自民党と新保守主義論客を永久追放
●●●●●● ●●●●●●
自民党(新保守主義)による古典的な「労働組合潰し」に近しい欺瞞戦略
は、一時的ではあるが、政党としての社会主義を骨抜きにしかけた。五十
五年体制瓦解後に見られた社民党(旧社会党)の著しい衰退は、私企業
の「労務管理(労組潰し)」に酷似した自民党の策略にハマッた結果であ
る。このような発想からスタートして、新保守主義に対する批判論を展開し
ていく。
●●●●●● ●●●●●●
戦後日本で最も派手な高度成長期、大から中小まで様々な私企業が労
働組合潰しのために、米国流合理的人事管理方式やモラール(欺瞞的労
働意欲)向上型労務管理などのノウハウを持ち込んだ。それを援助・指導
する「良心的」な教育機関から、自己啓発セミナーや新興宗教絡みの怪し
げな組織、さらには暴力団まで、組合潰しのプロフェッショナルが一つの
会社の内部を徘徊していた時代があった。
ソ連をはじめとする社会主義国崩壊の大ダメージを受けたのは、共産党
よりも社会党である(長い間、ソビエト寄りであったことが表向きは災いした
と言える)。「インターナショナル」的な思想や政策をまともに掲げることを
ためらい、その方向で具現化を図らなかったことが、一国社会主義の瓦解
により拠り所を失った最大の理由であろう。
しかし、よく検討すれば、新保守勢力の左翼叩きはどれもこれも根拠薄
弱である。つまるところは「ソ連崩壊」という出来事を馬鹿の一つ憶えのよう
に繰り返しているにすぎない。「革命」という古くさくもファナティックな「行
動」に対する、これまた古くさい「脅威」を連呼するだけなのである。
ところが、ソ連(東欧社会主義)崩壊により最も安堵したはずのヨーロッ
パ諸国では、社会主義勢力は衰退どころか、むしろ支持を広げている。そ
れは資本主義国の内政レベルに留まらない。EUという(対米意識の具現
化という面もあるが)超国家的共同体が政治・経済の両面で試行され、ま
るでインターナショナリズムの実現を図るかのようでさえある。ロシアでも、
エリツィン引退後を意識した共産党の復活が著しい。もちろん、ひとたび資
本主義を経験したのであるから、かつての共産党独裁や党官僚支配体制
への揺り戻しなど杞憂である。西欧や米国との関係を維持しつつ国内経
済の建て直しを図るために、ユーロコミュニズム的な路線を探るのが現実
的である。それは、いかに頑迷な共産主義者でも覚悟しているはずであ
る。
一方、米国のイニシアチブ低下は(ソ連崩壊後の数年間を除き)目を覆
いたくなるほどである。下半身スキャンダルで失墜した名誉の挽回を託す
というクリントン個人の思惑を逸脱するほど、米国の権威回復のための強
引な対外アクションが目立つ(そのスタンドプレイに飽き飽きした他国から
傍観されていることに気づき、米国はさらに焦りを深めているようである)。
世界情勢を見ると、社会主義は死んだどころか、今後さらに「理想」から
「現実」へと認識されていく時代を迎えつつある。環境・人権・福祉といった
具体的課題の多くが、局所的にでも社会主義的思考を要求している時代
であるとも言える。社会主義政権の誕生などSF映画ネタと思われる米国
でさえ、一時は自由放任主義の嚆矢として無敵にも思われたヘッジ・ビジ
ネスが自爆して以来、「社会的公正」や「互恵」を政策として意識せざるを
えない。また、クリントン&ゴアの政権下で進展したインターネットには、情
報の「占有・先取り」というナショナルな計略と同時に、情報の「世界拡散」
やアクセスの「公平化」といったインターナショナルな性質を不可避的に胚
胎するという二面性がある。軍事目的で開発された情報網が、今では(国
際社会主義的性質の強い)市民運動やNGO・NPOの発展にも大きく貢献
しているのである。
このように見てくると、日本社会党が右寄りに軌道修正したのは、早計に
すぎる軽挙妄動であったと断言できる。村山という恍惚老人が担がれたと
はいえ、自民党と連立政権を組んだために、支持(その後の選挙における
得票)を喪失したのは当然である。
もちろん、ソ連崩壊をはじめとするコメコン系社会主義国の壊滅以外に
も、日本社会党に危機的妄想を与えたことがある。労働組合の支持が離
れたことである。「女性の時代」とか「消費税反対」といった一時的流行以
外に浮動票を集めるだけの訴求力がなく、組合票という組織票に頼らざる
