はじめに
はじめに
「曇りガラスを手で拭いて,あなた明日が見えますか」(“さざんかの宿”)の歌詞の通り日本の先行は不透明。世の中,常識破壊と大競争の「大変な時代」である。大学も例外ではない。大学が構造的不況業種といわれて久しい昨今,その危機的状況は,われわれの予想を越えるスピードで迫ってきており,特に地方私大は深刻である。
教育への受益者負担原則や資源の保障のない,かつ教育予算の国際的な脆弱性を固定化した上での市場原理導入の波も,押しとどめようがない。だから改革が急務の課題となり,「火の玉となって断固改革を成し遂げる」との決意表明も生まれようというものである。
それゆえ今,戦後最大の大学改革(『第3次教育改革』)が進行中であり,この間,国立大学では文部省指導(誘導)で教養部が解体され,学部の新設や改組が断行された。私大を巻き込んだ形で盛んに自己点検・評価が行われ,かつ学生による教員に対する授業評価も実施された (明確な教育理念がないままに…あるいは文部省向けに…強制されて…)。
すなわち,大学設置基準の大綱化から10年,各大学における教育・研究・社会サービス活動の個性化,多様化に向けての新しい改革の波は,さまざまな試行錯誤を繰り返しつつ,(少なくとも表面的には)高まりを示している。
だが,ここ10年間の(上からの)改革を総点検すれば,大綱化は,(教養軽視型)カリキュラム改革のオンパレードで大学から教養を消し去り(2000年6月の大学審議の「審議の概要」 答申ですら,『1991年の大学設置基準等の大綱化以来,大学生と大学卒業者の教養の低下が進んでいるのではないかとの危惧の声がある』と指摘している),
さりとて専門教育も,目的意識や勉学意欲に乏しい学生の大量入学とマスプロ教育,そして教育技術の未熟さとがあいまった『二つのシゴ(講義での「私語」とゼミでの「死語」)』状況(最近は「メール私語」)では極めて中途半端,結局『知の空洞(無教養)化』に拍車をかけただけであった。
大学院重点化政策も,特に文系大学院卒業者の社会的評価,中でも企業の大学院に対する見方が定まらないままで大学院のマスプロ化と大衆化を促した。セメスター制は単なる細切れ授業,シラバスは電話帳で資源の無駄(ナベ敷きには利用できる?),分厚い「自己点検・評価報告書」は,手前勝手な,かつ自己満足(自己弁解) 的・形式的な内容で,(作成にかかわった人も含めて)ほとんど(誰も)読まない。まさに資源と労力の壮大なロス(その代わり,受験産業等が策定した大学の「外部評価」が定着しているが…)。インターンシップも実際どれだけの効果があるか大いに疑問(2〜3週間の企業研修で一体何がわかるというのか,現実的な職業観を涵養するためのインターンシップは,相当程度長期間にわたって実施する取組が必要である),否,大学という狭い空間でのみ生存し,社会経験がないか極めて少ない教職員のインターシップ(社会体験)こそが,急務の課題(単位互換と平行した教員の互換が必要),授業評価は,場合によっては(叱られた経験のない“まじ切れ”する)学生のウラミハラスメントの場になり,教師と学生のよりよい関係構築の疎外要因を醸し出す。一体全体,何のための改革だったのか!
結局,知識の軽量化もさることながら,ほとんど新聞を読まない上に,テレビは芸能番組やスポーツだけという,知的好奇心(学習意欲)の欠如状態で,自分で物事を考える力(知恵)が衰えた学生を,教養教育の軽視でさらに思考能力を低下せしめ,難解な専門教育を一方的に施して試験期間のみ「暗記」させ,終わればすべて「忘却」という状況をつくりだしただけである。
その結果,今や文化や芸術が大学から生まれると考える人はいなくなっている。
それでなくても社会的常識の欠落・モラルの低下(挨拶の欠落,時間にはルーズ,途中入場・退場自由,授業中の私語・居眠り・携帯・メール・お化粧・飲食,くわえタバコ,吸殻・ビンカンのポイ捨て)が著しいのに,大学が学生の生活指導を放棄した結果,そうした傾向をますます増幅させることとなった。もとより,そうした人間をつくってしまったのは,社会的常識を軽視するとともに,自分の頭で考えることを停止し,ペーパーテストの成績がよければ良しとする風潮(思考)を生んだ(暗記)知識至上主義の(大学合格を教育の目標としてきた)社会構造と,人間としての教育をしてこなかった学校教育と家庭環境にその元凶はある。
かかる現実は,制度改革(イジリ)や報告書作りに時間と資源とエネルギーを使うばかりで,改革の遂行が教育の空洞化を進めているのではないかとの疑問を生み出すのに十分であった。すなわち現在の大学改革は,空中楼閣で,モラルと教養の軽視による日本人の知的崩壊を促している側面が否定できないのである。
とはいえ,改革の必要がないというわけではない。否,旧態依然とした現状では,大都市圏の一部ブランド大学を除いて,特に地方私大は,社会的に評価される大学として21世紀に生き残ることは困難である。少子化と相まってすでに入試の意義を事実上喪失したことを意味する競争率1倍台の大学が地方のみならず,都市圏でも続出しており,定員割れの大学も短大から4年制大学へ移行しているためである(99年度は「大学全入化時代元年」,00年度はそれに拍車をかけた)。
マスコミは(例えば若者に人気のある某週刊誌は「競争率1倍台のユニーク大学は」とのタイトルで)面白おかしく,こうした状況を特集する。さらに大手予備校は,偏差値をつけられない(付けようのない)ほぼ全入大学(実質競争率1.2倍以下の学科・入試方法)に対してF(フリー)ランク付けを行い,それを全国紙系列の週刊誌が大々的に報道する。そこは,地方大学のオンパレードである。名前が載った大学(私大全体で3807ある学科や入試方式のうちFランクがつけられたのは17.7%にあたる673学科・入試方式で,Fランク付けされた学科や入試方式を持つ私大は全体の4割にあたる197大学である。ただし2部・夜間は除く)のイメージは…,もはや論ずるまでもない。今回は載らなかったが,いずれ遅くない時期に名前が掲載されると思った大学も決して少なくない。
だからこそ,改革が必要なのである。最大の問題は,これまでの改革の方向が制度改革に終始したことに代表されるように間違っていたということである。
1.現代の大学のキーワード
疲弊した現代の大学をキーワードで表すれば,以下のようになる。
『少子化』『4重苦』『量的拡大』『人生の一大休憩所』『人材選別配給装置』『就職への通過駅』『人材供給機関』『入試と就職の緩衝地帯』『社蓄養成機関』『カルチャーセンタ』『レジャーランド』『大衆化』『義務教育』『アラカルト入試』『AO入試』『秋季入試』『ネット(インタラクティブ=双方向)入試』『プレゼンテーション入試』『国(公)難私易』『文低理高』『青田買い』『客集め競争』『大学全入時代』『定員割れ』『大学大恐慌』『上り列車志向』『大学ランキング』『不本意進学(入学)』『不本意出席』『仮面浪人』『失望』『不登校症候群』『引きこもり現象』『ダブル(トリプル)スクール族』『教育依存症候群』『燃え尽き症候群』『楽勝コース(科目)』『1遊び,2にバイト,3にサークル,4・5がなくて6に(楽勝)単位』『前列聞く人・中列寝る人・後列騒ぐ人』『逆U字型』『居眠り+二つのシゴ(私語)と死語』『連続講演会風授業』『無質問行動』『卒業したがらない学生』『惰性で大学院』『講義崩壊』『753』『授業は3T(退屈・つまらない・手持ちぶさた)』『授業がわからない(大学の授業が成り立たない)』『現代の学生,学年進行とともに学力が低下する』『アルバイト必修・授業選択』『幼稚な高校4年生』『小学13年生』『シケプリ(試験はシケプリに乗って)』『モラル崩壊(奨学金返還滞納金額200億円)』『知の空洞化』『大学の自然崩壊』『学力崩壊』『興味があっても5月まで』『くさった学生,くさった教授』『補習(正)授業』『リメディアル教育』『法学部砂漠』『2(3)極化』『進路不明症候群』『教養の崩壊』『常識の欠落』『学生の幼児化と教職員の社会性の欠落』『愚者の楽園』『オール・オア・ナッシング』『予備校に貸したひさし』『大学の専修学校化』『入学させてやる・教えてやる』『大学教育の無機能化』『喫茶店代わりの女子学生』『恵まれ過ぎの大学生活』『逆ギレ』『(研究は)企業1番・大学2番』『(教員は)干物』『薄皮饅頭(餡=改革の案ばかり)』『超・超氷河期』『学生失踪』『集団脱走』『大学ビッグバン』『教育格差(所得格差)』『新3ない(規範感覚ない・人間関係ない・達成意識ない)主義』『だらしな系風俗』(金パツ・ケータイ・ジベタリアン)』『就職』『就職砂漠』『人生18歳確定説』『年齢輪切り主義』『大学は出たけれど』『フリーター』『3悪癖』
