観応3年2月、京都にセンセーショナルなニュースが飛び込んだ。
幕府で政治を担っていた副将軍、足利直義が鎌倉で死んだ・・・・
「事に触れたる悲しみ耳に満ちて心を傷ましめければ、今は憂き世の中にながらへても、よしや命を何かはせんと思ふべき。わが身さへ用無き物に嘆きたまひけるが、いく程なくその年の観応三年王辰二月二十六日に、忽ちに死去したまひけり。」
『太平記』は直義の死をこう述べる。
簡単にいうと、こういうことだ。
「こんな世の中に生きていても仕方ないな、もう仕方ないのだ」と直義は嘆いていたところ、急に死んでしまったよ」
直義は従う侍が一人もなく、「篭のごとくなる屋形の荒れて久しきに」閉じこめられているわけで、それも嘆いているのである。
『太平記』は直義の死をしっかりと
「今年の春は禅門また怨敵のために毒を呑みて失せたまひけるこそ哀れなれ」
と記し、「禅門」(直義)は「怨敵」(ここでは尊氏を指すだろう)に毒殺されましたと言っている。
ところが当時の歴史史料のいずれにも、直義が「毒殺」されたという記述はないのである。当時の公家の日記『園太暦』は以下のように記す。
「(前略)今日聞、直義入道早世必定云々(後略)」
これは建武三年閏二月七日の記事で、直義が死んで2週間弱が経ってから、直義の死が京に伝わったことが伺える。
『太平記』は物語であるから、直義の死を劇的に作り替えた可能性もあり得る。また、直義の死が急であったことから、当時「直義毒殺」の風潮が流れかもしれない。
尊氏はその御教書上において、「惠源入道因逆心」と記している。これは尊氏が直義をはっきりと「敵対」した人間とみなし、そのような態度で接していたことを示していると感じる。また、直義の力は確かに強大で、失脚させるだけではどうにもならなかったのであるから、尊氏が何らかの手を下した可能性はある。
また尊氏の息・義詮は、父・尊氏の死後、突然直義を天竜寺側の祠に大明神として祀りあげている。これは直義が不遇の死を遂げ、その祟りを恐れたためであろう。こうしたことからも直義の死が病死などの自然死でなかった可能性は高くなる。
しかし従う侍が一人もない荒れ果てた館に幽閉することはなかったろうし、この文面は明らかに『太平記』の虚構である。もしかすると毒殺も『太平記』が作り上げた物語の一端で、実際はもっと違ったものであったかもしれない。
それを明らかにしている資料は、今のところ見つかっていない……