をえなかった党の体質に起因する問題である(五十五年体制下では、これ
でも一定の反自民票を維持できた)。
社会党の支持基盤であった労働組合も、形骸化して「自分たちが現在考
えるべき問題」を見失っていた。その要因は二つある。一つは、八十年代
以降、質的生活を重視するライフスタイル変換に追随できず、高度成長期
の賃金格差是正など「貧富の差を埋める」という原始的戦略からの路線変
更を効果的に実行できなかったこと。二つ目は、保守勢力と私企業が結託
した「組合潰し」に対して有効な反撃を行えなかったこと(組織作りだけが
目的化して、業種や会社に見合った課題設定能力が組合側に欠けていた
こと)。そして、この二つ目の要因は、日本社会党に対する自民党の懐柔・
切り崩し戦略としても見事に機能してしまったのである。
自民党(保守勢力)は情けないことに、ここでもソ連崩壊という「外圧」を
利用するしかなかった。リクルート汚職や消費税問題、そして保守系新党
ブームにより、自民党への支持は低下していた。にもかかわらず、自己反
省も自浄努力もせぬまま、自民党は無定見な「仲間探し」に奔走し始め
る。危なくなると誰とでも寝るという腐った体質は、彼の党の創立(自由党
&民主党)から現在(自・自・公の連携)まで全く変わっていない。社会主
義国崩壊という外圧と労働組合の離反という内圧により、尻に火がついた
社会党は、安易に連立路線を選び、自民党の虜囚として恥ずかしめを受
けたのである。曲がりなりにも与党になったことを利用して、逆に保守勢力
を圧倒し、社会主義政策をポンポン打ち出すという気概さえも、一度たりと
も示すことがなかった。多くの記憶に残るのは、フラフラ揺れる巨大な白い
眉毛だけである。
最近の社民党は、村山政権時代を反省する声を上げ、左翼路線(といっ
ても市民主義的路線)を取り戻しつつある。しかし、共産党の一貫した批判
的孤立性に比べて、浮動層の信頼をつなぐまでには長い時間がかかる。
とりあえずは、地方自治のレベルで無党派の市民運動と連携するところか
ら信頼回復に努めるしかないと思われる。
●●●●●● ●●●●●●
日本の左翼は(自己反省を経て)、現在はまさに社会主義的思考を様々
な局面で実践する正念場であると肝に銘じて行動すべきである。もちろ
ん、暴力革命などは論外である(その時代的必然性は百年近く前に終
わっている)。「膨張した資本主義から社会主義・市民主義への漸次移行」
という、かつて社会主義者の一部が持久戦術として唱えたことが、これか
らの現実的な方向性である。それは政党が主張するまでもなく、国内的に
も国際的にも社会現象として胎動していることを見逃してはならない。
同時に、ソ連崩壊や周辺有事、教育問題などを取りあげて浮かれ(憂か
れ?)騒ぐしか能のない新保守主義勢力の底の浅さに対して、左翼は冷
徹で論理的なな観察眼(批評眼)をもって厳しく指弾していくことが求めら
れている。それは真性左翼ばかりでなく、良識人である全ての人々の義務
と言っても良い。
最近の新保守系論客には、彼らが左翼だの進歩主義だのと総括する論
陣に向かっての「揚げ足取り」しか方法がないように見える。手始めは「ソ
連崩壊」を見て「それみたことか」と連呼する。煎じ詰めれば「反共」だけで
胸を張っているような、街宣的スローガンばかりを並べる。中立的・客観的
な批評分析まで「アカ」呼ばわりする低能ぶりである。「民主主義」に対して
も、ウンチクの足しにもならぬ針小棒大な例証を自慢げに披瀝して、民主
主義そのものが大欺瞞であるかのごとく攻撃の駄ボラを吐き散らす。「朝
日新聞叩き」も彼らの得意技である。その中には、マスコミの本質をついた
公正な見識もある。しかしほとんどは、販売部数ナンバーワンの巨大紙に
対する妬みとしか思えないようなチマチマした記事攻撃や論調攻撃または
歴史認識攻撃に終始している。朝日を叩く全精力を読売や産経に向けれ
ば、その新聞社を潰すことも可能ではなかろうか。そのほうがよほど意味
があると、私などは思ってしまう。保守反動や右傾化を攻撃するのがメ
ディアの根源的役割と義務であるという基本をわきまえれば、そういうこと
になる。まあ、このことは論点を外してしまうので詳しくは述べない。
新保守の妄言妄動について例を挙げれば、そして、論理面での破綻や
発想の貧困さをいちいち指摘すれば、いくら書いてもキリがない。彼らは
