◎国史編纂局編纂『地歴国史』



第一章 地歴国家の形成

1.上板の地歴−地歴は上板に始まる−

 「小野師言行録」によれば、新河岸川下流域、上板地方において古代地歴文明が発生し、1957年、地理国が興った。この国家は独自の方法で地歴的活動を行っていたらしいが、詳しいことは分かっていない。地理国の誕生をふつう国義誕生と呼び、地歴の原点としている。
 その後、1962年ごろ上板に歴史国が興った。この国家は発掘調査などの考古学的文明を軸にした国であったらしい。1964〜1965年ごろからその二国の活動は活発化し、文化水準もいちじるしく発展したと考えられている。この時期に歴史国師として就任したのが小野師(?〜1980)である。小野師は徐々に地理国にも干渉していった。そして1980年、歴史国王後藤雅彦(1980〜1983)によって両国は統一され、ここにはじめて上板地歴王国が建国された。しかし、後藤王が卒した1983年、再び二国に分裂。上板地歴国は一代三年で滅亡した。その後の上板地理国、歴史国の様子は未だによくわかっていない。

2.古市場地歴のあけぼの

 1980年、新河岸川上流域で上板の地歴文化の影響をうけ、地歴国(古市場地歴国)が誕生した。国師には田村師がつき、初代の王が立ったが、王の名はまだわかっていない。1982年、堀正樹(1982〜1983)が王となり(堀王)古市場の歴史を調査していた。同年10月30日喜多院見学を決行、さらに新河岸川の歴史も調査したが、1983年4月22日から、史書は途絶えている。このことから、地歴王国はこのとき断絶したと考えられている(地歴断絶)。その後1986年4月末、中島達郎(1986〜1987)が王位につき地歴国は再興された(国家再興)。中島王は城下町の調査、川越市内調査などを行なった。この間、1985年に田村師は去り、加藤師が就任した。
 中島王に始まる王朝をふつう、中島朝と呼ぶ。のち、中島王には太祖の号が与えられた。

第二章 加藤師時代

1.田中大帝

 1987年、中島王(太祖)の跡をつぎ田中聡が王位に就いた。田中王は皇帝を名乗り(田中大帝)地歴帝国が成立した。田中大帝は同年3月27日、巡検を小川町に対して実行し、見事にこれを成功させた(小川町巡検)。これが地歴最初の巡検である。田中大帝は次に「長野、黒姫巡検」を行なった(8月24日〜26日)。これは地歴初の夏季巡検合宿となった。1988年3月、田中大帝は鎌倉巡検を行なったのち帝位を河村知徳に譲り、河村帝が即位した。田中大帝には太宗の名が送られた。また、このころ国師に渡辺師が一時就任した。

2.二賢帝時代

 1988年7月27日、河村帝は福島に巡検し、直後の8月7日に喜多方、会津に巡検した。さらに11月1日、分担巡検により日本皇帝宮城、高麗川、秩父に巡検し、地歴を大いに発展させた。河村帝は1989年春の甲府巡検の後退位し、新井源太が帝位に就いた(新井帝)。新井帝は1989年8月8日、「中山道」をテーマに木曾に巡検し(木曽巡検)、つづいて1990年3月22日、「芭蕉をたどる」をテーマに福島、白河に巡検した。90年夏は宮城・岩手・山形に巡検したと記録が残っている。
 さらに91年の3月新井帝は箱根に巡検した。こうして新井帝は二年半という記録的に長い統治機関を終え引退していった。
 地歴主義と地歴帝国を発展させ、城玉連盟内での地位の確立に努めた河村帝、新井帝の両帝を称して二賢帝と呼ぶ。

