学術小説「量子と命」
はじめに
この度、E.N氏の依頼を受けて量子力学について書く事となりました。E.N氏のホームページ作成の理念に沿うように初心者にも分かりやすいようにする為にはどうしたらよいものかと考えた末に、今回、学術小説という形態をとらせて頂こうと考えました。この学術小説という形態は、赤瀬川源平氏の「学術小説 外骨という人がいた!」という小説を基に考えたものです。なかなか分かりにくい量子力学について学術小説という形態を取ることでより分かりやすくしようという魂胆ですが、そう簡単に伝わるもではないとも思っています。ですが、初学者(私自身も含めて)により分かりやすく伝わると良いと思います。また分からないようでしたらどんどん分かりやすく改定してゆくつもりなのでおっしゃってください。そして専門家の方で「それは違うぞ!」とご指摘頂けたら幸いです。今回のコラムでは、書籍をはじめ多くの先生方の講義、雑談等も思い出しながら参考にさせていただきました、この場をお借りして厚く御礼申し上げるしだいです。では、現実生活では知っていても特に役に立たない量子の世界に誘う事に致します。(笑)
2000年12月10日 作者拝
序講 講義の前に
Z大学に勤めて早4年の月日がたつ。そろそろ新学期なのでまた今年も講義が始まる。今は閑散としたこの大学構内も後数日もしたら学生たちで活気にあふれる事だろう。私の静かな研究生活ともお別れだ。週に1度講義をしなくてはならない。かったるいのだが大学に教官として勤めている以上やらなくちゃならない。
「先生どうしたんですか」
振向くとY田君がピペットマンを持つ手を休めて牛乳ビンの底よりも厚いめがねのレンズからこちらを見ている。私の憂鬱そうな顔を心配して声をかけてくれたのだろうか。
「そろそろ新学期が始まるなあと思ってね」
「何だ、講義が始まるんで憂鬱なんですか。学生みたいであべこべですね」
この声はN屋君だ。うーんいくら新米先生でも学生に心配されちゃ目も当てられないな。
「いいじゃないか、私だって研究だけしてれば良いならそっちの方が良いよ」
「わがままですねえ」
Y田君は再びピペットマンを持ちサンプルをゲルに注入し始めている。
「今期の先生の授業、僕、取りますんで宜しくお願いします」
N村君の声が実験台の向こうから聞こえる。
私は生返事をし再び実験に戻った。来週から始まる私の講義「量子と生命」は面白くないと評判の講義である。なにも生物を物理の理論でみなくってもいいじゃないか。せっかく有機的な生物に対して無機的な数式を当てはめるなんてブンガク的にあっては…。
いやブンガク的ではないが、言われればそのとおりである。しかし科学者と言う生き物は油断すると一般的な理論を持ち出したがる。油断するとなんて今書いたけど、これは科学にとってはとても重要な事である。
一般的な理論と言うのは言いかえるとどこでも普遍的に成立する理論という事になる。これを科学の世界では再現性があるなんて言ったりする。物理学と言うのは非常に系統だっていて再現性に富んだ学問である。つまり物理学の言葉で説明されると言う事は、その事象についてほぼ再現性があるといって間違いない。これは科学者にとって非常に魅力的な事である。特に実験科学者にとっては実際の自分の実験内容が理論面で支持されたことになり揺るぎ無いものになる。
こういった背景から、通常の生物学にも生物物理とか生物物理化学などという学問が成立する要因になる。
この世の事象は全て物理の言葉によって説明できる。この世の全ての事象をひとつに集約しようというのが今の物理学者たちの考えのようである。これを「森羅万象の理論」と言ったりもする。
そういうわけで…、
「先生、どういう訳ですか?」
M田君が酵母を植菌ながら突っ込みを入れる。
「突然突っ込まないでくれM田君。びっくりするだろ。いいじゃないかとにかくそういうわけなんです」
とにかく来週からの講義を頑張る事にしよう。
参考資料
赤瀬川源平「学術小説 外骨という人がいた!」(ちくま文庫)
第1講 命の見方
