1,人質になった国民に借用書を書かせた外務省

2,「独立法人化、教員削減など、日本の大学改革は、大学が新しい知識を創造する機関としていかに運営されるべきかという議論になっていない。小手先の改革論だ」

3,「入学が大変なのが日本、卒業が大変なのがアメリカ」

4,生涯教育究プログラムとインターネットさえあればもう日本に大学は必要ない!

5,日本の大学の学力低下

6,日本の選択制とは対照的に「ラテン語」「ギリシャ語」まで必修・敗戦国が分割後も守り抜いた独自のエリート育成法を支える「教養主義」

7,日本の「ゆとりの教育」とは全く反対のベクトル「懲罰」「数学」「パソコン」で生徒の自信と学力を取り戻した「チャーター校」の成果

8,1〜2年の準備級を経ても約8%の進級率!「学校歴」ではなく「学問歴」を問う「グランド・ゼコール」の実力主義

9,アメリカ人も舌を巻くソフト開発力はどうやって育てられるのか?「受験戦争を厭わない超エリート教育は「暗記」より「理論」を重視!

10,あらゆる分野のエリートが兵役時代の3年間の「軍隊教育」の中で育てられる

11,過半数の企業が「学力低下」を実感!人気企業の人事部長は学生の「リーダー体験」を見ている

12,外資系企業の採用担当者は言う。

13,世紀最初の成人式は全国各地で荒れた。


人質になった国民に借用書を書かせた外務省(櫻井よし子)(雑誌SAPIO)

 最近ようやく憲法改正論議が出来るようになった背景には、やはり時代の流れがあります。湾岸戦争やガイドラインの議論を通じて、現行憲法があまりにも多くの矛盾を抱えていることが少しずつ見えてきたのです。例えば湾岸戦争のとき、クウェートにいた日本人は、他の国の人たちとともにイラクの捕虜になり、人質となりました。そしてイラクが負けて解放されたとき、各国の軍隊がまっ先に自国民を救いに行きました。アメリカ人はアメリカの、カナダ人はカナダの軍用機で連れて帰ってもらうわけです。ところが自衛隊が行けないために、日本人だけは乗る飛行機がない。しかも外務省は、捕虜になっていたために所持金のない日本人に、当座をしのぐお金を貸し、借用書を書かせたと聞いています。戦争が終結したばかりですから、すぐにどこかの飛行機に乗れるような状況ではありません。カナダの軍用機に乗せてもらったある方が、こんな話をしていました。日本人は飛行機代を気にしていたのに、カナダ政府は飛行機代もホテル代もただにしてくれたばかりか「本当にお気の毒でした。でも、よく耐えて戦ってくれました」と言ってカナダ政府からのお見舞金をくれたというのです。かたや人質になった国民に対して、日本国は、借用書を書けという。これが日本という国家だとその方は心底怒っていました。

 ガイドラインの議論でも、呆れるばかりの問題がありました。朝鮮半島有事の際に、5万人いる日本人をどうやって救助するか。自衛隊の飛行機は紛争地域には行けません。そこで日本政府は、アメリカ軍に頼もうとしました。「日本人を安全なところで自衛隊の飛行機が待っていますから」というわけです。5万人もの日本人を輸送するとなれば、ジャンボ機を使っても100回往復しなければなりません。紛争地域で自国民のためならいざしらず、他国民のためにこんなオペレーションなど不可能ですから、アメリカは即座に断わりました。それでも日本側は斉藤邦彦大使が土下座せんばかりに頼みこんだそうです。その点の目途がつかなければガイドライン法案も宙に浮きかねません。アメリカは表面的にはノーとは言いませんでしたが、もちろんイエスとも言いませんでした。アメリカに実質的に断わられた日本国政府は次にどうしたか。なんと韓国政府に日本人の安全を守るよう頼んだのです。紛争の舞台となり、自分の国を守る戦いで精一杯になっている国に対して、しかもかつて植民地支配をした国が、「悪いけど、助けてほしい」というのはどうしてもスンナリとは受け入れられません。

 アメリカの識者たちが「日本は憲法を改正する時期だ」と言うのも、日本がすでに国家ではなくなったと実質的に見ているからだと思います。一つには、この国は恐れるような軍国主義には決して走らないだろう、そんな気概はなくなったと見くびっていることがあるでしょう。もう一つには、日本がお荷物になってきたということです。自衛隊が何度かPK0に行きましたが、アメリカから聞こえてくる声は「他の国のPKO部隊の負担にならないようにしてほしい」ということです。自衛隊は紛争がないところでなら活動できますが、いざ紛争が起こりそうになったら撤退してしまう。そうすると他の国のPKO部隊がカバーに回らなければならない。他の国の部隊が「お願いだから日本と組ませないでほしい」「お荷物にならないでほしい」と言うのも当然で、いいかげんに自立してほしいというのが正直な気持ちなのでしよう。

 


「独立法人化、教員削減など、日本の大学改革は、大学が新しい知識を創造する機関としていかに運営されるべきかという議論になっていない。小手先の改革論だ」一橋大学教授を辞任し、このたびソニーの社外取締役に就任した中谷厳氏はそう指摘する。日米の大学に学ぴ、教鞭をとった経験から、日本の大学がいま世界標準を得るためには何が必要なのかを語ってもらった。私は学問の世界で日本人の能力そのものが劣っているとは決して思わない。しかし一方で国際的な業績に乏しいことも事実だ。原因は国内の研究の場に、競争原理が働かないからだ。日本の大学は教師も学生も一生懸命勉強しなくてもすむ世界で、社会主義的な超平等主義がはびこっている伏魔殿だと思う。一例を挙げると、まず国立大学では年間の予算配分は東大を頂点として硬直化している。たとえば地方の国立大学で優秀な教授がすばらしい研究計画を立てたとしても、潤沢な研究費が支給される可能性は少ない。しかし東大なら極端な話、何もしなくてもある程度の予算の配分は保証されている。これでは地方で頑張っている研究者は浮かばれない。上の方は安泰で、下は何をやっても報われないというのであれぱ、モラルがさがるのは人の摂理だろう。個々の研究者も研究だけでなくつまらない学内行政の雑務につきあわされている。私もかつて交通委員会というのをやらされていた。これは学校内の自動車の乗り入れを検討するのだという。古典資料整備委員会というのもあった。古典文献の保存について話し合つのである。学内にはそんな委員会が30も50もあって、ひどいときには毎日会議をやらされたりする。そんなものは大学の事務局が担当して、教授は研究と教育に全力を注がせてほしい。これは経済学でいう「比較優位による分業」に反した日本の悪しき「大学自治」の風習だ。

サマーズもキッシンジャーも大学の人材だ!

 若いころハーバードに留学し、講師もして、やはりアメリカの大学システムは優れていると実感した。私が師事した教授はノーベル賞を受賞するほどの大物教授で、秘書やリザーチャー(研究員)が3、4人つき、広い研究室と潤沢な研究費が大学から与えられていた。理由は彼がすこぶる優秀で、スタンフォード大学からの引き抜きを阻止しようと、競争原理が働いたからだ。

 アメリカでは大学から行政や民間への移籍もダイナミックで、サマーズ財務長官は元大学教授だし、キッシンジャーなど大学教授から政府に入り、再び大学に戻っていった。とにかくいい仕事・研究さえしていれば誰かが声をかけてくれるのである。翻って我が国は、私がソニーの社外取締役に就任するために大学教授を辞任せざるを得なかったことからもわかるとおり、ダイナミズムに欠ける。ソニーの取締役会議での経験は実に面白いものだ。自分の研究の一助になれば、と参加したのだが、戦略経営理論など机上の研究でつかめなかったことが、実践に参加することでより深化されていくのがわかる。「生きた教材」は将来研究にも役立つ。私は研究も人材も大いに「産学連携しを進めるべきだと思う。研究体制も我が国は貧弱だ。私は25年間国立大学に勤めて、たったひとりのリザーチャーも雇つことができなかった。調べものは自分でするか、ゼミの学生に手伝ってもらう程度だった。こんな環境で、どうして世界と伍した研究ができるだろうか。研究者のやっていることは新しい知識の創造である。世界中の誰も考えつかなかった学説を考えるには、夜も昼もなく、死にものぐるいで努力しないとできない偉業なのだ。

 アメリカの競争原理を支えているのは、ナショナル・サイエンス・ファンデーション(NSF)という、学外にある第三者機関の評価システムである。ハーバードは私立だが、州立大学でも優秀な教授の引き抜きは日常茶飯事に行なわれている。もしユニークな研究を立ち上げ、NSFに認められると十分な予算がそこから支給される。支給された予算は、たとえば大学に20%だけ納めて、あとは自分の研究費やサラリーに自由に使ってもいい。もっと納めれば授業負担も軽減される。つまり優秀な教授を抱えると大学も潤い、教授も研究に没頭できる環境が出来上がっているわけである。また評価の対象も研究だけでなく、学生への教え方も吟味される。学期末には学生へ教師の教え方についてアンケートが配られ、集計された結果は図書館で閲覧できる。研究評価がいまひとつでも、学生の評価が高ければまたそれが教授の地位向上につながっていく。日本では産学協同で企業から研究費が寄附されても、国に全額納めて、パソコン購入などで少し便宜を図ってもらえる程度。給料にも授業負担の軽減にも全く関係なく、自分が頑張ればよくなるという展望が見えない。ちなみにNSFは一流の学者たちが集まり、国家予算から出る予算をすぐれた研究ブロジユクトに重点配分する。ここが文部省のお役人たちで予算を決めている日本とは違う。彼らには日本全国の大学で行なわれている研究評価などできっこない。わからないから東大が一番上、地方大学は下、という配分になってしまうのである。

 競争原理は学生にも働いている。私の息子はいまハーバードで勉強しているが、年間の授業料は2万5000ドル(約300万円)だ。高い。高いが、からくりがある。実は成績がドッブの30%以内に入れば奨学金が支給されて、授業料がタダになるのだ。10%に入れば生活費まで支給される。上から3分の1にさえ入ればいいのだから、誰でも「自分でもできるかもしれない」と思うだろう。だからアメリカの大学の教室に入ると、学生たちの熱と迫力が違う。へたに「any quistion?」と尋ねようものなら、教室の半分からサッと手が挙がって収拾がつかなくなる。ところが日本の奨学金システムは成績に関係なく、親の収入だけで判断されている。しかもそれは安サラリーマンでもなかなか受給できなくて、自己申告制の自営業者の子どもばかり優遇されているという実態は誰でも知っている。どんなに勉強しても結果が同じなら、誰も勉強しなくなるのは当たり前ではないか。

国立の学費も私立並みに値上げしていい

 いま国立大学の独立法人化が取りざたされているが、教授の待遇や「国立」の冠にこだわるとか、教員数の削減などなぜみんなコップの中での争いしかしないのか。競争原理を持ち込んだ上での独立法人化なら賛成だが、いまの議論ではそれが全く見えない。独立法人にするなら、きちんとした評価システムを作る、そこに予算の配分権も移す。学費も国立も私立並みに上げていい。そのかわり上位数10%は授業料免除にすれば、貧富の差は問題にならなくなる。競争原理が正しく導入されるなら、私は独立法人だろうが、民営化だろうが構わないと思う。「頑張れば良くなる」というインセンティブさえあれば、日本の大学も学生もあっというまに変わるだろう。もちろん「行きすぎた競争原理」の弊害もある。たとえば基礎分野の研究、たとえば純粋数学や古典文学の研究は業績が目に映りにくい。アメリカでも稀少な研究が、予算が受けられなくて潰れたという話も聞く。だからそうした分野はあらかじめ別枠で予算を確保しておかなければならない。さらに地方大学の問題だが、独立法人化でこうした大学の危機感はあるだろう。しかし社会的な業績もなく、たんに「授業料が安くて近い」大学として存続していて、意味があるのだろうか。独立法人になるなら、思い切った権限をこうした大学に委譲して、来るべき高齢化社会を睨んだ生涯教育大学や、社会人大学として生き残り戦略を考えればいい。アメリカでは「コミュニティカレッジ」が地域社会に根付きつつある。今のまま本当になにもやらないのなら、潰れても、他大学と吸収合併されても仕方ない。今述べたように「大学・教授・生徒」の三者に厳粛な「評価と競争原理」が導入されたもとでの大学再編が、企業と同じように日本の大学にも求められているのである。

 


「入学が大変なのが日本、卒業が大変なのがアメリカ」とは、日米の大学が比較されるとき、決まって出てくるフレーズだ。そして日本の大学が「入学も楽」になりつつある今、アメリカの大学はますます競争が激化している。日本で紹介されるアメリカの大学といえば、ハーバード大学など、超有名校ばかり。だが、全米で3500校はあるアメリカの大学は、日本での有名無名を間わず、どこも授業は超ハードだ。アメリカでは大学は「勉強するためにいく」場所なのだ。日本とはまったく違う。

 一般的にアメリカの大学生はよく勉強する。勉強せざるを得ないのである。たとえ、全米大学ランキングの上位に位置しなくても、である。アメリカの首都ワシントンには日本に知られるほど有名な大学はないが、国際政治の中心ということもあって、全米各地から若い学生が集まってくる。比較的長い歴史をもつ、ジョージタウン大学、ジョージワシントン大学、アメリカン大学が人気のある大学だ。

