20051129主事宅聖研
ペトロよ、力をぬきなさい。
ミリアム前なので、ジェンダー(特に男性にとっての、何故ならば私が男性だから)について、ペトロさんを題材に考えてみよう。
前置き:ジェンダーなるものについて
ジェンダーというのはもちろん社会的な性区別のことである。
「社会あるいは文化が、性の違いによって与える役割あるいは期待」「性差」「社会的、あるいは文化的な特徴を、男性であるか女性であるかによって与える仕
方」「男性であるなら、外に出て社会の第一線で働くとか、女性ならば家の中で家事をするとかいう社会的役割分担」
等々。
かといって、一人でジェンダーフリーにはなれない、ジェンダーとは「社会的」なものであるから。社会的なものには多数決的なところがあるから、一人一人
が変わっていって、それが多数派にならないとジェンダーフリーとはならん。
もちろん役割分担全般が悪いというのではない。基本的には得意なことをより伸ばし、やりたいことができるようになるのがよいだろう。だがその道が「男性
である/女性である」ということを理由に閉ざされたら、それは、よくはないだろう。クラシックのハープ奏者とか、「男性故になりにくい」職業というのもあ
るのである。
男性=男性性ではない。男性社会とは本来的に男性性社会、あるいは男性的社会とでもいうべきである。
男性性社会とは、男性にとって必ずしもいいもんではない。そこでは競争して勝たねばならないし、勝って他者を支配せねばならない。特に小学校高学 年、中学くらいから、学校での人間関係が男性性社会になってくる。クラスに一人二人は必ずコワイ奴がおり、基本的に「舐められたら終わり」または「目をつ けられたら終わり」の世界となる。「舐められない」ために腕力的に強くなるか、学力的に強くなって別ジャンルで戦うか、あるいは「目をつけられない」ため に「面白い奴」「目立たない奴」になるか、みなそれぞれの工夫をしているのである。
この、男性性とはなにか、というのもすごく曖昧で、難しい問題である。ここではおおまかにその特徴を考えるくらいでいいだろう。私は、その特徴
は、力、「強さ」による相互上下関係的な支配である、と考えている。力は腕力だったり経済力だったり身分だったり色々だ。そこでは力がより多いものがより
強く「上」の地位に、少ないものはより弱く「下」の地位になる。強さからは「権威」とか「正統性」とかも派生してくる。神も人間を支配しているが、その支
配とは全然違う。神は全てを支配している。そしてその支配されている人間同士は本来全く対等なのである。しかし、男性性社会で、A>B>C>Dだとする
と、BはAに支配されるが、同時にCやDを支配している。あるものは、自分より相対的に強いものに支配されつつ、自分より相対的に弱いものを支配するので
ある。そしてその序列は、しばしば、頂点に君臨する者にどれだけ評価されているか、で決まる。
この、権威ある強い立場に女性を置いただけでは、なんの解決にもならない。その女性が力で他者を支配するだけだからである。それで構造は変わらない。も
ちろんリヴェンジ的、「すっきりしたぜ」的意義はあるのだが。
福音書におけるジェンダーと、男性性社会
イエスは新約聖書の中でもっともジェンダーや上下関係的支配に敏感な人(神でもあるが)である。しかし彼のメッセージは如何せん斬新過ぎた。パウ
ロ書簡、牧会書簡になるとすっかり役割分担的、上下関係的に逆戻りしてしまう。特に第2コリントや第1テモテ等はきつい。そして普段からイエスの周りにい
たはずの使徒たちでさえ、まるでそのあたりは鈍感である。
そもそも福音書で描かれる使徒たちは概して鈍感である。喩えの意味もわからない
し、絶対寝るなと言われているのに寝てしまう 。まあ、そういう連中が体をはって伝道する使徒になってしまうところが感動的でもあるわけだが。
ともあれ12使徒も男性性社会、「強さ」による上下関係にどっぷりと漬かっている。性差による役割分担もあり、イエスの墓を掃除に向かったのは女性たち
である
(だからこそ復活のイエスに最初に出会えるのであるが)一方で、イエスの側近として付き従うのは大体いつも男の使徒、特にペトロ・ヨハネ・ヤコブのビッグ
3である
。もっとも人数を数える時、大抵女性(と子供)は頭数に入っていないので、いるけれども書いていないだけかもしれない。
ビッグ3がビッグ3たり得るのは、恐らく、ごく初期にイエスの弟子になったからである
。男性性社会では、しばしば古株が上で新参者は下なのである。使徒たちは誰が一番えらいのかを気にしており
、ヨハネ・ヤコブ兄弟の母はイエスに「あなたが王様になったらうちの息子たちを大臣にして下さい」と抜け駆け的依頼をしたりする
。また使徒たちは、イエスの権威をかりて調子にのる こともある。
イエスは前述のごとく社会構造に対する意識が鋭敏である(と思われる)ので、使徒たちのその種の発言に対してはかなりきつい言葉を浴びせるが、使徒たち