重箱の隅をつつくように左翼批判に興じている。これではまるで、共産党や
創価学会が自前の言論機関の中で「対立陣営叩き」をトップ記事に掲げて
溜飲を下げていたのと同じではないか。新保守主義者も、自前の言論誌・
ミニコミ新聞・ホームページで好き勝手にヨタを飛ばしていれば良い。それ
ならば(目にする機会があれば)面白く笑い飛ばすだけで済ませてあげた
い。ただし、マスメディアに顔を見せたときは、「無理にでも駆逐せよ」とま
で言論弾圧を求めるつもりはないが、厳しい批判と(場合によっては)嘲笑
によりタカ鼻をへし折られることは覚悟すべきであろう。共産党式批判言論
術をパクることを一種のアイロニカルな手法としているのであれば、それは
それで誉める余地がある。しかし、アイロニーが伝わるように、ギャグの勉
強もしたほうが良いのではなかろうか。
論理性の面でひとこと言わせてもらえば、新保守の論客はもともと空疎
な礎の上に巨塔を築こうと四苦八苦しているため、一見、整った文章を書
いても論理破綻をきたしているものが目立つ。事実を並べ立てても、部分
的批判論を磨いても、つまるところは「日本主義」とも呼ぶべき感情論に立
脚せざるをえないため、簡単な足払いでガラガラと崩れ落ちてしまうので
ある(この辺は、宗教系の過激な社会啓蒙書やオカルト本にも似ている)。
●●●●●● ●●●●●●
私たちは家畜化された国民である以前に、自分の頭でものを考える「市
民」であり「個人」である。卑近だろうが何だろうが、個に立脚した生活以外
はありえない。また、国家などは遙かに飛び越えてインターナショナルな
存在としての個を意識せざるをえない時代でもある。新保守勢力が振りか
ざす「国家」「国体」という観念は、虚ろな理想的響きをもって衆愚化を促進
する。大宅壮一の時代とはやや異なり、現在は「新保守すなわち一億総
白痴化の元凶」と言えるだろう。たとえば、オルテガに頼って「民主主義否
定」を強弁する論客がいる。民主主義にはたしかに衆愚化の危険性も(シ
ステム上の特性として)ある。しかしそれが実現してしまうのは、民主主義
の中で生存を許されている新保守主義論客のような愚か者が、ゴミ言説を
吐き散らし、市民社会に「夢の島」を造成してしまう時である。
かつての自民党は、間接的にではあるが、市民生活への利益誘導も実
現させていた(高度成長に便乗した無能政策ばかりで公正・公平とは言い
難いまでも、おこぼれが弱者に回ってきたという面がある)。要するに自民
党のボロが出にくい時代もあったということである。
現在では、米国の圧力、情報革命、資本主義の世界拡散など様々な理
由から、旧来の自民党政策が機能不全を起こしているのは明らかである
(上意下達型の中央集権システムによる利益収奪と、再配分にもならない
無計画なバラマキ)。政経両面でまともなイニシアチブを取れないものだ
から、歴史認識だの国家原理だの、妙なところに拘泥する新保守主義を
「錦の御旗」に掲げようとする連中が現れる。具体策に欠ける人間が感情
論に訴えているのである。このような、政治家として完全に無能な人間が、
日本政治の中枢に存在することを、私たちは注視すべきであり、選挙のた
びに糾弾していく必要がある。
●●●●●● ●●●●●●
以上のことは、私の私自身に対する反省も含んでいる。私もまた、八十
年代末から九十年代初頭の世界的イデオロギー転換騒動の熱狂に浮か
されてしまったクチである(当時のバブル経済に関しては、その出涸らしを
啜ることもできなかったが)。新保守系の言論を喜んで読んだ時期もある。
「やはり社会主義はダメだな」と独り合点したこともある(そのような新保守
の洗脳から数年でで抜け出せたのが、自分にとっては幸いであった)。
小学校高学年あたりから現在までの自分を振り返ると、各々のタイムス
パンは異なるが、大雑把には「政治や思想を知らぬ気分的右翼→イデオ
ロギー左翼→中立(思想や哲学に飽きた時期)→ダマされて新保守支持
(およそ五、六年前)→ハッと目覚めて市民社会の意味を問い直し、左翼
支持の中立的立場」と変遷している。恥ずかしながら流行に影響されてい
る面も素直に認める。しかし、現在の新保守に対する私の批判は、一種の
脱構築的営みを経て志向されている点を強調しておきたい(ガチガチの極
左でなくても、新保守主義を敵視する理由は充分にあるということ)。
現時点において、新保守主義は必要悪としてさえ認められぬ、切り捨て