2.地方私大の行く末
大学の定員と受験生の数が一致する「2009年問題」(大学全入時代)ともいわれる少子化の影響は,私大にとっていまや憂慮される段階にあり,高等教育の世界は,これまでの「大学が学生を選抜する」時代から,「学生が大学を選抜する」時代に突入した。特に地方大学への影響は深刻で,「2009年」と,悠長なことはいっていられる状況ではない。それはわれわれの予想をはるかに越える勢いで進行しており,押しとどめようもない(2000年度私大連盟『大学問題研修会要領』参照)。
総論的には大学は,「選抜の厳しい大学,入学の際にある程度の競争を伴う大学,事実上誰でも入れる大学」の3極分化,あるいは一部の都市圏を中心とする「難関(ブランド)大学」と,経営維持のため,一定数の学生を確保しなければならない結果としての「(事実上の)無試験入学(全入)大学」とに2極化することは間違いのない事実である。
多くの地方私大が,後者に属することはいうまでもない。現に,2001年度入試のキーワードは,「入れる大学より,難しい大学へ」「地方の大学より,大都会の大学へ」であるといわれている。
ところで,『4重苦(地方・私大・低偏差値・短大)』といわれる揶揄されるゆえんは,大学側にもそれなりの問題があった。ここ数年,各地に相次いで開校した地方の公立大学は,それなりに時代のニーズにこたえた個性的な学校作りを目指し,不況も追い風になって,受験生(父母)の人気も高い。それに引き換え,地方私大は,資源の問題もあり,組織改組やFD開発・カリキュラム改革などが後手後手に回り(あるいは方向性を間違え),社会や受験生のニーズに合わせた自己改革を進めてきたところは少数だったためである。
同時に地方私大の苦悩に対し,(地方私大の凋落は,地方の活力低下の要因となるにもかかわらず)地元自治体や地方財界はあまりにも無関心であることが,そうした状況に拍車をかけた。
こうした現代的状況は,各大学に,新たな大学像の下での社会的使命と教育機能の再構築を果敢に行うこと要求しているといえる。つまり今,我々に問われているのは,これまでの改革の検証と新たな改革案の模索であるといえよう。
特に存亡の危機に陥っている地方私大にとって,それは急務の課題である。そのキーワードは,教職員の意識改革(発想の転換)の断行である。逆説的にいえば,「大学教職員(学生)の意識改革は果たして可能なのか」というテーマこそが,最大の課題なのである(だが,改革がいわれ始めたからもう10年,教職員の意識は何も変わっていない?)。否,今,日本の大学は,(ばかげた)莫大な無駄使いをしているのである。
結論的いえば,「学生の幼児化と教員の社会性の欠落」(阪大法学部『学部評価』)に代表される現代の閉塞した大学の状態を抜本的に打開する方策は,護送船団方式の文部行政の構造的転換,つまり,文教ビッグバンよる大学自由設立主義の採用にある。大学の国家権力(文部省)からの自立である。これこそが大学改革の根幹的条件…。つまり,大学はどんどん(自由に)新設されるべきなのである(倒産も致し方ない)。こうした基礎構造が確立されない限り,大学改革(教職員・学生の意識改革)などありえない。大学(教育)改革は,完全自由化・規制の廃止に始まるといって,決して過言ではないのである。
3.改革のキーワード
大学改革がいわれて久しい今日,それをキーワードで表現すれば,以下のようになる。
『21世紀の大学像』『大学サバイバル』『連合・統合』『大学はサービス産業』『マーケティング(高校教育との接続,学生獲得,学費入試と学部教育)』『バーチャル・キャンパス』『面接重視』『市場志向型大学』『インテリジェント・キャンパス』『デジタル図書館』『スペース・コラボレーション・システム(衛星通信大学間ネットワーク事業)』『大学連携(コンソーシアム)』『DCC(デジタル・キャンパス・コンソーシアム)』『アドミッション・ポリシー』『新しい教養教育』『教養教育(リベラルアーツ)の再構築』『独立法人化』『差別化』『入学前教育』 『センモン(専門)・センスよりコモン・センス』『講義単価』『単位制授業料』『毎日の授業が大学の生命(いのち)』『研究の前に国語・算数・コンピューター』『情報教育』『シラバス』『授業(逆)評価』『自己点検・評価』『FD』)『教育支援』『セメスター』『カリキラム』『クリエイティブ』『ディベート』『プレゼンテーション(パワーポイント)』『大学院重点』『専門(特化)大学院』『アウトソーシング』『M&A』『GPA(グレート・ポイント・アベレージ)』『アカウンタビリティー』『マルチメディア授業』『黒板と白墨から,液晶スクリーンとマウスへ。孤立から連携へ』『任期制』『都心回帰』『TA・SA』『学習支援システム』『教員評価』『国際化』『国際競争』『情報ネットワーク』『インターネット講座』『電子ゼミ』『ボランティア』『オフィスアワー』『遠隔通信授業』『単位互換』『インターンシップ』『資格取得支援(エクステンショスクール・インスクール)』『オリエンテーション』『エデュテインメント』『コンピュートピア』『大学の授業をノリノリに』『エンターテイメント』『プロデューサー』『アドバイザー』「カウンセラー」『教育功労賞』『生きた授業(やる気再び)』『(ネット)補習授業』『表現力』『課題探求能力』『主専攻と副専攻』『学生の多様化』『体験学習』『セメスター』『基礎学力の充実』『サイバー学長室』『生きる力(心の教育)』『ゆとりある教育(知識偏重偏差値至上主義の反省)』『個性尊重』『創造性』『考える教育』『疑うこと』『課題探求能力』『サークル指南』『奨学金』『自己覚醒』『自己責任・自己判断』『クリティカル・シンキング』『土曜日には大学へ行こう』『日本語』『ランチタイムトーキング』『家庭訪問』『教職員の教育業績評価』『進路支援システム』『就職支援環境としてのネットワーク』『就職開拓』『多様化する雇用環境』『就社から就職へ』『キャリアプランニング』『就職のための三種の神器(リクルートスーツ・携帯電話・パソコン)』『ライフスキル(人間関係・自己表現・問題解決・分析能力・自己管理計画)育成としての教育』『求められる人間像(企業・社会)』『スピードとチャレンジ』『リカレント教育』『進路不明症候群』『サラリーマン新時代』『学士の品質保証』『起業家養成講座』『起業支援』
4.21世紀の地方私大のあるべき姿
さて,私立大学が存続し発展するための最重要課題は,教育・研究・社会サービスといった広範な領域における各大学のビジョンの実現を可能ならしめる経営基盤の確立にある。限界を超えつつある学費負担や国家財政の逼迫状況を勘案するとき,大学特有の意思決定プロセスの不透明さとあいまって,この課題の解決には大学構成員のさらなる英知の結集と多大な学外からのサポートが必要不可欠である。
だがしかし,日本社会には,教育(大学・教員)批判はするが,まじめに教育(大学)問題を考え,かつ教育(大学)に資本を投資する政策も習慣もない。反面学歴(大学歴=高偏差値)だけは評価して,受験勉強に狂奔し資本を投下する。これが苦悩する日本の教育=大学問題の外的課題である。
他方,国立大学が独立行政法人化され,私立大学と国立大学がイコールフッティングになる新たな状況も目前に迫ってきている。もとより,大学経営の問題は,直接それに携わる人だけではなく,大学を構成するすべての人に共通する,否,社会全体の課題といわなければならない。また最近,大学を非営利組織(NPO)という観点から捉え直そうという動きも出始めているが,大学を経営対象としてどのように位置づけるかは大変困難な問題である。いずれにしても大学という組織体を過度に特殊扱いしない客観的分析の姿勢が望まれ,大学経営の構造的および組織風土的特質を踏まえつつ,「大学経営」の課題について全構成員が考えねばならない課題である(2000年度私大連盟『大学問題研修会要領』参照)。
ところで私学に対する国庫助成が限界状況のなか,長期にわたる景気の低迷で,多くの国民(学費負担者=大学のスポンサー)は,高騰する教育費の負担に四苦八苦している。反面,高額の学費を投下しても,フリーター人口150万人(1997年現在)に見られるように,就職が思うようにならない事態が現実のものになっては,国民の大学に対する投資熱は急速に下降せざるを得ない。