第三章 三師時代

 1991年8月、加藤師とならんで横山師が国師につき、92年8月には佐藤師が就任した。この前後から加藤師が去るまでの四年間を三師時代と呼ぶ。

1.地歴帝国の全盛と衰退

 1991年8月、栗田大輔が帝位につき(栗田帝)、東海道五十三次巡検が行われた。このころ、地歴帝国の勢力は絶頂期にあり、国員は17名を数え、城玉連盟内でも大きな存在となった。
 こののち、文化委員長には地歴国皇帝が任じられる傾向が強まり、ついには慣例化した。宮殿も完成し、地歴帝国はこのまま古市場を統一するかと思われたほどであった。1992年春、武田をテーマとして甲府巡検を決行したのち、栗田帝は関根宣洋に帝位を譲り、関根帝が即位した。関根帝は夏に上杉をテーマにした長野、春日山巡検を、1993年3月には日光巡検を決行したが、このころから国員は徐々に減少しはじめていた。関根帝は1993年4月、帝位を星野直久にゆずった(星野帝)。

2.地歴帝国の滅亡

 星野帝は93年8月に「芭蕉」をテーマに東北へ、94年3月に「北条氏」をテーマに箱根巡検を行なったが国員減少は止まらなかった。94年4月、星野帝は引退し、南伊奈公伊藤陽平が跡を継いで即位した(伊藤帝)。伊藤帝は政才に優れ、帝政反対派をよくなだめ、文人政治を行なった。また、浦和選帝公土屋篤史の「土屋問答」等によって地歴主義を発展させた。このころ鈴木賢一が栗橋辺境伯に任命され、首都がゼミ301からゼミ201に移された。
 伊藤帝は「城」をテーマに中部東海、「武田」をテーマに甲府へ巡検を行なった。つづいて「上杉」をテーマに長野新潟へ巡検をした。しかし、国員減少の動きはいかんともしがたく、一年半という長い統治を終え、伊藤帝は引退していった。帝位継承権は栗橋辺境伯鈴木賢一に渡ったが、帝政の不合理点と官僚の横暴、国員の大幅な減少(6人→3人)などが蓄積し、国家存亡の危機が迫っていた。

第四章 新三師時代

 1995年4月、加藤師は去り、3ヶ月後降旗師が国師となった。これをもって降旗・佐藤・横山の新三師時代が到来した。

1.地歴民主革命

 1995年9月、鈴木賢一は帝位継承を固辞し、みづから人民の先頭に立って旧帝国政府を圧迫した。各地の貧しい生活を強いられていた人民はこれに呼応し、行田辺境伯久保田尚也の協力も得て旧元老院で人民大議会を開くことに成功した。鈴木辺境伯はその会議上で人民の代表、首席に任命された。鈴木首席は帝制を廃止し、地歴主義による民主的政治の実現を目指し、地歴主義人民共和国の成立を宣言した。
 鈴木首席は96年3月、「第二次世界大戦」をテーマに茨城巡検を行ない、渡辺いくと会談した(鈴木・渡辺会談)。続いて96年夏京都・大阪で巡検を行ない国家の実力を見せた。しかし国員数はさらに減少し、96年4月には新入国員ゼロという壊滅的打撃を受け、「地歴は穴を掘っているのではないか」という誤解を他国から受けるようになった。そんな中、96年9月第一書記久保田尚也が首席に就任したが、地歴国の活動は停滞した。97年3月の栃木「マイナー大名」巡検はなんとか決行したものの、このとき国員数は3人で師数と同数となり、地歴国は滅亡寸前にまで追い込まれた。
 しかし1997年4月国員数は6人に増え、地歴国は滅亡の淵から救われた。これを「人民の奇跡」と呼ぶ。そして現在は97年7月に青森・岩手への「第二次マイナー大名」巡検が計画されている一方、正式な国家機構が整い、上板地理国・歴史国との初の交流も予定されるなど、地歴主義の一層の発展に向けての政策がすすんでいる。

    【参考文献】
  • 地歴書紀
  • 続地歴書紀
  • 新続地歴書紀
  • 地歴巡検誌
  • 平民日報
  • 小野師言行録
    【参考古話】
  • 小野師伝説(口伝)
  • 加藤師伝説(口伝)
  • 横山師伝説(口伝)

出典:『地歴国史』 地歴主義人民共和国初代副国家主席 著 地歴主義人民共和国国史編纂局 編集・出版


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