
冷たい空の下で
草凪 和希
上
「どーもよく分からんのだが」
隣でてきぱきと寝具の用意をしている友人、小野武彦にささやいた。
周囲へのはばかりもあったから声は小さい。
二十一時五十六分、名古屋の上後津駅近郊の電気街では昼間の華やいだ雰囲気や喧騒はとうに失せ、ここが名古屋の中心か?
と疑わせるほどに寂しい……そして暗い。
同日十六時十分。
取り敢えず俺は不幸だった。
つい先日盗まれたバイクは発見されたものの、マフラーは取られるわ、ナンバープレートは取られるわ、鍵は壊されてるわ、ハンドルは改造されてるわ……それやこれやの修理代だけで軽く三十万はかかるはずだよ、とバイク屋のおにいちゃんが保証してくれたものである。
おまけに、持ってたパソコンは壊れるわ、バイト先の店は潰れちゃうわで、とにかくろくなことが起こらない。
そんなブルーな俺のところにやってきたのが友人の小野武彦氏であった。
武彦とは十年来の付き合いになるが、彼は、いつのまにか親しくなっていた、という類の友人であった。
中学のころ初めて接触があったのは疑う余地がない、が、一度たりとも同じクラスになったことはないし、隣のクラスでさえもないから体育の授業で知り合ったという線も薄い。
ちなみに家も学区の両端にあって極めて遠く、親同士が友人であるというわけでもない。
何かのきっかけがあったわけではなく(少なくとも覚えてない)気がつくと武彦と俺は行動を共にするようになり、以来十年余にわたって、高校・大学とまるで違うところに通ったにも関わらず、親密な関係を保っていた。
まあ、川を流れていく木の葉が二枚、たまたま一緒に流れに乗って、つきつ離れつして同じ速度で流れているようなものだろう。
武彦はいいところのボンであるわりに金銭のために努力することを厭わず、それどころかむしろ金のない俺よりも熱心に賃労働を行っていた。
『金銭は一定の行動の自由を保証する』というのが小野武彦という人物がご幼少のみぎりから信奉している命題の一つで、彼は時にそれを押しつけに、極めて怪しげなアルバイトの口を持っては、俺のところにやってくるのである。
この日の武彦の来訪も用件はそれである。
ところで、仕事の斡旋にやってくるわりには、武彦は仕事の内容について説明するために口を開きたがらない男だったので……「どうせ行けばわかる事じゃないか」というのである・・・…この時も過去の大多数の例に倣ってろくに仕事について話さなかったが、賃金については一応の説明をした。
「二食睡眠付き、実働一〜二時間、実働以外の拘束時間が全体で十三〜十五時間」
なんとも怪しげな労働条件だが、拘束一時間につき七〇〇円、実働時間の時給が一〇〇〇円。
総計で一〇〇〇〇円以上になるというのは悪くない。
その上、交通費も支給されるし、食事補助が一食あたり八〇〇円というのでは、悪いどころか、かなり待遇は良さげにみえた。
断る理由もさしてなく、何よりお金が欲しかった俺が署名と捺印を済ませると、「後でまた来る」と言い残して武彦はふらっと出ていった。
同日二十時三十五分。
三月初旬、暦の上ではもはや春であるのだが、太陽暦上で陰暦の暦が役に立つわけもなく、夜ともなればまだ肌寒い、というよりかなり本格的に寒い。
そういう訳で冷え込まないうちにさっさと風呂を済ませた俺はぱじゃまに着替えて炬燵で蜜柑、とくつろぎモードに入っていた。
お茶を・・・…この場合、炬燵で蜜柑というところまで舞台セットは整っているのだから、お茶は緑茶や舶来もののお茶は出来るだけ避け、番茶を湯飲みで飲むのがもっともふさわしい。かくいうこの俺も愛飲する十六茶を、ではなく、渋めに入れた番茶を飲む事にしているのだ……純和風な気分に浸りながらお茶を飲んでいた俺のところへ再度小野武彦がやってきた。
「早く準備しないか」
「あん?」
そうかそうかこの舞台装置を見れば番茶が欲しくなるのも無理はない。
「はい、どうぞ」
こぽこぽと音を立ててポットから熱湯がはきだされて、かわりにお茶の良い香りが立ち上る。
「おっ、こりゃどうも」
ずずずっ、と音を立てながらお茶をすする武彦に俺が聞いた。
「ところでどっか行くのかね」
「仕事だと言っとるんだ」
「それはご苦労様」
