| <読破する人はいないだろうけど> |
![]() 実際、僕がホームページを作り出すきっかけとなったのは、福山君からのメールだった。彼のそのメールは圧縮ファイルで届き、解凍してブラウザで開いてみると、文章の目次があって、それにリンクが貼ってあった。画像はなく文字だけで、要領も5KB(ファイル数4)と低かったが、一応ホームページの雰囲気があった。彼は僕が添付ファイルでメールを送ったから、それに対抗して送ったと書いてあったが、彼の方が凝っていたのは明白だった。確か、それが2月の終わりあたりのこと。彼のそのメールが届く前から、適当なホームページ作りを遊びでやっていたが、全然打ち込んではいなかっし、むしろ、3日間くらいやっただけで、もう飽きていた。しかし、彼のおかげで再びホームページの作製意欲が掻き立てられて、その一週間後くらいにかなりホームページの基礎に近付いた内容のものが完成。スキャナーを使って画像も取り入れ、269KB(ファイル数17)と当時にしてはかなりの力作だった。でも、その間、彼に返事を書いていなかったから、返事の催促のメールが届いてきた。3月の初め頃だったと思う。で、そのメールを彼に送り、彼は僕の予想通り驚いてくれて、勢い的(?)に彼は県大の掲示板を速攻で借りてきた。僕も参加するよう言われたが、多分1ヶ月ほど訪れなかった。 で、その後は適当に反省会のホームページ作りに移った。3月の終わりには、ほぼ完成し、パソコンとも疎遠になった。端から自己満足の世界であって、それをネットで流すつもりは当初からなかった。スキャナーとデジカメで画像を取り入れ処理・加工し、その要領も408KB(ファイル数77)くらいだったと思う。実はかなりの力作。前回のやつとはレベルが違った。メンバー紹介ではその写真と紹介がしてあり、これまでの活動内容紹介ではスナップ写真を取り入れた。それらは当然、ネットでは流せない情報であった。先にも書いたが、流す気なんてさらさらなかったから、ホームぺージ作りの練習程度にやっていたものだった。でも、気分的に無料のホームページ登録ならしてもいいかなと思い始めた。そのために、そのへんの個人情報の消去、スナップ写真のぼかし、その他の修正を重ねて、とうとう4月の中旬にジオシティに登録し、データをアップロードして、反省会ホームページが公開されたわけ。その要領は多分300KB(ファイル数62)くらいだったろう。画像が減った分、かなり軽くなった(画像も十分圧縮して貼っているが)。その後、適当に修正をし、反省会のホームページから県大掲示板へのリンクもちゃんと貼り、掲示板にホームページを作成したと公表した。そうしたら、福山君の県大ネット活性化委員会のホームページからも、反省会ページへのリンクが貼られ、しかも僕のタイトル(バナー)をそのまま使ってくれてあって、なかなかうれしかった。そのお返しに、僕も彼の製作したらしき『県大』というバナーを使っている。で、5月7日の金曜日、新たに反省会ページに3つ項目が増え(一つは完全に未完だが)、適当に修正や改善をしてたら、知らないうちに要領も543KB(ファイル数90)と膨れ上がっていた。アニメーションが、かなり要領を食っているんだけど。一応目標(限度かな)は1MBちょい、フロッピーディスク一枚に入るくらいまでだね。でも、もうネタないけど。 恐ろしく長くなってしまったが、これが僕のホームページ作成過程。ちなみにこの文章は、友達に送ったメールの抜粋であり、ここに載せるつもりはなかったのだけど。 戻りたくば戻ってください |
| 以下の文章はずっと昔に書いたもの。わざわざ今回のために書き下ろしたものではない。むしろ、恥ずかしいくらいの内容だが、分量からしても、誰も読まないであろうことを想定して載せておく。全て、見た目重視だから。 |
「自分の無力さに対する意志」適当に時を過ごしていれば何とかなる。大部分の人たちがもう考えることをやめてしまい、そしてドップリとした流れに浮かんでいるに過ぎない。それは何ら堕落でも醜態でもなく、一般人に課せられた使命なのである。特別に強い意志を持たないものはその流れに逆らえず、また、それはそれで彼にとって好都合なのである。もし一度その流れに身を任せてしまえば何ら不合理を感じないのだ。それどころか、そこからはみ出そうとすることが馬鹿らしくなってしまう。結局その流れが彼の実生活を形成し、また世界になってしまうである。 しかし、大抵の人はある不平不満を持ち合わせているのだ、その流れに。そんなのは自分の生活ではない、もっと楽しい生活があるはずだと。それと同時に自分の生活に投げやりになってしまう者もいる。しかし、そういう態度は自分のレベルを下げるだけだ。たとえ作られた世界でも、流れに身を任せているだけの暮らしでも、それが自分を存在させている唯一の空間なのだ。そこでどれだけ自分の力を見せつけられるか、向上できるかが問題なのだ。虚構と矛盾だらけの世界だと嘆いていても、何も始まらない。自分の無力さを実感した者ほど、それを補うために努力をしなくてはならない。せっかくその大きな流れに気付いたなら、その後の再生に全力を尽くすべきだ。それこそが、自分の無力さに対する意志であると我思う。 戻りたくば戻ってください |