その上,大学の授業は無味乾燥の『3T(つまらない・退屈・手持ち無沙汰)』で,教室は,『前列聞く人・中列寝る人・後列騒ぐ人』,学生は『1に遊び,2にバイト,3にサークル,4・5がなくて,6に(楽勝)単位』(『アルバイト必修・授業選択』)であるならばなおさらのことである。
大学経営の主たる原資である学生(学費)獲得のみに狂奔した(貧しい教育に対する国家的投資のゆえに,そうせざるを得なかった)大学は,「複線」入試と称して「猫の目のように変わる」(当該大学の教職員すら理解できない)複雑怪奇な入試制度を導入したが,肝心の入学後の授業(カリキュラム)は相変わらず「単線」のままである。これでは入学後に混乱(大渋滞)が起きて当たり前。例えば一芸一能入試やスポーツ優先選考で入学した学生(その数は決して少なくない。否,今後確実に増加する)に対して,こうした特性をまったく考慮しない単線的カリキュラムで,学習を強要することは無謀としかいいようがない。みようによってそれは,“いじめ”ですらある。しかしその対策は,依然としてたてられていない。
結果は,安易な単位の認定(授業にでなくても卒業できる),中途退学,登校拒否(不登校・ひきこもり現象),留年生の増加,就職率の低下等による大学の社会的評価の長期低落である。
「ベネッセ」による大学生の意識調査(『大学生の意識調査―1997年に国公私大の学生約15000人に行ったアンケート』)によると,学問に燃える新入生は91%に達するが,その後は45%に半減し,「入学前のイメージと入学後の実感にギャップがあった」という学生が約7割に上っている。さらにその半数以上が「授業に手ごたえがない」「講義が面白くない」などと答え,入学後の失望感,つまり大教室での一方的な授業や交流の希薄さがみてとれる。また,目的意識のない学生への失望や本当にやりたいことが見つからないいらだちも感じられる。この調査結果は,こうした大学の授業の現実を如実に表現しているといえよう。
かかる現状を打破する抜本的な大学の教育(授業)システムの再構築,これこそ今日の大学改革のキーポイントである。限られた大学財政のより有効な活用のため大学の資源は,ここ(教育)に直接重点的に投下されなければならない。しかしてこれを可能にするには,大学経営者と構成員(教職員及び学生)の発想な大胆な転換が必要である。
さて,大学「全入時代」は,高校教育の多様化とあいまって,興味・関心・履修歴など,あらゆる面で多様な学生が進学してくること意味する。それは,高校教育と大学教育との接続のあり方と,卒業時の学生資質を含めた社会(企業)との新たな関係構築を急務の課題にする要因でもある。
つまり,全入時代の未知の世界で大学は,「どのような学生を入学させ,その質をどう維持し,いかなる教育を展開するか?」というテーマ(学生の現状を見据えた改革)が肝要となる。換言すれば,学力・学習意欲・興味(好奇心)・進路等あらゆる面で多様化した学生を前提として,それにどう答えるかが大学の最大の課題となるのである。
5.大学(教育)改革の具体的課題
大学の主役は,学費を負担している学生(及びスポンサー)である(学生消費者=主権=主義)。しかしこの当然のテーマが,日本の大学には欠落していた。それどころか,大学の主役は教員であるとすら考えられてきた。否,そのような発想はまだまだ根強い。「教員による教員のための大学」であリ,学生は完全に阻害されてきた。換言すれば,大学,特に私学は学生の納入金で運営されているが、このことを意識している構成員は皆無(一部)であるということである。誰も,学生の金で生活していると思っていないし,学生も自分の金で授業を受けているという意識がないのである。これが苦悩する日本の教育=大学問題の内的課題である。
それは国民主権の思想が形骸化し,納税者主権主義が幻想化している現代日本の政治状況と奇妙に一致する。国民主権主義の視点から遊離した政治改革の断行がそれである。短小軽薄なマスコミを利用した「改革スローガン」の情緒的先行で,国民不在のままの制度改革だけを行った結果,莫大な血税を政党に注入した上に,金のかかる政治を放置した挙句の選挙において大量の死票で国民の政治参加の道を閉ざしたことがその典型である。政治家の中で国民の税金で生活しているとの認識を持っている人が果たして何人いるであろうか。
つまり,これまでの大学改革は,学生の意見や志向を無視ないし軽視した,かつ教職員の発想の転換もない,その上,教育方法論や教育技術の開発のない単なる制度(カリキュラム)イジリであったといわねばならない。
すなわち,現代の大学改革の原点(視点)は学生とスポンサーにある。結論的にいえば,こうした発想が大学としてできるかどうかに改革の成否がかかっている。できなければ,地方私大は倒産への道を歩むこととなる。できれば改革の半分はなったのと同じである。意識(発想・価値観)の180度転換を意味する。
企業でいえば,客の提案を会社が商品化するという発想である。21世紀は,ユーザーとメーカーの立場は逆転,消費者が欲しい品物をメーカーに要求する“社客転倒”の時代である。現に,消費者の声をインターネット等で集めて“理想の製品”をつくろう,という新しいビジネスが次々に出現している。短時間に多くの意見を集められるネットの特徴を最大限に生かしたアイデアである。
つまり21世紀には,日本の産業全体が「つくる側(「売り手側」)から「使う側」(「買い手側」)へ発想を転換することを余儀なくされる。社会全体の「サービス産業化」である。
「間違いなく大学は,サービス業である」との命題を確認するまでもなく,大学もそうした状況(“教(職員)学(生)転倒”)に遭遇しているからである。
換言すれば大学は,援業料の対価として,学生に「知的刺激」「知的興奪」を提供する,『サービス産業』であるとの認識を教職員が共有できるかどうかが,改革のキーワードになる。
しかし,社会経験が皆無に等しい大学内の人材(教職員)だけでは,かような発想やアイデアは生まれようがない(といえば言い過ぎか?)。そこで学生やスポンサー,ないしは学外の人たちからアイデアを募ることが肝要となる。それに際して最重要な課題は迅速な実行力である。実行力なきかかる政策は時間(資源)無駄遣いでしかない。要はアイデアと実行力である。
総論的にいえば,大学教育の基本的使命である,激動し変化の著しい現代社会において指導的・創造的に活躍できる自立と創意にあふれた人間の育成という観点からの教育改革が必要ということである。それはまた,各大学での学生に対するサービス業としての新たな学習支援体制の確立を急務の課題としている。つまり,価値観が多様化している最中,人間的に成熟する最も大切な時期を大学で学び過ごしている学生に,さまざまな学習機会や魅力ある授業を提供できる環境の整備と教育システムの再構築が,いま大学に求められている最大のテーマといえるのである。
そのための第1の課題は,いかにして個性ある大学にするのかということである。入学した学生にどのような付加価値をつけて社会に送り出すのかという,個々の大学の基本政策(基本的教育理念)の明確化である。
それは,横並びミニ東大的発想を転換した,限られた資源を有効活用する特徴ある大学への再構築(大学の性格づけ)を意味する。
一方には,徹底した(日本語を含めた)語学教育を行うとともに,高度情報化社会に適応するコンピューター教育で,多種多様な情報媒体をそれぞれの特性に応じて活用する「技」を身につけさせ,修得した技を屈指して(情報機器を使いこなして)収集した情報を取捨選択・分析し,問題解決策を模索できる能力を獲得させる「実践・実用型大学」がある。
他方,モラルや社会生活の基本ルールを身につけた上で,ボランティアをはじめとする体験学習や学外研修をふんだんに取り入れ,批判的能力と豊かな思考力や感性を鍛えるため哲学,論理,倫理,歴史,環境,現代社会事情などを徹底して学ぶ「教養型大学」といった形態も考えられる。