 ここでは、日本ではほとんど知られていないアメリカン大学の学生風景を報告しよう。アメリカン大学は全学生数約6000人のプライベートカレッジだ。日本でいう4年制総合大学だが、メディカルスクール(医学部大学院)はない。全米大学ランキングでは中位に属するが、ジョージタウン大学に次いで、国際関係の分野に強い。そのため留学生の数では全米ベストテンに入っているようだ。このアメリカン大学で学生はどんな生活を送っているのか。「チョー楽だったっスよ、日本の大学は。毎日、今日は何しようかなあ、って考えてた。でも、ここではそんな暇ないっスよ。英語で勉強しなくちゃならないということもあるけど、それを差し引いても、課題が多い。教授が学生に要求するものが多いんです」立命館大学からの交換留学生、村沢俊治君(20歳)はむくんだ顔でアメリカン大学の学生生活を語る。昨日、金曜日に徹夜したという。遊びすぎの徹夜ではない。レポート作成のためだ。

 インターナショナル・デベロッブメント(国際開発)を専攻する村沢君は2年目、3回目のセメスター(学期)を迎えている。この秋のセメスターで彼は5科目のクラスを登録した。国際経済、第三世界の視点、米国政治入門、スペイン語、論文作法。アメリカン大学では、どの教授もセメスターの最初の授業に授業概要を配る。講義の目的、テキスト、参考テキスト、15週間分のスケジュールがプリントされているものだ。村沢君が受けている国際経済の授業概要を紹介しよう。A4用紙4枚裏表びっしりと英語が並んでいる。まず「単位取得に必要なこと」として、中間試験、最終試験、そして口答試問があり、「ソクラテス式問答法を行なうため、すべての学生は必ず授業前に本を読んでおくことと前の授業の復習をしておくこと」と書き加えられている。ちなみに「ソクラテス式問答法」とは、ソクラテスが「無知の知」を自覚させるため、アテネの市民を相手に行なったもので、答えても答えても質問が繰り返されるのが特徴だ。

 次に「required text」これは「教科書」に当たるものだがとりあえず1冊。が、副読本が3冊。さらに参考文献として書名が2ページにわたって並んでいる。そして後半はスケジュールだ。毎週の授業のテーマと目的、そのために、テキストのこのページまで読んでおくよう、あるいは、参考文献のどれを読んでおくべきかが詳細に書かれている。毎週、ほぼ7つほどの課題が出されている。「アメリカ人学生ですら、これらの課題をすべてこなしているとは思えないけど、こつこつやっておかないと、ミッドターム試験とファイナル試験の時、大変なことになる。日本にいた時みたいに、試験の前日に一夜漬け、っていうわけにはいかないっス。とくに、この教授は授業中に突然指名して、ソクラテス式問答法とやらで質問攻めにするから、毎回ドキドキもんです」、と村沢君。もちろん、受講している科目がすべてこの調子というわけではない。少し楽な授業とバランスよく登録するのだ。1年、2年目の学生は受講すべき科目がたくさんあるため、最初に多めに登録しておく。セメスターの1週間目に、登録した授業のすべてに参加し、教授の説明と授業概要を見て2週間目に再登録しなおす、というのが彼らの科目選択のやり方だ。村沢君もこのセメスターが始まる前には11科目を登録したという。そしてすべての授業に参加して、最終的に自分の状況にあった5科目にしぼって登録しなおした。

24時間オープンの学習窒。いつでもアクセスできる教授

 では、理系の学生はどうか。メディカルスクールをめざすリテイア・オースティンさん(20歳)はミズーリ州出身の2年生。彼女の専攻は生物学。彼女がこのセメスターで履修しているのは、微分積分、物理、有機化学、論文作法、音楽、その他は一般教養科目だ。「専門科目はどれも毎回、宿題がたくさん出されるし、2週間に1回は小テストがある。それにそれぞれの授業に週1回、ラボ(実験)があって、レポートを提出しなければならないから、セメスターの期間中はまったくリラックスできないな」と、リディアさんはいう。リディアさんや前田の村沢君も含め、ほとんどの学生が大学の敷地内にある寮の二人部屋に住んでいる。彼らは部屋で勉強することもあるが、多くの時間を図書館で過ごす。大学の学習室は24時間オープンしている。リディアさんも「部屋にいると、ついついルームメードとおしゃべりしちゃうから」図書館か空いている教室で勉強するどいう。

 アメリカン大学にはマンモス授業がひとつもない。学生数が多いクラスでも60人くらい。ほとんどのクラスが30人前後。だから教授も学生の顔と名前を覚える。”代返”などという姑息なことはできない。3年、4年生になると専門科目ではグループワークが要求される。3〜4人のグルーブでリサーチ、分析、そして、プレゼンテーションという作業をするわけだが、これも小人数のクラスだから可能なのだ。このグループワークで学生はディスカッションとプレゼンテーションのスキルを身に付ける。学生も緊張を維持しなければならないが、教授側もそれ相応に緊張と責任をもって学生と相対している。たとえば、レポートを提出すれば、遅くとも2週間後くらいには丁寧にチェックし、コメントを付けてそれぞれの学生に返してくれる理系でも、ラボのレポートを提出すると、翌週には細かくチェックの入ったレポートが戻ってくるという。また、教授たちはオフィスアワーというのを設定して、その時間は学生が自由に教授を訪問、相談できるようにしてある。さらに、前述の授業概要には教授のメールアドレスと電話番号が記入されており、いつでも、どんなことでも教授にアクセスできるようになっている。

 アメリカン大学での学生生活が残り1年となったコンピュータサイエンス専攻のアレックス・コーエン君がこれまでの3年間を振り返る。「ぼくは、本当はハーバード大学に行きたかった。この大学はゼイティスクール(すべりどめ)だったんだ。ハーバードに落ちた。そのコンプレックスをずっと引きずってきたと思う。でも、最近、エリート大学ではなくて良かったと思うようになった。実はこの夏からハーバード大学を卒業してきた人とアパートをシェアしてるんだけど、彼の話を聞くと、ハーバードは大人数のクラスで教授と学生のコミユニケーションがまったくないんだ。ぼくはこの大学でこれまで、50人以上いるクラスをみたことがない。教授はぼくらの名前をファーストネームで覚え、とても丁寧に指導してくれる。ぼくはこの大学で、ただ本を読んで、試験を受け、レポートを仕上げるだけでなくて、教授たちとのコミュニケーションによって、ハーバードの学生よりも、もっと広い視野でコンピュータサイエンスを学んだと確信したよ」アメリカにはコミュニティカレッジを合めて3500を越える大学があるという。それぞれの大学が学生に要求するものは様々であり、学生の勉強の仕方も様々てあろう。いずれにしても、総じてアメリカの学生は日本の学生より圧倒的によく勉強するのは確かだ。

 


生涯教育究プログラムとインターネットさえあればもう日本に大学は必要ない!

 「国立大学を独立行政法人に」文部省はかねてよりこの問題に反対を表明していたが、9月下旬から、条件付きで容認する方向へと向かい出し、国立大学の独立行政法人化は現実味を帯びてきた。聖域ともいえる国立大学の改革に着手することで、日本の大学は大きな変革期を迎えたと言えよう。アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)、スタンフォード大学、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で教鞭をとった大前研一氏に、これからの日本の大学の行く末について聞いた。大前氏が語る”大学改革私案”とは何か。

 明治時代から戦前にかけての日本の大学の役目は、興国の指導者となる精鋭を養成すること、すなわち殖産興業を推進して欧米に追いつき、追い越すために少数のエリートを育てることだった。秩序がピラミッド型の工業化社会は、1人のエリートが100人を動かせたからである。ところが、戦後は機会均等化教育によって大学が普遍化し、5割近くの人が大学へ行くようになった。と同時に、エリート養成教育も否定したので、烏合の衆が大量生産されることになった。もともとクオリティが良くない人間が大学に進学しているため、社会を動かす指導力が大学を出ても付随してこなくなったのである。その結果、誰がエリートかわからなくなり、1人が100人を動かすという仕掛けがなくなってしまった。しかも、今の大学は社会を動かすだけの知識を与えてもいない。かつては大学を出ると、経験もないのにいきなり化学プラントを造ったり、橋を造ったりしていた。みんな図書館で欧米の文献を調べ、それを頼りに試行錯誤を繰り返しながら実際の仕事を手がけていったのである。昔の新聞にはよく”国産化第1号”と出ていたが、一つ造ってみてうまくいったら、さらにスケールアップして第2号、第3号と造っていく。そうすると第7号ぐらいには、欧米とも競争できるようなものが出てくる。これが日本のやり方だった。つまり、戦前までの大学は実学の場所だったのである。ところが、今はそういうことは会社がやってくれる。大学を出た人間が実際の仕事について「まったく何も知りません」と言っても誰も驚かない。「じゃあ、うちの会社に入って勉強しなさい」ということで、入社後10年ぐらいかけて仕事を覚えるというシステムになった。かつては大学が果たしていた役割を、今は会社が果たしているわけだ。

アメリカの大学は実学と研究が8対2

 アメリカのスタンフォード大学やハーバード大学、イギリスのケンブリッジ大学などは早い話が実学を教えている。全体の2割ぐらいはピュアな研究をしているが、それはそれでノーベル賞クラスの研究者が大勢いて、極めてレベルが高い。その点、日本の大学は何もかも中途半端だ。実学はできていないし、ピュアな研究のレベルも大したことがない。実学だけなら、コンピュータ学校の『デジタルハリウッド』や『大森電子学院』に行ったほうがよっぽどいい。就職の口も大学よりはるかにたくさんある。もはや日本の大学は存在意義がなくなっているのだ。そうなったのは、日本の戦前の大学は産学協同が行き過ぎて軍艦を造ってしまったという反省があって、戦後は大学をアカデミックな方向に持っていったからだ。とくに私の時代は、残って先生になるという方向づけがなされていた。私も曲がりなりにもそのグルーブに入っていたので、早稲田大学理工学部から先生になる予定で、東京工業大学の大学院に進んだ。しかし修士課程の勉強が退屈だったため「必ず3年後には帰ってきて研究室を継ぎます」と言ってMITに留学させてもらった。ところが幸か不幸か、私が帰る年に大学紛争で東工大が閉鎖になり、帰る場所がなくなってしまった。困った教授がボストンに来て「君、あと1年こっちにいてくれないか。」と頼んだが、私は帰国の意志を変えなかったので研究室には帰らずに済んだ。そして、原子炉の設計を続けるために日立製作所に入社したのである。もし大学紛争がなかったら、私は大学院に戻ってそのまま大学の先生になっていたわけだ。それはそれで面白かったかもしれないが、現在の私がなかったことは確かである。

 だが、今日考えてみると、日本の大学の場合そうしたアカデミックな方向づけが非常に悪さをして、大きな欠陥を生み出してしまった。社会の風に触れないことがいいことだ、社会から隔絶して研究のための研究をやるのはいいことだ、それがエリートの行く道だ、となったのである。政府(文部省)の、干渉を容れない、企業の干渉を容れないという方針できたから、いまや大学の先生ぐらい世間知らずはいない、という状況になったわけだ。それが今、大学改革をことさらに難しくしている理由である。大学の先生たちは社会の風を受けていないし、社会で起こっていることも知らないから、「改革しろ」と言われても何のことかさっぱりわからない。自分たちの身分が脅かされるのではないか、という恐怖を感じるだけだ。したがって、教授会が意思決定をしている限り、日本の大学を改革するのは不可能だ。自分はクラスで一番だと思っていた人、いまだにエリートだと思っている人、変わりたくない人たちが残っているのだから、変わるわけがない。総長や学長が改革しようとしても、人事権を完全に持っていないからできない。病院は先生が経営している限り直らないのと同じで、大学も先生が経営している限りは直りようがないのである。

日本の教育改革大前流二つの私案

 では、日本の高等教育はどうしたらいいのか。私は二つの全く異なる方法があると思う。一つは、知的付加価値のつけられる人(新しいタイプのエリート)の数を抜本的に増やすことだ。インターネットを核とした21世紀の情報ネットワーク社会では、何らかのかたちで世界に通用する知的付加価値を出せない人は「存在しない人」になってしまう。とくに先進国は、ほぼ全員が大学院レベルの力を持ち、かつまた情報を受信し、それを加工して発信し、その差額でメシを食わなければならない。つまり、知的付加価値でメシを食う時代になるのだ。そして、それを可能にするためには膨大な数の知的なリーダーが必要になる。いまアメリカ経済が比較的好調な理由は、実学を身につけたフットワークのいい人たち、あくなき勉強を続ける人たちが世界のどこよりも圧倒的に多いからだ。社会人になっても自らを向上させるために再び大学(院)に入って新しいことを勉強し、学位を取得して出ていくという世の中なのである。

 アメリカの社会では、底辺にいる4分の1の人たちは、この10年間の繁栄にあずかっていない。アメリカ全体の平均年収が上がっているのに、彼らの平均収入は下がっているのだ。つまりドップ4分の3が仲びて、ボトム4分の1は落っこちている。これはアメリカ経済の陰の部分だ。このアメリカの例を見ればわかるように、21世紀の先進国は、7〜8割の人をエリートにしなければいけない。となると日本の場合、本当は大学は現在の5倍ぐらい必要になる。ところが、先に述べたように、もはや日本の大学はエリートを養成することができない。これが大きな矛盾である。大学の先生そのものが現実から遊離した存在であり、いまだに19世紀の古いノートで教えている。21世紀にどうやってメシを食っていくかという実学を教えられる先生がいないのである。しかし大学(院)の数だけは5倍ぐらい必要になるという、極端に矛盾した状況になってくる。この状況を打開するためには、大学レベルの新しい教育をする仕掛けが必要になる。そしてそれは実学でなければならない。実学とは、使用前・使用後がはっきりわかるということだ。たとえば、その教育を受けたことによって、財務分析や統計分析、あるいはコンピュータ・グラフィックスができるようになるということだ。日本の場合、そういう仕掛けは既存の大学にはないから、新しく創り出さなければならない。それは、もしかすると予備校がそちらの方向に転じるか、あるいは衛星放送やインターネットを通じたものになってくるのではないか。

