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足利直義派の武将たち 2 |
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| 時間があまりなくて調べられていません。概要的なことだけをまず! <生没年不詳> 歴史上の初出は新田義貞の鎌倉攻めである。 <生没年不詳> 母は越前局と言われる。尊氏の庶子、幼名は新熊野丸(いまくまのまる)。 尊氏が実子であることを認めず、鎌倉幕府時代は東勝寺の渇食となる。尊氏が将軍となった折りに上洛するが、尊氏が会わず、直義が養子として「直冬」と名乗らせた。 貞和5年(1349)、長門探題として備後に下ったが、養父・直義と高師直の対立が激化、直義が失脚すると、襲撃されて肥後に逃れた。 九州においては小弐頼尚と手を結び、反尊氏勢力として名を高めていった。尊氏はこれを撃とうと下向を始めるが、この隙をついて直義が大和へ逃れ、挙兵することとなる。 直義死後、一度は九州探題・一色範氏に追われて長門へ移るが、山名時氏と結び南朝方となって東上、尊氏と激しく対立した。 そして文和4年(1355)正月、桃井直常らと共に京へと入る。しかし3月12日には尊氏・義詮勢力に破れて京から逃れ、中国地方へと逃れている。 その後、貞治2年(1363)には細川頼之の軍勢に破れ、8月頃に岩見に逃れた後の行動は明らかではない。 *管理者談 『太平記』は直冬をあくまで「尊氏実子」と取り扱う。 実子故に将軍方に破れるという因果関係を成り立たせる為かな・…とふと考えているのだが、まとめるに至っていない。 |
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