後者は,2000年6月の大学審「審議の概要」(以下特に年代の記述がない場合はこれを指す)が指摘する「グローバル化時代に求められる教養を重視した教育の改善充実」を前提とした「高い倫理性と責任感を持って判断し行動できる能力の育成」を教育の目標とする大学である。すなわち「グローバル化時代において,ますます価値観が多様化する中で,世界中の様々な人々共生し,地球社会の一員として活躍する人材には,その時代と活躍の舞台にふさわしい教養と専門的知識が必要である。社会全体としても教養の重要性が改めて指摘される中で,我が国の高等教育においては,新たな教養教育の在り方を考慮した教育の推進が求められる」かつ「学際的・複合的視点に立って自ら課題を探求し,論理的に物事をとらえ,自らの主張を的確に表現しつつ行動していくことができる能力が必要とされる。さらに,その根底には,自らの行為及びその結果に対する深い倫理的判断と高い責任感を持って行動する成熟度が求められる」ためである。
法律,医療,経営管理,教育,国際関係など,高度の専門職や研究者を育てる役割は,大学院がもっぱら受け持つほうが適当(現実的)である。
特に出口である就職状況を勘案すれば,(特に文系)学部の特性はまったくない(地方はさらに顕著)。また就職試験が早まり,かつていわれた「大学3年制」から,3年後期には就職活動が事実上始まる実態を直視すれば,もはや大学は「2年半制」と言ってもよい状態である。つまり3年制や2年半制の大学で,しかも現実の授業の実態と単位取得状況を考えれば,多くの大学で高度な専門分野学習の可能性は希薄といわねばならない。
かかる現実と,モラルハザード(倫理観の欠如)が顕著で社会的常識が欠落し,かつ自分で考える力が低下している学生の実態からは,地方私大は,教養型大学として再生するほかないとの結論になる。まずは教職員同士の挨拶と教職員のインターシップ,それにボランティアとコンピューター教育から始まる。いずれにしてもこうした能力を教職員がまず持って身に付けなければならない。教職員の再教育こそが,大学構築の基礎構造ですらある。
特に地方私大の文系学部は,一度解体すべきである。地元にある大学だからとの理由で,かつ志向性も定まらないままに同一大学の複数学部を受験し,たまたまある学部(しか)に合格しなかったために特定学部に入学するといった実態を勘案するとき,また,企業は学生の専門性をほとんど問題にしない(期待しない)ばかりか,専門性を生かした職業に就く学生が皆無の地方文系私大の実態からは,もはや学部の存在価値はないと言っても過言ではない。解体してもコース制で十分対応できる。学部制にこだわるには,現実を軽視した教員の一種の幻想と自己満足でしかない。
少なくとも大学審が指摘するように,「学生が大学に入学する際に,学部のみならず,学科まで決める必要がある場合もあり,実際に入学してから,自らの興味・関心と修得する学問との間に齟齬を感じる学生が少なくない」状況からは,「学生の募集単位を大くくりにし,入学後一定期間をおいて,学生の進路に対する考えがより明確になった段階で希望に応じて専門に分けたり,学部間の移動を行いやすくしたりする」などの工夫を早急に実行しなければならない。取り敢えず(まずは),学生の学部間移動を自由化(学生の流動性の確保)すべきである。
第2の課題は,入試の撤廃,いいかえれば,入・退学自由システムの構築である。何が起きるかわからないマニュアルなき21世紀は,「知識(暗記)より知恵(創造力)」の時代である。暗記教育の結果(学力試験)と受験教育一辺倒の予備校や高校教員によるマニュアル教育の模範回答(推薦入試の面接)では,人間の限られた能力しか測れない。少なくとも(もとよりこのような現実を醸し出したのは他ならない大学自身であるが),現代社会が必要とする「自分で考える能力」を現代の入試制度で見ることはできないのである。
「国をあげて受験に熱中するという単純化へのおろかしさ。……略……これが戦後社会が到達した光景というなら,日本はやがて衰弱するのではないか」(司馬遼太郎「この国のかたち」)との指摘はまさに至言である。
偏差値という一つの価値観で人間を選別した日本の教育システムは,個々人の「潜在的能力を鼓舞する」という教育本来のあり方とは逆の,人間を落胆させる方向を目指してきたのではないのか。計算はできても,応用問題ができない,ロボットみたいなマニュアル人間(サイボーグ人間)のオンパレードとか,高学歴の人・指導的立場にある人ほど判断能力が弱まっているばかりか腐敗している現実は,こうした教育価値体系の悲しい結末ですらある。
さて,入り口(入試)で,そうした能力を見分けることが不可能であるとすれば,全員合格させるほかない。否,資源が極めて限られた地方私大で,この全入時代に,入試に枯渇しつつある資源を投下し,労力をかけるのは“愚か”ですらある。
全員入学させた上で,学習意欲がある者を選別する方がはるかに効果的である。指摘するまでもなく,好奇心や意欲を掻き立てる教育が展開されなければならないが,それでもそれが湧かない学生には(一時)別の方向に転進(就職・退学・休学・遊学・留学等)をすすめる。それによって,旺盛なる好奇心と熱意がある学生が自然に残る結果になるからである(その時点で意欲がなくても,いずれ必要に応じて意欲が湧いてくることもある。その時は復学すればいい)。こうした方策の実行で,大学は同世代のみの学生の集団という事態も自然に解消される。大学に,いろんな世代の多様な人々がいてこそ学生は,ボーダレス社会を健全に生き抜く力を修得できるからその点からも好都合である。
仮に大量に学生が入学して授業が成り立たない状況が現出した場合でも,放送大学をはじめとした他大学との単位互換や土日プラス昼夜開講,あるいはインターネットを使った授業の展開で十分対応できる。また,そうしたシステムの構築で,社会人の入学が増加する。施設のフル利用と(アウトソーシングを視野に入れた)外部人材の活用,そして常勤教職員の1.5倍の働きで,それは可能である。
第3の課題は,大学授業の根幹的再構築(リストラ)であり,これこそ大学教育改革の最大の問題である。
いうまでになく地方私大の存続の成否は,確実に進む少子・高齢社会の下での大学のユニバーサル(大衆)化,急速に変わる学生気質やニーズ,社会全体の多様化現象,つまり,時代が激変する中で,大学(教育)改革を推し進め,すでに死滅して久しい「最高学府」「知の殿堂」「知的散策の空間」という言葉にふさわしい大学を再構築できるかどうかにかかっている。
社会の変化や学生の意識・学力等の実態を無視して自分の(蛸壺的)研究にこだわるような考えと教育(講義)では,大学の社会的責任は果たせない(税金の有効活用とはいえない)。それはまた,伝統的な「象牙の塔」的思考の打破にかかっているといわねばならない。
その原点は,大学とは,「サービス業」で,その命は「毎日の授業」とういう意識を全て(多く)の教職員が共有できるかどうかにある。
(1) 教育(授業)改革の具体策
突入しつつある全入時代の未知の世界を経験しつつある地方私大では,学力・学習意欲等あらゆる面で多様化した学生を前提条件として,そうした学生に教育の面でどう答えるかが大きなテーマとなる。
すでに指摘したように21世紀は,自分で考えて決断する力が求められる時代である。具体的いえば,創意工夫で新機構を打ち出すタイプの人間=ひらめきのあるスマートな人,換言すれば,自立思考のもと,自己責任で自主的に判断できる基礎的な思考能力や長い人生に不可欠な幅広い教養があり,人間性豊かな,クリエイティブな人である。
キーワードは,「生きる力(心の教育)」「ゆとりある教育(知識偏重偏差値至上主義の反省)」「個性尊重」「創造性」「課題探求能力」「教養」(軽視されていたが,2000年11月の大学審答申で高く評価されるようになった。しかし,審議会自身の反省が欠落している)であるといえよう。つまり教育改革は,「創造心・チャレンジ精神の発揮できる社会をつくるため,人間性,創造性をはぐくむ視点を重視する」(橋本内閣時代の「教育改革プログラム」骨子)ことが基本的課題となるのである(だが,これと正反対の,個性を殺した画一的教育で「金太郎飴」的人間を大量生産し,高度経済成長を支える企業に忠実な人材(“社畜”)の養成を強要したのは政府と財界であった)。
さてクリエイティブな人間の養成は,主として体験と訓練(遊びや作業)による学習の積み重ねで培われ(体で覚え),無意識のうちに発揮される。特に考える力は,疑う精神(疑問)をもって学生が(社会で)体験し,いろんな局面に主体的に参加し,多くの失敗を経験することによって育つ。
これは,「カン」・「感性」,つまり,「直感・知覚・巧妙・熟練・敏感・予感・シャープ(ひらめき)」の重視であり,これまでの暗記型・座学授業では不可能であることを意味している。