 たとえば、私が創った「スカイパーフェクTV!」757chのビジネス専門チャンネル『ビジネス・ブレークスルー』では、USC(南カリフォルニア人学)マーシャル・ビジネススクールのMBA(経営学修士が、衛星放送による講義とインタラクティブな指導を受けるだけで取得できる教育プログラムをスタートさせた。この”衛星留学”コースには2000人以上から資料請求があって118人が入学、海外の学校と提携したMBAコースとしては1期目から日本最大の規模になった。また入学した人々は、多忙を極めて海外に2年間も留学できない、むしろプロ中のプロ、というプロフィールである。これには当のUSCの教授陣も驚いていた。このように、就職やキャリアアップにつながる実学教育へのニーズや関心は、日本でも非常に高い。21世紀に生き残っていくためには今の大学教育は役に立たない、ということを多くの日本人が痛感しているからだろう。今後はその受け皿として、大学レベルの高度な実学教育を施す新しい手段、手法、人材群が、従来の50倍、100倍のスケールで絶対に必要になってくる。

死ぬまで”教育”がキーワードだ

 もう一つの解決策は、生まれてから死ぬまで、必要な時に必要な高等教育を受けられる仕組みを創ることだ。インターネット時代の特徴の1つは小学生でも高度なことが理解できるようになったということである。今までの教育は、必ず小学校で掛け算の九九を覚えさせたように、順序立てで教えないといけないと思われていた。ところが、インターネットに触れた子供たちを見ていると、T型人間になってくる。たとえ小中学生でも、インターネットを使えば自分が興味を持ったことを深く勉強することができるので、その分野だけは大学生以上のレベルに到達してしまうのだ。現に、日本でコンピュータゲームを作っているのは、みんなティーンエイジャーである。

 要するに、人間の能力は順序を追って開拓していく必要はないのである。ということは、幼稚園からそういう教育システムに変えなければいけないし、中高年者にも同じことが言える。私は、5歳から65歳まで60年間の人間が持っている可能性はほとんどイコールだと思う。だとすれば、18〜22歳が入学生の適齢期という考え方はもうやめて、5〜65歳まで全員が入学生と考え、年齢に関係なく、常に最先端のことを勉強できるようにする必要がある。具体的な方法としては、カフェテリア方式の高等教育の機会が用意されるべきだろう。つまり、カフェテリアのようにトレイを持って、自分が好きな物だけ興味を持ったものだけを、その道の先生の所に行って取ってくる。それを身につけたら、また必要に応じて別の先生の所へ取りにいく。この方法は、知識や技術がすぐに陳腐化する情報ネットワーク社会にもぴったりだ。別の言い方をすると、大学の役割はガソリンスタンドみたいになってくる。自分の中のガソリン(知識や技術)が足りなくなったら、大学へ行って給油(勉強)する。仕事をして、また足りなくなったら給油する。そうやって、常に新しいことを身につける。学問はアカデミズムではなく、人生をより良く生きるための栄養素であり、それを補給する場所が大学なのである。その場合、大学の先生は職業教師ではなく、スポーツクラブのインストラクターのような存在になる。学ぶ人のニーズやレベルによってインストラクターが変わっていく。足りない部分は衛星放送やインターネットで補えばいいのだ。そうなると、今の日本の大学は一つも要らなくなる。カフェテリアやガソリンスタンドがたくさんあればいいのである。キャンパスも入学式も卒業式も必要ない。入学式は生まれた日で、卒業式は葬式だ。そこまで本質的なところに戻らないと、日本は21世紀に活躍できる人材を養成できないと思う。

 


日本の大学の学力低下

 学生の学力低下が叫ばれて久しい。だがその原因を学生個人に求めるのは早計であり、よリ根本的な原因は教育システムを含めた社会全体にあるといえる。つまり、学力低下を始めとする青少年の問題が噴出している事態は、日本の教育システムが現状にそぐわないシロモノであることを示しているのだ。

 では、日本の教育に必要な改革とはいかなるものか。世界40か国以上を回リ、日本の教育事情についても造詣の深い、数学者ピーター・フランクル氏が「頭が固い」日本人へアドハイスを送る。NHKが毎年行なっているアンケート調査によると、20年ほど前まで日本人に人気のあった言葉といえば「忍耐」とか「我慢」に決まっていた。しばらく忍耐して我慢して頑張れば、それを通して国が豊かになり、国民もいい人生を送ることができるようになる、という期待を日本人みなが抱いていたのだ。たとえば人生80年とするなら、最初の20年間、とくに満6歳で小学校に入ったときから中学・高校を経て20歳前後になるまで、我慢して、頑張って、そうすれば残りの60年間はそれなりにいい状態で過ごせると親たちは考え、子どもたちにも同じ路線を歩ませたがり、子どもたちもそのパターンを受け入れた。

 しかし、いま、高齢化社会の問題も含めて、このパターンは崩れはじめている。大企業の株価をベンチャー企業のヤフー株が抜き去り、一気に1億円をつけるといった現象が示すように、世の中の構造は大きく変わろうとしているのだ。なのに、日本の教育は一向に変わろうとしない。最近、学級崩壊だとか学力の低下が問題になっているが、僕は子どもたちに責任はないと思っている。いちばん責任があるのは親たちなのだ。ところが親たちは、自分が悪いと気づいていないばかりか、教師や社会に責任を転嫁している。

 僕の目から見でいちばん大きな問題は、いま現在、ちょうど10代にさしかかっている子どもたちの親、つまり僕の世代の日本人の親たちだと思う。彼らは自分自身の人生の先ゆきに戸惑いを感じている。というのも、先ほども話したように、大企業に身を置いていれば自分の人生は大丈夫という思想がいま完全に崩れているからだ。定年まで一生懸命に働いて退職金をもらい、安心して老後を過ごすという時代は、いまや遠い昔のことになろうとしている。そんな親たちの戸惑いを子どもたちは敏感に感じとり、にもかかわらず「勉強しなさい、勉強しなさい」と繰り返す親たちに反発しているのだと思う。

 僕の母国ハンガリーでは、戦後、自分たちの過ちを反省することのなかから体罰や暗記中心の教育が否定され、生徒中心の自由な教育に転換した。歴史の授業を例にとるなら、たとえばハンガリーがトルコに敗れて国が滅びたのは1526年なのだが、僕の歴史の先生は、そういう遠い昔の出来事についてはさほど正確に暗記しなくてもいい、という教え方をした。テストでも、ブラス一マイナス20年の幅のなかの年数、たとえば1510年と書いても1540年と書いても満点をくれた。出来事の前後の流れを理解していれぱそれでいい、という教え方なのである。それもこれも、戦前の暗記中心主義の教育に対する反省から生まれたものなのだ。一方、日本では、そうした生徒中心の自由な教育方針への転換がいまだに実現されていない。10歳の子どもは彼の成長具合や学力とは無関係に自動的に小学4年生と決めつけられ、14歳なら中学2年生と、年齢だけを唯一の尺度にして画一的な暗記中心の授業をつづけている。でも、子どもたちはみんな同じスピードで成長しているわけではない。他の子どもたちよりゆっくり成長し、結果としてみんなに追いっく子どももいる。本来なら、もっと落第があってもいいはずなのだ。

 僕の同級生のなかにも、日本でいうなら中学3年生のときに落第して、でも、そこでもう一度、一生懸命に勉強し直してハンガリーの一流大学に入った友人がいる。ところが日本の場合、一度でも落第したら、もうそれで人生が終わってしまったかのように感じてしまっようだ。確かに学年全体で一人しか落第しなかったら、それはかなりショックかもしれないけれど、全体の一割ぐらいが落第したなら、それほど不運に思わないのではないだろうか。

 どうも日本人は一般的に頭が固いように思えて仕方ない。落第に限らず、もっと学校と学校のあいだの壁、クラスとクラスのあいだの壁を取り払い、その生徒にとって最もふさわしい教育環境に移れるシステムをつくるべきだ。

 もうひとつ、僕の同級生の話をしよう。高校一年生のときの同級生なのだが、数学があまりできず、僕の在籍していたトップクラスから迫い出され、ビリのクラスに送られた。でも、そのビリのクラスで彼の成績は徐々に仲び、結構いい成績で工業大学に進学・卒業して、いまでは僕の住んでいた町で大きな家具のデパートの店長になっている。でも、もしも彼が僕のいたトップクラスに在籍しつづけ、ずっとビリのままだったら、彼は大学に進むこともできず、高卒で肉体労働に携わっていたかもしれない。

 最近知ったのだが、アメリカのカリフォルニア州など幾つかの州では、どんなに偏差値の低い高校にいても、その高校での成績がトップ5%に入っていれば州立大学に入学できるシステムがあるという。つまり、たとえレベルの低い学校にいても、その学校で自分は数学がトップだとか、理科がいちばんできるとか、文章を書く能力が優れているとか、そういう自覚を持てた生徒というのは、これからの人生に対してアグレッシブになれる。無理をしてレベルの高い受験校に押し込み、ずっとビリの状態で推移して自信喪失してしまったより、よほど精神的に健全な人間に成長できるはずだ。だから、僕はこう主張したい。たとえば6歳になるわが子の成長具合をよく観察して、どうもちょっと遅れているなと判断したら、親の責任で7歳から小学校に入れるとか、逆に成長が早いなと判断したら5歳で入学させるとか、そういう融通性があってもいいのではないか。すべては親の判断で選択すべきであり、国が決めるものではない。そうなれば、親は自分の子どもの教育に関してしっかりとした責任を持つようになるはずだ。

「高校野球より数学オリンピック」を中継せよ

 結局、いまの日本でいちばん欠けているのは「考えること」だと思う。哲学者デカルトといえば「我思うゆえに我あり」というフレーズが有名だが、もうひとつ、とても大事なフレーズを述べている。それは「考えることは疑うことから始まる」というものだ。

 理科系の分野で世界に通用する研究者になるには、やはり疑う精神を持たなければならない。新しいものを発見するためには、まず古いものを疑う必要がある。ソロバンではもはや行き詰まりだとわかれぱ、まったく新しい発想のもとに新しい道を探らなければならなくなる。要するに、ソロバンの延長線上に電子計算機ができたわけではないし、ましてやコンピュータにまで発達したのでもない。まったく新しい発想の転換ができる人たちが、いま、必要とされている。

 では、そうした人たちを育成するには、どんな教育を実現したらいいのだろうか。僕の育ったハンガリーの教育では、すべての学科に関して全国コンテストが実施されている。日本でも数学に関しては全国コンテストが行なわれていて、僕もずいぶん尽力したのだけれども、ハンガリーでは数学だけでなく、物理、生物学、化学、文学、歴史、いろいろな外国語といったあらゆる学科で全国コンテストが実施されている。もしある学校の、あるクラスの生徒が何らかの学科で全国コンテストのトッブ100人に入り、決勝大会に参加することができたら、それはその生徒の先生にとっても非常な評価につながる。優勝でもしようものなら大変な名誉になる。新聞も必ず決勝大会の結果を掲載し、その優秀な生徒たちの先生の名前も併記してくれる。だから先生たちは、たとえ片田舎の学校でも、この生徒はこの学科でコンテストに行けるのでは、と思うとその生徒に一生懸命に勉強することを勧め、コンテストヘの参加を促す。生徒にしても、コンテストヘの参加を勧められることは、自分はこの学科の才能があるのだと自覚でき、早いうちから自分の方向性を見極めて才能を仲ばすことができる。決勝大会でトップクラスに入れば推薦入学の道もひらかれている。こうしたメリットのある全国コンテストを日本でも是非とも実現してほしいのだが、高校野球に熱狂はしても、どうも学問については関心が薄いように思えて仕方がない。

 毎年春と夏の2回、甲子園で高校野球の全国大会を開催し、それをNHKが朝から晩まで中継するというような国は、おそらく日本だけだろう。でも、そういう時代は終わった。もはや時代遅れなのだ。それよりもこれからは、毎年、世界中の国々から優秀な学生が集まって催される数学オリンピックを生中継するような方向に転換する必要がある。あるいは物理とか国語とか英語の全国コンテストを実施して、それをテレビが生中継するような国になることが急務なのではないか。

優秀な外国人が集まりやすい環境を

 日本の教育、とくに大学教育に関して、もうひとつ指摘しておきたいことがある。Jリーグではいま、多くの外国人選手が活躍している。僕はこの状況を素晴らしいと思っている。たとえばジーコは世界でも屈指のサッカー選手だけれども、彼の周囲に一緒にいることによって日本人選手は急速に実力をつけてきた。つまりジーコのような優れた選手たちは、日本のサッカー発展の触媒の役割を果たしたのである。ところが、ひとたび視線を日本の大学に向けると、残念ながち語学を除いて、まず外国の人が教授や助教授、あるいは講師になるケースを見たことがない。日本に限らずどんな国にとっても、外国から来た人々の果たす触媒作用は、その国の発展に多大な貢献をもたらしてくれるものだ。

 具体例を示そう。現在、日本の大学にはかなりの数の中国人留学生がいるが、彼らが在籍しているのは、そのほとんどが大学の本学年のレベルに限られている。しかも彼らの多くは、本学年を卒業すると同時にドクター(博士号)を取得するためにアメリカに渡り、向こうの大学院に進学する。逆にアメリカでは、本学年への外国人留学生をほとんど取らない。面白いデータがある。)年前のことだが、数学の分野においてアメリカでドクターを取得した全大学院生のうち、その3割を中国人が占めていたのだ。もちろんそのなかにはアメリカで生まれ育った中国人も含まれているが、いずれにしても多くの中国人、そして他の外国人にとっても、アメリカでドクターを取得することはじつに魅力的なのだ。理由ははっきりしている。日本の大学院でドクターを取得しても、”そのあと”が難しいのだ。アメリカの場合なら、ドクターを取得して、さあ、自分のやりたい研究に集中しようという勢いのあるときに、それを可能にする環境と研究資金を得やすいのだ。

