2003年4月18日、YMCA関西主事宅で行なわれた聖書研究会(大層なことはしていないので研究会と名乗るのはお恥ずかしいのですが)のレジュメ。当日配布したものに手を加えてあります。


2003/4/18 戦争は大体終ったようだけれど。



 今日のテーマは2つです。

 まず聖書全体の構成などについて。これは新共同訳聖書の付録を用いてやります。

 もう一つは、聖書、あるいはキリスト教と戦争や暴力について。今さらではあるしアリバイ的でもありますが、それでもここで考えておいた方がいいでしょう。ただまあ、予想はつくと思いますが、このことに関してそんな鮮やかな結論は出ません。出せません。


・聖書の構成について
 これは上記の通り、新共同訳の付録を使います。新共同訳聖書を後ページから開いて下さい。


・戦争、武力などと聖書・キリスト教

 イラク戦争が結局のところ何だったのか、現時点ではっきり言うことはまだできないだろう。しかしあれはやはり欲に駆られたもんだったにちがいない。

 解放のための戦争であるから義戦である、とブッシュ大統領やラムズフェルド国防長官は言っていたが、これは、およそ100年前の1894年に内村鑑三が書いたことと酷似している。内村は日清戦争の時そう書いたのだ。しかし内村はすぐに戦争ということの真相を見ぬいている。彼はその後「猛省」という文において、日清戦争は義戦などではなく欲戦だったのであり、戦争に義などありゃしないと断言した。100年前の話である。そして今でも同じことを言っている人がいる、というわけである。

 旧約聖書は正直言ってあんまり平和的ではない。いや、あんまりなんて表現もそうとう控えめなくらいだ。例えば民数記においては、「あの土地の連中は強くて要塞も堅固だから、もっと弱い連中を捜し出して、殺してそいつらの土地をもらってしまおう」みたいな話が出てくる。もちろん聖書というのは微分的に読んでも仕方ないところはあるのであるが、しかし旧約時代はあんまり平和的ではないのである。

 では、新約はどうなのだろうか。なかでも福音書におけるイエスの言動はどうなのだろうか。

 これがまたかなり極端な非暴力である。あまり極端なので、イエスの真意は逆説的反逆にある、という田川ケンゾーのような学者もいるくらいである。パウロなども結構攻撃的なところがあるのであるから、イエスの態度は異彩を放っていると言ってよかろう。

 ここからは、先も話に出た内村鑑三の議論を手がかりに考えることにする。別に内村でなくてもいいのだが、私の専門であるから扱いやすいのである。

 内村は1904年、「主戦論者に由て引用せらるゝ基督の言葉」 において、イエスが戦争を是認したかに見える表現について註釈している。

 彼はまず、キリストの言葉のうちで、戦争を是認したかのように見える表現に比べ、戦争を否認した表現の方が分量的には明白に多いことを言う。

 マタイ伝を例に取るならば、マタイ5:38〜48「右の頬を打つものには左の頬も。敵を愛せ。」26:51、52「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」18:1〜5「自分を低くする者が天の国では一番偉い」 5:5「柔和な人々は幸いである/その人たちは地を受け継ぐ」 等々。また聖書にはしばしば「へりくだる」「謙遜」といった表現があるが、これは「謙遜」というよりも寧ろ「屈辱」に近いニュアンスの言葉である、と内村は言い「基督教は現世に於ける凡ての権利の放棄を勧めるものである、(若し暴力を以て要求さるゝ場合には)、犠牲を教へる、宥恕を教へる、無限の譲退を教へる」と述べる。

 一方、イエスの言葉として戦争を容認するように見える個所は2つしかないと内村は言っている。

 1つはマタイ10:34〜39「わたしは平和ではなく剣をもたらすために来た」(とその併行個所)である。

 確かにこの個所には難解な要素が含まれている。しかしここからストレートに戦争容認へと結び付けるのは、あまりに字面通りな読み方なのではないだろうか。現代、そのような読み方が容易に通用するとは思えない。この個所についての内村の解釈は、「ヘブライ的な語法においては他動詞的表現に自受動詞を用いるので、自動的動詞は他動的に解釈されねばならない、刃はキリストが出したものではなく、彼の敵が執るものである。ここでの刃は困難・迫害を意味するものである」というものである。個人的には、この解釈も少し苦しいように思う。本当にそういう意味であるならそう訳されるのではないだろうか。寧ろここに現れているのは、神との関係を考えた時家族さえ決定的な縛りとはならない、といったことではないか、と思う。

 さて、内村が挙げるもう1つの個所はルカ22:35〜38である。こちらはちょっと厄介である。イエスがはっきり「剣を買え、ない者は服を売って買え」とまで言っているからだ。

 内村は「この剣は本物の剣そのものを指すのではない」と解釈し、以下のような根拠を挙げる。
・すぐ後の22:49以降の個所で、イエスは弟子に「剣を収めろ」と言う。先に剣を買えと言いながらここで収めろと言うのは矛盾するではないか。
・服を売ってまで買え、と言いつつ「2本ある」と言われてイエスは「それでよい」と言う。果たして、大祭司が送り込んできた群集に対抗するのに、剣2本で十分なのか。
・イエスはここで財布と袋と剣を持っていけ、と言うのであるが、剣が本物を指すならば財布も袋も本物ということになる。財布を忘れずに持っていけというのは金のことを気にしろということである。イエスが弟子にそんなことを言うだろうか。