特に21世紀は,コンピュートピアの時代である(1999年は「インターネット教育元年」でもあった)。「コンピューター万能時代」においては,記憶,計算,記録,翻訳など大抵のことは,コンピューターが代行するから,これからの教育の視点は,コンピューターが代行しない(できない)右脳の力や忍耐力とか体力あるいは社会性などを見つける能力の養成におかれなければならない。
その場合,体験学習が大切な教育方法の一つとなるが,大学が整備できる施設や機器は限られる。反面,社会には無限の教育資源が存在している。限界ある大学の施設を補完する意味合いを含めて,大いに社会の財産を利用し,現実を学生に直視させることが肝要である。実際の教育の舞台である授業において,現実に社会が直面している課題に即して事例研究を進め,討論やプレゼンテーション等の機会を積極的に取り入れるための,それは前提条件となる。
キーワードは,「百聞は一見(体験)にしかず」「百の説法より一つの事実」である。特に都市的刺激が乏しい地方私大にとってそれは急務の課題となる。
大学審が指摘する「多様な文化や価値観を受容し,その中で自らの考え方を主張し,行動できる心豊かな人間を育てるためには,知識だけでなく,多様な文化に触れたり,多様な価値観を持つ人々と交流を行ったりするなどの実体験を持つことが必要である。そのためには,各大学において,ボランティア活動等の社会貢献活動を授業に位置づけるなどの取組を進めるとともに,国内外でのフィールドワーク等の機会を充実することが必要」なるのである。
そのためには教員の教育能力や実践的能力が最重要課題となり,そうした努力を重ねる教員を評価に正当するシステムの構築が肝要である。同時に大学は,こうした教育実践が可能になるよう資本の投下をしなければならない。
なお,企業は(特に理系の学生に対して)「即戦力」・「専門性」を要求するが,これらを矛盾することなく盛り込んだ教育システムの確立(カリキュラム開発を実行し,成果をあげるの)は,現下の限られた資源と人材・時間のもとでは不可能であることを確認することも大切な課題である。世の中,「できること」と「できないこと」がある。われわれの限界を知ることも改革の重要な課題である。
それにしても,学校は「役立つ知識や学問を教えてくれるところ」との,大いなる誤解が世の中に蔓延しすぎている(1999年2月6日付『日本経済新聞)。
(2) 授業(教育技術)の向上策
さて,生涯学習・ボーダレス・情報化の時代における「学習者市場」(学生=消費者主権主義の理念)を念頭に置く時,大学は伝統的概念を越えた,新たな将来像を創造する必要性に迫られている。基本的視点は,各大学が,学習者側の知的好奇心・探求心やキャリア設計上のニーズに応える教育内容と方法(技術)を具体的に提供できるかどうかである。それはまた我々に,新たな大学改革に大胆に挑戦していく努力を要求するものでもある。そのため,各大学は,自己点検・評価の検証を学外者に求めなければならなくなっている(私大連盟2000年度『大学問題研修会要領』参照)。
ところで教育の空洞化,講義崩壊が叫ばれ,セクハラ(逆セクハラ)を始めとする教育界の不祥事が報じられながら依然として問題がなくならないのは,「一種の幻想であるが,教員自身は『自分はしっかりやっている。自分は別だ。よそのクラスは知らないが,自分のクラスは大丈夫。本校に限ってそんなことが起こるはずがない』という自分を特別視する風潮が,今日なお,払拭できずにいる…他人に起こることは自分にも起こりうるし,他のクラス・学校に起こったことは自分のクラス・学校にも起こりうるのであるが…。特に大学の教員の場合はプライドが高いこともあって,『自分だけは正しい。間違ったことをしていない』という思いには並々ならぬものがある。それが,独善・排他性・傲慢・ヒステリックな反応となり,他(生徒・親・同僚・上司)への押しつけ,横柄な態度となって表れ,形は反省しているように見せかけていても,真の反省,見直しや自己変革を困難にしている…教育改革の障害は,実は教育界内部にあるのである。大学改革が叫ばれているが,何よりも第一歩は,教員自身の自己覚醒=自己変革でなければならない」ことが大学教育再生のキーポイントとなるのである。
教育に関する現代の問題の根幹は,「大学教員は,教育に無頓着,板書や話術・映像の利用などの基本的な教授技術も不足している」との社会(学生)の批判に答える教育技術の開発である。その基本的テーマは,
「1,講義は学生と眼をあわせ、2,板書はゆっくりと、2,教師は学生に触っては行けない(肩に腕を回したり,熱心な握手は誤解のもと)、3,カンニングに寛大であってはならない。カンニングに対する最大の守備は攻撃である(『大学授業の心得』玉川大学刊)。
多くの地方私大は,否応なくユニバーサル・アクセス型大学となる。しかしてそのキーワードは,教育方法の多様化(ダイバーシティ)である。それには,社会の必要に応じて学びたい人が,年齢を問わず,なんどきでも学べるようなシステムの確立が,急務の課題となるが,それはまた大きな社会の構造変化に対応した教育内容や教育方法の改善を意味する。
その主要な教育方法・手段の第1の課題は,教育情報機器の活用である。時代はマルチメディア(衛星通信+インターネット+イントラネット+ホームページ+電子掲示板+チャット+パワーポイント+Eメール+映画+ドラマ+ドキュメント+CD+カセット),地方民放だけではなく私大も,デジタル化に乗り遅れると生き残れない。否,地方大学にこそ一番大切なものである。マルチメディアこそ,大都市との情報格差を解消させる唯一の手段だからである。
端的にいえば,2002年度からの新学習指導要領で,情報教育が大幅に増加されることから一躍脚光を浴びた,コンピューターの映像や音声を使って「楽しく学ぶ」情報教育の新分野として注目されるエデュテイメント(エデュケーション+エンターテイメントの造語)が,今後の大学教育の中でも中心的に位置づけられなければならない。
生まれたときからカラーテレビがあり,コンピューターゲームで育ち,携帯電話や電子メールでコミュニケーションを図る映像世代にして,「IT(革命)時代」に生きる学生に提供する授業だから,それは当然の結果である。もとよりパソコンやインターネットの使い方を教えるのが情報教育ではない。情報を使いこなして何か新しいモノや,やり方をつくり出す術(すべ)を身に付けるのが情報教育である。
それは,大学審のいう「情報リテラシーの向上」の内容となる。つまり,「情報通信技術の飛躍的発展は『知』の創造や伝達の方法を大きく変化させるとともに,価値観や創造性の意味にまでも変容を迫っている。このような中で,大学教育においては,学生に,グローバルな広がりにおいて,主体的に情報を収集し,分析し,判断し,創作し,発信する能力を養うことが不可欠である。その際,情報モラルや,情報機器及び情報通信ネットワークの機能にかかわる基本的知識や能力の習得を重視することが必要」となるのである。
ならばこうした授業の提供が可能な施設の整備が大学の(まずは)最低の条件となる。限られた資源を集中的に投下するのである。そして教員は,研究の前に,コンピューター等の情報機器を使いこなせる能力を修得しなければならない。教員による生涯学習の実践である。率先垂範してこそ,授業にも説得力が生まれるというものである。活字世代の教員と映像世代の学生のギャップを埋める一つの,かつ重要な契機でもある。しかも,コンピューターの学習を通して,若い学生のアイデアを借用すらできるし,学生から教わることもできる。教育の原点がここに蘇る。「教え,教わりながら,互いに成長する」ことこそが,教育の真髄だからである。それを可能にする道具がパソコンである。
例えば,講義の教材をパワーポイントを使ってスクリーンで展開することによって,映像世代の学生の興味を引き,学生のプレゼンテーション能力修得の模範となる。その教材を学内共有ファイル(イントラネット)に保存することにより,学生は授業後に自由に,かつ好きなときに復習ができる。インターネットのホームページで公開すれば,誰でもいつでも利用できる。
一種の教材公開(授業公開の第一歩)であるが,それにより教材作りに(授業にも)一定の緊張感を生みだす契機になり,アイデア創造の原点ともなる。もとよりマンネリの解消につながる。予習の絶好の題材提供であるとともに,資源節約の契機にもなる。いうまでもなく,情報機器の活用で,黒板(白板)の乱雑にして読めない字で学生が苦労することもないし,何よりも書く時間の節約になり,学生に考える時間を与えることができる。
