足利直義派の武将たち 2
 時間があまりなくて調べられていません。概要的なことだけをまず!

タイトル 桃井直常   直義の右腕〜
            <生没年不詳>

 歴史上の初出は新田義貞の鎌倉攻めである。
 その後、建武4年(1337)12月、北畠顕家が奥州から攻め上って来た際、義詮に従ってこれと戦っている。青野原や南都でも奮戦、功績を挙げている。
 観応擾乱期、直義派の中心人物として活躍している。
畠山国清が尊氏に下ったのも、彼が直義に和平を申し入れたところ、桃井が反対し、直義が桃井に賛同したからだと言われている。
 その他にも、打出浜合戦(1351年)後、直義を尋ねようとした桃井が要撃される事件が起きていたり、薩垂山合戦においては、尊氏の後方を一万余騎で遮断するなど、観応擾乱期の記事が目立つ。
 直義の死後は南朝方に下り、関東・北陸・京都などでしばしば反尊氏の兵を挙げている。しかしながらいつしか関東管領足利基氏の庇護に入っている。その過程は未だ不明である。
 貞治6年(1367)の基氏の死により出家、幕府に復帰した。しかし翌年2月には越中に戻り、反幕府勢力として再起する。これを斯波義将が討ち、桃井は破れて松倉城に逃れるが、応安2年(1369)2月には再び越中で挙兵している。
 その挙兵で能登に攻め入ったところまでは史料に残るが、その最後は未だ知られていない。

*管理者談
直義死後に基氏の庇護に入るところなど、上杉憲顕とよく似ている。
一度は幕府に帰順するが、再度、反幕府勢力となるところなどは、大変興味深い人物であるが、史料が少ないのが残念である。

タイトル  足利直冬尊氏の実子 直義の養子〜
               <生没年不詳>

 母は越前局と言われる。尊氏の庶子、幼名は新熊野丸(いまくまのまる)。
 尊氏が実子であることを認めず、鎌倉幕府時代は東勝寺の渇食となる。尊氏が将軍となった折りに上洛するが、尊氏が会わず、直義が養子として「直冬」と名乗らせた。
 貞和5年(1349)、長門探題として備後に下ったが、養父・直義と高師直の対立が激化、直義が失脚すると、襲撃されて肥後に逃れた。
 九州においては
小弐頼尚と手を結び、反尊氏勢力として名を高めていった。尊氏はこれを撃とうと下向を始めるが、この隙をついて直義が大和へ逃れ、挙兵することとなる。
 直義死後、一度は九州探題・一色範氏に追われて長門へ移るが、山名時氏と結び南朝方となって東上、尊氏と激しく対立した。
 そして文和4年(1355)正月、桃井直常らと共に京へと入る。しかし3月12日には尊氏・義詮勢力に破れて京から逃れ、中国地方へと逃れている。
 その後、貞治2年(1363)には細川頼
之の軍勢に破れ、8月頃に岩見に逃れた後の行動は明らかではない。

 
*管理者談
 『太平記』は直冬をあくまで「尊氏実子」と取り扱う。
 実子故に将軍方に破れるという因果関係を成り立たせる為かな・…とふと考えているのだが、まとめるに至っていない。