 イエスはここで、来るべき困難に備え、弟子たちの心の結束を促したのであるが、今にも逮捕されようとしている場面であるので、過激な言葉が発せられたとしても無理もあるまい、と内村は言うのである。

 如何であろうか。

 私個人としては、象徴的表現であるとしても、依然としてここに違和感を感じずにはいられないのである。例えばパウロはエフェソ書6:10〜20で「神の武具を身につけよ。真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとしてつけ、平和の福音を告げる準備を履物とせよ。信仰を盾として取れ。救いを兜としてかぶり、霊の剣・すなわち神の言葉を取れ」と言う。「しんこうのたて」なんて防御力が120くらいあり、吹雪と炎のダメージを軽減してくれそうであるが、冗談はさておいてこういう比喩はどんなもんだろう。

 確かにキリスト教が絶対平和主義のようなものを打ち出しはじめたのは、実はかなり最近のことである。まあそれはキリストの名のもとに物凄い数の戦争・暴力行為が為されていることからもわかるだろうとは思う。またローマ時代の兵役拒否ということは、軍隊と言うシステムの宗教性(要するに皇帝を神として崇拝させるのであり、そこにキリスト者はひっかかったのである)の問題であって、暴力行為自体の拒否ではなかったと言う。

 しかし、私は思うのであるが、それらは全て相当切迫した状況におかれての言葉だったのではないか。

 内村が言うように、イエスの発言にもその場の状況というものがある。そして、ローマ書は若干性格を異にするものの、パウロの手紙には全て宛先の各個具体的な教会があるわけである。例えば第1コリント14:34で彼は「婦人は教会では黙っていなさい」と言うが、これは明らかにやたら喋るオバハン(いや、おねいさんかもしれないが)がコリントの教会にいたのではないのだろうか。発言多すぎて役員会まとまらない、といったような。それが「相当切迫した状況」なのか、と言われるとアレだが、いやしかし結構切迫した状況と思いますよ。うん

 そう考えれば、イエスは今にも逮捕されそうだったわけであり、またエフェソをはじめとする当時の教会は具体的に危機にさらされていたのである。あるいは、福音書においてユダヤ人が目の敵にされる事例を考えてもよい。福音書執筆者の時代、キリスト者は当時のユダヤ教徒によってシナゴーグから実力的に排除された経緯があり 、それゆえ彼らはあのようにユダや教徒を嫌っているのである。そういった個別の事情を抜きにして考えるのもどうかと思われる。我々がその憎悪に感情移入する謂れはない。

 憎たらしいのはシナゴーグから彼らを追い出したり石をぶっつけたりしてきた各個ユダヤ人である。ユダヤ人全般ではない。同様に、裁くべくはWTCに飛行機を突っ込ませた各個のテロリストである。もちろん、ムスリム全体じゃないし、タリバーン全員でもないし、イラクの一般市民でもない。

 殴られた者が、殴った者を殴り返したい、と思ってもそれはまあ仕方ないだろう。だからといって、殴られてはいない者が、殴られた者に感情的に同化し、「そうだ殴り返せ」とか「代わりに俺が殴り返してやる」とか言うべきであろうか。そうなったら誰が殴り合いを止めるのであろう。やはり「きちんとした傍観者」として、気持ちはわかるが止めなさい、と止めに入るべきではないだろうか。

 ここにおいては、気持ちはわかる、ということと、しかし止める、ということと、その両方ともが非常に大事であるように思われる。

 特に私のような、しばしば「頭ではわかるだろうが云々」と人から言われる、容易に他者に感情移入できないよーな人間は、寧ろその感情移入できなさ・薄情さをそのような形で活かすことにより、平和のためになんぞやの寄与ができるかもしれない、等と思ったりもするのである。

 以上、おそまつ。


以下、ちう。

1 カトリックとプロテスタントの共同作業ゆえ共同訳と言う。これは世界的に見れば結構珍しく価値あることであり、ちっと自慢してもいいくらいだ。

2 田川建三。聖書学者。激越な性格であるらしい。著書はどれも専門書と思えないくらいの力を持っており、グイグイ読まされてしまう(が、正直書かずもがななことも書いてある)。

3 内村鑑三「主戦論者に由て引用せらるゝ基督の言葉」 1904年『聖書之研究』51号 『内村鑑三全集12』(岩波書店刊)140〜149ページ。

4 ルカ6:27〜36に併行記事あり。

5 マルコ9:33〜37、ルカ9:46〜48に併行記事あり。

6 ルカ6:20〜23に併行記事あり。

7 ルカ12:51〜53、14:26〜27に併行記事あり。

8 とは言うものの、パウロに男尊女卑思想があることは否定できない。そもそも福音伝道者でありながら、かなりの怒りんぼであるし、パウロという人は色々アンバランスではある。

9 ユダヤ教はローマ政府により容認されていたが、キリスト教はまだ容認されていなかった。ユダヤ教が生き残るためには、キリスト教徒を切り捨てざるを得なかったのである。従って原因を作ったのはローマ帝国の政府であると言えなくもない。
 

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