文芸指導の意味はあるのか
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端的に言って「意味はない。効果も期待できない」と私は考えます。
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ただし、ここで指導批判の対象とする文芸とは「ロジックを最優先とする文章」
ではありません。学術論文、小論文、レポート、企画書、ビジネス文書などには
明快なロジックが必要であり、技術が要求されます。形式的になりがちではあり
ますが、文章指導にも某かの意味や効果がある分野と言えます。そのことを最
初に説明しておきます。
大学教員による所属ゼミ生徒の論文指導、予備校や高校における大学受験
の小論文指導、ビジネス文書向けの指導・指導書(参考書)などは、各々に(方
法が適切であれば)能力向上が期待できます。このような文章で重視されるの
は「論理」であり、それが破壊されている文章はまず評価されません。内容(新
発見、研究調査知見、アイデア等)は、論理に基づいて表現されてこそ必要な
説得力を持ちます。論理を成立させるのは文章技術であり、そこには指導効果
が期待できるのです。
西洋には古くから「修辞学」があり、各々の言語における「統語法」も深く追究
されています。それは文章技術を成立させる重要な要素であり、文章指導を適
切に行うための必須条件にも数えられます。日本では文芸(小説や詩・短歌・俳
句等)とロジカルな文章(論文・評論文・レポート・実用文の多く)とが明確に区分
されず、学校の国語教育においても「作文」という名目で混同されている始末で
す。
何でも自由に書かせるという国語教育は、一面では発想を育てることに貢献
するかもしれませんが、そればかりに偏るのは有害であると言えます。算数や
数学の時間にちょこっとだけ登場する論理学を、むしろ国語の時間に(作文指
導の一環として)教えるように改革していくべきではないでしょうか。論理学と
いっても小難しく考える必要はありません。小学校・中学校・高校・大学、各年齢
の思考レベルや作文内容(題材)に合わせて、指導レベルも調整すれば良いの
です。端的に言えば「文章には理屈がある」または「理屈が必要な文章が世の
中にはたくさん存在する」という認識から出発するということです。小説家や詩人
の養成ではない文章指導が必要であり、このようなロジカルな文章は、社会の
様々な面で役立つ機会が多いのです(文章化せずとも、アイデアを組み立てて
現実化を図る思考プロセスなどにも有効)。
この問題は意外なほど広範囲な社会的影響を及ぼします。言葉や文章の背
後に存在する「論理」をあまりに軽視してきた結果、ビジネスに限らず、社会生
活やシステムの多方面において、感情論、宗教的抽象論(前提の論議を欠く抽
象論)、情況・流行への便乗、無定見な権威主義や伝統主義と模倣、安易な妥
協、丸め込みなどが横行し、泥縄式の不徹底な対応に終始するという日本人の
悪しき特質を助長してきたと言ってもうがちすぎではないでしょう。
以上は私の意見でありますが、私は学校の教師でも何でもない、ただの雑文
家です。教育改革にも抵触する文章認識改革の「一アイデア」としてお読みくだ
さい。これまでに述べてきた「ロジカルな文章(論理を重視する文章)」を除外し
た「文芸指導批判」を、以下に展開するつもりです。
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さて、小説・詩・短歌・俳句には「論理」が皆無であるかというと、必ずしもそうと
は言い切れません。単なる形式上の論理だけでなく、一つの文、一つの段落、
一つの章節の内部にも、各々のつながりにも、何らかの「論理」は存在します。
しかし、それは一つの法則に縛られるものではなく、多様性があり相互に関連
性を持っています。したがって、科学や哲学に比肩する「硬質な論理」は指摘で
きません(そのような指摘は無意味とも言えます)。
要は、表現者個人が一作品ないし(表現者としての)一人生において一貫した
論理を持っているかどうかであり、それが明確であるほど、結果として彼の作品
は評価されるものです。繰り返しますが、ここにおける「論理」は、論文や実用文
における「論理」ではありません(俗な表現を使うなら「文章表現におけるポリ
シー」とでも言ったほうが適切かもしれません)。
このような個々人の「論理」は他者が指導して改善できるものではなく、指導な
ど不可能であると断言できます。もし可能であるならば、それは「洗脳」であり、
指導とか教授といった言葉の意味から逸脱したプロセスであり、詐欺的宗教家
にでも任せておいたほうが良いでしょう。食いっぱぐれた文芸家に、このような手
合いがいますので、注意すべきでしょう(もちろん、良心的な指導者もいます
が、彼らは限界をわきまえ、筒井康隆がパロディ小説化して批判したような精神