外はもう春の陽気だ。一定条件に保たれた実験室にこもっていると季節感が無くなってしまっていけない。だからスーパーに陳列される食品にも季節感が無くなるわけで…。いや実験室と食品の旬の話とは関係無いが科学のおかげで旬が無くなっているのだからこの事も何か深い繋がりが…、ここら辺のブンガク的考察はもう良そう。
広い大学構内を歩き教養学部の棟に入ってゆく。教室に入ると既に学生たちがざわざわしている。私がマイクの準備をしていると、学生たちは静かに着席してノートを出しペンを握っている。私はマイクテストをする。
「あーっ、あーっ」
ざわっと学生たちが一斉にノートを取る。最近の大学生は不真面目だと言う人がいるが私の事を一言一句もらすまいとしてマイクテストまで書きこんでいる。真面目じゃないか。
「えーっとでは量子と命についての講義を…」
「先生」
声のする方を見ると、最前列にN村君がいる。彼も私の言葉を聞きもらすまいとしてしっかりとペンを握っている。
「なんですか」
「かぎかっこを書くのが面倒なのではずしてもらえますか」
何だそんな事か、学生の要望にこたえるのも教官の仕事である。それにしてもN村君と言うのは意外に細かい事を気にするのだなと改めて思う。
分かりました私の発言はかぎかっこなしで行きましょう。
では、気をとり直して命と量子化学についての講義をはじめましょう。
まず、学問全般に言って重要な、問題とされる対象物の見方について考えましょう。ひとつの対象物にはそれぞれ多面的な見方があります。今回の講義題目の「命」について考えましょう。命、生命でもいいですが、各学問により生命の見方がそれぞれ異なります。例えば、倫理学。倫理学において命は非常に重要です。何物にも変えがたい「個」として成立させ得る命は他人では代用が効きません。これは一部文学にも通用する事だと考えられます。例えばこれを御覧下さい。
カチャリ

写真:文学から科学までレモンとは忙しい果物である(出典:マイクロソフト/小学館 ブ
ックシェルフベーシック マルチメディア統合辞典より)
これは見ての通りレモンです。あの黄色くすっぱいやつであります。このレモン、皆さんはどう感じますか?人によって感じ方は様々だと思いますが、明治、大正期の小説家、梶井基次郎は「これはどこのも他に変えられる事の出来ないレモンではないか。」と彼の小説「檸檬」においてそのレモンの個としての存在を考察しています。
ではこのレモン経済学の観点からするとどうでしょうか。このレモンの価値、スーパーに並んだときの市場的な価値。季節、新鮮さ、生産地などによりそれは変化します。ですが、文学のように個として考えられることはありません。
では農学ではどうか。品種、熟し具合、その成分について考えられます。やはり文学のようには考えません。
では生命科学ではどうでありましょうか。その成分的なものから、細胞の構成、遺伝子の塩基の配列、どのような酵素がどのように働いているか。どのようなタンパク質が存在するか。この様にレモンは見られて行きます。
ここで私がいいたいのは、各学問領域において独特の見方があり考え方があるという事です。どれが正しいというわけではありません。
命についても同じ事です。様々な学問領域があり、様々な見方がありますが今回は特に講義題目でもあります量子、物理や化学の視点からお話しましょう。
化学者の命の見方は、もちろん個人により様々ありますが、生体をひとつの秩序だった化学物質の集団と捉えます。つまり、無数にある多くの化学物質がその秩序を保ちながら一つ一つ正確に化学反応を起こすことによって維持されているものであると考えています。ここで仮にこの化学物質の集団がその秩序を失った場合どうなるかと言うと、命は成立しません。要するに「死」であります。
では物理学者はどうでしょう。物理学者だって人間だからもちろんその考えに個人差はありますが、おおむねエネルギー、エントロピーと関連付けて考えます。ここでいうエントロピーと言うのは物質の持つ「乱雑さ」と言われるものです。このエントロピーは増大する方向性があることが知られております。エントロピーが増大するということは「乱雑さ」が大きくなる事を示しています。
N村君。
「ハ、ハイ、なんですか?」
N村君は突然あてられて慌てている。
君のアパートの部屋の様子はどうですか?