また,『チャット』や『電子掲示板』でゼミを公開すれば(電子ゼミ),学生と社会人の交流を図ることが可能となる。その成果をホームページで公開すれば,学生の情報発信能力獲得の契機に,そして教員の授業のアカンタビリティにもなる。これこそ現代社会の発展(変化)にマッチした授業であり,「開かれた大学」の実践である。
またホームページを公開し,各種の情報を発信することで,それらは学生や社会へのメッセージとなり,かつ学生のホームページとの相互リンクで学生との新たな接点ができる。さらにメールやホームページ上の電子掲示板の活用で,学生とのコンタクトが可能となる。
それは,「大学は,単に知識を教授するだけではなく,人格形成期にある青年層の学生にとっては,教員や他の学生との触れ合いや相互の交流を通じて人間形成を図る大切な場である」という前提から「キャンパスにおいて直接対面授業を行うことを基本」(大学審)としてきた大学の機能(しかし昨今,かかる機能が限りなく低下してきている)を回復させるとともに,さらに充実させる契機ともなる。
だからこそ,大学審も「情報通信技術の発展の中で現在急速に普及しているインターネットは,知識や技術の伝達の手段として大きな可能性を有するものであり,大学教育におけるインターネットの活用は,学生が自らのペースで学習を進めたり,ネット上において適時に教員との間や学生相互で意見交換を行ったりすることができるなど,学習者主体の学習を促進するものと考えられる」として,その積極的活用を期待している。
結論的いえば,マルチメディアが学校を変え,コンピューターで学ぶ楽しさを回復させる。つまり,情報機器の活用は,大学教育に最も重要な「自学自修」体制確立の一つの,そして重要かつ効率的な教育方法の実現を意味し,同時に,国庫助成に対するささやかな社会への還元にもなるのである。
第2の課題は,方向的な考える授業体制の確立である。
大学の「講義(特に法学部)の多くは,ただ教官が前にたって一方的にしゃべって帰っていく。これなら学期のはじめに教科書を1冊配って帰っていくだけでも同じ。いや本の方が聞き取りにくいこともなく,板書が読めないことも隣の私語が気になることもないし,突然休講になることもない。好きなときに何度でも学習できるし,よほどまし」(『法学部砂漠化』―東大・大学総合教育センター)という現代の大学に共通している授業方法の転換である(1998年12月7日『朝日新聞』)。
すなわち日本の大学の教育方法は,教師が教科書の内容を教え(教師がただひたすら教壇で語り,否つぶやき),学生はただ黙々と(硬いイスに耐えながら)聞いている(いや,極論すれば私語や居眠り・メールをしながら終わるのを待っている)タイプである。筆記はさせても,その内容について議論したり,討議したりすることがほとんどない。試験はあいも変わらず暗記問題で,あらかじめ問題をいう場合は,カンニングが横行し,試験終了とともにすべてを忘却する。
これでは,教育で大切な,教えられた事が真実かどうかを自分で確認する(疑うこと)ことなどできない。そのための一つの手法であるディベートを経験する学生は皆無(よくてほんの一部)。ディベートという言葉さえ知らない学生が多い現状では,民主的な考え方とか,多様な価値観を受け入れる気持ちは育たない。
それでは21世紀の国際社会には通用しない。今,社会(企業)は,クリエイティブな人材を求めているためである。クリエイティブな人間とは,試験を受けるのがうまい人ではないからである。自分の意見を言える人,他人と違った考えを言う勇気の有る人である。創造性をもった人間(自立と創意にあふれた人)である。創造的人間を育てる基礎的条件は,個性をもった人間の養成である。それはまた,同じ顔をした日本人では,国際社会を生き抜けないことを意味している。否,世界から見捨てられる。
だからこそ,こうした視点から大学教育を考え直すことが重要なのである。逆にいえば,教員が,知識を一方的に伝達(教授)するという,従来の暗記中心の教育方法は根本的に間違っていたということを意味する。
しかしてその基礎には,学生と教員が「ともに学ぶ」という考え方がなければならない。それには,教職員とともに,学生にも自己主張することが求められる。自己主張するためには,自分の考え方をしっかりと持ち,それを自分の言葉で話すことが必要となる(自己アピールである)。自己主張し,他人と討論することがクリエイティブな人間となる根幹条件だからである。
そのためには,知識よりも考える過程の方が重視されなければならない。そうした環境(間違ってもいいから自分の考えを出せる環境)を,教員はキャンパスで学生と一緒につくっていかなければならないのである。
ならば,これまでの大学の授業に対する発想の転換がはかられければならない。一方通行的連続講演会風授業から双方向的討論(ディベート)授業への構造的転換(座学からの開放)である。そのためには,双方向的授業方法の模索である。切り札は,ディベート(知的格闘技・論理のボクシング)授業である。ディベートが日本人を変え,クリエイティブな人間をつくるからです。
さてディベートとは,思考訓練や真理発見・問題解決に役立つ有力な手段である(「言葉は知性であり論理である」ことへの信頼がディベートを不動のものにする)が,他方,「揚げ足とり」とか「勝敗にこだわる児戯に過ぎぬ」との批判も後を立たない。「ああ言えば“じょうゆう”」現象がディベートの成果という誤解もある。「上裕」がテレビジャックできたのは,テレビ関係者の知識や論理が薄弱だったためである。それはまた,映像メディアの軽薄さの証左である。正論で望めば論破できたからである。実はこの現象は,ディベートの必要性を緊急の日本の社会的課題ですことを示している。
ここで目標とされる人間像は,クリティカル・シンキングの出来る人,つまり問題意識を持って物事が考えられる人間になることである。日本の教育は,クリティカル・シンキングが可能な人間を育てるという点では遅れている。クリティカル・シンキングが可能な人間は,他人の意見に惑わされず,新しいことを創造出来る人であるが、教わったことだけを鵜のみにする人間,テストで,(正解一つの)暗記した答えだけを書く自主性のない人間をつくり出す現代の日本の教育からは,発明や発見,そして新たな価値を創造できる人材が生まれないのは明らかである。国際的場面で,「日本人は物まねは上手だけれど,自分の考えがない」と非難される要因は,このクリティカル・シンキング教育の欠如にあるといわなければならないのである。
つまり現代の大学の教育システムでは,創造性ある人間の養成は不可能なのである。ここから教育(大学)改革の出発点は,現代日本の教育システムと価値体系の革命的変革との結論となる。
もとより,考えることを放棄したうえで,暗記型受験勉強にならされてきた学生と,(教育に対する評価システムが皆無の大学で)自己流でこれまで一方的授業(教壇で教員自身は自己満足できるが)に慣れ親しんだ,かつ教育技術を学ぼうとする意欲や熱意が希薄で,アイデアも枯渇している教員のもたれあいで成立している現代の大学で,それを実行するのは双方にとって大変なエネルギーを必要とする。
だが,こうした“難”事業を実行できる地方私大だけが社会に存在価値がある大学として生存し続け,そうした大学の卒業生がブランドになるのである。
ここでのキーポイントは,「授業は,教師と学生が共同で創る知的活動の舞台である」との認識を大学の構成員が共通意識として持ち,双方向的コミュニケーションを成立させるための教育技術を確立させることである。
それには学生が,授業等で発言しやすいシステムの開発が肝要となる。ハード面でいえば,例えば円卓テーブルや自由にレイアウトできる教室の整備,授業以外に学生が自由に使用できる談話室的雰囲気が醸し出される学生の要望を積極的に取り入れた施設の提供が必要となる。ソフト面で肝要なのは雰囲気作りである。その原点は,ユーモア(笑い)のセンスを教員側が持つこととなる。特にユーモアは,生きる力の源である。学生たちが生活する21世紀の大変な時代をエンジョイするには,豊かなユーモア感覚(それも観客型・受信型だけでなく主役型・発信型のセンス)が必要不可欠なためである。