「何を他人事みたいに、おまえも行くのだ、早く準備しろ」
「そんなこと聞いてないぞ」
初耳である。
「俺の予定表にはそんな風には記されていない」
「なるほど……」外出予定を書き込んである壁に掛かっているカレンダーの本日分には何も書かれていない。「そうだったかな」
ところどころ几帳面な俺のカレンダーには、些細な外出予定でも書き込まれている、刑事さんにアリバイを証明するためではもちろんないが、それこそコンビニに買い物に行く程度の事でもびっしりと。
きゅっきゅっ、と音を立ててマジックで『二十一時からバイト』と書き込んだ。
「これでよし、と」
「よくねー」
まさか話を持ってきたその日に働かされるとは誰も思うまい。
俺も予想だにしていなかったから、ついつい武彦に勤務日を問いただすのを失念していた。
いずれ武彦から連絡があるであろう、と思っていたし、三日に一度は顔を合わせるのだから、とつい油断した。
「仕事がいつあるのかぐらい言えんのか」
「どうせ暇だろうが」
さすがに気色ばんで不平を言う俺だが、あっさりいなされた。
「・・・…そういう問題か」
正直、痛いところを突かれた。
仕事はないし、バイクは動かないし、パソコンも動かないし、恋人もいないし、おまけに何より金がない。
何かをしたくても、できないではないか。
「あー」ゴホンと咳払いをしてから、「ともあれ、サインをしてしまったからには卿には契約を履行する義務がありますぞ、この契約は完全に有効なものですからな」
ケケケッと笑って、武彦は、俺が仕事に対する不平を述べる時に使う、いつもの芝居がかった決まり文句を言った。
それから十分後、暖かい我が家から引きずり出された俺は、契約を履行するために地下鉄に乗った。
「ああ、それとな」時間は前後するが、家を出るときの会話である。「これと、これを持っていくように」
そういって武彦が渡したのは封筒と、大きな紙袋に入った何かだった。
「何だこれは」
中身は直径三〇センチ、高さ七〇センチほどの円筒形の物体で、布か何かで構成されているのであろうか、ずいぶんと柔らかい。
紙袋を外側から触ってみただけではその程度の事しかわからなかった。袋のところもなぜかご丁寧に封印が施されていて、中は見えない。
「むこうに着くまで中を見るなよ」
武彦は紙袋の方を指して釘を刺した。
ただ、封筒の方は、おそらく嫌々、であろうが、説明した。
中には、現金がかれこれ三十万ばかり、なんでも必要経費だそうで、出費はすべてこの中から出し、明細とともに厳重に管理せよとの事だ。
万一、領収が無かったり、不完全あるいは不正な場合は不明分の返済を請求される事がありえる、というのである。
まあ金額が金額なので万全を期したいというのはわかるが、無用の心配である。
たかだか三十万と親友を引き換えにする気はないし、人生を賭ける(大袈裟)気もない。
俺が一つ、武彦自身は二つ、かの大きな紙袋を抱えて俺達は家を出、そして西山線の木山駅から地下鉄に乗り込み、一路亀舞線の上後津駅をへと向かった。
上後津駅は名古屋市真中区の南に位置する、いわゆる小須というところで、地元名古屋人たちが東京の春葉原や大阪の倭国橋に次ぐ電気街である、と思っているところである。
ところが、ある雑誌に全国の電気街のマップが載っていたのだが、それによれば先にあげた両者の次に並んでいたのは札幌・福岡・金沢となっており、名古屋なぞ載ってもいなかった、というのが実状である。
・・・…まあ、世の中そんなものさ、と少し物悲しい気分で我々はその雑誌を眺めたものだ。
駅の九番出口を出てしばらく歩くと、有名な第一雨横ビルに到達するが、武彦が俺を連れていったのは、そこよりも駅から離れた『GOOD
ILL X号店』という看板を出した店の前であった。
「ついたぞ」
「は?」
店内清掃でもしているのかGOOD ILLのシャッターは五〇センチほど開いており、そこから漏れ出す貧弱な蛍光灯の光が暗い夜道を白く照らし出している。
その前で立ち止まった武彦は持ってきた紙袋の封印を解いて中身を引っ張り出した……というところで冒頭の部分へ物語は回帰するのである。
「どーもよく解らんのだが」
店の周りを見渡すとおよそ二十人ばかりの若い男女が段ボールやら何やらを尻の下に敷いて座り込んでいる。