「ここ最近の先生のだす実験のおかげで掃除もする暇も無く汚れ放題です」
突然あてられた腹いせか皮肉がこもっている。でも怒っている暇はない私は大人なんだ。
そうですね。ほっておくと「乱雑さ」は増大しアパートの部屋も汚れていきますね。このようにエントロピーは常に増えてゆこうとします。生命はこのエントロピーを常に小さくしようとしています。小さくするとどうなるかと言うと乱雑さは減ります。当たり前ですがここが重要です。乱雑さが減るという事で常に秩序を保つ事になります。化学者の秩序だった化学反応はここで裏付けられます。では、生命のエントロピーが増大したらどうなるでしょうか。乱雑になり、生体がばらばらになって最後には「死」を迎えます。
次にエネルギーです。エネルギーは高い所から低い所へゆこうとします。例えば水がそうですね。上から流してやると下へ滑り降りて行く。これには位置エネルギーと言うものが働いている為に位置エネルギーの高い高所から低い低所へゆこうとします。熱もそうですね。温度は高い所から低い所へゆこうとします。
「先生」
Y田君だ。あのビン底めがねの。
なんですか。
「温度が高い所から低い所へゆくのも分かりますが、低いところから高いところへは行かないのですか。熱が高い所から低い所に行くというのはいまいちピンと来ませんが…」
Y田君はその厚いビン底めがねの向こうから真剣なまなざしを私に送る。実験の時には見せない表情だ。このくらい真剣になってくれたら良いのに…。
ではこう考えてください。夏の暑い日に部屋でクーラーをつけますよね。そうすると部屋の温度より外の温度の方が高くなりますね。そうしてクーラーを止めたらどうなるでしょうか。
「部屋はまた熱くなります」
でしょ。仮に熱が低い所から高い所へゆくとしたらクーラーを止めた場合、部屋の温度はどんどん下がってゆくことになってしまいす。これではクーラーは要りませんね。電気産業の夏のボーナス商戦は気温と同じく上がったりです。ですから熱も高い所から低い所へ移動すると言えるわけです。まあこれを御覧あれ。
カチャリ

図:自然界の法則に逆行する場合エネルギーがいる⇒夏のボーナス商戦につながる
「なるほど、だから電気産業が潤うのですか」
なんか腑に落ちないが、とりあえずY田君は納得してくれたようだ。
とにかく、エネルギーと言うのは低い所へ行こうとします。低い所では先程のエントロピーも大きい、ということで、生命は自分の持つエネルギーも常に低くしようとします。その方が安定ですからね。これ以降は統計熱力学などになるので熱に関してはこれ以上は話すのはよすことにしましょう。
ですけど生命体が必ずしもエネルギーの低い状態かと言われるとそうではない。物質を一所に固めておくと言うのはかなりエネルギーのいる作業です。エネルギーが低い方が良いけどエネルギーが低いとエントロピーも大きくなり生体が乱雑になってしまうというジレンマに陥ってしまいます。
N村君。
「ハイ」
今度は予想いていたのか落ちついた返事である。なかなか冷静な男だ。
汚れていると言う君の部屋を掃除する場合まずどうします?
「そうですねえ、まず、要るものと要らない物に分けますかねえ。掃除は思い切って捨てるのがコツと聞いた事がありますから」
大体普通の人はそうしますね。この要るものと要らない物に分ける作業には我々が動いてやる必要があります。つまりエネルギーをかけてやる必要がある。
我々の体でもいろいろなものを選別していますし、細胞を一所に固めておく必要があります。この為にはエネルギーが要る。ですから、このエネルギーがなくなった時点で物理学者と言うのは生命体が「死」を迎えたと考えます。
エネルギーがなくなった時点と言うこの表現はちょっとおかしいですかね。これを見てください。
カチャリ
E=(1/2)mv
2これはご存知の人もおいでかと思いますが物体の持つ全エネルギーを表現した式です。こんなのが出てくると「おっ、いよいよ量子力学か。いなせだねえ」などと思う人いるでしょうが本格的な量子力学についてはまた今度という事にしまして。この式のEは全エネルギー、mは物体の質量、vは物体のもつ速度になります。まあですからどんな物体、原子にもエネルギーは存在しますからさっきの表現はおかしい事になりますが、まあ良いでしょう。とにかく生体を維持できるだけのエネルギーは生命体には常に必要である事が分かっていただければ結構です。
まあこのように、命についても各分野様々な見方があり、とりわけ今回は化学者、物理学者はどの様に見ていくかについてを解説しました。せっかくですから最後にちょっとした蛇足で生物学者がどのように命を見て行くか解説しておきましょう。ここでのキーワードは「命の階層性」と言う事です。とにかくこれを御覧下さい。
カチャリ

写真:「にわにはにわにわとりがいる」早口言葉の古典です。(出典:マイクロソフト/小学
館 ブックシェルフベーシック マルチメディア統合辞典より)
これは何でしょう。見ての通りニワトリです。ニワトリと言ってもただのニワトリではありません。私の郷里にいた鶏、ポチです。別に飼い主の自慢で皆さんに見せているわけではありません。勘の鋭い人は私が過去形でポチを紹介した事に気付いた事でしょう。去年の夏私の実家では法事があり、このポチを絞めました。そんな経緯はどうでもいいですが、こいつを御覧あれ。
カチャリ
心臓の悪い人は見ないように。一応自主規制はかけました。首がないのに走り回っているポチです。50代以上で田舎に住んでおられた方は想像がついてしまうでしょうが、読者の方に自主規制でお見せしません。続いて。
カチャリ
あっ、ついに力尽きてポチが倒れました。しかし血液は激しく首から出ております。まだ心臓は動いているようです。まだ心臓ドキドキのポチであります。やはり読者の方にはお見せできません。続いて。
カチャリ
ついにポチの首から血液が出なくなりました。どうやら心臓が止まったようです。この時の心臓をスライスして顕微鏡で観察したら心臓の筋肉はまだ動いていました。この時の様子を。
かチャリ
で、ポチはどうなったのかと言うと。最後にもう一丁。
カチャリ
ついにポチはお吸い物の具として私の胃の中に流し込まれました。
このような解説の仕方をして「命を軽んじておる!!」とお怒りの方も多いと思いますが、私がここで解説したいのは一体命はどの時点で失われたのかと言う事です。
Y田君。
「ハイ、何ですか」
君はこのポチが一体どの時点で死んだと判断しますか?