るべき対象になり下がっている。「左翼の過去バッシング」や「左翼の実績
までも歪曲して真実らしく披瀝することでクソミソ一緒に野次り倒すこと」し
か芸のない新保守勢力の内実に、多くの人が早く気づいてほしいと願う。
すでに気づいて食傷を起こしている人が多いのではないかとも思う。
あなたがたの日常生活に、新保守的言説が何を与えてくれるだろうか。
私たちは「大きな物語」の具現化など望んでいない。新保守系の論客や政
治活動家の皆様には次のようにお願いしたい。どうかお揃いで童話作家
(SF小説家)を目指してください(童話やSFのプロの方々へは失礼をお詫
びします)。ただし、フィクションとして面白い作品を仕上げる実力をお持ち
かどうかは知りませんし、皆様が精魂込めて芸術化なさった「壮大な物
語」を味読する気にもなれません。話題の娯楽小説や文学作品以外に皆
様の作品を買うだけの経済的余裕もありません。
せせこましい生活で良い。それをいかに維持するか。自分で気づくだけ
の少しの発展に(いささか自己中心的な)喜びを見いだしたい。そのために
私たちは自分の頭で考え、自分の責任において行動するしかない。市民
のレベルで(セコイと言われようが何と言われようが)最低限の生活水準を
「物」と「質」の両面で考えていくという意味で、左翼に少しばかり期待す
る。
新保守主義に望めることは何もない。いっそのこと、完全なアメリカ型社
会を志向する思想と具体策で固めていただきたい(天皇制護持などは論
外である)。それならば存在を認めてやれなくもない。
「市民に視点を置くこと」が、小渕首相のイベント好きや学校訪問と同義で
ないということを、賢明な市民は気づいているはずである。ちなみに、小渕
氏は首相になる前、靖国神社の公式参拝を推進する議員会合の旗振り役
であった。防衛論議というか軍事関係のヨタ話もお好みらしい。自衛隊を
閲兵するときだけ目がランランと輝いているように感じたのは私だけだろう
か。あの訴求力の乏しい笑顔とは裏腹に、反動的野心を宿した人物である
ことを忘れてはならない。北朝鮮の現指導者と同じく、兵器や軍隊をオモ
チャのように操ることを夢見るような、政治家としては不気味な童心を、私
は小渕氏の表情の裏側に見てしまうのである。政策面で無能な政治家が
イベント性と事大主義と「大きな物語」に走るのは世の習いである。その意
味でなら、小渕首相は実に矮小で人畜無害であるかもしれないと、少しだ
け誉めておいても良いかもしれない。
新保守主義の実体を見抜くことは、自民党系保守政党の実体を知ること
でもある。組織票頼みで誰とでも寝たがり、実弾攻勢やチンピラ利用の選
挙妨害もいとわず、あげくの果てに、市民のメシ一粒にもつながらぬ「大き
な物語」を吐き散らしている新保守論客を、保守ならぬ保身のために取り
込もうとする。このような腐敗政党の息の根を止めることは、私たち有権者
一人一人の義務であると言える。
本来の社会主義が「硬直した共産主義」とは別のところにあるのと同様
に、本来の自由主義は、その名前ばかりを叫び続ける新保守の連中から
全くかけ離れた漂流物であることを、特に日本人は認識すべきである。た
とえば、自由党議員一人一人の言説を検討してみれば良い。「自由」の本
義からすれば即刻放逐されるべき人物が、数合わせのために命脈を保っ
ているのである。靖国神社参拝と天皇制護持を標榜する人物が自由主義
者と言えるだろうか。これと同様の偏向を見せている「自由主義史観」の
「自由」とは一体何であろうか。あの連中は、「自由」という人間にとって最
も大切な言葉をオモチャにしている。彼らの左翼批判言説が見苦しいのも
当然といえば当然である。
これ以上、新保守勢力の虚偽を放置してはならない。国政選挙におい
て、今やその力を自覚しつつある浮動層は、自民党だけでなく些少な勢力
維持に汲々として自民党と寝たがる諸政党に対しても、彼らの脳天を割る
ために一人一人の投票権を生かすべきである。そのためにも、自己反省
後の社民党(旧社会党勢力)と共産党には一層の努力を望む。共産党は
地方選挙で勢力を拡大しつつある。しかしソフト・イメージ作りばかりに執
着して、かつての社会党のように足元を掬われないように、そろそろ注意
すべき時であろう。
ぶっ殺してやりたいほどの文句→peperope@geocities.co.jp
帰りたいひと→◎