 いちばんいい例は、日本人にとっては複雑な例かもしれないけれども、第2次世界大戦の末期にアメリカが行なった原爆開発だろう。アメリカでは1930年代から優秀な頭脳の輸入を意識的に促進してきたのだが、原爆開発に携わった人たちも、そのほとんどがドイツやイタリアなどヨーロッパからやって来た科学者たちだった。また僕の母国ハンガリーからも、現在のコンピュータの生みの親といわれるフォン・ノイマンがアメリカに渡って素晴らしい業績を残している。いまでもアメリカの大学を見ると、ドイツとか旧ソ連から渡ってきた優秀な頭脳の持ち主たちが目をひく。そうした優秀な頭脳を集めておくことは、その国にとってじつにおいしい利益を生み出すことにつながる。日本もビザの問題などを早く改善して、優秀な頭脳を持った外国人の集まりやすい環境を整えてほしいものだ。

 たとえば、日本の大学のスタッフ構成を改善する必要がある。とにかく助手になるための門戸が狭すぎる。教授が1人に助教授が1人、講師が3人に助手が5人といった具合に、その数があまりにも制限され過きているのだ。要はスタッフを充実させるための予算を増やせばいいのだけれども、1000億円の戦闘機を購入する国家予算があるのなら、大学のスタッフとして優秀な外国人を確保する予算ぐらい、日本なら簡単に捻出できるはずだ。それが日本の国益につながることを考えれば、そのあたりのバランス感覚を身につけてもいいはずだ。もっと具体的にいうなら、経済的に困窮している旧共産圏の優れた頭脳を集めればいい。彼らはタダでもやって来るだろう。旧ユーゴスラビアからやって来たストイコビッチがJリーグで果たした触媒効果を、彼らは科学の分野で発揮してくれるにちがいない。日本にやって来る外国人が、いわゆる3Kと呼ばれる労働現場で働く人たちだけという状況は、日本にとって決しておおことではない。

 


日本の選択制とは対照的に「ラテン語」「ギリシャ語」まで必修・敗戦国が分割後も守り抜いた独自のエリート育成法を支える「教養主義」

 国土が狭く、資源も少ない国が世界の中で伍して行くためには、優秀な頭脳とそれを生み出ず教育が必要不可欠だ。だが日本の現状は厳しい。学力の低下は著しく、学級崩壊、いじめ、援助交際、少年犯罪の増加など、子供たちを取リ巻く教育環境は悪化の一途を辿っている。正に、教育システムの崩壊である。では、政治、経済、科学など多くの分野で優秀な人材を育成し続けているドイツでは、一体どういう教育システムを採っているのだろうか。ドイツ在住のノンフィクション作家、クライン孝子氏が、文部省が打ち出した「ゆとリ教育」の過ちを指摘すると共に、真に「公平」なドイツの教育システムを紹介。21世紀の日本に警鐘を鳴らす。

 知人から送られてきた産経新聞に目を通していたところ、いきなり、「沖縄サミット教育も主要テーマに地元紙の新春対談小淵首相が表明」(1999年12月25日付)という見出しが飛び込んできた。それによると、小淵首相は地元紙である新聞社が企画した樋口廣太郎・アサヒビール名誉会長らとの新春対談で、今年7月に開催される「沖縄サミット」では教育問題を主要テーマの1つに加える方針を明らかにしたという。小淵首相は、「時あたかも日本では教育改革の問題が大きくクローズアップされている。戦後教育の総決算という意味と同時に、教育は国家百年の計ともいわれ、百年べ-スでものを考えなければならない」と発言したうえで「世界の先進国もいろいろ教育問題については悩みが多く、どう考えていくかというテーマもある。21世紀に向かって2000年に(教育問題を)議論することの持つ意義は大きい。ぜひ成功させていかなきゃと思っている」と、21世紀における教育施政方針を述べたようだ。教育問題については昨年6月のケルンサミットでも取り上げられ、「ケルン憲章」も採択されたぐらいだから、次代を担うこどもたちの教育問題は、日本のみならず、世界各国共通の緊急課題であることは間違いなかろう。その先進産業国だが、とりわけ日本が抱えている教育問題は、こどもが教室で1時間じっと授業が受けられなくて起こる「学級崩壊」から、モノの豊かさがウラ目にでたと思われる少女売春「援助交際」まで、これらは他の先進諸国でさえ珍しく、それだけに深刻である。戦後日本だけが唯一生み出した特殊な社会現象、経済を最優先課題とし、中産階級幻想を夢見ることで一億総平等化を促進する、の弊害といってよく、その歪みが実は戦後半世紀の中で、知らず知らずのうちに次代を背負うこどもたちを侵食し影を落としているのだろう。そういう意味ではこうした深刻な教育問題の責任の一端は大人にもある。

「ゆとり」教育は公教育の弱体化だ

 さっそくこうした教育における戦後現象を重く見た文部省では、その解決策として数年前から真剣に教育改革に取り組み始めているという。そしてその基本的な狙いとして「心の教育」を挙げ、そのために知育偏重を改め「ゆとり」の中で、「特色ある教育」を展開し、児童生徒に自ら学ぶ「生きる力」を育成する。今日ほど社会が激しく変化する時代には、その時代に適応するために、1人ひとりの能力を見極めそれにふさわしい教育を施すことは必要不可欠であるからだという。文部省はその第一ステッブとして、2002年より「新学習指導要領」を導入し、完全実施を目指す方針だそうだ。具体的には小・中学校の段階で学習時間や学習内容を大幅に削減し、中学では選択制を導入する。文部省が「落ちこぼれ生徒の解消に寄与する」との見解をほのめかしているように、確かにこれで生徒の学習負担は軽くなり、「ゆとり」をもたらすことは間違いなかろう。そういう点では画期的でさえある。

 だが待てよ。例えば中学における選択制導入だが、これだと高校教育で理科系4科目(生物、物理、化学、地学)を学習する生徒はほとんどいなくなる。人間は往々にして易きに流れる傾向があるからで、私など中学時代、理系の教科が無くなればどんなに楽か、と何度思ったこどか。当時こうした選択制が採択されていたら、いの一番に理数系を削っていたことだろう。それが不可能だったから、いやいやながらも理数系の授業を受けた。そのお陰で、今こうして曲がりなりにも理数的論理の展開におおいに役立っているのだから、何が幸いになるかわからない。ところが今回の「新学習指導一要領」によると、「中学でこれらが選択科目になるのだから、高校ではまったく学習しなくてもいい」ことになりかねないのだ。すでに日本でもこの結果を予測し、最終的には大学教育のレベル低下に拍車が掛けられると憂慮する声も聞かれるという。今でさえすでに「分数の出来ない大学生」「2次方程式が解けない経済学部学生」「生物も習っていないに医学を専攻する学生」が増え続け、予備校に講師を依頼し補習教育を行なっている大学も珍しくないのに。最難関国立大学でさえ、小数の入った中学校レベルの計算を文系学生に解かせると4人に1人は間違えるという。

 産業界では早くもこのような学力低下傾向に警鐘を鳴らしはじめた。インターネットの登場で情報革命が進み、国境という垣根がいとも簡単に乗り越えられるグローバル化という時代到来のなかで、日本のような領土的に小国でかつ資源のない国にとっての唯一の生き残り策は優れた頭脳に頼るしかない。しかも今日ほど高度な先端科学技術や国際規模で展開する政治・経済分野で、傑出した人材の育成が求められているときはないのだ。かつてその日本は少なくとも、明治以後国公立教育の充実を図ることによって、地方くまなく教育の普及に腐心し、実力のある者には国の高等=大学教育を施すことで、エリートヘの道を開いてきた。戦後日本はアメリカの占領政策により、半ば政治・軍事両面の道を閉ざされたことから、官僚を頭に企業エリート育成に全力を挙げ、経済大国としての地位を築き上げた。経済=企業において優秀な人材を確保するために、受験地獄と陰口をたたかれながらも、その熾烈な受験をくぐりぬける制度を確立した。そして若者の競争意識を駆りたてることで、企業への忠誠に役立ててみせた。教育がウチ向きになり企業本位になったのも、この日本的一致団結結束協調主義によって日本経済=企業拡大を図っだからであり、その競争原理がブラスに働いたからこそ、日本は世界経済大国としての切符を手に入れることができたのだ。

 ところがその分教育がことここにきて、「ゆとり」という名のもとに、なし崩し的に弱体化が図られている。事実最近の日本教育事情にスポットライトをあててみると、目もあてられぬ小中高公立学校の荒廃をよそに、私学の評価は上がりっ放しである。しかもその有名私学願望たるや、幼稚園から大学までエスカレーター式であるという特典によって、「お受験」現象まで生み出し、父兄の多くが幼児教育に翻弄されている。その幼児の入園入学判定には学力テストがないから厄介なのだ。ついそこには、コネやカネ、モノなど情実が入り込んでいるからだ。

門戸の広いドイツの教育システムこそ公平

 では日本と同様、第2次世界大戦で敗戦国となったドイツの教育はいったいどのようになっているのだろうか。結論を先に言うと、ドイツは敗戦後、戦勝国である米英露仏の4か国に分断され、それぞれその統治下におかれるという過酷な運命に甘んじなければならなかったにも拘らず、こと伝統的なドイツ教育システムに関しては、いっさい占領国の干渉を許さなかったのである。

 そのドイツの教育システムだが、まず日本との大きな違いは受験がないことだ。単一制ではなく複式制なので、すでに小学5年ないし6年から3つのコースに分かれる。その3コースとは、職人になることを目的とした「ハウプトシューレ」、事務や簿記、営業職などの中間管理職を目指ず「リアルシューレ」、そして「ギムナジューム」と呼ばれるエリートコースで、例えばギムナジュームだと、日本ていう小学校上級から高等学校まで(10歳から18歳まで)一貫教育制。その教科内容は幅広く、古典ではラテン語、ギリシア語、外国語では英語、フランス語を合め、人文系から理科系まで、これらの科目を9年間みっちり修得した後、大学受験資格を取得し大学に進学する。もっとも大学入学前にドイツでは男子は、1年間兵役かボランティアを義務付けられる。受験はないから全国どこでも自分の希望する大学に入学できる。ただし、大学へ入学したからといって、日本のように心太式に卒業というわけにはいかない。在学中、成績が悪いと、途中で容赦なくどんどん落とされてしまう。卒業資格試験に合格できるのが6割(理工系の難関大学の場合)ということも珍しくない。その卒業試験も2回しか受けることはできない。こう書くと、日本のように平等な教育を前提としている国では、このようなドイツの教育システムでは差別意識が強すぎて到底受け入れられない向きもあろうかと思う。

 ところがそうではないのだ。彼らは結構リラックスしながら学生生活を送っている。3つのコースに分かれても、それぞれのコースの間の垣根は思ったほど高くない。途中で思い直して向学心に燃え、職人コースからギムナジュームに転学する者もかなりいる。しかもこうしたことが割と簡単に出来るのだ。ドイツの教育では、ほんの一部の私学を除いて、すべて入学金・授業料は無料という利点があり、経済的負担が掛からないからである。

 そういえば、つい最近シュレーダー首相はテレビのインタビューでアメリカの教育について意見を求められ次のように語っている。「アメリカの教育は、私学が多くて金が掛かるから、.金持ちの息子しか高等教育が受けられないという欠点がある。その点ドイツの教育は公平だと思う。私なんか、父親が戦死し、母親は6人の子供を抱えて、掃除婦をやりながら生活を支えていた。生活は苦しかったから、大学進学なんて思いもしなかった。貧しかったからね。母親に学費なんて出す余裕はなかった。だから、本来なら自分は職人になっていたかもしれない。でも、ドイツの教育システムでは、能力があってその気にさえなれば、誰でも簡単に高等教育を受けるチャンスがある。私は夜間のギムナジュームを卒業して、それから大学へ入学し法科を専攻した。大学在学中は、休暇に入るとすぐに建設現場でアルバイトをして学費を稼いだものさ」つまりドイツでは、たとえ貧しくても能力があり、真面目に勉強する気さえあれば、学問の道への門戸は広く開かれているのだ。しかもそこには一切情実の入り込む余地がない。いいかえれば、ドイツのエリートとは、こうした心身ともに鍛え抜かれた「文武両道」の若者だけに、その切符が手渡されることになる。こうしてみると、日本とドイツとではその教育のシステムも取り組み方もかなり違うことがわかる。どちらがいいか、これは読者の判断に任せる。ただ、問題が山積みされている現時点において、日本で早急に求められる教育改革が、単にキレイごとで片づけるものではないことは明らかだ。血の濠むような大胆な改革が必要なのだ。でなければ、21世紀の日本は厳しい局面を迎えることになるだろう。それを打ち返すためにも、若い力の奮起に期待したい。

 


日本の「ゆとりの教育」とは全く反対のベクトル「懲罰」「数学」「パソコン」で生徒の自信と学力を取り戻した「チャーター校」の成果

 学級崩壊が日本以上に深刻視されているアメリカでは、画期的な試みが成功を収めつつある。「チャーター校」制度だ。「公立」でありながら、行政や教員組合の制約を受けず、独自のカリキュラムで成績上昇を約束するチャーター校は、既存の公立狡に危機感を持ちながら、私立に高額の学費が払えない家庭の需要に応え、1991年からわずか8年間で1200校以上に激増している。親・生徒・教師が一丸となって作るチャーター校成功の秘密とは。