第3の課題は,わかりやすさの模索=わかる授業(学生の水準に照準を合わせた,わかりやすい授業)の展開である。その前提は,「授業がわからない学生」が多く存在するといった現実の直視である。その事実を素直に受け止めることである。この現実は,大学教育と高校教育間のズレ,および学生と(入試制度を含めた)大学のあり方・カリキュラムとのミスマッチをあらためて浮き彫りにしているが,高校や学生を批判してもそれを打破することはできない。そうした結果を醸し出した(そのような学生を入学させた)のは,他ならない大学自身だからである。
キーワードは,『研究の前に国語・算数・コンピューター』,「センモン(専門)センスよりコモン・センス」である(専門だけの知識では,社会の流れや学生の関心について行けない)。
いうまでもなく,学生が楽しめる授業をいかにわかりやすく展開するかの工夫であるが,それには授業の作り方を教員が学ぶ必要がある。もとより,「学生の事前学習や復習などに十分指示を与える」ことと,前述した「自学自修体制の確立」も大切な課題である。
同時に現代社会で実際起きている事件や事案について鋭く分析する「生きた授業」(例えば大阪弁護士会による関大・立命・龍谷・京都産業・同志社・京都等への講師派遣)の展開も重要な課題である。
もっとも肝心なのは,教員採用・評価システムの再構築である。研究業績中心の評価基準から教育中心(技術・熱意・アイデア)へのシフトである。これからの大学教職員に必要なのは,研究能力以前の「エンターテイナー」「プロデューサー」「コーディネータ」「アドバイザー」「カウンセラー」「アシスタント」的才能だからである。
つまり大学審答申が指摘するように「個別の学習指導の充実や少人数教育の実施とともに,授業を受ける学生に対して教員が相談に応じる専用の時間帯(オフィスアワー)を設けたり,ティーチング・アシスタント(TA)等を活用したりするなど,きめ細かな教育指導を行う体制を充実する必要がある。また,学生の適性や能力に応じて学生の履修メニューの作成に関する助言やガイダンスを行うアドバイザーのような専門的なスタッフを設け,学生の履修相談に応じるなど,学生の履修指導体制を整える必要」性が急務だからである。
ただ注意しなければならないことは,「大学は勉強するところで,卒業を難しく」という大学審議会の考え方である(1998年10月の大学審議会答申で提言された,責任ある授業運営と厳格な成績評価の実施など教育方法等の改善等)。これは,古い強者の論理(大学審はペーパーテスト=偏差値的秀才が集まっているから当然の結論か)といわねばならない。現下の大学問題が,評価を厳しくすることで解決されるわけではない。しかもいきなり出口管理で学生の品質管理といわれても,それはできない相談である。大学卒時の質(品質管理)の責任者は誰かという問題と相まって,4年間で人間そんなに変わるものではないからである。特に全入に近い状態で入学した学生に厳しい評価で望むことが,敗者復活制のない日本の文化に果たしてなじむであろうか。
多様化した現代の学生の少なくない人々の中には(特に一方通行でマスプロ的に大学が提供する「難解」なる授業に対して)“怠け者”(人生に対する怠けも者では決してない)もいる。否,これまでの大学にも,授業を中心とする勉学に対するかなりの怠け者がいた。そうした者も,それなりに大学内外で授業(学業)以外のネットワークをつくり,授業とは別の「何かを」大学に在籍することで得てきた。それは,授業では獲得できない人生にとっての財産になった。多くの人が,大学時代の思い出を,授業ではなく,クラブ活動,合宿,旅行,趣味,アルバイト,はたまた友人関係等に求めている現実がその証明である。またGPA(キックアウト制)の導入がいわれているが,果たして,勉強・勉強で個性が育つののであろうか。まじめだが,目立たない学生の再生産にならない保障はない。
厳しい評価は,大量の留年生と途中退学者,あるいは不登校・引きこもり学生を拡大再生産するだけである。かかる学生を受け入れる社会構造が確立されていない現代社会では,いたずらに社会不安を醸し出すことにしかならない。
それはまた,大学経営に新しい陰りを落とす結果にもなり,特に地方の私大の経営基盤を根幹から揺り動かすことにもなりかねない。十分な資源の補給ない状態を放置した上でのそのような提案は無責任としかいいようがない。厳格な評価のためには乗り越えなければならないハードルがある。その実現には,前提条件の成熟を待たねばならない。
われわれは,一定の余裕とゆとりと“いい意味でのいい加減さ”を持たなければならないということでもある。
つまり,授業に関する学習だけが,学生生活の中心ではない。ゆえに大学は,そのようなものが息苦しくなる空間にしてはならないのであって,現代の大学にはこうした人々を許容する柔軟性と余裕が必要なのである。
第4の課題は,正課以外の学生に対する学習環境の整備である。学生の学習空間は,大学内や正課活動(授業)に限られることなく,課外活動や体験学習,さらにはインターンシップやボランティアなど,学外の空間へ大きな広がりを見せている。また,生涯学習への意欲を背景とする社会人入試の導入など,入学コースも複線化しているためである。つまりこうした学習環境に対してどのように大学(教職員)がサポートするかが大切なのである。サポートする教職員に対して正当な評価システムを大学は構築しなければならないことを意味している。特に企業は,大学の成績以外の能力を学生に求めているのである。
第5の課題は,大学のオープン化である。ここで重要なのは,「大学は秀才ばかりで成り立てっているのわけではない」との命題の認識である。特に(全入時代の)大衆化した現代の大学には特にいえることである。ここから大学は,学生ばかりではなく,労働者・農民・自営業者・女性・高齢者・障害者などいろんな層の人々に開かれ,かつそうした人々の意見を聞くべきことが肝要な課題となる。しかし,この視点がこれまでの大学改革において欠落していたといわねばならない。手始めに,大学の図書館や授業を無料で市民に開放する政策の展開が考えられる。まずは,学生(とその要求)を関心の中心におき,彼らを改革の主たるパートナーに置くことが重要となる(ユネスコ「21世紀に向けての高等教育世界宣言」参照)。
換言すれば,大学が教員,職員,学生の三者が主体となる共同体であるところから,21世紀大学のキーワードの重要な一つは,「大学教育に学生をいかに積極的に参加させる」かということになるのである。
だが,これまでの大学教育における学生参加はせいぜい学生による授業評価や学生実態調査の側面に限られていた。学生は自分の知らないところで既に決まった授業科目についての限られた範囲での評価やささやかな希望を出すにすぎないから,それは,学生の実質的(主体的)なる教育参加とはいいがたい。
三者構成の主体としての学生参加といいうるためには,授業(カリキュラム)の企画,実施(講師の選定・要領=シラバス・授業の方法),時間割・成績評価の側面での主体的な参加が必要となる。
とはいえ,4年間の“旅人である”学生にして,好奇心と意欲が減退した上に,自分の身近な事象しか興味がなく,かつ集団としてのまとまりのない学生に,それを期待できるのかという基本的問題があるが,そのような事情を前提にしても,実行が模索されなければならない。
教養教育に代わるものとして普遍教育(すべての専門教育に普遍的に意義のある教育という意味)を行っている千葉大学では,1999年2月から普遍教育について学生に自由に意見を出してもらうため「普遍教育学生会議」を試みに行っている。会議は,これまで40人から80人の学生が参加して3回開かれ,例えば,外国語の内容について,ある学生は,専門につながる内容の英語を求めるのに対し,ある学生はむしろ専門に関係のない内容の英語教材を求め,学生相互の間でも討論が行われた。また開設科目についての要望も次々と出され,成績評価についての疑問,講師の授業方法・授業姿勢などへの批判,シラバスの書き方,授業登録の方法などへの意見が出された。特に興味深いのは,会議で学生たちが「授業は教員だけでなく学生も一緒になってつくっていくものだ」という意識を表明していたことである。学生は,「この種の会議はもっと早く開いてほしかった」「学生は各学部で指示されるのではなく,もっと自主的に参加すべきだ」「今回の会議の成果はどのように生かすのか」などと,自覚と意識の高さを見せたといわれている(2000年7月1日付『日本経済新聞』)。
