もう1つの「太平記」 〜護良親王伝説〜

源義経が蝦夷に渡り、中国大陸に渡って、チンギス・ハーンになった…なんていう伝説がありますよね。
 『太平記』でブラコンきつい足利直義に殺された「護良親王」。
 彼にも「実は生きていたんだよー」という伝説があります。
『護良親王の伝説』(山地悠一郎著、近藤出版社)がオススメ史料です
『太平記』はもう、しつっこいくらいに護良親王暗殺に直義を関連づけるんですが、護良親王伝説には直義がほとんど登場しません。伝説で重要な人物は、あくまで護良親王当人と、暗殺者の淵辺義博なんですヨ。
 淵辺義博は、建武二年(1335)7月24日、手越河原(現:静岡県静岡市の安倍川河川敷)で戦死しています。直義が危うく見えた時、ただ一騎踏みとどまって戦死した、忠臣なんです。
神奈川県相模原市淵野辺には護良親王伝説が伝わっています。町田に住んでいた時に、JR横浜線「淵野辺駅」で下車して、伝説関連の史跡を巡ったのでご紹介します!
 暦応年間(1338〜1342)、淵辺義博が境川沿いにあった竜池に棲む大蛇を退治、大蛇を龍像寺(神奈川県淵野辺市)に埋めたと伝えられています。そのお寺は今もちゃあんとあります。淵野辺駅からバスで20分くらいです。
 ・・・歩けないことはないですが(私は帰りに歩きました)、結構つらいです。
 龍像寺から歩いて五分程の所には、親王を逃れさせる際、義博が妻子と縁を切ったといわれる「縁切榎」「別れ橋」があります。
 これが「縁切榎」なんだそうです。
 ちゃんと看板とかもあります。実はここ、十字路なんです。興味深いですよね。十字路って何となく「別れ」のイメージがつよいじゃないですか。そういったところをちゃんと、夫婦の別れの場所にしている・・・
 南北朝時代には「街道辻」っていう概念、あったんでしょうかねー。個人的にこの伝説がいつ頃できたのか、推測出来うる点なんじゃないかなって思います。
 妻子と縁をきってまで、親王を逃れさせた・・・本当なら淵辺は「逆臣」ではなく「忠臣」ですよね。明治時代以降、南朝が正統とされた時、この地の方たちはどう思われたでしょう?
「淵辺義博は実は忠臣だったかもしれない」
・・・そう信じたかったと思います。
 ちなみに足利市出身の方に聞いたところ、戦時中は大変だったそうです。「逆臣の出身の土地じゃないか」とかなり言われたのだとか・・・
 足利氏は幕府も開いてますし、言い逃れできないところがあるでしょうが、淵野辺の方々はこの伝説を信じて、「実は」って思われたのかもしれませんね・・・。
 淵辺義博は、ちゃんと主君たる直義と共に戦って戦死したんですから、立派な武将であったとは思います。
石巻地方に伝わる護良親王伝説では、義博は直義の命を受けたものの、親王を殺さずに鎌倉由比ヶ浜から船出し、陸前国牡鹿群石巻に親王を逃れさせています。これが縁切榎などの由来となった、または石巻の伝説が淵野辺の伝説を元にしたのでしょう。
 そうそう、もう一つ、護良親王に関する伝説には「ひなづる伝説」があります。
 これは石巻・淵野辺の護良親王伝説と相反し、護良親王が淵辺義博によって暗殺されたという、『太平記』やその他史書の記述に基づいています。
 親王の世話をしていた「雛鶴姫」が首を抱えて京に戻ろうとし、秋山の無生野で産気づきます。しかし当地の住民は姫を助けようとはせず、難産と寒さの為、雛鶴姫は皇子「綴連王」を出産して亡くなってしまうんです。
 この辺りを「無生野」と呼ぶのは、住民が無常にも姫を救わなかったという、この伝説からきてますし、秋山村から都留市にかけた峠を「雛鶴峠」と呼び、雛鶴神社もあります。実は、親王の首とされるミイラも保存されているんです。
 

あ、淵野辺には淵野義弘の館跡もあります。淵野辺駅からバスで15分くらいですかね…。私は龍像寺からひたすら歩いてみました。1時間ちょっとでたどり着いてます。何ていうバス停だったか忘れちゃいましたが、閑静な住宅街です。
 山に囲まれてて、確か水道局があったかなー。
 水道局のところを右にいくと、ちょっと坂があるんですよ。
 住宅街をひたすら歩くと、坂を上りきった、とあるアパートの裏手にありました。
 ちっちゃな案内板が出てるんですが、それでも何人も地元の人に聞いてまわって、知らないと言われ続けました。
 バス停から歩けば5分くらいのところにあるのに、見つけるのに1時間くらいかかりました。

 いろいろな史料は、淵野辺駅前の図書館にありました。司書さんにお願いして、関連資料をひっぱりだしてもらいました。淵野辺市史にもきちんと、伝説の記載はあったと思います。地元出版の本も何冊かありました。



ちなみに足利直義には「実は生きていた」伝説はありません…残念!


戻る