成績アップなければ学校が閉鎖

 「僕の名前はマイクです。僕たちのクラスにようこそ。僕たちは今、リーディングの勉強をしているところです」エジソン・フレンドシップ・チャーターズクールのクララ・ウィットレー校長に案内されて3年生の教室に入っていくと、25人の生徒のうちひとりが席を立ち、握手しながら自己紹介とともに授業内容を礼儀正しく教えてくれた。そして、すぐに席に戻る。残る生徒たちは突然の部外者訪問に浮足立つこともなく、先生の方に注目している。あるいは、先生の質問に対して積極的に手を挙げて答えようとする。どのクラスも同様である。チャーターズクールとは公立学校と同じように地方自治体から費用を得ながら、その教育方針、運営に関しては行政、教育委員会から独立している学校である。1991年にミネソタ州から始まったチャーターズクトル設立の動きは全米各地に広がり、94年、クリントン政権が打ち出した「教育改革政策」のもと、政府も積極的に支援している。

 現在、ワシントンDCを合めた37州がチャーターズクールを認める法律を制定。1205校、約30万人の生徒がチャーターズクールに通う。99年秋には、95万ドルの国家予算が拠出され、2002年までには3000校の設立が期待されている。チャーターズクールは既存の公立学校に不満をもつ親と教師が協力して設立にこぎつけるケースが多いが、公立がチャーターズクールに変わるケースもある。また、その母体は市民団体、教育関係の営利・非営利団体など、さまざま。学校を設立しても、自治体との契約期間内(3〜5年)にそれなりの成果、つまり予算管理や生徒不足、生徒の成績が思わしくなければ閉鎖される。

 現在、ワシントンでは28校のチャーターズクールが運営されている。取材に訪れたエジソン・フレンドシップ・チャーターズクールはワシントンDCの慈善組織フレンドシップハウスが自治体とチャーター(契約書)を交わし、教育マネジメント会社であるエジソンが運営を任された学校である。98年に開校、2つの学校をもち、幼稚園から小学5年生まで924名が通う。全米でも大規模校のひとつ。今年の秋からは高校生まで受け入れることができるようになったという。ワシントンのノースイースト地域にある同校ウッドリッジ・キャンパスのクララ・ウィットレー校長はチャーターズクール増加の背景を次のように語る。

 「これまでは、親がどんなに不満をもっていても、自分たちの住む地域の学校に自動的に通わなければならなかった。公立校は行政の監督や教育委員会の指導で学校の運営や教育方針が決められますから、親が参加する余地が与えられなかった。でも、チャーターズクールは親が学校を選ぶことができるんです。自分の子供にどんな教育を受けさせたいか、様々な学校を調べて、より良い学校を選択できる。多少、家から遠くても。そして、選択したからには、親も学校の運営や授業のカリキュラムにも責任をもって参加する。これが公立技との違いで、ここ数年のチャーターズクールの増加を見ると、いかに子供の教育に関心をもっている親が多いかわかるでしょう」もちろん、授業料は公立技同様すべて無料。経済的に余裕のある家庭はユニークな教育方針をもつ私立校に通わせることができる。しかしこれまでは、高額な授業料を払つことができない家庭は選択もできず身近な公立校に通わなければならなかった。「うちの娘が通っていた公立校は先生が無責任だったの。クラスの人数が多いせいもあるでしょうけど、生徒への指導が行き届かなくて、うちの子もまるで落ち着かない子だった。わたしはもっと厳しく子供に勉強をさせ、しつけてくれる学校を探してた。この学校のことを聞いてすぐに申し込んだわ」昨年の秋に娘を同校の4年に転入させたパメラ・ダニエルさんは、ほとんど毎日のように娘のケヤニヤちゃんと一緒に車で30分ほどの距離を通ってくる。ダニエルさんは週4日、この学校で子供たちと一緒に一日を過ごす。ボランティアとして教師たちを手伝うのだという。「この学校で本当に良かった。わたしも勉強させてもらえるもの。ここで初めてコンピュータに触った。今では子供たちのコンピュータの宿題だってみてあげられる。なんといっても、娘が変わったことに一番驚いてる。あんなに散漫だった子が落ち着いて勉強するようになって成繍も良くなった。そのせいか、性格も明るくなったわ」現在、同校には幼稚園児から小学5年生まで約450名が通う。クラスの人数は平均して28人だ。チャーターズクールはそれぞれに特徴をもち、学校側も他の学校にはない独自のシステム、カリキュラムをつくることに努力をはらう。「わたしたちのシステムは、一言でいうと"リサーチ"です。それぞれの教師が自分の生徒たちに合ったカリキュラムを考える。そのためには常にリサーチしていなけれぱならない。子供たちの状態、親の反応、社会の動きなどすべてです」とウィットレー校長は言う。

9割の生徒が全国平均以上に

 この学校では特にテクノロジ-、つまりコンピュータをべ-スに数学とリーディングの授業に力を入れている。20台ほど設置されたコンピュータルームのほか、3年生以上の各クラスには4,5台のコンピュータが設置されている。さらに、3年生以上の生徒の各家庭に1台ずつコンピュータを配る。”ホームロールアウトールアウト”と呼ばれ、いつでも教師、親、そして生徒がメールのやりとりができるようにしてある。そのため、学校側は親のためのワークショッププログラムも提供する。生徒たちには少なくとも週に3回はコンピュータを使った宿題が出る。たとえば、ワープロを使っての作文、インターネットを駆使してのリサーチなどである。興味深いのは授業時間が一定ではなく、それぞれの授業内容によって時間が異なることだ。たとえば、リーディングは毎日90分、ライティング毎日60分、数学、毎日60分、社会と科学は1日おきに65分ずつ。美術と体育、そしてスペイン語の授業がやはり1日おきで45分ずつである。1日のスケジュールはこれらの科目で組み合わされる。

 さらに、リーディングの授業は通常のクラスより小人数に分けるという。そのため、音楽、美術や体育といった専門科目の教師たちも、リーディングを教えることができるように、教育を受けるのだという。ウィツトレー校長を喜ばしていることの一つに、この学校が始まって以来、生徒たちの数学の水準が確実にアップしていることがあげられるという。「学力の基準はどの学校でも使っている標準テスト”スタンフォード9”です。毎年学期末に試験をしますが、90%の生徒が全国平均以上に数学の成績を上げている」冒頭のレポートのようにどのクラスの生徒も先生の話に一生懸命耳を傾け、実に礼儀正しい。

 よく聞くアメリカの”学校教育荒廃”とはまったくかけ難れた風景だ。「去年から懲罰を取り入れたんです」と語るのは5年生担当のロサリン・ロックウッド先生。「宿題を忘れたり、クラスのルールを破った生徒には居残りをさせる。他の生徒がみんな帰宅したあと、なぜ、居残りをさせられたかを家に電話させる。そして、宿題なら宿題を、ルールを破ったのなら反省文を書かせるんです。居残りしたい生徒なんていないでしょ?」さらに付け加えるなら、同校は月曜日から金曜日までの朝8時から4時まで開校。授業時間は低学年は7時間、3年生以上は8時間と公立技より1時間長く、年間日数は30日長い。もし、幼稚園から高校までこの学校に通いつづければ、通常の学校に通う生徒よりも4年冬く勉強したことになるという。親を学校教育に積極的に巻き込み、長時間の学習、そして懲罰。日本が”ゆとりの教育”とかで学校を週3日にしようとしている動きとはまったく正反対のベクトルだ。しかし、少なくともここエジソン・フレンドシップ・チャーターズクールは、今のところ入学希望者が後を絶たないようだ。

 


1〜2年の準備級を経ても約8%の進級率!

「学校歴」ではなく「学問歴」を問う「グランド・ゼコール」の実力主義

 「再建請負人」「コスト・カッター」として日本中の注目を浴びた日産自動車の最高執行責任者(COO)カルロス・ゴーン氏は、すでに30代で仏ミシュラン社の南米・北米拠点の社長を歴任、辣腕を振るった経歴を持つ。そのゴーン氏の出身校は「エコール・ポリテニーク」と呼ばれる。フランスが誇る高等専門学校だ。

 「即戦力」となる経営者を選出するこのエリート養成校=グランド・セコール。では、どんな教育がなされているのか。

48%ーこれはパリのある大学の人文学郡に入学した学生のうち一般教養課程(2年間/96〜97年)を修了した者の割合だ。さらに同学部・心理学科の学士合格者は45%、修士ではこれが30%台にまで下がる(97年)。フランスの大学は、「バカロレア」と呼ばれる大学入学資格試験に合格した者であれば、誰でもどこの大学にも入学できる。だが、一つの課程を修了することは並大抵ではない。日本のように4年間のモラトリアム期間を過ごした後に学士になれるというわけにはいかないのだ。

 コレージュ(中学校)、リセ(高校)という中等教育を終え、「バカロレア」を取得した者がさらに上を目指すには、概して2つの選択が用意されている。1つはユニヴェルシテ、いわゆる大学であり、もつーつはグランド・セコール、高等専門学校と呼ばれるエリート養成機関である。

 まず大学では、大きく3つの期間に分かれている。第一期は2年間の一般教養課程。これを修了した学生のみが第二期に登録することを許される。冒頭の数字は、この段階の振り分けで”生き残った”学生の数字だ。続く第2期の期間中に、学説史や方法論などの講座を履修する学士課程と、個人で選んだテーマについて論文を提出する修士課程のコースがそれぞれ1年間用意されている。第3期が大学院に相当する博士課程で、最初の1年目に「DEA」と呼ばれる博士論文執筆資格コースを通過しなければならない。ゼミをいくつも受講し、年に数回ほど教授や他の学生たちの前で研究発表を行ない、学年末までに論文を1冊書き上げ、口頭審査を受けて、ようやく博士論文を執筆する「権利」をもらうことができるのだ。こうした厳しい審査が研究者や教育者になるための基本的コースとするならば、高等専門学校=グランド・セコールは社会的エリートのための基本コースということになる。

”エリート養成員としてのグランド・セコール

グランド・セコールにはいくつかあるが、代表的なのは次の4つである。

*理工科学校(エコール・ポリテクニーク)*国立行政学院(エナ)*高等商科学校(アッシュ・ウー・セー)*高等師範学校(エコール・ノルマル)。

 これらのグランド・セコールは、フランスの官界や産業界、あるいは政界などに多くの人材を輩出している。たとえば現大統領のジャック・シラク氏は「ユナ」の出身だし、「エコール・ポリテクニーク」の卒業生には、古くはアンドレ・シトロエン氏(シトロェン社創業者)やジスカール・デスタン元大統領、最近では日本で大いに話題になっている日産自動草の最高執行責任者(C00)カルロス・ゴーン氏など、数え上がればきりばない。

 また、ある大学(パリ)の哲学科の講師によると、彼の同僚の中では、単に大学で博士課程を修了した者より、「エコール・ノルマル」を出ている者の方が圧倒的に多いそうである。これらのグランド・ゼコールヘは、大学の場合のように「バカロレア」の資格を持っていればすぐ入学できるわけではなく、1年ないしは2年間の”準備級”を経て、選抜試験を受けることになる。それに合格して初めて正規の学生として認められるわけだ。

 完全選抜入試という意味では日本で一般に行なわれている大学入試に近いが、その中でも国家レベルのエリート輩出校という意味では、日本でいう東大・京大などの”名門”に相当する専門学校と定義できるだろう。いったん入学してしまえば、ある意味では将来の道は約束され、大学の場合のように「入ったが出られない」学生が続出する場ではないが、たとえば「エコール・ポリテクニーク」の場合、いかに”準備級”で鍛えられても、選抜試験に合格する進級率はわずか8%前後(99年)にすぎない。さらに、その授業内容は、決して楽ではない。1年目には理論コースとして、物理学、数学、情報科学、経済学、生物学など、すべての学生に共通の科目が課せられる。2年目から化学・物理学コース、応用数学コース、経済学コースなどの専門分野に分けられる。3年目からは、実習コースとしてそれぞれ専門の研究書で活躍し始める。この3年間は、国から奨学金も支給されることになっている。こうした厳しい競争を勝ち抜いたグランド・セコールの卒業生たちは、卒業後の社会的威信も大学より高く、概してその出身階層も高い。そのため、「名門」としてその名前自体にも社会的名声がある。また、卒業後も同じグランド・セコールを出た人々の間には強い連帯意識が存在する。政界でも財界でも母校精神が鮮明で、各グランド・セコールには、独自の伝統やアルゴ〈隠語)があり、独自の制服を持っているものもあるという。

「どこを卒業したか」ではなく「何を学んだか」

 ただ、グランド・セコールには名門性としての意味と並んで重要な価値観がある。それは、「どの学校を出たか?」ということより「何を学んだか?」、つまりどの学問を専攻し、そこでどういったテーマを選んで論文を執筆したかが問われる。グランド・セコールを卒業したということは、日本の名門大学のように名前自体に価値があると同時に、文字通り「ある専門分野を究めた」ということに意味があるのだ。これは一般の大学でも同様で、たとえば「私はソルボンヌ大学通っています」と言うと、日本的には聞こえがいいが、フランスでは特に大きな意味を持たない。前述したように、バカロレアの資格を持っていれぱどこの大学でも入れるからだ。もちろん「偏差値」などという概念もない。ここに、日本的”集団主義”とフランス的”個人主義”という2つの社会構造のバックグラウンドが浮き彫りにされている。つまり、大学や専門学校など、相手が所属した”集団”を重視する「学校歴」という意味での日本的な学歴社会と、所属している学校の違いを超越した部分で、相手が”どの分野の””何を”学んだかを重視する「学問歴」という意味でのフランス的な学歴社会。これは現役生や卒業者の社会的認知の違いを表現している。

 たとえば先日、あるパーティの席で、私が博士論文を執筆中だと紹介された際にも、「どちらの大学で?」という質問は一切されなかった。ほとんどは論文のテーマに関する質問で、また各自が以前読んだ本のことや経験談までも話してくれた。終りにはその場にいる20数人の出席者全員が、そのテーマについて議論を戦わせるまでになった。最終的に、専攻分野の内容をどれだけ消化しているかという点にアクセントが置かれているから、大学の試験も、カッコ内を埋めるとか、選択形式で「ある知識を持っているかどうか」を間われるのではなく、「その知識を持って何を考えるか」「ある学説を本人がどう評価するか」さらに「新しい学説をどう組み立てていくか」を間う論述式のものがほとんどだ。つまり”量”としてどれだけ多くの知識を持っているかだけでなく、その知識を本人のなかで消化させた”質”としての学問を身につけることが重要視される。

 教授も単なる知識提供者ではない。知識の探し方、その料理の仕方を見せてくれる。グランド、セコールの1つ、「エコール.ノルマル」を出たある教授は、私にこう語ったことがある。「私は教授(知識を教える)ではない。だから、知らないことは恥ずかしくない。私は研究者(知識を求める、探す)だ」フランスの高等教育とは、社会に出る前に考える力をつけるための場であり、問題意識を抱く場一知の楽しみを味わう場、議論の場を提供してくれる。グランド・セコール出身者が各界で活躍しているのは、単に名門校を出たからというのではなく、実社会でも通用する思考力.判断力・応用力を鍛えているからに他ならない。

 


●アメリカ人も舌を巻くソフト開発力はどうやって育てられるのか?