「何かの抗議行動かな」
長良川の河口堰か、有明干潟の干拓か、それとも産業廃棄物処理場か、はたまた原子力発電所か、世の中には抗議するに足ることが山ほどあるから、どこでどんな人が座り込んでいても別に不思議はない。
「そんな訳ねえだろうが、場所を考えろ、場所を」
ぺしっ、とどこからともなく取り出した丸めた紙束で俺を叩くとその紙束、新聞のようである、を明るい所へ持っていって見せた。
『GOOD ILL NEWS』それは、そんなタイトルロゴのついた怪しい数枚重ねのフルカラー広告であった。
表紙の部分には客引き用の特価商品の一覧がびっしり書き込まれている。
その、ある部分をチョンチョンと指して、
「これが卿のターゲットだ」
「は?」
武彦が指している所には『無名メーカーデスクトップパソコン、メーカー希望小売価格五九八、〇〇〇を二六九、八〇〇』と大書してある。
「むちゃくちゃ安いじゃないか」
なんと五五パーセントOFFの猛烈な安値であった。
普通、メーカーから小売へ降りてくる商品の原価は、希望小売価格の六五〜七五パーセントというところが相場である。
もっともこれにはバッタ商品と呼ばれる例外も存在する。
バッタ商品というのは正規ルート以外の経路で市場に現れる商品のことで、通常の商品よりも格安だが、それでも原価の六割を切るようなことにはならないだろうし、ましてや半額以下になることなど、より以上にありえない。
「独禁法違反じゃないのかな?」
と、俺は呟いた。
この値段はそういう基準から照らし合わせて考えるに、極めて安い、安すぎる。
こんなものをいくら売っても儲けが出るはずがない。
こんな値段で売っていると公正取引委員会から『著しく不当な安値によって競合他社に競争力を失わせる不法な行いである』として糾弾されてしまうぞGOOD
ILL!
「……独禁法に引っかかるかどうかはともかく、この商品、全然売れないのかも知れんな」
「見たとこ普通そうなんだけどね」
結局、よほど売れないんだろうな、というところでこの価格に対する見解は決着をみた。
「見たまえ」言われて、そこかしこに座っている人々を見渡す俺に武彦がいう。「奴等はすべて敵だ」
さて、と呟くと武彦はペンを取り出して店のシャッターのところへ歩み寄って、そこに立てかけられている段ボールへと手を伸ばした。
その段ボールには番号と名前、それから商品名が書き込まれていて、その一番下の方、二十二、二十三番に武彦は俺達の名前を書き込んだ。
「ところでこれからどうするんだい?」
「何言ってるんだ、これからが仕事なのだ、さっきもそう言っただろうが」
「だから仕事って何をするんだよ」
「何を言ってんだ、並び屋にきまっとるだろうが」
「なんだいそれは」
並び屋なんていう職業は聞いたこともない。ストレート過ぎるネーミングで内容がちょっと分かるような分からないような、いや、やっぱり分かってしまう気がするが、とにかく初耳なものは初耳なのだ。
「本当に知らないのかね、どうしても知りたいのかね、それなら仕方がないから教えて差し上げよう」
「いや、べつに、そんなに無理しなくても」
結構です、と言おうとしたが聞いちゃいねえ。
「並び屋というのは、つまり我々のように」
俺もかっ!
「通常の方法では入手が極めて困難で、なおかつ長時間『並ばなければならない』ことが予想される商品を本人になり代わって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、冬の寒さにも夏の暑さにも負けず確実に商品を手に入れてくることを条件に報酬をもらう者たちの総称なのだ」
普通じゃねえ。
「ド○クエの入手からコンサートの入場順番待ち、はたまたコ○ケの順番待ちまでありとあらゆる用件に対応しております」
「そんなもの欲しいんなら自分で並べばいいだろうが」
「なにを言ってるんだ、俺の話を聞いていなかったのか?
人にはそれぞれ事情ってものがあるし、たとえば体の弱い女の子がどうしてもコンサートのチケットが欲しいとしよう、ところがそのコンサートのチケットは入手が非常に困難で前売券も入手できなかった」
「うむうむ、よくある話だ」
「あと残す所は当日券を並んで買うしかない!
