当時の地塩寮でキリスト教的活動は殆ど行われておらず、私などでさえかなりキリスト教的な人間の部類に入るほどであった。学生運動の名残を残した
当時の学
Y寮(いや、京大が特にそうだっただけかもしれないが)にあって、キリスト教が過去〜現在までやってきたことの意味について、つまり今風に言うところの
「グローバル化」の黒幕としてのキリスト教ということについて、問われ、考えざるを得なかったのである。教会内ではハシクレ程度でありながら、教会外では
キリスト教側の人間としてキリスト教について考えねばならない、というのはなんだかイソップ童話のコウモリのようでもあるが、しかしいい経験であったと
思っている。
そのように内的にはキリスト教的であった私が外的にもキリスト教的になったきっかけは、勤めていた会社を辞めたことである。もちろん自分にも原因はある
が、色々とつらくなってやめたのである。ところが、どこにも所属していないというのはどうにも不安なものである。しかし私の能力値的な部分でしか私を判断
しないような組織に属すのは当分ご免である。そこで教会に行くことにしたのである。そこで教会を思いつくことができたのは、何はともあれキリスト教がそれ
なりに「私の宗教」であったのだ、ということなのだろう。
それから3年くらい「そこそこ教会に行く求道者」をやっていたのだが、牧師と副牧師の両方が転任することになってしまったので、どうせ受洗するのならそ
の二人から受洗したいと思って受洗したのである。そして今ではイエスが十字架につけられたくらいの年齢も過ぎてしまった。
このように、受洗もしたし、キリスト教学の大学院にも入ったし、結果だけ見るとこうなることを目指してきたかのようであり、このような道行について、良
い導きがあったのだと言って下さる方もいる。しかしそう言われると私は内心、少しばかり、冗談ではない、という気にもなるのである。会社勤めしていた頃の
辛さ苦しさは紛れもなく本物であり、しかも私自身の辛さ苦しさだったのであって、それについて良かったとか悪かったとか外から簡単に判断されたくはないか
らである。
少し話はずれるが、私はこの、彼らが偽善者として批判されるというのまではまあ仕方ないのかもしれないと思うが、救済の対象からもはずれているか
のよう
に言われるのは、ちょっといたたまれないのである。
ともあれ、ニコデモという人はイエスとは見解を異とするパリサイ派に属していながら、イエスの話を聞きにきたのである。そしてそれは夜の出来事であっ
た。ニコデモは昼間に公衆の前で堂々と話を聞きづらいややこしい立場であるから、これはやむを得ないだろう。しかし私は、信仰の話は夜にひっそりとするの
がふさわしいのかもしれない、とも思うのである。福音書に描かれるパリサイ派は、大体堂々と「私達は信仰を持っている」と言うような、自分たちは間違って
いない、という主張をする人々である。しかしニコデモという人は、それに関して何かしっくりこないものを持っていたのではないだろうか。それでイエスの話
を聞きにきたのではないだろうか。
ニコデモはイエスに「あなたが神の教師であると知っています」と言うが、それに対してイエスは「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできな
い」と言う。ニコデモは、イエスは人々を神の国へと導く教師である、と考えたのであろう。それに対してイエスが答えた言葉の中の「神の国を見ること」は、
救済されることと解釈してもよいのではないか。ではそのためにどうすればいいのか。正しい信仰を持っていると自称するパリサイ派に属していながら、ニコデ
モは「私は大丈夫なんだろうか」と不安であったのではないのだろうか。
これも私の勝手な印象であるのだが、ニコデモという人は結構な年配の人物だったのではないか。彼の言葉にある「年をとったもの」は自分を指していると考
えられるからである。年をとると、自分より若い人間に教えを請うのはなかなかできないことである。このことひとつ考えても私はこのニコデモという人はなか
なか立派だと思う。しかし、自分の年から「生まれ変わる」=(修行を)やり直す、と考え、それはちょっとムリだ、と彼は言ったのではないか。
それに対するイエスの答えはまた印象的である。「新たに生まれる」とは霊によって新たに生まれるのであって、しかも霊は風のように思いのままに吹き、ど
こから来てどこへ行くか知らない、と言うのである。であるから、ニコデモの方でどれくらい修行したり律法を守ったりしたか、等ではなく、霊の方からある種
勝手に彼を生まれ変わらせてくれる、ということになるのであろうか。自分は大丈夫なのか、という問いは非常に恐ろしいものである。自分を疑っている以上、
自分の中から答えは出てこないからである。キリスト教的には、答えは神からしかこないのであり、恐らく他の宗教にも同じようなことがあると思われる。とも
あれ、ここでのイエスの言葉はちょっと厳しいか、という気もする。
しかしイエスはさらに、有名な「神はその独子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉を続ける。この言葉がペトロら弟子ではなく、パリサイ派
に属する人に対して向けられているのだから、ヘンな言い方であるが、本当にそうなのだ、と感じさせられる。もちろんなんでもかんでも生まれ変わらせてくれ
るわけではない。信じるものは、とあるからである。ニコデモがこの場面で即信じてイエスについていったら、もっと劇的であったかもしれないが、そのような
大それたことをしない常識というか恥らいのようなものが彼にはあったのではないだろうか。信じさえすればいい、と言われても、その、信じるということが難
しいのである。そしてなかなか初対面の相手に「信じる」とは言えないものではないか、とも私は思うのである。心の中で信じてもいいかも、と思っていてもで
ある。