「受験戦争を厭わない超エリート教育は「暗記」より「理論」を重視!

 コンビュータの誤作動問題、いわゆる「Y2K」(2000年問題)で、注目されたのがインドのソフトウエア会社であった。Y2K対策のソフト組み替えで、欧米のコンピュータ会社がこぞってインドのソフト会社に注文を出したのだ。中心となっているのはインドの都市、インドのシリコンバレーと呼ばれるバンガロールだが、なぜここまでインドのソフトウエア産業は発展したのか。国をあげての産業育成の姿を、超エリート教育の現場から、伝える。

 1998年にアカデミー賞(助演男優賞・脚本賞)を受賞した「グッド・ウィル.ハンティング」(マット・デイモンとロビン・ウィリアムスが共演。ナイーブな天才青年と傷ついたセラピストの交流を描いた感動作、にこんな場面があった。舞台は、米国の理工系ドッブスクール、マサチューセッツ工科大学(MIT)。その教授陣が2年かかった数学の難問を、だれかがたちまち解いてしまった。興奮した教授が、インド系の学生をつかまえて「解いたのは君か」と尋ねる。インド人の能力が米国でどう評価されているか、垣間見えるようなシーンである。インドにおいて、MITにまさるとも劣らない水準を兼ね備えるといわれるのが、学部、大学院を併せ持つ国立インド工科大学(IIT)だ。インドに500校余りある工学系大学の頂点がIITで、首都ニューデリーほか主要都市を中心に6校あり、それぞれ所在地の名前を冠している。

 99年3月、ノーザンテレコムなど特定法人顧客向けソフトで知られるインワォシスが、インドのソフトウエア開発企業として初めて米国の株式市場に上場して注目された。同社CE0のナラヤン.ムルティはIITカンプール(北インド一ウッタルプラデシュ州)の出身だし、取締役の出身校にもIITボンベイ(注・現都市名はムンバイであるが校名は踏襲)やIITマドラス(現.IITチェンナイ)が並んでいる。IITは、45年、英国からの独立を経て近代化へ踏み出すなか、連邦政府が、欧米大学の水準に匹敵する科学技術教育機関の必要性を提唱したことに端を発する。50年代から60年代初頭にかけて設立・開校された。

 コンピュータ科学/工学分野に力を入れ始めたのは70年代から。以来、ソフトウエア開発にかけては、米国と並んで世界の86頂点に立つエリートを輩出する殿堂を誇ってきた。

インドのエリート学生は修士号まで目指す

 超一流校だけに、学部課程には毎年10万人もの志願者が殺到する。しかし定員数は6校全体でわずか3000人、平均して1校当たり500人だ。この500人が、航空工学・機械工学・土木工学など8つの専攻に分かれるので、最も人気のあるコンピュータ科学/工学の学生は各校60〜70人にすぎない。少数先鋭教育で、教授と学生の比率は1対6程度である。

 熾烈な受験戦争は、小学校段階から始まる。インドの教育制度のハード面は英国のそれを受け継ぐため、初等(5年)、前期中等(5年)、後期中等(2年)、高等(3年)が基本。ただし理数系に限らず、学士号では中途半端な印象があり、少なくとも修士号まで目指すのが普通だ。特にコンピュータ関連の就職競争の激化は、学歴インフレに拍車をかけている。学部課程の選抜は、中等教育段階の10年生と12年生で決められ、大学ごとに実施する入学試験はない。

 この共通試験の目標点だが、人文・社会科学系志望の場合が7割であるの対し、理数系志望は8割と高めに設定されている。後者の試験科目は、物理学・化学・生物学・数学・英語の5科目だ。インドの高等教育機関における講義言語の比率は英語が高い。とりわけ超一流校には全国から学生が集まることもあり英語使用率が高くなる。IITの講義は英語で行なわれるため、専門科目の成績がどれだけ良くても「英語ができない者は出願に及ばず」と注記されている。ちなみに、米国等へ留学する際に必要な英語力試験・TOEFLの各国別スコアで、約150国中、インドは常に最上位圏に入る。最下位圏から脱せない日本では、インド人の卓抜した英語力とコンピュータ専門職の資質との相関関係が無視されるきらいがある。

 「日本のコンピュータ専門職には国際的に通用する英語力を持つ者が少ない」と説明しても、インド人は形容矛盾だと理解に苦しむのだが。抜きんでた英語力は、国際競争力のあるソフト開発うえでも、最先端の市場である米国の動向把握にも不可欠なばかりでなく、世界的な人材市場でよりよいポジションと報酬を求めることが可能な武器を握ることも意味する。実際、IITの修士課程と博士課程の学生には、欧米のトップ企業や大学・研究機関からの青田買いが集中する。米国シリコンバレーの一翼を担うインド系移民を、他のアジア系移民と比較すると際立つ特徴がある。

 移民の第1世代は2世以降の踏み台で3世あたりから芽が出るものだが、インド系移民の場合、1世からアメリカンドリームをかなえてししまうことだ。移民にせよ一時的居住者にせ国外にいるインド人は、インド側からNRIと呼ばれる。5大陸に1300万人と見積もられている。米国企業が先争うようにソフト開発をインドに発注し始めた80年代半ば、当時のラジブ政権、NRIと産業の将来性に着目し外資の参入障壁を緩和する制作に踏み込んだ。これが、ラオ政権による91年からの本格的自由化に受け継がれた。そしてIBM、ゼネラル・エレクトリツク、ヒューレツトバッカード、コンパックなど、これらの企業誘致の牽引力になり、加えて現地法人の管理者として赴任したのが、多くのNRIだったのである。

政府がエリート教育を率先しているのがインド

 受験戦争の話に戻すと、連邦政府は伝統的にエリート教育重視のために、教育予算もほとんど大学・大学院に充てられる。後期教育までは州政府の管轄であるため、予算不足と英語学習が手薄になることを恐れて、IITのような超一流を狙う家庭は公立校を避ける。学費の高い私立校に通わせ、さらに1000ルピー以上の月謝を払って共通試験対策の私塾をかけもちさせる。圧倒的多数の貧困層が1日をやり過ごすに必要な金額がせいぜい10〜20ルピーなので、このようなことができるのは裕福な中産階級以上だ。たいだい、日本では殆ど知られていないが、自他ともに認めるエリート教育を施すかわりに学費は極めて安価だ。

 IITボンベイを例にとると、学部課程(3年)が年間2万9000ルピー、修士課程(1年半)が同じく2万4000ルピー、また、学生寮も格安で整えられ、奨学金制度も非常に充実しているインドのキャンパスは往々にして車がなければ移動できないほど広大で、それ自体が、ひとつのコミュユニテイを形成している。敷地内にレストランやショッピングセンター、病院やスタジアムなどを設け、勉学に集中しやすい環境づくりがなされている。これらには連邦政府の助成もあるが、アルムナイ(同窓生)のネットワークと、アルムナイが多く関わる内外の企業が、ビジネス上の要請と人材確保のために多額の寄付を寄せることが多い。IITデリーには、IBMやインフォテク、タタ・インフォテク、韓国のサムスンなどが、修士課程で年間1人当たり2500〜7000ルピー、博士課程で6000〜1万5000ルピーの奨学金を提供している。

 IITは産業界とのインタラクションを重視・奨励し、企業や大学と合同で研究開発や人材育成を活発に行う。ただし、カリキュラム編成や教授、講師陣の選定などにおいては、高度に自律性を保つ。一流校ほどこの傾向がある。セメスター(2期)制をとり、講義形式は、チュトリアル(教授と1対1、もしくは少人数単位で受ける指導)と米国式のレクチャー及び実習の3種類を組み合わせている。テキストや指定参考文献にほ、米国や英国その他欧州で出版された専門書が多い。なかでもMITとケンブリッジ・オクスフォード両大学など、大学出版局のものが目につく。再び「グッド・ウィル・ハンティング」を引くが、この作品では中盤、19世紀末のインドに現われた実在の天才、ラマヌジャンが紹介される。正規の学校教育をまったく受けていなかったこの少年が、連分数の難題をまたたく間に解くのを見て、ケンブリッジ大学のハーディ教授は驚樗した”彼はラマヌジャンを研究室に招き、後世に重大な影響を与えた数々の理論を共同で打ち立てた。このような歴史的背景もあってか、インドの理数系教育では数理、すなわち理論が重視される。ソフトの構築・解析という作業を鑑みた場合、かつソフト開発のコストの4割以上が人件費という事実を考え合わせると、理論面に強いということがいかに有利かわかるだろう。かといってIITは、いわゆる専門バカになれというのではない。IITが養成するのは近未来の社会全体を担うリーダーであって、そのために、英語力の向上はもちろん経済学・哲学・社会学など人文・社会科学系の素養を必ず修めるよう、特筆して要求しているのである。

 


あらゆる分野のエリートが兵役時代の3年間の「軍隊教育」の中で育てられる

 現在のイスラエルでは18歳に達すると男性は3年間、女性は2年間兵役につくことが義務つけされている。また予備後は、将校、下士官は1年につき45日間、兵は30日間の任務がある。これに加え、職業軍人がイスラエル国防軍をつくっているわけだ。国防という分野が国家建設に大きな役割を果たしているイスラエルにとって、軍の教育がどのように人材育成に関わってくるのか、解説する。

軍情報部の精鋭サイバー部門「シュモネ・マタイム」

 総務庁などを中心に中央省庁のホームページが軒並み不法侵入にあって書き換えられた、書かれた言語、内容などを見ると、おりから大阪で開かれていた南京虐殺問題を疑問視する集会に対する抗議であったことが想像される。一方ではアメリカのポルノ・ホームヘージヘのリンクがなされたものもあるようで、個人ないし単一のグルーブということではないように見える。しかし全部の省庁がやられたわけではない。数千回の不法侵入が試みられながら被害を受けなかったものも存在する。そのちがいはファイアーウォールというセキュリティーシステムの有無にあったらしい。少なくとも侵入されたところはすべてファイアーウォールを備えていなかった。と書いたところでファイアーウォールを備えた人事院がやられたというニュースが飛び込んできた。専門家の話では設定がおかしかったのではないかという。この見方が正しいかどうかはいずれ明らかになっているのだろう。ファイアーウォールは現在もっとも標準的なコンピューターのセキュリティーシステムだ。

 現在ではいくつか違ったコンセプトのものが存在するが、最初のシステムの名で総称されている。この最初のものがイスラエルで開発された。開発者たちは軍情報部の中でも特にサイバー部門の精鋭を集めた8200部隊の出身者だったといわれる。シュモネ・マタイム(8200)とよばれるこの部隊は18歳から21歳までのパソコン大好き現役兵50人ほどが毎年加わるだけの小さな部隊だ。銃を撃つわけでも戦闘機を飛ばすわけでもない彼らが軍でなにをしているのかは厳重な秘密で守られている。

 しかしその”卒業生”たちがコンピュータ・ソフト業界で起こしている大きな波乱は秘密どころではない。日本でもはやり始めたE-mailには不便なところがある。私書箱と同じようなものだから、相手がそれを開いてくれなければ届かない。したがって急ぎの用には向かない。そこでICQが考案された。I seek youをもじったものだ。これを使うと、連絡したい相手が現在インターネットに接続しているかどうか分かる仕組みになっている。そこでメールを送れば相手の画面に割り込むので、確実に伝わるし、チャットをすることも可能となる。これは無料で配られたために瞬く間に多数が使用し始めた。このICQはまもなくAOLに4億ドルで買収された。

