足利基氏と鎌倉府
 ー 直義の後継と第2の骨肉の争い? ー

「仏法政道、その他管弦・諸伎藝好まないものはなかったが、世俗が好む田楽は生涯一度も見なかった。なぜなら伯父大休寺殿が戯場を愛さなかったからで、政道の妨げになるからである」
(『大日本史料』所収「空華日用工夫集」より)

 足利基氏の人物像を知る史料として、上記の記述は大変有名である。
 基氏は叔父の直義を尊敬し、叔父が見なかったからと、田楽を一生見なかったという逸話・・・
 それだけではなく、基氏が鎌倉で行った政治は、直義のそれとよく似通っている。直義はどのような人物であり、基氏にどのような影響を与えたのだろうか。推論を交えて述べてみたい。

 1349年8月14日、足利基氏は叔父・足利直義の養子をなる。その背景と流れを記してみる。

1349年  4月11日  足利直冬 長門探題となる   
  閏6月 2日  直義と高師直の対立
  閏6月 5日  尊氏、直義邸を訪れる
  閏6月15日  師直を執事から罷免
   8月12日  師直の軍勢が直義邸前に集結
   8月14日  直義、政務より退く

 基氏は政務から退いた叔父の養子となり、9月に上洛した義詮にかわって鎌倉に下向する。そして直義は義詮に自邸を明け渡し、後は細川顕氏の邸に移り12月に出家する。
 その当時の尊氏の姿勢は、以下の文書によく窺える。

  1349年9月28日付 阿蘇文書
    直冬に出家を命じ、聞かなければ九州諸侯に直冬討伐を命ずる

 直義には当時、実子がなかった。直冬は直義の養子とはいえ、将軍・尊氏の実子である。1349年当時では、直義の嫡子として、副将軍の職を継げるのは、直冬である。また、直冬は武芸に秀で、諸将の評判もよかったらしい。
 直冬が副将軍となれば、茫洋とした義詮ではたちうちできない。尊氏はそう思ったのではないか。なぜなら、

1 義詮の力が、直義を執務から退けただけでは到底直義に及ばないこと

2 鎌倉が、建武新政時に直義が成良親王の執事として下向した折から直義の勢力下にあること
3 幕府内部が完全な分裂状態にあること

のような状態である。
 そこで自分の実子たる基氏を直義の養子にし、基氏を直義の嫡子として、直冬が表舞台に登場するのを阻止した・・・考えすぎだろうか?

 1352年2月、直義が鎌倉で毒殺されると、執事の上杉憲顕は南朝方の新田義興らと手を結ぶ。
 憲顕は直義派の勇将、将軍・尊氏の従兄弟でもある。薩田山の合戦においても直義側の武将として名が見受けられるのだが、基氏は尊氏と共にこれを撃破する。

 しかし代わって執事となったのは畠山国清であった。
 国清は当初直義に味方していたものの、途中尊氏に従うようになり、直義を薩田山に攻めて敗走させている。直義派勢力がまだ強い鎌倉において、その立場は微妙であったと推測されるが、それは現在調査中である。
 国清は1359年に関東勢を率いて上洛、河内などで南朝方と戦うものの結果をあげられず、かえって南朝方勢力を拡大させてしまう。1363年にはその責任と鎌倉における専制により諸将の反発から、基氏により伊豆に追討される。
 国清は基氏に降伏するものの、基氏はこれを更に討ち狙い、身の危険を感じた国清は南朝方へ降伏しようとする。しかしながら南朝方はこれを受け入れない。『太平記』は国清が物乞いをしつつ生きていたが、最期はのたれ死にしたと記す。
 憲顕は国清に代わり、鎌倉公方執事に復帰する。立証は出来ないが、基氏は将軍位を狙っていたとする論がある。将軍位を狙う為に基氏は、直義派の第一人者たる憲顕を執事に復帰、南朝方を帰属(確かに基氏は新田義興の勢力を帰属させている)、そして将軍の勢力を鎌倉から除き、直義派を鎌倉に結集させるだろう。

 以上の流れに、国清の追討や憲顕の執事復帰、そして基氏が叔父・直義を尊敬しそれに習おうとした姿勢など、全てが当てはまる。観応擾乱時期、基氏は父と叔父の争いを嘆き、安房に逃れていた。義詮の政治的能力の低さと実父・尊氏の溺愛ぶりを遠い鎌倉の地から人づてに聞いた基氏は、叔父の死に疑問を抱いたのかもしれない。
 書状等、確たるものが見受けられない為、推論に過ぎないのであるが、骨肉の争いは尊氏・直義兄弟に収まらず、義詮・基氏兄弟の間にも起こり得たのではないかと感じる。
 ・・・いや、実際、確執はあったのではないだろうか・・・・表面化しなかっただけで・・・


 
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