」ですね、やっぱり。
若い頃から、しつけが苦手だったという犬塚さん。でも、そのおかげで子どもとのいい関係が見えたというところもすごく好きでした。しつけが苦手というのも、シメタというか、かえってそのほうがいいんだなと思いました。
私もしつけは苦手だし、「わかる授業」もなかなかできないのですが、たのしいことでふんばっていけたらいいなと明るい気分になれた話でした。
熊本,六栄小 上野 詔子 1999.5.11