 DSPCというベンチャーは携帯電話用の新しいチツブを開発した。パソコンのCPUだけでは将来に不安を感じ始めたインテルがこの会社を16億ドルで買収した。インテルの買収例としては第2位の金額だが、全額キャシュで払われたという点では最大の買収劇だ。またXDSLとよばれる技術がある。電話線の音声が使っていない部分をインターネットに使おうとするもので、ISDNよりはるかに早いスピードがえられるはずだ。次世代インターネットの媒体が無線、ケーブルテレビ、衛星回線などいろいろに議論される中で有望視されている技術だ。NTTをはじめすでに線を張りめぐらせている電話会社としては、この技術を開発できれば時代においていかれないですむかもしれない。この分野では0RCKITというベンチャーが先頭を走っている。このほかにも枚挙にいとまのないハイテク・ベンチャーの多くが8200の卒業生たちの起こしたものだ。軍用に開発したもののスピンオフもあるから、軍から民生用の使用許可が出るまでに時間がかかることもある。また軍で才能を磨いた若者たちが卒業後にまったく新しい技術を開発することもある。イスラエルのハイテク技術の多くは直接、間接に8200に負っている。次世代のファイアーウォールもまた8200から生まれるのかもしれない。

イスラエルの基礎ほすべて軍にあり

 ハイテクだけではない。いろいろな意味でイスラエルの基礎は軍にある。その中でも一風変わった士官コースが軍にとどまらず種々の分野のエリートを生み出す英才教育の場となっている。バラク首相は昨年の総選挙でネタニヤフ首相を破って政権の座に就いた。彼が最初に取り組んだのは4年間にわたって中断していたシリアとの和平交渉再開である。両国の和平がなれば、”世界の火薬庫”と異名をとって戦後史に一定の位置を占めていた中東紛争は終焉する。ネタニヤフの前任で道なかばに凶弾に倒れたラビンはパレスチナ、ヨルダンとの和平を達成した。この3人はともに軍歴がある。国民皆兵のお国柄だから、軍歴があるのは不思議でもないが、ラビンとバラクの両方が制服最高位のイスラエル国防軍参謀総長だったのは偶然ではない、ネタニヤフは特殊部隊の将校だった。イスラエルでは希有な才能とヴイジョ.ンを持つ政治家だったペレスはラビンのあとを継ぎながらネタニヤフに敗れたが、彼は軍曹止まりだ。

 イスラエル軍が立ち上がって間もない初期はともかく、元軍人の政界、財界での活躍はめざましい。1947年11月29日、出来たばかりの国連はパレスチナ分割決議を採択した。それが翌年のイスラエル独立につながる。ところが分割決議の翌日からパレスチナは戦火に覆われた。危機感を覚えたパレスチナ人と独立を目前にしたユダヤ人の闘争である。戦火はイスラエルの独立とともに拡大した。今度はエジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラクとアラブ5か国の正規軍が介入したからだ。イスラエルはこれに勝利したが、数において断然優勢なアラブにいつかは負けるのではないかとの恐怖感にとりつかれた。こううして安全保障が国家的大命題となる。国民皆兵にならざるをえなかった。経済的発展も、福祉国家の基盤づくりも、道路・水道といったインフラも国家が存続しなければ意味がない。最良のものが軍に集められた。しかも数で及ばない部分を質で差をつけることが大方針となる。英才教育は必要に迫られたものだ。国によって軍の中核は異なる。米軍の中核は職業軍人の下士官にある。イスラエル軍は将校なしに成立しない。

 その将校養成に特殊な方法を用いている。イスラエルにはアメリカのウェストポイント、イギリスのサンドハースト、日本の防衛大学のような士官学校は存在しない。こうした士官学校は下士官兵とは別コースになっていることが多いが、イスラエルの場合全員が同じ底辺から出発する。徴兵された高校卒業生たちのうちで優秀なものが推薦されて将校コースに進む。将校を育てるには暇も金もかかるから、現役でやめられては元が取れない。したがって将校コースに進む際には現役のあと一定期間職業軍人になることを契約するのだが、もっとも優秀なものは現役の3年間に中尉まで進む。この中からエリートが生まれるのである。尉官で数年間を過ごして学費をため、大学に進むものもある。そのまま佐官以上に進むものはたいてい軍の費用で大学で学ぷ。欧米の陸軍大学に行くものもいるが、多くは軍事と関係のない。留学するものもあり、大学院に進むものも珍しくない。

 軍事職人にとどまらず広い視野をえることがイスラエル軍の強さの秘密らしい。ごく少数をのぞいて50歳まで軍人ているものは少ない。最高位のバラクが軍を引退したのが52歳だった。したがって第2の人生は広く開けている。しかしその風潮も少しずつ変わってきた。和平が進み、安全保障が絶対の命題でなくなったためだ。また侵略戦争と定義されるレバノン戦争(1982)、パレスチナの非武装闘争インティファーダ(1987)は軍にまつわる神話を風化させており、必ずしも優秀な若者が将校の道を選ばなくなった。イスラエルは来るべき時代の英才教育の道を探っている。

 


過半数の企業が「学力低下」を実感!

人気企業の人事部長は学生の「リーダー体験」を見ている

 今春の4年制大学の内定率(99年12月1日現在)は74,5%と過去最低だった。厳しさはもう日常化したが、そんな中でも企業は新しい人材なしでは生きていけない。企業の人事担当者が現在の大学生や大学教育をどう見ているのか、何を学生に求めているのか、アンケートした。

 まず、各社の来年度の採用予定と方針について聞いた。「今年度並み」が半数弱と今年も厳しさが予想される。採用方法については、マイクロソフトが、「人数は決めず優秀な人材がいれば職業別、初任給格差アリで通年採用している」というように採用の多種多様化が進んでいる。履歴書やエントリーシートの内容で重視するポイントは、「今年も通年なみの採用を考えてますが、グルーブで仕事をするので、リーダーとなりうる人を求めている。さらに新しいことに積極的にチャレンジし続けられる人」(ニフティ)と、志望動機に次いでリーダー経験が挙げられている。

 専攻内容や所属ゼミを重視するのは、メーカーなど理系学生を採用する企業に多い。取得資格は情報関連や簿記など志望職種と関連が深い資格や、TOEICなど語学関係の資格が挙げられた。反対に、「アルバイトを自慢のように話す人は不要」という意見もあるほどで、一見アピールポイントとなりそうなサークル活動やボランティア経験、アルバイトは意外と下位だ。

エリートには賛否両論

 「選考過程ではやはリ面接です。変革マインド、スピード、実践力をもち、専門知識を駆使しながら利益を生む仕組みを考案し、それを実現できる人材を今必要としています」住友商事の人事部長がそう言うようにアンケートした105社中102社と、ほぼ全社が面接を最重要視している。

 面接のポイントは各社様々だが、求める人物像として自ら考え、行動できる人」(情報、住宅)、「個性豊かでバイタリティー、創造性に富み、主体的に行動できる人」(機械)など、自立性や主体性を挙げる企業が目立った。自分自身でやりたいことを明確に持ち、向上心に富んだ人物」(繊維)、自ら成長しようという意欲の高い人」(製薬)、「柔軟な発想カや好奇心、チャレンジ精神と行動力を持った個性豊かな人材」(マスコミ)など、意欲や向上心を挙げる企業も多い。

 「入社後、活躍するために重要な資質しとして自己啓発・自己実現の意欲」がトップになっていることも同様の理由からだろう。「面接などで学生と接して、大学生の学力低下を感じるか」という質問では、「感じる」との回答が過半数を占めた。「誤字が多い」など、国語力の低下を嘆く意見が最も多かったが、自分が得意とする分野があっても底が浅い」(電器)など、専攻分野の知識不足も指摘された。アンケートでは「学力低下を食い止める処方箋として、一部で「エリート教育」の必要性が訴えられているが、これについてどう思うか」という質問も行なった。回答は賛否が半々に分かれた。「機会の均等は行き渡っていると思うので、こうした取り組みは必要」(機械)、「大学教育はすべからくエリート教育であるべき」(電器)などが賛成意見の代表例だ。

 外資系企業からは「英米仏ほか先進国では当たり前であり、戦後日本の経済力を引き上げたのは現在の60代までではなく、旧制学校卒のエリートであった事実を考えても必要です」という意見もあった。「単なる知識教育の延長ではなくフーブレス・オブリージ』(高貴なる義務)のごとくの精神教育とのバランスが必要」(機械)、「従来の価値観での延長で行なうならナンセンスである。実践的かつ独創的な教育システムに期待」(マイクロソフト)、「エリートの定義にもよるが、早期から特に秀でた才能を発見し、育てることは急務。受験秀才は育成しても意味がない」(情報)と、「工リート教育」の内容が重要という意見も目立った。反対意見では「学生のうち、ごく一部を対象としたものであるため、学生全体のレベルアップには役に立たない」(建設)、「優秀な人材育成のための手段としては効果があると思うが、学力低下への歯止めをかける処方箋としては疑問。学校教育の場で行なうことは疑問」(繊維)といった、学力低下阻止の処方箋につながらないとの指摘が大多数だった。

「社会と教育が乖離」

 アンケートでは最後に「日本の学校教育全般で欠けている点、もっと充実させてほしいと思っ点は?」という質問を行なった。帝国データバンク・取締役人事部長こう語る。「経営的側面とは別に営利を副次的なものにして、学びたいことを十分に学べる仕組みが必要です。それが逆にグローバルな視点につながる。学力に変化はないと思うが、これからは従来の「読み、書き、そろばん」に代わるものとして、特に「パソコン、語学力」の教育が必要でしょう。回答では一般社会や企業で実際に役立つ教育が行なわれていない」(マスコミ)、「社会が求めている学力、能力、資質と学校教育のカリキュラムとにかなりの飛離があるように思える。創造力、論理的思考力、コミュニケーション能力、企画カなどが身につくカリキュラムの開発を求めたい」(住宅)などの批判が目立った。「生きた英語力・ディベート力・専門分野の追究、学際的思考力の養成」(製薬、マスコミ)、という意見に集約されるように、より実践に近いカリキュラムの充実を求める声が多数を占めた。

 単位取得のあるインターンシップ、企業人の講師の受け入れなど、産学協同の推進を求める意見も多く、「技術立国の基盤を支えるための職業教育制度(ドイツのマイスター制度のようなもの)の整備が急務」(運輸)との意見もあった。「職業観をイメージさせるような教育を早くから実施し、自分なりの人生観を確立させ、他者に左右されない自信を持たせるべき」(繊維)、「何となく生きている学生が多い。自分は何をしたいのか、何のために生きていこうとするのかを明確にさせ、目的を持った生き方をする人間を育成してほしい」(通信)という意見は、そのまま現在の大学生へのメッセージになるだろう。

 最後に資生堂・人事部長の言葉を借りよう。「わが国のますますのグローバル化を前提にすれば、これからの時代は正解のわからない初めて直面する課題がますます増える。そんなときに前向きに挑戦する。それが必要条件です」就職戦線いよいよ本番、読者のみなさんへ、がんばれ。

 


外資系企業の採用担当者は言う。

 「海外、少なくとも米国で、学生の就職活動がニュースとして大きく報道されることはありません」米国ではどうなのか。米国に20年間仕み、3年前に帰国した青谷正妥助教授から米国の就職活動について簡潔なメールが寄せられた。「米国の大学は9月に始まり、5月、6月に卒業していきます。卒業直後の7月、8月に就職先を決め、9月から働くという学生が多い。しかし、専攻する科目によっては、始まりや終わりが微妙に違い、それぞれ活動時期も違います。一方、企業は欠員が出れば求人を出すのが普通で、日本のような『4月一括採用』という形態を取っていません」さらに「エージェント(代理人)」制度もあるとのこと。「米国ではいろいろな交渉に代理人を立てるのが普通で、就職活動にも、それを専門とする『エージェント』がたくさんいます。依頼人(学生)は金を払う必要はなく、そのエージェントを使った企業が払います。エージェントは1次選考を任されていることも多く、各企業の雇用担当者と連絡を密に取っています」

 昨年12月にマサチューセッツ州立大学を卒業、現在は米国での就職を考えている女性(28)からメールが届いている。「私は私立の有名女子短大を卒業し、化学メーカーに入社しましたが、明らかに短大卒と大卒の給料に差があるのが不満でした。そんなこともあり、3年間働き、しっかり資金を貯めて留学しました」そして、米国での就職活動についてこう書く。「一般的にアメリカの学生はインターンシップを経験して就職に緒びつけるケースが多い。企業側もインターンを経験した学生を優先して採用するので、学生にとっては、とても良いシステムです」彼女も、大学のインターンシップ課を通して、4年生の1学期間(約3カ月)大手の広告代理店で働いた経験がある。「昨年9月初めにインターンシップ課を訪れ、いくつかの会社を紹介してもらいました。そのなかで、自分のやりたいものに近い会社1社に絞り、面接を受けました。面接と履歴書だけのごくカジュアルなものです。実際にインターンとして働いてみて、企業のことや働いている人、業務内容がよく分かり、10月を過ぎるころから、この会社に就職したいという気持ちが強くなってきました」幸い、希望していた「ウェブ系グラフィックデザイン」のポジションが空いたとの連絡がインターン先の人からあり、近々正社員の面接を受ける予定だ。

 彼女によれば、就職する際に学校名はあまり重要でなく、それよりもGPA(成績)や授業以外の活動や実務経験を問われる。また、学生の方も企業に入って何をしたいのかを具体的に面接の場で明示し、企業に対する質問もたくさんしている。質問のない学生はその企業に興味がないか、やる気がないとみなされるという。なかでも「日本と違うな」と思ったことは、「入社する前に自分がどんな部署に配属され、どんな仕事をするのかが明白な点です。募集の際に企業が細かく業務内容について提示する。面接の場で学生が、それを確認することも出来る。実際に一緒に働く人たちと誘をする機会も与えてくれます」米国では、「就職は個人と会社の契約」という観念が強い。採用の決まった後で業務内容が変更されることはほとんどない。それから、「日本のような学力テストは聞いたことがありません。”履歴書”、”個人面接”、”推薦状”で判断されるという。

