強弓の武将・源為朝 
タイトル 為朝の生涯

 源為義の八男。鎮西八郎と称される。粗暴であった為、一時九州へ追放されるが、保元の乱の際に京へ呼び戻される
 強弓であり、身長が7尺(2m10cm程度)あったと『保元物語』に記される。
 その弓の強さは、鎧を突き破る程。清盛のことを「清盛なんどへろへろ矢」と嘲笑するなとの逸話もある。
 保元の乱においては、父・為義と共に崇徳上皇側へと参じている。なお、居母兄・義朝は後白河天皇側である。
 争乱の終結後はその強弓を恐れられ、肩の筋を切られた状態で伊豆・大島へ流されている。しかし大島に近島を制服、武威を高めていった。
 1170年(嘉応2)、伊豆国領主・狩野茂光の率いる追討軍に攻められ、自刃した。享年は31歳であったと伝えられる。

タイトル  八丈島 為朝伝説
               
 狩野茂光に攻められた為朝は、三宅島を経て八丈島に逃れる。
 為朝は八丈の地で、七郎三長女(ひちちょうさぼうにょこ)との間に太郎・次郎と双子をもうけたという。当時、男女が八丈島と青ヶ島に分かれて住むことになっていた。為朝はその風習を破ったのである。これにより、八丈島に男女が共に住むようになったと言われている。
 なお、島民はこの為朝を讃え、あがめ奉った。そして島を「八郎島」と呼ぶようになる。「八郎」は島の方言で「ハッチョウ」、八丈島の名がここから起こったのだという説もある。
 八丈島に伝わる、為朝の逸話を幾つかあげてみる。
 
@ 鬼の石
 為朝が鬼を退治して大岩の下に生き埋めにする。彼は「この石を通行人が爪で削って、桃の実ほどの大きさになったら助けてやろう」と言ったという。

A 大阪堀切
 為朝が弓で射通して出来たと言われる窪地。八丈島第一の難所である。
 
 様々な伝説を残す為朝だが、八丈小島を本拠とし、勢力をのばしていったようである。
 しかし1173年(承安3)8月15日、為朝は再度本土からの追討の軍を迎える。強弓に大鏑矢をつがえて放ち奮戦するが、力尽き自刃する。享年35歳と伝えられる。

*現在、八丈島本土には「為朝神社」があり、強弓の武将を祀っている。なお、八丈小島にもあるのだが、私たちは見つけられなかった。