「やはり心臓が止まった時点でしょうか」
ではN村君、君はどうですか?
「私は、首が切られた時点でもう脳が無い訳ですから、ポチがポチとして存在できたそれまで、つまり首が切られた時点で死を迎えたものと判断します」
ではY田君、心臓が止まったとはいえ心臓の細胞はまだ生きているはずですよねえ。確かに心臓自体の機能は失われました、しかし細胞、ひいては心臓そのものはまだ生きていますよ、それでも死んだと判断しますか?
「えっ、でももう心臓が動かないんだったら…」
では、N村君、首がとられたとはいえ、ポチは一時的とはいえ走り回っていましたそれでも死んだといえますか?
「うーん…」
他の学生にも目を送ると少々悩んでいるようだ。読者の皆さんもお考え下さい。その間少々音楽でも。
♪
一体何処からが死で何処までが生か。こんな事考える一般人ははっきりいっていないだろうとおもいます。大方、病院の先生が「ご臨終です」と言った時点を死とする場合が多いのではないでしょか。これはちょっとした裏話だけど、病院では臨終を間際に控えた患者に心電図を付けている場合、その心電図を止めてから「ご臨終です」と言うようにしていると聞いた事があります。実際心臓は突然止まるものではないらしい、通常心臓のはく動する間隔は1秒以下の間隔くらいが正常ですが死に臨む場合その間隔が徐々に長くなりついには無限大時間に近づいていくと考えた方が良い様です。心電図を付けたままの場合、「ご臨終です」と言った後にピコッと心電図が反応する場合があるらしい。遺族側はまだ生きていると思いたいわけだが、事実上心臓のはく動間隔は無限大へ移行する途中であり、患者が生き返る事は無い。そのような誤解を防ぐ為あらかじめ心電図を切ると言う事らしいです。
(筆者注:これはあくまで筆者のH27Aが聞いた話であり実際病院でその様な事が行われているかどうかは知りません。ただどんな病院でも必ず最善に最善を尽くした上で患者が逝去するわけなので患者の死は医師の作為的なものによるものではなく寿命であるとか運命であると行った方が適切であると思います。決して死は医師が作るものではないと言う事を頭に置いておいてください。)
さて読者の皆さんもよく考えたでしょうか。何処までが生でしょうか?困りましたねえ。 せっかくですからこのスライドを御覧下さい。
カチャリ
| 器官名 |
生存可能時間 |
|
腎臓 |
約2時間 |
|
皮膚 |
約48時間 |
|
骨 |
約72時間 |
|
髪・爪 |
およそ数日 |
表:死はいきなり訪れない。漸近線を描きます。(「脳死」より筆者が表にまとめたもの)
この表は心停止後各器官がどの程度生きていられるかを示したものです。見ての通り心臓が止まってからも結構人間の器官というのは生きているものですね。
このようにいろいろな考え方があります。生物学ではこのような場合何処までが生で何処からが死だと言うような事は考えません、このように命には「階層性」が存在します。何処までが何で、何処からが何かと言うような論議はあまり意味をなしません。ですから各分野でその死を定義する場合が多いです。
このように、物事には様々な見方があります。量子力学をやる前と言うよりも、「命」をサイエンスしようとするものにとってこの辺の概念的なバックグランドは重要です。自分の研究を見失う可能性がありとても危険です。
時計を見るともう90分たっている講義もそろそろ終わりの時間だ。
では今日はこの位にして、次回から本格的に量子力学に入ることにしましょう。
私はそういうと、50人ほど入る27番教室を出た。学生たちは命とは何かについてまだ深く感動し、考察しているようで誰一人として立つ気配が無かった。
参考資料
松井教授 講義
樋野教授 講義
長谷川教諭 授業
赤瀬川源平 「学術小説 外骨という人がいた!」(ちくま文庫)