 一昨年、カナダに留学していた私立の外国語系大学四年の女子学生からのメールにも、「会社側が提示している時間帯に電話やメールで面接の予約を入れ、面接当日に履歴書を持参するという形が一般的です。面接は基本的に1対1で30分ほど。何段階かある場合もあれば、一度で採用となることもあります。友達が決めたカナダのコンサルタント会社では、2回の面接と社員の前でのプレゼンデーションが課せれだということです。採用時期については、本人の希望と会社側の話し合いで決まると言っていました」日本の学生は、協調性や個性など自分の性格ついてアピールしがちだ。欧米では、どのような組織で、どのような実務経験をし、どんな技術や能力を持っているかをアピールできるかが、採否を決める。推薦状はそれを裏付けるものとして、企業側が提出を求めており、本当に能力や資質があるのかを推薦者に直接間い合わせたりしている。

 米国の学生が就職先を選ぶ際の意識も日本と違う。京都大学留学生センターの青谷氏は言う。「企業の名前で選ぶことはない。『待遇と給料』がすべてです」「就職に勝つ」とは、一流企業に就職することではなく、どんなポストでいくらもらえるか、なのだいう。「個人主義が強く、〇〇企業の一員という帰属意識は薄い。行きたい企業が見つかれば、すぐに転職していく。1年いればベテランと言われるほど、流動化が激しい」(青谷氏)しかし、こうも付け加える。「企業もプロジェクトごとに人を募集し、それが終われば後の保証はなし。それに中途が新卒を蹴散らしているので、実務経験が乏しい新卒はなかなか思うような職にありつけない状況です」、日本も「いい大学を出れば、一流の企業に入れて、その後は安泰」という時代ではなくなった。会社に帰属するのではなく自分で切り開く力が求められている。なのに、いまだ「志望していた企菜や職に就けなかったらどうしようと、最初の就職先であたかも一生が決まったかのように思う学生も多い。

 そういう意味では、「キャリア」を意識した米国の学生の方がメンタルな面で強そうだ。「転職が前提の米国の学生は、最初に働いた会社がどこか、ということはそれほど重要視してない。むしろ、そこでどんな仕事をするか、そこからどうステップアップしていくかを考えている。だから内定を取るためにはどうするべきか』とか、『採用基準がどうか』などを、マスコミが取り上げることも少ないのだと思います」とは、冒頭の採用担当者。現在米国の大学に留学中で日本の企業に内定した男子学生は、こう指摘する。「日本の学生は『どうしてもここに入りたい』と思うが多く、入るまでは一生懸命がんばる。しかし、入ってからがいい加減になっ.てしまう。一方、米国では、とにかく入ったら一生懸命がんばります。そして、そのがんばりをアピールします。企業もがんぱれば認めます。米国にはそうした企業風土があります。

 


世紀最初の成人式は全国各地で荒れた。

 高松市では新成人が壇上の市長めがけて至近距離でクラッカーを鳴らし、高知市では橋本大二郎・高知県知事に向かって「帰れ、帰れ」と手拍子を打ちながら連呼した。とっくの昔に形骸化している成人式を今後も続けるのか、それとも廃止するのか、続けるとしたらどんな内容に変えるべきなのか

 成人式は来年以降、フーリガン(暴徒)化するだろう。今年の騒ぎを見た“新成人予備軍”が、あんなにおもしろいものはない、自分たちもやってやろう、と思ったに違いないからだ。おそらく高松市で市長に向かってクラッカーを鳴らした連中が逮捕されたぐらいのことでは効き目がない。というより、あれほどマスコミが大きく取り上げたら逆効果だ。マスコミが大きく報じれば報じるほど、さらにエキサイトするのがフーリガンの特徴だからである。マスコミが大きく取り上げたことによって、来年の新成人はもっと周到に計画を練り、手くすね引いて成人式に臨むに違いない。フーリガンというのは理屈なく騒くものだ。なぜ、騒ぐのかといえぱ、みんなが騒ぐから騒ぐ、いけないことだからこそやりたい。それだけの事である。暴走族が中央高速で行く初日の出暴走と同じレベルなのである。したがって、今回の荒れた成人式に対するマスコミの「あんなことをするのはけしからん」とか「もはや税金を使って成人式をやる時代ではない」といった論調は的外れだ。全く問題の本質がわかっていない。今年、新成人が全国各地で騒いだのは、成人式で“偉い人”が訓辞をたれること自体、もはや何の意味もなくなっているからだ。意味のないものに対して若者たちが意味を見つけようとすれば抵抗が出てくるのは当然である。

 日米安保闘争時代には大学生がモロトフカクテル、いわゆる火炎ビンを投げていたわけだから、かつてそういうことをやっていた今の大人が成人式で騒いだぐらいで若者に説教したり、嘆いてもしょうがないではないか。それに、もし私が今年の成人式の会場にいて退屈な訓辞を聞かされたら、自分もクラッカーを鳴らしたり、やじを飛ばす側に回ったと思う。

成人式は高校、大学の授業風景と同じ。

 実は、日本の高校や大学の現状は成人式と大差がない。以前、某有名私立大学の教室にカメラを入れて1時間撮影したところ、真面目に授業を受けているのは最前列の学生だけで、あとの学生は全く講義を聞いていなかった。それどころか、私語がうるさいため、後ろの席ではマイクを使っている先生の声さえ、ほとんど聞こえない。授業の途中で入ってくる学生と出て行った学生の数は同じぐらいで、出て行った学生はタバコを吸って戻ってくる。携帯電語でしゃべるのは当たり前。メールにとどめるのはコンビニの弁当を机の下で食べているのと同じぐらい礼儀があるほうだ。先生に「なぜ、私語を禁止しないのか?」と質問したら、「怖くてそんなことは言えない」という答えが返ってきた。この状況は、超一流大学を除けば、どこも似たようなものだという。要するに、今年の成人式を問題視するマスコミや大人のほうが認識不足なのである。あれは特殊な出来事ではなく、大学や高校の延長線上、すなわち普段の延長線上に過ぎないのだ。彼らにとって、あの程度の行儀の悪さは全く違和感がない。今の若者は、先生であれ知事であれ市長であれ、誰かがしゃべり始めたら自分たちにもしゃべる権利があると思っていさいる。だから、それを諌められると、ムカついて暴れる。サッカーでフーリガンを鎮圧するために警察が出てくると、いっそう暴動が激しくなるのと同しことだ。

 そう考えてくると、来年の成人式が静かになる可能性はゼロだということがわかるだろう。では、どうすればいいのか。朝日新聞社が実施した全国世論調査によれば、市町村が主催する成人式は「やめたほうがよい」(47%)が「続けたほうがよいし(43%)を上回ったが、私は成人式は存続させるべきだと考えている。なぜなら、成人式は選挙権を持ち、大人としての責任を持たねばならない年齢になったことを自覚する大きな節目の儀式だからである。

 ただし、今のままの成人式を続けることには反対である。親の言うことも学校の先生の言うことも聞かない若者たちに、知事や市長の訓辞なんか聞かせてもしょうがないからだ。私の成人式改革案は、今日本の若者や国が抱えている深刻な問題を成人式の中に織り込んでいくことである。成人式で最低限やらなくてはならないことは何なのかを考え、それに目的を絞り込むべきなのだ。成人式でやるべき3つの事柄を挙げようそして、その目的は3つしかないと思う。

 1つ目は、人生をどうやって生きるのかについて考えてもらうことである。具体的には、新成人自身が主催してディスカッションパーティを開き、親の言っている人生、先生の言っている人生ではなく、もっといろいろな人生があっていいんだということを議論する。私が推奨するのは、直近にヒットした書籍や映画などを素材にする方法だ。たとえば、飯島愛さんの告白本プラトニック・セックス」(小学館刊)を教則本として、彼女が出演したAVも会場で紹介し、その生き方をどう思うのか、みんなでディスカッションをする。飯島さんは、中学2年生での家出、ラブホテル通い、同棲、ホステス生活、援助交際、豊胸手術とAV出演を経て、今ではメジャーな芸能人になった。それを読んだ若者たちは「自分に正直に生きている」「涙を誘われた」と言い、ほとんどの書評もそう礼賛しているわけだが、私にはそこまで礼賛一辺倒でいいのかという思いもあるので、本当に飯島さんの生き方に共感する価値観が正しいのかどうか、新成人に議論してほしいのだ。そして、人生というのはバラエティに富んでいて、心がけ1つでどうにでもなる、自分が船長やドライバーになって操縦しないと大変なことになる、ということを理解してもらいたいのだ。

 目的の2つ目は、お金の大切さを認識させることである。日本にはお金の使い方、借り方、返し方がわかっていない人が非常に多い。現在、日本でクレジットカード会社のブラックリストに載っている“カード破産者”は750万人に達している。25歳の人が25万円の商品をクレジットで買った時に代金を払えなくてトンズラする率が25%。これは0ECD加盟国の中で最悪の事故率であるばかりか、どこの国よりも2桁以上人きい。クレジットカードの使い方を間違えて借金地獄に陥り、人生が真っ暗になる若者が後を絶たないのだ。

 そこで参考になるのがデンマークのやり方である。デンマークでは生まれた時、全員にIDカードを交付し、成人になったら選挙権と銀行でお金を借りるにもこれを使う。これが威力を発揮して、デンマーク国民はみんな真面目に“信用”について考えるようになった。同じ手法を日本でも成人式のタイミングで取り入れてはどうだろう。私の提案は、保険付きの「クレジットカード」を出席者全貝に渡して講習を受けてもらうことである。成人式に弁護士や金融の専門家が来て、クレジットカードを間違って使ったら、名前も語れず、住所を年中変えて逃げまくらなけれぱいけない惨めな人生になる、ということを実例を交えて分かりやすく説明し、正しいお金の使い方を教えるのだ。その上で「クレジットカード」を1枚ずつ交付する。このカードには特典として支払い不能になった場合の保険が付いている。ただし、その保険が使えるのは1回だけ。いわば、交通違反をした人が講習を受けると免許停止期間が短縮されるのと同じように、成人式で“お金の怖さ”、“クレジット社会において信用を失うことの怖さ”について講習を受けた人は、その見返りとして、もし事故を起こしても、1回だけ国にもみ消してもらえるようにするのだ。そうすれば、750万人の不幸はかなり避けることができるのではないか。

 目的の3つ目は、新成人に対して国が700万円の借用証書を渡すことだ。700万円というのは、今の時点で国や地方自治体が彼らから無断で借りている1人当たりの金額である。つまり、彼らの最大のイベント、成人式で政府と自治体がこう謝罪して、政治を真面目に考えることの重要性を訴えるのだ。「実は、日本の国はみなさんに断わりなく今日までに1人700万円ずつ借りました。だから、ここで借用証書を渡します。みなさんは700万円を返してもらう権利があります。それを選挙権と言います。今後、みなさんが選挙権を正しく行使していい国を作ってくれたら、700万円は全部返ってきます。ただ。但し、それを怠ったら1円も返ってこないどころか、借金は毎年5%の複利で雪ダルマ式に増えていきます。だから、選挙権を正しく行使して、700万円を返してもらえるよう「日本株式会社」の社長(首相)をしっかり監督ください」と。ここで会場からは質問を受ける。おそらく新成人たちは「どうして何も責任のない自分たちが借金を背負わなければならないのか」と怒るだろう。

 それに対しては「申し訳ないけれども、こうなったのはみなさんの先輩が悪いんです。とはいえ、いまさらそれを嘆いてみても始まらないので、その怒りの鉄拳を選挙権というかたちで行使して借金を取り返してください」と、政治を真剣に考えてきちんと投票に行くことが人生最大の仕事だと教える。アトラクションとして、明石家さんまの『恋のから騒ぎ』のお仕置きみたいに、時の首相の人形を大きなピコピコハンマーで気がすむまで叩いてもらってもいいだろう。その結果、政府を真面目に監督するぞという決意が固まった人には、出口で20枚綴りの「選挙券」を配る。その券は1枚行使して1回投票するたびに最寄りのコンビニで弁当が1週間分もらえるようになっている。これは公明党の発案によって実行された「地域振興券」のアイデアを拝借し、より健全に改良したものである。

 このようにして選挙権の大切さを若者たちに思い知らせることは極めて重要なことだ。彼らは無能な政府や自治体に対して激怒すべきであり、成人式の会場でおもしろ半分に暴れている場合ではないのである。だからこそ、自分たちがこの国を直していかないと丸損の人生になるということを、マイナス700万円の事実を突きつけ、自分白身の切実な問題として実感してもらわねばならないのだ。

 以上3つが、私の“成人式改革案”である。ただし、これを全部やる必要はない。どれか1つだけやればいい。3つ目は全国一斉にやらなければ意味がないが、あとの2つは自治体単位で構わない。いずれの案も、かかる予算は今と変わらないと思う。奇抜なアイデアだから、そこまでやるのか、と言いうやつがいるかもしれないが、そこまでやらなけれぱ、わざわざ税金を使って成人式を執り行なう意味はないし、来年以降のフーリガン化を防ぐこともできないだろう。そもそも私は「成人は18歳にしろ」が持論である。20歳で成人式をやるのは無理があるからだ。働いている人が半分、学校に通っている人が半分なので、利害が一致していない。だから義務教育を3年間延長し、18歳で大人として認める。18歳になったら酒とタバコを解禁し、選挙権も与える。もちろん犯罪をおかした場合は少年法ではなく大人と同じ法律を適用する。18歳を成人にした上で、前述の3つの案のいずれかーつを取り入れた成人式を行なう。それがベストがと思われる。