【160603 教室レポート 課題: 秋成「諸道聴耳世間猿」はどこが近代的か】
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【160603 討議の記録】平井研究室へ
【兄弟の内、弟が近代人】
047101大石 桂 兄弟が自分と違うと気づいたとき、それは同質から異質に変わり、異質なものと照らし合わせることによって自我を見ることが出来る。兄弟は他人の始まり、とあるが、全くの他人ではなくて、あくまでも始まりの部分だけだと思う。これが当時どう近代的であったかは、鴎外の舞姫と同様、社会と自己に対する価値観の違いであろう。相反する価値観を持つ兄弟を題材にすることで、当時(兄)とその近代化(弟)の変遷を見ることが出来るし、その兄弟の感情が表面化されたことが、より当時にしてみれば近代的であったのかもしれない。なんだかよくわからなくなりました。もう少し整理したいです。
047102大石優貴 自分の主張をひかえて「家のために」というような理想を背負っていた時代から、自我を持って生き方を主張できる近代になってきているのがこの兄弟によってよく表されている。弟のように、当時では少し珍しい風流に浸った生き方をするものを兄がばかにしているというような内容は、当時の変わりつつあった社会には兄のような考えの人と弟のような考えの人とが入り混じっていたということが分かる。本来ある個性(考え方や生き方)というものを敏感に感じとりはじめたということこそがこの話の近代的なところだと思いました。
037104城 歩 ある意味、この時代の人々は固定観念の塊だったのかもしれない。兄が、その代表で、こうあるべきだと思っていても、思い通りにならない、弟に苛立ちを感じていたのだろう。しかし、弟は兄の言うとおりにはせず、自分のやりたいように行動する。家族とか、世間とか関係なしに・・・。こういう、弟の姿が当時としては近代的だったのかもしれない。
047414藤原由依 もし伊左衛門と伊兵衛が今現在私の友達で、同じ事をしていてもわざわざ物語になったりはしないでしょう。それはこの話が現在の私たちにとってとても身近な出来事だからです。今では兄弟の性格も趣味も違うのが当たり前。むしろ同じであることの方がおかしいです。しかしこの物語が作られた当時、兄弟や家族には今よりずっとずっと強い「家を守る」という意識があったのだと思います。それは現代でもお茶や生け花の世界に根付いている制度に似たものがあるかもしれません。「家を守る」意識において「私」や「○○さん」という個人よりも「○○家の」「商人の家の」ということのほうがずっと意味を持つのではないでしょうか。そう考えていくと、伊左衛門と伊兵衛兄弟にとってお互いがどんな人間か ということはあまり意味はなく、家を守る能力があるということに価値があったのだったのだと思います。そのような中でも弟の伊兵衛は趣味を持ち、とことん追求していきます。その過程において、当時の「家社会」とも呼べる社会の人々には知り得なかった「自分自身」を持つようになったのだと思います。だから兄にとって弟は性格が合う合わないでぁ
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【兄弟の相違・対立が近代的】
047102成嶋彩子兄は家業の商売に、弟は趣味に没頭している。兄は桜が咲こうが、夜芝居があろうが店を空けることはしないお店を一番に考えているような性格で、弟は世事には関わることをしないでお店を兄に任せて趣味の舞や歌の稽古をして家に縛られないで自分のしたいことをしている。という風に兄弟でありながら、全く違う性格の二人は、お互いに、相手のしていることが気に入らなくて仲が良くない。そういう兄弟それぞれが自分の考えを持っているというところが近代的だと思います。
047103関本温子  弟と兄の向いている方向が違うということ。当時では家族が力を合わせて生計を立てていくことが、一般的だったんじゃないのでしょうか?私は弟が何をしているか、ということが気になったりもしますが、この兄のように感じたりはしません。同じ兄弟であっても、もともと持っているものが違うので。
 当時は個人というものが認められていなかったから、兄弟の向いている方向が違えば、おかしいと思われる。小説の中の登場人物一人ひとりが、自らの意思を持って、進んでいく世界が描かれていることが近代的なんじゃないかと思います。
037103北川頼子 兄弟同士がそれぞれ一個人としてお互いを見て、こんなところが気に食わないといって憎んでいる。気に食わなくて喧嘩をしたり、言い争いをすることはよくあることで、珍しくはない。それをふと客観的に見ると、もしかしたら兄弟が一番初めに出会う他人なのではないか…というように見ているところが近代的ともいえるのではないかと思います。兄弟を客観視してみているところが今までになかったんじゃないかと思います。兄弟というと普通は家業を協力して助け、お互い仲良く…ということが理想とされていますが、これは、明らかにお互いを客観的にみて、評価していると思います。題目もそれを表していると思いました。
037105塚本範子 自由に生きるのが近代的


【中間的・架橋的意見】
037101秋山彩佳 この時代の日本の考え方というのは、自分で自分のことを考えるということよりも個人が、国のことなどを考えていた。しかし時代が自分の判断で自分を主張してくということになっていくことが近代的になっていっているのではないか。しかし、今まで国のためなどと考えていた考え方が、なぜ自己主張をしていくことになっていったのかが個人的に疑問である。
047104相馬美奈子 私は、兄弟というのは仲がいいのが当たり前だと思っていた。もちろん兄弟喧嘩もするけど、それがあるからこそ兄弟なんだと思う。だけど、今日の授業を受けてその考えは違うのかなと思った。少なくともこの話ではそうだ。兄と弟の価値観が違うだけで軽蔑するのが良くわからない。でもきっと、現代でもこういう問題をかかえた家庭はあると思う。
047417保田早織 家族を1人の人間として見る事
037102金田裕美子 今回のチャットによる発言の中で終始出てきたのが「個性」という問題で、これは『舞姫』の時にも見てきたように、自我・個性が芽生えた事による近代化と考えると、上田秋成も森鴎外も近代的だと思うことは通じている(?)もちろんそれぞれの話で主人公の置かれた状況や性別などは異なっていますし、あまり安直に結論が出るものだとは思いませんが。
047105内藤 千香 同じ家に生まれ、ほとんど同じ環境で育ったはずの兄弟が、全く違った道を歩む。当時だったら兄を先頭として家を家族で盛り立てていくのが普通だったが、それがこの作品からは藤原さん・Nさんが”討議のページ”いったように「個人の主張によって崩れ始めていることが近代的」ということがいえるだろう。弟・兄それぞれの生き方に間違いはないだろう。しかし当時、兄がそこまで弟を見下していたわけは、社会が弟のようなものを許さない風潮(=近代的でない考え方)があったからといえよう。つまり、この作品は兄と弟という一見何の違いもないような家族というものを題材にして、それぞれが違う道を自らの意志を持って歩むという、自我の芽生えを描いているのである。といってもまだ、ここではそれが確立してはいないが・・・。

















【160520 討議の記録】                           160603 教室レポート 課題:秋成「諸道聴耳世間猿」はどこが近代的か

■ O > 私も当時の社会のことを考えてみると、自分の生き方を主張し始めていること自体が近代的な感じがする。変わり始めた時代だから、遊んでばかりの弟をばかにしたようなことも書かれているのかな・・・? (6月3日(木)15時55分 )
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■ 金田 > 当時の時代背景について何か情報をもらいたいのですが…。 (6月3日(木)15時50分 )
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■ 藤原 > Nさんに賛成です。舞姫と同様に、当時では当たり前だった「家のために」「社会のために」という考えが、個人の主張によって崩れ始めていることが近代的だと思います。 (6月3日(木)15時48分 )
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■ oo > 私は兄と全く違うし反発もすごくあります。兄弟なのが不思議なくらい (6月3日(木)15時46分 )
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