ところが当日券なんて物は当日に買えるわけがない、前日ぐらいから並ぶしかない、ところがその子は体が弱いからお母さんが、夜中に並ぶなんてとんでもない!
今回はあきらめなさい、と言うわけだ」
「なるほど」
「どうだね、こういう事情があれば君にも解ってもらえると思うが」
「なんかすごく特殊なケースな気もするが、大体は分かる気がするぞ」
「そうか、それなら話は早い」
「ところで労働条件にあった睡眠付きってのは?」
結果は見えているがあえて聞かねばなるまい。
「野宿に決まっとる、わかりきった事をいちいち聞くんじゃない」
「・・・…(絶息)」何度こうやってだまされて働かされた事か。
まあいつもの事だから仕方ないか。
それじゃあ、と言って武彦は例の段ボールの名前の後ろに商品名を書き込んだ。
「どれどれ」といいながら、気を取り直した俺は、改めてそこに記載されている物件を見ていくのだが、「なんだ、この商品は俺達だけじゃないか」
先着五名の商品なのだが、二十人から並んでいてまだ二人しかいないのだから、こいつはよほど人気のない商品に違いない、と俺は思っていたのだが、武彦の認識とにはずれがあるようで、武彦はその証拠に難しい顔をしてこう呟いた。
「今日はやはり、まだベテランの並び屋は少ないらしいな」
「ベテラン?」
「そうだ」
「こんなの単純だろう? 早い者勝ちじゃないか」
「まあ、一般的にいえばそうだ、ところがそうでない場合もある」
ところで、と周りを見回しながら武彦は俺にたずねた。
「テレビで『並んで』いるところを見たことがあるか?」
「ああ、あるよ」
ドラ○エの発売とかで並んでいるシーンを見たことがある。
「ああいうのはいいんだ、お前の言ったとおり、早い者勝ちだ」
なぜなら、と一度言葉を切った。
「ここと、そういうところと、違う所があるんだが、解るかい?」
まるで生徒に向かって言う先生の口調である。
「適当に、並んでるね」
「そう、そのとおり、普通の所はたとえば整理券を渡したり、ロープで一列に並ぶように規制したりするもんだが、ここではそういうことをしない」
それが厄介な原因になっているのだ、ということのようだ。
「こういう一筋縄ではいかん店では、ベテランどもが辣腕を振るう余地がいっぱいあるんでね」
「君はベテランじゃないのか?」
「俺一人のことならな」
要するに俺が足手まといだということだろうか。
「どっちにしても、朝にはわかるさ」
と、そう言って話を打ち切ると、武彦は例の大きな紙袋を取り出した。
紙袋三つの中から出てきたのは寝袋が二つに毛布が一つであった、ふう……(またもや絶息)。
「経験によれば」と言いながら武彦は毛布をまず地面に敷く「アスファルトやコンクリートの上に寝ると、寝袋越しでも冷えるからな」
この毛布は武彦の愛犬ベッキーのご愛用の品だそうで、お世辞にも綺麗とは言えない。
まあ、その上に直接寝るわけじゃないから我慢しろ、と言われておとなしく毛布の上に寝袋を準備して『早寝早起きが勝利の秘訣だ』というベテランに習って俺も眠ることにした。
わりと寒さが厳しくない夜だったので、すぐに眠れそうな気がした。
さて、誤算が生じたのは、そう、二十五時を、つまり翌日の午前一時をまわったころのことである。
予想に反して、あまりの環境の変化についていけずに、だって野宿をするのは初めてなんだからしょうがないでしょ、俺はなかなか寝付けず、眠たいのに眠れないというもったいない時間を、そのときには既に二時間近く費やしていた計算になる。
上空はすごい風が吹いているらしく、雲が恐ろしい速さで空を駆け巡っていた。
雲はひたすら巡り、月がときどき見えたり、見えなくなったり、見えたり、見えなくなったり、見えなくなったりしていくうちにいつの間にやら月も、星も、透き通ったような、ぬけるように黒い、昼間ならば蒼く見えるであろう空も見えなくなって、代わりに重たい、よどんだ黒が空の全体を覆っていってしまう。
ぽつん、と何かが降ってきた。
雨だ。それもかなりヘビーな、大雨といってよいぐらいの。
ちなみに我々が陣取っている場所は、通りの、GOOD