「会話;虚実について」らしくない。判断の基準は自分にある。と言いたいところだが、やっぱり客観的に見ることのできる友達に委ねられる。つまり、もう僕は適当な人になってしまった。 なんか胡散臭い自分がいて、それはユーモア、むしろジョーダンともいい難いことを口走る。口からでまかせではなく、自分の複雑な回路を通過して汲み取られた言葉たち。そこで、使い捨ての言葉の羅列が次から次へと処理される。完全なる嘘を口にすることは滅多にない。それは本当にどうでもいいときのみである。それは会話の放棄に値する。 ただ、別に自分のことを隠す必要もなく、偽る必要もなく、それが前提にあって、謎めいたことを言っても、その裏は実に素直で正直なこと。それをストレートに言えるほどの度胸がないだけ。相手に理解されようと思っても、ただその思いを言うだけでは物足りなさを感じるときがある。素朴な言葉を瞬時に飾る練習。でも、根本的には単純明快。僕が求めているものは、独特な間と雰囲気。ギリギリの緊張感。それに限る。自分の気持ちさえ覆い隠すような言葉の力に酔いしれる。 時には、何も考えずにしゃべる自分もいる。それはごく自然な自分だと思う。でもそれは、僕から言わせてもらえば、本物らしくない。いや、どちらもらしくない。ただ、言葉に表してしまった時点、言葉として浮かんだ時点で、それは限界を意味し、伝えきれないものの存在をぼやかしてしまう。錯覚を生み出すのだ。全ては飾られたものでしかありえない。とは言え、こんなことを書いている自分こそ、その言葉によって救われている。その可能性を広げる挑戦をしている。だから、最近の僕はらしくない。本当はもっと、馬鹿なんだけど。 戻りたくば戻ってください |
「沈黙と生活」 僕には沈黙が必要だ。どんなに人が恋しくなって、その孤独感に耐え切れず、泣き出しそうになっても。それは単なる強がりかも知れないが、そうしなければ、僕は今までやってこれなれなかっただろう。 日々の生活は退屈の連続だ。大学は暇潰しに行くようなものだ。高い授業費を払っているのに、何も学ぼうとしていない。取る授業にある程度自由な選択性はある。でも、とくべつ学ぶべきものはないように思える。専攻であるはずのフランス語が、一番の悩みの種になっている始末だ。 その場しのぎの勉強と、だらけた生活の積み重ねで、僕の大学生生活は折り返し地点を迎える。なんて言ったらいいのだろうか。本当に僕は生きていたのだろうか、という気持ちになってしまう。こんな暮らしの中から、いったいどんな自分ができるというのだ。むしょうに悲しく、そして虚しくなるだけ。 だから、僕はあまり将来のことを考えないようにしていた。他人事のように、とくべつ真面目にならないように。それは、僕の恋愛、恋愛観においてもそうだった。何となく、もう夢見る気分ではなく、ただ偽りながら接するだけだ。一時的な感情に流されず、いつも先を見据え、永続的な愛などないと自分に言い聞かせてきた。それが、普遍的な真実であろうと思っていた。誰しも、遅かれ早かれそのことに気付くのだろうと。 何もかも自分の理想通りにいくことはないのだ。何かを犠牲にして、その代償を得て、自分を一時的に満足させる。どんなにささやかな生活でも、ある人にとってはそれが最も幸せであり、誰もそれを否定することはできない。こんなことは誰もが知っている。ただ僕は、愛情を第一にできる人ではなかったというだけだ。 いつの間にか僕は愛情を見失い、もうぬけがらのようになっていた。心の機能が停止していた。やばいと思った。しかし、無理矢理に人を好きになろうとしても、それは偽りでしかない。ずっと前から気付いていたし、この身を持って思い知らされた真実だった。だから、僕は人を好きになるまで沈黙し続けることが必要だと思った。僕は自分の口のでたらめさを知っていた。知らないうちに、人を惑わすようなことを言い、そして勘違いを招こうとすることを。話した分だけ、自分の首を締めることになるのだ。そのギリギリでいつも楽しんでいる自分がいる。 まったく矛盾だらけだ。自己同一性なんて、単なるデタラメ、思いつきにしか思えない。人はいくつもの自分を確立させ、この複雑な社会に順応しているのだ。そうしなければ、やっていけないだろう。いつまでもひとりの自分にしがみついていたら、こだわっていたら、絶対にうまくいかないとき、つまり限界がくるはずだ。それが僕の信念だった。だから、僕はそのように演じていた。良心の呵責や葛藤を軽減するためにも、それは役立った。そして、僕は知らぬ間に自分の理想からどんどん遠ざかっていたのだ。自分の中での印象と友達に与える印象との格差。それは、意外にこの心を沈ませた。 誰しもその内に矛盾することなく、一人以上の自分を操っていることは事実だと思う。ただ、守るべきもの、絶対的なものをひとつ定めて、それを大切にしなければ、いつしか限界を迎え、破滅してしまうかも知れない。そう思うようになった。 堕落から生まれるものは再生である。しかし、その再生の価値はその後のプロセスにある。何も結果を先行する必要はない。 本心を話すときには、まだ沈黙を伴うが、それは決して罪ではない。土壇場で偽りを話すくらいなら、寝ているほうがまだマシだ。 戻りたくば戻ってください |