論や人生論は説きません)。
もちろん、誤字脱字の訂正や句読点の修正、改行ポイントの常識、おおざっぱ
な構成等は指導できないことはありません(これは文章校正の仕事かもしれま
せん)。最低限「他人に読んでもらえる文章」または「出版物として堪えうる文
章」を仕上げるための必須事項であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
このような基本的技術は、カルチャーセンターでも参考書でも学べることであ
り、本来ならば高校までの国語教育である程度は実習されるべきです。基本を
覚えれば、あとは自分自身で推敲(添削)すれば良いのであり、それが一番の
上達法でしょう。
私が問題とするのは、上記の基本技術を超えた指導です。それは文芸におい
て不可能であり、それを「可能」と偽り教授料をせしめる行為は、著しい傲慢であ
り詐欺に比肩する悪徳行為であると考えます。商行為(商売)でなくとも、軽々し
く「文芸指導」などという看板は掲げるべきでないと思うのです(「論文・レポート
指導」「実用文指導」ならば許せますが)。
「発想を磨く」「発想を伸ばす」という側面の修練は、「着想→論理」「論理→新着
想」といった循環プロセスの産物であり、これは文芸家の個人教授でどうにかな
る代物ではありません。むしろ優良な哲学書もしくは「ビジネス発想法」の本を
読みあさって、自分なりに開拓していくほうが有益でしょう。
ここで再認識すべきは、「良い作品」の判断基準です。私は三つ挙げ、それ以
外にはありえないと考えます。
一つは「自分自身で満足できる作品」。ややマスターベーション的ですが、文
芸の基本はここにあります。売れるか売れないか、賞を取れるか取れないかと
いった問題を取っ払ったところで、最後まで残る課題とも言えます。たとえ製本
されなくとも、日記のように埋もれてしまっても、書くことの究極の砦は、この判
断基準でしょう。
二つめは、これは商行為に関わる場合ですが、何らかの権威者もしくは編集
者が認めるかどうかです。曲がりなりにもプロのライターを目指すなら、後者す
なわち編集者の判断を重視すべきです。これは「媚びを売る」ということではな
く、自分の作品なり企画なりが、最低限の商業採算ベースに乗るか否かの判断
基準として客観的な自己認識に役立てるべきなのです。前者の「権威者」とは
有力な文学賞における有名作家などが相当しますが、これはそれほど信頼で
きません(理由はいろいろあります。この文章を読んでくださっている賢明な
方々には想像していただけるでしょう)。
三つめは、多くの読者を獲得できるか。これは作品が公に出版されてからの
話だと思われがちですが、最近はそれだけではありません。インターネットの普
及により、自分自身のホームページに作品を載せて不特定多数の人々に晒す
ことが可能だからです。この場合はHPのヒット数だけでなくメールやアンケート
などで確認されるでしょう。端的に言えば多くの人が「面白い」と思うかどうかが
勝負の分かれ目です。「面白さ」には色々ありますから説明は省きます。これは
単純なようでいて重要な判断基準であり、私はミステリー系の文学賞の一部で
設置されている「読者賞」の方を、審査員による表彰よりも評価したいぐらいで
す。
以上、三つの究極の基準を検討してみると、文芸指導の入り込む余地などほ
とんど無いということが御理解いただけるでしょう。第二の基準については「業界
にウケる方法」「売れ線の作り方」として無理やり指導することも考えられます
が、時々刻々と移り変わる流行や、無数に存在する編集者たちの好みやポリ
シーなどを一人の指導者が把握できるわけがなく、これも結局のところ虚偽に
ならざるをえません。裏口入学よろしく、書けなくなった重鎮が謝礼をふんだくっ
て生徒を編集者に押しつけるのが関の山でしょう。
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このあたりで一つ、文芸における上達なり修練の意味を考え直してみるべきで
しょう。「他人に教わることも他人に教えることもほとんどない」。これを徹底的に
肝に銘じるべきです。最初から最後まで、自分を自分で磨くしかないのです。そ
の方法は個人によって千差万別であり、遅いだの早いだのを問題にすべきでは
ありません。自分で方法を探り、試し、失敗し、修正していくしかないのです。そ
れは、その人だけの方法であり、当然のことながら、他者に伝授したとしても効
果が見込めるわけがないのです。文芸に限らず、現代の日本人には、すぐに他
人に方法を教わりたがる傾向があります(他者依存傾向の一現象)。これは全く
無意味であるということを、特に表現者を目指す人々は再認識すべきでしょう。
芥川賞を受賞した某小説家は、過去は札付きのワルであり、文章を書くような
環境にも生きていませんでした。ふとしたきっかけで「一発売れれば儲かる世