ILLと同じ側の歩道の上、まあまあ良い場所であるといえるところだったのだが、結果論的に言えば唯一つ不足しているものがあって、それが屋根だったのだ。
もとより眠っていなかった俺はこれで完全に目が覚めて跳ね起きて、隣で熟睡している武彦をゲシッと蹴起こした。
「やめてくれよ、麻紀」
むにゃむにゃ、と寝言が口からもれ出る武彦をもう一度小突いて、耳元で、
「起きろ!」俺は少々むっ、としながら怒鳴り声をあげた。
麻紀、というのは武彦が中学の時分からつきあっている女性の名前である。
こんな寝言が出てくるようでは、日頃、ストイックな自分はプラトニックな関係を長年保っているのさ、などといっているこの男も実際にはどうだか怪しいものだ。
多少の紆余曲折はあったものの、それほど時間をおかずに武彦は活動を再開し、俺達二人は慌てて道の向かい側のひさしの長い店先に走り込んだのだが、これが第二の誤算へとつながっていく事になるとは、この時点では思いもしなかった。
GOOD ILL X号店の前の歩道にはひさしの付いた店が少ない。
このために、店の極至近に陣取っていた者達、つまり例の段ボールに一桁番号で書かれたうちの若い方から数人は、極僅かな屋根の下にその身を潜める事ができたが、それよりも後ろに並んでいた者達は、道の反対側や、あるいは、遥か彼方に屋根を求めねばならなくなった。
先に述べたように、俺と武彦も後者の群れの構成員となったのだが、それでもなかなかにすばやく決断を下して、迅速な行動をとったおかげか、それほど遠くへと移転する事は免れ、斜向かいの店の軒先へ転がり込む事が出来たのである。
「まいったな」
「まったくだ、もっと早く起きろ」
俺は悪態をついた。降り始めてから二分と経たずに屋根の下に逃げ込んだ筈なのにずいぶんと濡れた。
「いや、そうじゃなくて」
「あん?」
「最悪の状況だな」
白い目で睨み付けたのだがあまり効果がない、こちらの事など見向きもせずに武彦は続けて呟いた。
「ベテランどもに付け入る隙を与えてしまった」
寝言をネタにして、しばらくつついてやろうとも思ったが、それはしばらく置いといて、しばしば口を突く『ベテランの並び屋』とやらについて詳しく聞き出す事にした。
「ベテランの並び屋ってのはどんなのなんだい」
「読んで字の如くだが」
「・・・…」
「まあ、一応『並び』にもいろんなテクニックがある」
「ふむふむ」
つまり、そのテクニックを知っているのがベテランで、ただ並ぶだけのが普通の並び屋、な訳だ。
「たとえば、極めて簡単、というか基礎的なのが、その商品に対する人気の集中度を調べる、いわゆるマーケティングだな、これによって繰り出す時間を決めるとかな、これぐらいは新米やシロウトでもやるが」
なるほど、と俺は頷いた。
二日も三日も前からチケットを購入するために並んでいる奴等がいる事を考えたら、至極当然である、前日の夜ぐらいでは間に合わない事もあるのだろう。
「いつ行けばちょうど良い頃合いかをデータと経験をもとに推測するって訳だ」
「そう、それが第一段階だが、さっきもいったが、ここまでなら少し目端の利くやつなら誰でも考え付くさ」
「じゃあ、ベテランのベテランたるゆえんはどんな所にあるんだい?」
「店を見るのさ」
「店?」
「他の店なら」近くに『こんぶマート』という店があるが、と武彦はその店を引き合いに出す。「あそこは夜の十二時とかに整理券を配ったりするから」
「普通に並ぶしかない訳だろう?」
「そうだ、逆に言うとそれよりも前には必ず来ていないといけないって訳だ」
その整理券を持って朝までどっかへ消えたりしたらさすがに白い目で見られるしまずい事にもなるが、少々離れたりしても問題無いし、整理券さえ持っていればきっちり並んでいる必要もない。
「ところが」斜向かいにある店を見やって「こことかは、店のほうは客がどれだけ並んでいても知らんふりだ」
そこが、付け込む隙になるのだ。
「なんで、君はこずるく立ち回らないんだ?」
「素人連れでは出来んしさ、それに、後味も良くないしな」
最近はそういう真似はしてないよ、と武彦は苦笑いをしてそう言った。
つづく
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