ここでは東京校だけに発行されている「東蝉」に連載中の
「秋本あきやのおまえがいうな」を転載してます
僕は苦悩していた。大学3年の時である。 僕が属していた文学研究会というサークルは、 学祭時に文化人を二人招いて講演会をしていただくことになっている。 一人は毎年柄谷行人氏(高2の6期2週で扱うよ)で、 もう一人は僕ら3年生が決めることが出来るのだ。 憧れの作家と会える絶好の機会なのである。 この日のために僕は文研を続けてきたといっていい。 だが、一体誰を選べばいいのか。 僕がずっと思慕し続けた作家は、90年代になって急激に失速し、 その頃はニューヨークに「亡命」していた。 彼に限らず80年代に活躍した多くの作家(ポストモダン文学の旗手達?)は、 その存在理由を自ら喰い尽くし呆けてうろうろする白アリのようであった。 それでも華やぎ続けるのが彼らポストモダンの習い性であり、ある者は競馬評論家として嬉々としゃしゃべり、 ある者は世界中を旅した挙句、何を発表するのかと思ったら各国の料理の紹介本だったり、 ある者は大学教授になりたがり、ある者は俳句を詠み出した。 当時は時代を掴む大きな「物語」が酸化していて、 そもそもそんな「物語」などは関係なく日常は漫然と流れて とりあえず何の不都合もなく「大学生活」は楽しそうだった。 「歴史の終焉」なる言葉が冗談交じりに飛火して、 僕も昼寝から醒めたようにポカンとしていた。 それでも元気な作家はいて、たとえば筒井康隆は「メタ・フィクション」という理論を声高に掲げ 『朝のガスパール』(インターネット小説の走りか)の連載を開始し僕は大いに期待したのだが、 これがクソつまらない。 理論から作られる小説が失敗するのは『当世書生気質』以来変わらないという証左である。 その後筒井は断筆宣言を華々しくぶちまけ不貞寝を決め込み (その頃のTV収録に僕は英語の井上先生と一緒に行った)、 今では役者をやっている(『蘇る金狼』とかモルツのCM)。 まったく誰を選べばいいのか。 そんな時、同じサークルの山本 (一つ後輩にも山本というやつがいて、区別するために彼のことはユキマサと呼び捨てにしていた。 そう、国語科の山本幸正先生のことである)が 一冊の本を持ってきて、読んでみろという。山本は何によらず鑑識眼があり、 無名の作品をよく僕に教えてくれた。 だから僕は十年近くも前からたとえば『坊ちゃんの時代』(昨年の手塚治虫賞)や 『ベルセルク』を読んでいたのだ。 その彼が読め、という。運命の一冊との出会いであった。(つづく)
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