足利直義派の武将たち

タイトル 上杉憲顕   直義養子・足利基氏に仕えた関東管領〜
            <1306(徳治元年)〜1368(応安元年)>

 関東管領・上杉氏の祖。足利尊氏・直義の従兄弟(母方)である。
 1340年(暦応3)、高師冬と共に鎌倉府の執事に任じられ、足利義詮に補佐、直義失脚後、義詮に代わって東下した基氏も同じく補佐する。
 1350年(観応元)に尊氏・直義の対立が激化、その後の憲顕の行動は以下の通りである。

  1350(観応元)12   甲斐国須沢城に高師冬を攻撃、足利基氏を奪う
  1351(観応2)11.5  尊氏派・小笠原政長、同伊豆守と佐与中山で戦う
                   *佐与中山:現静岡県静岡市
            11.15 直義、鎌倉入り
            11.30 尊氏軍、薩垂山に陣する。石塔頼房と共に攻囲。
  1352(観応3)2.26  直義、鎌倉・延福寺にて毒殺
            閏2・8 尊氏に帰順、鎌倉執事に就任

 一度は帰順したものの、憲顕は南朝方の新田義興・義宗らと結び、反・尊氏の姿勢をとり、追討される。信濃国へ逃れ、ここで剃髪して道昌と名乗った彼は、10年を北国で過ごすこととなる。
 1362年(貞治元)、畠山国清を追放した足利基氏(鎌倉公方)に求められ、再び関東管領に任じられる。関東管領・上杉氏はここに起こる。
 1368年(応安元)には、足利義満嗣立の祝賀に列する為に上洛している。
 しかし同年9月19日、新田義宗・義治らの鎮圧の中、陣中で没する。享年62。
伊豆奈古屋の国清寺に葬られる。

*管理者談
尊氏・義詮の死後に上洛すること、彼が仕えた基氏は尊氏の息子だが、直義の養子で自身が叔父・直義を尊敬していたと語っていることなど、反尊氏の感情は、憲顕の中から消えなかったようにも思われる。

タイトル  足利基氏「伯父大休寺殿 戯場を愛さず」〜
               <1340(暦応3年)〜1367(貞治6年)>

 1349年(貞和5)、足利直義は鎌倉に居る甥・義詮に不安を抱き、その弟である基氏を鎌倉に東下させた。鎌倉府では直義派の上杉憲顕、尊氏派の高師冬が執事を勤めていたが、憲顕の権力が勝っていた。鎌倉府は直義が築いたもので、当時の鎌倉は直義の権力下にあったのである。
 直義の死後、憲顕が南朝方と結んだ故に武蔵野合戦にて追討するが、尊氏の死後には直義の政治思想に影響を受け、憲顕を復任させている。憲顕は基氏の期待に応え、宇都宮氏綱らの反乱を鎮圧し、鎌倉府の支配体制を確立させている。
 基氏の逸話に次のようなものがある。
 鎌倉公方足利氏満(基氏息)が、父は何が好きだったかと義堂周信に尋ねた。すると周信は次のように答える。
 「仏法政道、その他管弦・諸伎藝好まないものはなかったが、世俗が好む田楽は生涯一度も見なかった。なぜなら伯父大休寺殿が戯場を愛さなかったからで、政道の妨げになるからである」(『大日本史料』所収「空華日用工夫集」より)
 直義が尊氏の田楽好きを諫めた逸話も有名である。基氏は、伯父であり養父である直義の執政体制や考えを高く評価し、見習ったのである。
 1367年(貞治6)4月26日、基氏は28歳で病没した。墓所は鎌倉・瑞泉寺である。

*管理者談
 基氏の政治的能力は兄・義詮よりはるかに勝っている。その兄弟関係、尊氏・直義と似通った部分があるのではないか。