はなかなか懲りない。イエス集団を男性性社会であると思っている彼らは、「よりイエスに評価される」ことで自分のポジションを上げようとするのである。あ
るいは誰がもっとも愛されているか、で張り合っているような節もある。中でもそういったことに最も一番熱心なのがペトロである。なんかもう、痛々しいほど
である。
イエスは、神の国では、「先にいる者は後になり、後にいる者が先になる」
と言っているのだが。
では以下、さらに細かくペトロのでしゃばりで強がりで愛されたがりな言動を追ってみよう。
本日の箇所
色々あるので、引用はしていません。全部読んでいる時間はないので、適当なところを拾って読んだらいいでしょう。
ペトロ、信仰を言い表す(マタイ16:13-20、マルコ8:27-30、ルカ9:18-21)
大事な場面であるが、ペトロの言葉には若干スタンドプレーの匂いがするようにも思う。考え過ぎだろうか。
イエス、死と復活を予言する(マタイ16:21-28、マルコ8:31-38)
「サタン」は言い過ぎではないか、とも正直思うが。なおルカではペトロの発言がない。
イエスの姿が変わる(マルコ9:2-13、マタイ17:1-13、ルカ9:28-36)
わけのわからない恐怖の中、とにかくなにかイエスを褒め称えることを言わなければと思っているらしいペトロだが、正直いっぱいいっぱいである。特にマル
コ伝。このあたりまでのペトロは非常に肩に力が入った感じがする。
ペトロの離反を予告する(マタイ26:31-35、マルコ14:27-31、ルカ22:31-34、ヨハネ13:36-38)
この時点でのペトロは、裏切る気など全くなかったのではないか、と思う。ペトロの忠誠心は本物だろう。同時に、彼を裏切らせた恐怖も、裏切った後の後悔
と羞恥も、本物だと思う。
裏切られ、逮捕される(マタイ26:47-56、マルコ14:43-50、ルカ22:47-53、ヨハネ18:3-12)
ヨハネ伝にのみ、ここで剣を抜いたのがペトロであると記されている。晩餐後、使徒たちの面前で「お前はつまづく」と断言されたペトロは、メンツをとり戻
そうと必死だったに違いない。よってここぞとばかりにイエスのために剣をふるったのに、止められてしまうのである。悔しかったにちがいない。
ペトロ、イエスを知らないと言う(マタイ26:69-75、マルコ14:66-72、ルカ22:56-62、ヨハネ18:28-38)
有名な場面である。繰り返しになるがここでのペトロの後悔は本物である。不謹慎な言い方をすると、彼はいい感じにかっこ悪くなってきたと思う。
イエスとペトロ(ヨハネ21:15-19)
これもヨハネ伝にしかない。「俺が一番イエスを愛してるんだよ」と思いたいペトロに対して、イエスは相変わらずのらりくらりしていて、ちょっとあんまり
な感じもする。実はイエスは結構つかみどころのない人(神でもあるが)である。そして、ペトロとは別に「イエスの愛しておられた弟子」が出てくる、という
のがまたきつい。しかし、私はここでのペトロが嫌いではない。集団内での地位向上のため、ボスに気に入られようとしているようなところが確かにあったペト
ロであるが、いつのまにか普通にイエスが好きになってしまっているような感じである。
ペトロははっきり言ってあんまり意志の強いひとではない。にもかかわらず、彼は自分の弱さを認めることができず、できもしないことを言うのであ
る。だが、イエスも実は彼のことを信頼しており、それゆえに大事な役目を与えたようにも思われる。
復活後のイエスは使徒たちのつまづきを責めたりはしない。使徒たちが期待を裏切ったところで、イエスは彼らを見捨てはしないのである。ちょっとばかり厭
味を言うくらいであるし(イエスは結構イヤミである)、結局最終的には救済してくれるわけである。
この、最後にはとにかく救済されてしまう、というのが実はポイントである。何ぞやの問題意識のもとに学習会の類を行う際、「じゃあどうしたらいいのだろ
うか」というところでつまってしまうことは多いし、発題者との質疑応答ではたいていそういう質問がある。「それは各自で考えるしかないわなあ」というあた
りで落ちをつけざるを得ない。しかし、ことイエスに関しては、どうしたらいいかわからなくてどうしようもなくても、とにかく救済されてしまうのであるか
ら、我々は安心してつまったりじたばたしたりしていればいいのだ。帳尻合わせは神(と神の子)にお任せすればよいのではないか。だから、男性性社会的に無
理してがんばらなくても、いいのである。
イエスは全ての人々に向けて語りかけていたが、ペトロは当初、誰よりも自分(だけ)に向かって語りかけて欲しかったのであろう。その気持ちはわからなく
もない。彼がその思いから解放されたのかどうかは聖書を読む限り実はよくわからないのであるが、神の言葉には、全ての人間に向けられていると同時に私だけ
に向かっているようなところが、確かにあるのである。