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足利直義ってどんな人物? |
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直義は、政治家としても文学者としても活躍した武将です。 少しは直義に魅力を感じてもらえるとうれしいです。 ちなみに以下の文章、卒業論文からの抜粋なので、かなり「固い」ですが、お許しを・・・・ 足利幕府と直義の執政 『太平記』における直義像を見る前に、少々直義の歴史的評価を確かめてみたい。 直義の歴史的評価といえば、やはり政治面での活躍である。兄・尊氏との二頭政治は歴史的にも『太平記』においても認められるところだ。この二頭政治においては、直義は安堵方・引付方・禅律方・官途奉行・問注所を任された。特に土地政策は直義に一任されていた。佐藤進一氏は尊氏は「人的支配権」を、直義は「領域支配権」を握ったと述べている。(中公文庫『日本の歴史9』) このことを『南北朝遺文』所収の文書から見てみると、暦応元年(一三三八)より、直義発行の書状の種類が一変する。この年は尊氏が征夷大将軍となり、足利幕府が正式に樹立したと見なされる年だ。その年を区切りとして、それまで大半を占めていた軍勢催促状・感状が減り、裁許状が目立ち始める。はっきりと軍事は将軍と高師直、政事は直義、と二分されていることが分かる。 また、建武三年(一三三六)制定の「建武式目」は八人の明法家が尊氏の諮問に答える形となっているが、ここにははっきりと直義の政治理念が見受けられる。まず鎌倉幕府の善政を見習い義時・泰時の政事を範とすることを表明し、婆沙羅の厳制や賄賂の禁止、第十一条では殿中・内外での進物は返すようにと定めている。 直義は八朔の行事においてさえ決して贈り物を受け取らなかった。(「光明院宸記」貞和元年八月一日条・『大日本資料』所収)また田楽は政道の妨げになると言って好まず、この姿勢を初代鎌倉公方・基氏が見習い終生田楽を観ることがなかったともある。(「空華日用工夫集」・『大日本資料』所収)「建武式目」はまさに直義のポリシーであり、直義の政治思想が影響しているのである。直義は足利幕府の基礎を築いたと言える。 しかし直義の政治は理想的で潔癖すぎた。 この厳政と「荘園的勢力」を重視する直義の政策は、当時力をつけ始めていた「反荘園的勢力(畿内・近国)の在地領主層」には受け入れられなかった。荘園領主層を重んじる直義の政策はもちろん旧幕府に習ったものであるが、「鎌倉殿と御家人」といった主従関係が崩れ始めていた時代に直義のやり方は不適応であった。利害関係で幕府と結ばれていた当時の守護を、乱れやすい土地制度を、直義はどうにかして統括しようと厳政を布く。在地領主層はますます反発する。 だが、直義はここで妥協するような柔軟性のある人物ではなかった。暦応二、三年(一三三九、四〇)、康永二、三年(一三四三、四四)、貞和二年(一三四六)と守護以下の武士に対して、半済その他非法の禁止令を発布している。(佐藤進一氏『日本の歴史9』「直義と師直」参照)このように直義は生涯半済制度を認めていないのである。 対して恩賞方・政所・侍所を直轄する将軍尊氏や高師直は、戦力として在地領主層を重視する。旧幕府体制を規範とした直義は荘園領主層を重んじる。こうして守護の選任等で対立の要素が生じ、観応擾乱へと事は進んでいく。直義の失脚と毒殺は当然起こるべきものであった。 しかし南北朝勢力が入り乱れ、混乱し複雑極まりない時代において、公武関係・寺社関係といった難題に取り組んだのは足利直義、その人である。観応擾乱期においてさえ直義は南北朝統合を図り、南朝の中心人物・北畠親房と会談を試みたりと積極的に南朝勢力へ働きかけている。こうした直義の姿勢は評価すべきである。 鳴 直義智計殊絶千人。其挫鋭撃強之功 冠於群雄。以故幕下委政柄 海内之事系 於公一人。夫誅頼遠以令人知有王室之尊。 これは『天竜寺紀年考略』の貞和五年三月直義出家の条の一文で、直義評価の一つである。ここでは直義の執政を褒め称えている。その他様々な文献に直義の評価が記されているが、その大半に執政官足利直義の姿が窺える。礼節を重んじる直義の姿勢は、確かに公家・寺社関係には評価されていた。 直義の文学的性格と信仰 直義は和歌・連歌といった文学面、そして信仰においても評価される。 『尊卑分脈』には「新拾遺和歌集」の作者ともある。和歌・連歌・漢詩等をたしなみ、貞和二年三月十三日には醍醐寺において和漢会を、同年十月三日には邸宅に尊氏や賢俊大僧正等を招いて詩歌の会を、さらに十一月十八日には尊氏と天竜寺に参詣し、公家を交えて和漢会や和歌会を催している。このような直義の文人的な性格は公家・公家衆らに評価された。 さて、直義の現存する和歌を調べた範囲であげてみると『新千載和歌集』五首、『風雅和歌集』十首、『新後拾遺和歌集』二首、『新続古今和歌集』五首、『新拾遺和歌集』三首、『藤葉和歌集』五首(うち二首は『新拾遺集』にもある)、「高野山金剛三昧院短冊」十二首、「観世音法楽和歌」七首、奉納和歌二首である。『太平記』中にも玄恵法印に贈った歌として一首あげられている。武人として数は決して少なくはない。 直義は和歌もたしなんだが、連歌を特に好んだらしい。連歌は『莵玖波集』に九首見受けられる。なおこの『莵玖波集』から貞和四年六月に尊氏を招いた連歌会、そして貞和五年六月には和漢会を邸宅にて催していることも分かる。 『難太平記』にも直義の文学面を表す一文がある。 家によりて身を云べしと努々思ふべから ず。文道をたしなみて御代の御助と なり て、其徳によりて立身すべきと朝夕錦小 路殿仰有き このような直義の文学的な態度は政治面にも現れている。 それに関して興味深い出来事がある。直義は武の時代の後に文の時代がくるべきだという思いから、建武五年の北朝改元の際「文」を新年号に用いるべきだと提言したのである。また、儒学家として高名な日野有範という人物を禅律方の長官に起用している。この有範は、直冬の学問始の師読にあてられたりと直義との繋がりもある。(以上『日本の歴史9』参照) また『夢中問答集』からは直義の信仰とそれに対する姿勢が窺える。その知識も相当なものである。 直義は五山十刹の格付けを行ったり、貞和元年(一三四一)には六六カ国の国ごとに安国寺・利生塔を建てる方針を明らかにしたりする。安国寺・利生塔は元弘以来の戦没者の霊をなぐさめる趣旨であったとも言われるが、こうした寺院制度も直義の文治政治の一端として挙げられる。 |