2004年5月27日、YMCA関西主事宅で行なわれた聖書研究会のレジュメ。


20040527「信じているのやらどうやら」


今日のテーマ

信じるとはどういうことか?
信仰とは何か、どういうものか?あるいは、信仰しているというのはどんな感じか?
宗教と関わりのない、とくに信仰がない(と自称する)立場からは時折発せられる疑問であるが、これに果たして自らも相手も納得するような形で答えられるものであろうか。

例えばキリスト者(を自称するもの)は、つまるところ何を信じているのか?

イエスが神の子とだと信じることは、即ち様々な奇跡や、復活や終末を文字通りに信じることになるのだろうか。
使徒信条のような信仰告白の類が歴史的に存在するにもかかわらず、これは、簡単には答えられない問題ではあるまいか。
キリスト者から見た他宗教はどうなるのか?排他主義?カール・ラーナー的包括主義?ジョン・ヒック的多元主義?


1 聖書には何て書いてあるか。

何を信じたとか信じるとどうなるとかは結構書いてあるのだが、どういう状態が信仰している状態になるのか、についてはこれが意外と書いてないんである。
ヘブライ人への手紙 11章
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」 


2 信じることの困難さについて。

小田垣雅也 『現代のキリスト教』より

「…わたしには、神を信じることは自分の努力では不可能だということを諒解したときに、信仰に対して目を開かれたという事情がある。そもそも自分が信じるということは、信じられないという事態に対応して初めてありうることである。信じられないという事態がなければ、信じるという事情も、その必然性もない。光は必ず影を持ち、影は必ず光を必要としているのと同じである。信も不信も、たがいに相手を必要としている。だからわたしがさまざまな苦労をして自分が神を信じていると考えたとき、またはそのように決意したとき、不信の現実はかならずその信の背面に、影として回り込んでいるのであった。その不信をさらに否定し、信によって制圧しても事情は同じである。不信はさらにその信がありうる理由として、その信の背面に回り込んでいる。人間の認識とはそういうものだ。だから人間は、決して目分の努力で他者なる神を信じることはできない。

 元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは「絶対他者なる神を信じる」などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」
 

「以上のように、信仰の本性と、逆に否神論の本性を説明することでわたしが言っていることは、人間と他者なる神との間には、越えることができない「裂け目」があるということだ。これは絶対と相対、永遠と時間、神と人間との間の裂け目と言い換えてもよい。またハイデッガーが存在と存在者の間の無限の距離と言うのも、これと別のことではない。それは「神と人間の間には断絶がある」ということを認識することで、人間の認識に取り込むことができるような裂け目ではない。そのような認識がすでに、この裂け目のこちら側でなされているのである。これが人間の有限性ということの意味でもあろう。「だから神からの語りかけ、神の〈言〉によるほかはない」などと、人間が言うのは、空々しいだけだ。人間の認識の本牲を反省してみるかぎり、神はどの水準でも、信仰の場合でも否神論の場合でも、不在なのである。この裂け目は、神を否定する場合も、肯定する場合も、それに突き当たって、そこから人間が引き返さざるをえないような裂け目である。この裂け目のこちら側で、人間が考え、信じ、祈る神は、それを絶対他者なる神だと人間が繰り返し言ってみても、他者なる神ではない。それはフォイエルバッハの言い方によれば、永遠についての人間の願望の反映である神である。したがってまたその神を否定しても、それは他者なる神の否定にはなっていない。」
 

「…神と人間との質的相異ということは、人間がその対立の一方の項であるかぎり、人間には本来、見渡しえない図式である。そのことを忘れた決断信仰論などは、人間の独善である。神と人とをともに見渡し、その両者が「質的に相異している」と見てとれるような第三の視点は、人間にはありえない。だからこの質的相異の弁証法が一つの認識として成立するのは、かの裂け目のこちら側の世界においてである。これは神と人との裂け目を主張する、裂け目のこちら側の営みだということだ。したがってそれは、裂け目の向こう側の他者には届きえない。」


3 つまるところ

 よくわかんねえんですよ。終末、復活、救済といったことについては、そりゃあまだ死んでないんだからわかんねえよ、としか言いようがない。私は30数年生きてやっと「今の日本の世の中はものすごくモダンである」ということに気付かされた。ここでいうモダンとはようするに合理的、科学的、経済的であるということである。私は長いこと「それは科学的ではない」という裁きが何やら決定的致命的な裁きであると思いこんでいたが、なんのことはない、「科学的」ではないだけじゃあないか。 

 科学性とか経済性とかで議論しているかぎり、「絶対戦争はダメなんです」という言説は出てこない。どこかで、時には戦争しても仕方ない、という理屈が出てきてしまう。そして宗教が扱うのはそういう領域ではないように思われる。ポリティカリーにコレクトかどうかも世の中で生きていく上では大事だが、レリジャスリーにコレクトかどうかも重要である。

 そうやって領域を分けてしまうと、今度はそれらをどのように重ねるのか、という問題が生じてきてしまうわけで、依然として困難は解決されないのであるが。

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