James R.Barrante 「ライフサイエンスのための物理化学」(東京化学同人)
立花隆 「脳死」(中央公論社)
梶井基次郎 「檸檬」(新潮社)
阿武聰信 「量子化学の基礎の基礎」(化学同人)
マイクロソフト/小学館ブックシェルフベーシックマルチメディア統合辞典(CD‐ROM)
久しぶりの授業に一息つき私は生協の喫茶部「caf
é de boulevard」に立ち寄りアイスコーヒーを注文した。カラリと氷がグラスにあたり心地よい響きを奏でる。もうアイスコーヒーがおいしく感じる季節なんだなあとしみじみ思う。ここで一句といきたい所だが私にそんなブンガク的センスは無い。そこへY田君、N村君、M田君が現れた。
Y田「あっ、先生。休憩ですか」
私 まあそんなところかな
M田「今日の講義、なんか不思議な感じの講義でしたね」
N村「なんというか斬新と言うか、あまり見かけない講義と言うか」
私 そうかい。私もまだまだ新米先生だからね。講義は苦手でね。そういえばM田君あ
の講義に居たのかい。
M田「Y田の隣に居たでしょう」
私 あれ、そうだっけ。小説はテレビじゃないんだからラジオのように何かしゃべらな
いと読者にアピールできないんだよ
M田「何をわけのわからないことを言っているんですか」
Y田「それはそうと、この講義「量子と命」でしたよねえ」
私 そうだけど
Y田「量子に関してほとんどでてきませんでしたね」
N村「そうそう、量子だというからもっと物理的な事かと思ったら、なんか哲学の講義み
たいで」
私 そうだね、量子力学については来週の講義からはじめるけど、君たちいきなりこん
な関数書かれて何の事か分かるかい
私はノートとペンを取りだしある関数を書く。
サラサラ
N村「何ですこれ。日本語じゃないですね」
私 これはねシュデリンガーと言う人が考えた波動関数だよ
Y田「ハドーカンスー?」
私 そう、物質の波としての性質をあらわすもので多くの量子化学者たちがこの方程式
の解を求めてきてるんだよ
M田「はあ、こんなのいきなり言われても分かりません。と言うよりもひきますね」
私 まあそうだろうね。E.N氏の理念に添うように、初めての人でもとっつき易く一番
最初はちょっと哲学的にしてみたわけ
N村「イーエヌシ?先生時々わからないこといいますね」
私 そんな事どうでもいいじゃないか。量子力学というのはある種、常識人への挑戦状
と言うところがあってね、常識的な人では頭を抱えるような問題を扱っているから、
みんな敬遠しがちなんだよ
M田「それで最初はエントロピーとかエネルギーと言った物理化学的な用語を出して慣ら
したわけですね」
私 M田君よく分かっているじゃないか。それにね、生命を扱う現場に居ながら意外と
僕らって命について考えた事無いだろ
Y田「そうですね。確かに僕らは遺伝子とかタンパク質、細胞を扱いますけど生身の命って
考えた事無いですよね」
私 科学者を育てる現場でも、命とはいかなる物かを考える機会って重要だと思うよ。
なんというか、生命科学者としてのアイデンティティの確立として必要なんじゃな
いかな。生命倫理の専門家ばかりに任しておくのはどうかと思うよ。
Y田「そうですね、僕らの講義でも科学的な理論を教える講義は多いですけど、扱うものに
対して考える講義ってほとんど無いですねえ」
私 まっ、そういうことだね。哲学じゃ飯のタネにならないと考える人がいるかもしれ
ないけど学問をする上で哲学は全ての考える基礎になるから重要な事だよ。文学部
が見捨てられて行く即物的な日本の現代ではこの考え方は非合理的だと言われるだ
ろうけどね。科学も大昔は自然哲学と呼ばれていた時代があったわけだし。
私 さてと私のコーヒーも無くなった事だし、N村君が1週間失敗続けているタンパク
抽出でもをやりに行こうか
そういって私は席を立つと、学生たちをしたがえてメタノールの匂いが立ち込めるわが研究室へ向かうのであった。