ともあれ「全入時代」に突入し,大学も否応なしに教育サービスの消費者である学生のニーズにますます敏感に対応しなければ生き残れない時代に遭遇しているのは否定しがたい事実である。「授業は学生のもの」という当たり前の原則が全く無視,ないし軽視されている日本の大学だからこそ,そい変革には,学生参加が有効な政策といえる。
第6の課題は,就職問題に対する抜本的な対策である。現下の世界規模で競争にさらされている企業社会における雇用構造の激的な変化は,「4月新卒者一括大量採用」といった日本的システムの見直を迫っている。これは,従来の価値観では到底対応できない状況の到来でもある。
他方,就職活動のより一層の早期化と長期化は,4年次のみならず,3年次後期教育の空洞化をももたらしている。
このような環境の中では,学生が自己責任において主体的に進路選択を行えるようなキャリアプランニングのシステム化が,大学の根幹的政策と位置づけられなければならない。こうした視点が,偏差値に代わる新たな大学の評価基準のひとつになるからである。
かかるシステム構築の前提には,教職員は学生の就職問題に関して,自分の研究と同価値なみに関心を持って学習し,かつ適切な支援ができる資質を備えなえることが重要となるが,そのためには,大学として就職に取り組む姿勢を明確にして,全学的な学習体制を確立しなければならない。
社会(企業)は現在どのような人材(資質)を求めているのかを適切に把握し,期待される人材の育成にはどうのような教育が必要であるかということである。なお,この場合において重要なのは,職を転々,あるいは会社を転々といった経歴がマイナスだったのは20世紀。21世紀は,それが普通のこととなる。だからたとえ,希望の職種にすぐに就けなくても,望みを捨てることはないとういう視点であるといわねばならない。
第7の課題は,教職員採用・昇格システムの転換である。
これまでの研究業績中心の教員採用・評価システムの抜本的変更である。かかるシステムの確立なくして教改革は成就しない。大学は教育機関であるとの認識の構築である。研究者より教員の側面の重視である。例えば,教員採用においては,ペーパー(論文)より,教育に対する情熱や教材作成の創造性やプレゼンテーション能力を含めた教育技術を中核におくべきである。そのため,採用に際しての模擬授業は最低条件となる。社会性を身に付けるため,大学院新卒者にはインターンシップも必要となる。もとより昇格や職員採用についても同じである。
第8の課題は,24時間オープンキャンパスによるバリアフリーシステムの構築である。大学情報・授業内容・施設の全面公開である。当然に「心のバリアフリー」も重要なテーマとなる。いうまでもなく,障害者や社会人,あるいはパートタイム学生の受け入れは,学生確保と学内活性化(意識改革)の最重要課題である。
ここでいう「障害者」とは,「先天的か否かにかかわらず,身体的又は精神的能力の不全のために,通常の個人又は社会生活に必要なことを確保することが,自分自身では完全に又は部分的にできない人」のことを意味する(障害者の権利宣言―1975年12月9日;国連総会決議3447(第30回会期))。だが,現代の日本(1996年度)では40人に1人(2.5%)が障害者であるにもかかわらず,大学入学者57万9154人中,わずか352人(0.061%)にすぎない。実に学生1600人に1人である。
また,全盲の人が,大学教員に採用されたこと(例えば金沢大学や同志社大学・島根大学等)がメディアでニュースになる自体が,現代日本の状況を端的に表現している。
まずは,身体障害者や視覚障害者あるいは聴覚障害者が,スムーズに学内を移動できるようなハード面の整備とそれらの人々に対する点字・手話等の教育上のサポート体制確立が急務の課題となる。その第一歩は,1994年6月に公布され,同年9月に施行された「不特定かつ多数の者が利用する建築物(特定建築物)」について,廊下,階段等の施設(特定施設)を高齢者や障害者の方々が円滑に利用できるようにするための処置についての建築主(特定建築主)の努力義務や建築主の判断基準(基礎的基準・誘導的基準)の策定,都道府県知事に対する指導等や優良建築物を建築しようとする者に対する支援措置等,建築主に対する指導・誘導措置を総合的に講じる「高齢者,身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」(いわゆるハートビル法)の精神を生かすことである。
もとよりハンディキャップのある人々に対する特別入試体制の準備も必要である。さらには,障害をもった教職員の積極的採用もかかる体制整備のために肝要である。手話や点字の講座が設けられて当然である。
健常者と障害者がキャンパスで,ともに過ごすことで,共生時代の基礎である「優しさといたわり」の心(感受性)を涵養することができるのである。これらは人間(全人格)教育の基本といわねばならない。
次に社会人やパートタイム学生が入学できやすい制度と教育システムの確立が重要となる。これこそ18歳人口の減少に対する切り札であるといえよう。
第9の課題は,経営と教育の分離体制の確立である。緊張感ある経営と教育の関係の構築こそが大学経営の基礎構造だからである。その中でも重要なのが,アウトソーシングシステムの構築である。経営の合理化と人材の効率的運用なくして,これからの厳しい経営をさえられないのは明白である。
第10の課題は,地域(外部)諸団体との提携強化である。外部資源の有効活用を意味する。
おわりに
これからは,個性が社会をつくる時代。しかし大学人に個性がなければ,大学で創造性(個性)をもった人間の育成などできようがない。大学は,個性的人間をさらに補強しなければならない。だが現下の誤った改革は,こうした人が生息できにくくなる方向に向かっている。
大げさに言えば真理,原理を学ぶ場である。短期間で要領よくでは感性は育たないという教育の基本の再確認が,現代の大学の最高命題であるといわねばならないのである。
こうした命題に向かって個々の地方私大が改革を進めることが肝要となるが,その場合に大切な課題は,全学的討議と合意形成である。そのためには,政策決定プロセスが明確でなければならない。情報の公開も絶対的条件である。そして本音の議論となる。建前と本音を使いわける日本人の価値観の転換なくして,改革は成功しない。
また,時代の変化にいかに迅速・俊敏に対応するかが,地方私大生き残りの手段である。時代の流れを的確に捉え,自分で考え,判断し,行動することが大学人とって大切な課題となる。変化に追いつけない大学は自滅しかない。要はアイデアを出し合い,実現のために汗をかくことである。比較的少規模の小回りの利くの地方私大でこそ,それが可能なのである。
ポイントは,「教師の関心は,教育より研究で,本来教育に無知。大学の教育は30年間まったく進歩していない。いかに魅力的教えるか教員がほとんど考えていない。50〜60人で始まった授業が5〜6人になっても平気,出席しなくても単位が取れる。教授方法で評価されないことが問題である」との指摘(30年ぶりに大学生活を送っている小椋佳氏の言―1999年1月11付『日経新聞』)を真摯に受け止め,意識改革することに尽きる。
今,地方の私大人に問われているのは,大学の現実(学生の実態)を直視した上での教育に取り組む姿勢(情報機器を屈指した,わかりやすく教えるための授業の工夫と情熱,そしてひたむきさ)である。
自戒のことば
1.『教壇に立って講義するようになると,たちまち自分がそれまでの授業を受ける側であったことを忘れてしまう』(ウィルキンソン・ハーバード大学デレク・ボック教授学習センター所長の言)
2.『凡庸な教師は只しゃべる。少しましな教師は理解させようと務める。優れた教師は自らやって見せる。本当に優れた教師 は心に火を点ける』(英国の教育学者ウイリアム・アーサー・ワードの言)
3.『教えた知識(技術)はすぐ忘れる。(教師は)教え過ぎてはならない(余分なことは言わない)こと,それには教師は辛抱強くなければならない』(「教師への金言」)
4.《教師として一番大切なことは,「学生に愛情を注ぐこと」,そして「自分に謙虚になること」》!!
5.『教育とは,教える側と教えられる側がともに育つことである』(哲学者・教育者;林丈二)
6.「人生にとって大事なことは,「センモン(専門)・センス」ではなくて,「コモン・センス!」(教育者;新渡戸稲造)