界」だと認識し、他の稼業(ベンチャービジネス?)と同レベルで捉え、対策を自
分で考えました。ここが良いですね(文芸を特別視したり権威化したりせず、バ
クチ要素の強い商売の一環としか考えていないところが潔い)。彼は「書き出し
が全て」という発想を持ち、過去の有名作品の冒頭を数ページ分、書き写すとい
う作業(練習?)をしばらく続けました。ここで実践的に「食いつきで読者を捉える
テクニック」を体得したのです。彼に言わせるまでもなく、これは誰でも思いつく
方法であり、自分自身で暇なときに修練できます。やはり、他者の指導の介在
する余地は無いということです。もちろん、この受賞作家の作品内容には個人
経験を生かした特異性があり、そこが評価対象になったと思います。しかし、内
容以前の(他者から学べそうな)技術的要素もまた、自分で磨くしかないと言え
るでしょう。
言葉の使い方も、構成法も、文芸に「絶対」は存在しません。過去の作品を分
析するにしても、そういう権威主義は無視するとしても、結局のところ、自分で開
拓するしかないのです。
あたりまえに思えるかもしれませんが、それを自覚できていない人間が多すぎ
ると、私は感じます。「鞄持ちから修行する」だの「弟子につく」だの、そういう考
え方をする人は、これからの文芸では大成できません(今までもそうだったかも
しれませんが)。芸術において時代を変えるのも、時代を創るのも、つまるところ
は「個人」なのです。たとえ大家族の中で生活していても、文章を書くことは孤独
であり、最後まで孤独でなければまともな作品は成立しません。
理論も技法も確たるものが存在しない「文芸」における「指導者の虚偽」、そし
て安易に教わろうとする「未熟児的精神」、この二つは捨て去るべきだと私は考
えます。
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やや厳しいことを書いてきましたが、私は電子ネットワーク上の交流は否定せ
ず、むしろ積極的に支持します。同人誌によくありがちな、無駄に時間を浪費
し、内閉的になり、内部で権威化や序列化のママゴトが生じるといった「過去の
文芸交流」よりも、はるかに有意義だと考えるのです。
時間を自由に使える。嫌になったら去れば良い。年齢性別を強く意識せずに
済む。電子的テキストにおいて初歩的優劣は問題にならない(最初から内実を
問うことができる)等々。コンピュータ・ネットワークにおけるフォーラムやBBS、
メーリングリストなどのシステムを活用した文芸研鑽活動は、商行為のみに限
定されることなく(そちらへの可能性も秘めて)、様々な個人的挑戦を生かし、思
考交流の場を提供してくれると思います。
繰り返しますが、芸術としての文章世界において「教える/教わる」という関係
は究極的には存在しないということです。存在するように思えたら、自分が幻想
もしくは詐欺の演出者であるか被害者であると認識すべきなのです。
ただし、感想なり批評なりという形でのコメント交流は、受け入れるも入れない
も「個人の自由」ですから、活発化すべきです。感想や批評の方法もまた人そ
れぞれであり、それを縛るルールも基本的には無用でしょう。批評における厳し
さは歓迎されるべきだと私は考えます。ショックを受けて寝込んでしまう人も出
るかもしれませんが、それを現実として受け入れるか否かが、その人の成長を
左右すると言えるでしょう。
言われたことを言われたままに実行する人間は、芸術の世界には不要です。
これは、教えることの虚偽性と限界、そして教わることの甘えと非成長性(不毛
性)を自覚すべきだという思考を導出します。
これは無定見な権威主義や伝統主義を否定することでもあります。気軽に、
過去の名作や重鎮を貶しましょう(敬意をふまえた論理的批判であれば、さらに
好ましい)。なぜ「面白くない」のか、なぜ「ムカつく」のか、なぜ「古くさい」のかを
考え、それを反面教師として、自分の創作に役立てれば良いのです。このプロ
セスにおいて、自分が貶した作品や作家たちが「師匠」になっていることに気づく
でしょう。無思慮な尊敬や盲従よりもずっと建設的で有益な(時空を超えた)交
流であると思います。
最後に申し添えておきますが、私は単なる「新しいモノ好き」ではありません。
前段落で権威や伝統への盲従を批判したのと同様に、「伝統の打破」といった
安直なコピーに彩られがちな流行や新傾向への礼賛も否定します。マスコミが
振りまく「新」という修飾語は、この言葉の原義からの逸脱を多分に含みます。
新しさの理由や実態を冷静に観察・分析し、一歩引いてみることも大切でしょう。
いずれにしても、究極的には「孤独」な取り組みであると自覚することが大切だ
と言えます。そこに、指導だの教授だの師匠だの弟子だのといった言葉が介在
する余地は皆無なのです。
もんくを言いたいひと→peperope@geocities.co.jp