マァジナリア 2


サンリオ(SF)文庫が刊行停止になったそうだ。他のSF専門の文庫に比べると点数は少ないものの、現代の野心的な作品などを多数含んでいただけに、残念である。今回はこの文庫に含まれているディックの 短篇[1]ついて書いてみたい。

 


  フィリップ・K・ディックは一部の読者には熱狂的に向られえ、教祖的な存在(単に熱心なファンを持つという意味でなく、文字通りの教祖、精神上の絶対的指導者)にまで祭り上げられているらしい。が、私はその辺の詳しい事情は知らないし、彼の長編もほとんど読んだことはない。他のSF作家と同じような態度で短篇集を読み、確かに教祖的な存在になり得るだろうと思わせる面もあったが、そういうことは無関係に、普通のSF(という言葉が癖者だがそれはともかく)として楽しめた。

  一番「面白」かったのは「彼地にウーブ横たわりて」(これは他文庫の短篇集に「輪廻の豚」という題で訳されたことがあるらしい)であるが、この面白さは私のあるコンプレックス(精神分析上の「コンプレックス」)による所が多分にあるらしい(そしてそのコンプレックスが意外と根深いらしいこと気付かせてくれた点でも面白かった)ので、ここでは触れないでおこう。

  ここで述べたいのは「ヤンシーに倣え」と題された作品の与える奇妙な、戸惑いに似た読後感についてである。

  荒筋は以下の通り---民主主義体制を是とする惑星連邦は、独裁的政治体制に向いつつあるとの告発があった惑星に専門調査官を派遣する。彼は、その惑星は民主主義体制をとっており別段強圧的な社会ではないが、「ヤンシー」なる人物が絶大な人気と権威を持っていることを発見する。ヤンシーはテレビのスポット番組やその他のメディアを通して人々に語りかける中年の男である。人々は日常の会話の中でしばしばヤンシーに言及し、「ヤンシーはこう言った」というふうに彼を判断の基準にしていた。調査官は、ヤンシーなる人物は実在しないこと、社会心理学者、芸術家、ジャーナリストなどをスタッフとした巨大な組織がヤンシーの番組・記事を作成していることを突き止める。そのスタッフの一人、自分の仕事に嫌気がさしている男の家庭に招かれた調査官は次のような父子の会話を聞かされる。

  「おまえは戦争についてどう思う」
「戦争は絶対にいけないよ」
「それじゃ、絶対に戦争はしないんだね。たとえばこの惑星が侵略されても」
「違うよ。戦争は絶対にいけないけど、 侵略されたら断固戦わなければいけないんだ」
「いい戦争と悪い戦争があるんだね」
「そうだよ」
「それなら、戦争が起こりそうになった時、それがいい戦争か悪い戦争かどうやって決めるのかな」
「‥‥」
「むつかし過ぎたかな。それじゃ、どうして、いい戦争と悪い戦争があるって思ったのだい」
「だって、ヤンシーがそう言ったんだもの‥‥。そうだ、いい戦争か悪い戦争かヤンシーが教えてくれるよ。」

  このような会話を聞かせたあとで父親は自嘲的に言う。今の息子の答は、先月自分が作ったヤンシーの科白そのままだ、しかし、戦争はいけないが侵略に対しては断固戦うなどというのは、それ自体はまったく無意味だ‥‥。調査官の報告に基いて、惑星連邦はヤンシー組織上層部をパージし、別の番組を作らせる。その第一回目で庭いぢりを終えたばかりのヤンシーが言う、今、花を日当のいい所へ移してやったばかりだ、しかし花によっては日陰の方がいいものもある、好みというのは様々で、例えば私は肉料理が好きだが女房は魚、息子ときたらハンバーガーだとさ、しかし、何事もそういうものかもしれない、昔から言うではないか、甲の薬は乙の毒、とね。この番組を見た調査官は、これから大変だろうが第一歩としては上出来だ、と思いながらその惑星を去る...。

  以上、長々と荒筋を紹介した(ただし、本が手元にないので多少違っているかもしれない)が、これをどう感じられるだろうか。作者が表明している(かに見える)メッセージは極めて明白なように見える。現代におけるファシズムは強圧的な形態を取らず、マス・メディアを通じて柔らかく人々の思想を統制すること、注入される思想とは実は思想の名に値しない物---一見、明白で異議の唱えようがない「常識」ではあるが、それ自体としては無意味に等しい代物---であること、そしてその「常識」に何らかの意味を与えるような判断は他人に委ねてしまうよう仕向けること、要するに、現代のファシズムは大衆が「健全穏健な常識」以上のことを考えず、要となる判断は権威に頼るようにすることで実現される...。おそらくこれらの点について反対する人はいないだろう。そして、作品の最後にヤンシーを通して表明されるメッセージ---民主主義の根幹は多様な好みと思想を容認することだ---に異を唱える人も少ないと思う。私自身、別に異議はない。が、しかし、読み終って何か釈然としないものを感じた。何か違和感があるのである。この違和感は何なのだろうか。

  明白で分かり切った事を正面切って主張された時に感じるしらけか。ディックほどの作家が---という言い方は、彼が教祖的存在であるという噂に影響されていることになるが---こんな分かり切ったことを仰々しく言うのか、という違和感かもしれない。あるいは、民主主義は絶対的に正しく優れていると声高に主張された時に感じる違和感であろうか(そもそも、民主主義は完全無欠な政治制度ではない。むしろ「民主主義は、他の制度を除けば最悪の制度である」(チャーチル?)。しかし、我々は長い目で見た時民主主義以上にましな制度を知らないが故にやむなく民主主義を選択するのである。従って、 「民主主義に万歳二唱」(E.M.フォースター)[2]はしても三唱までする必要はない。こういう言い方は極端でシニカルに過ぎるかもしれない。しかし、民主主義に絶対の信頼を寄せ、その正しさを声高に主張する者が、やがて民主主義の数多くの欠点に失望し、今度は「強力な指導者」を待望するようになるのは良くある話ではないだろうか)。

  おそらく、この作品の与える違和感の一因は以上のようなものだろう。では、ディックは何故こんな作品を書いたのだろうか。他の短篇において彼はかなり複雑で錯綜したイメージやメッセージを伝えることに成功している。この作品でも民主主義に関する屈折したメッセージを伝えることはできたはずだ。

  ディックがこのように単純明解な作品を書いた動機がまったく憶測できない訳でもない。先ほど、ディックの伝えるメッセージの正しさは明白だと言ったが、これを明白とは考えない人が多数いることくらい私も知らないではない。自称民主主義者が「鉄の団結」を主張することは日常茶飯事だし、「民主集中制」が(理論的にはともかく)現実においては思想の多様性を圧殺していることは周知の通りである。こういう自称民主主義者にうんざりした挙句、ディックはこのような作品を書いたのかもしれない。

  しかし、本当にそうだろうか。ひょっとするとこの作品自体が一つの皮肉ではないか。「かくして民主主義は回復された、万歳」という結末自体が批判されているのではないか。従って、結末に対する違和感は作者自身が仕組んだものではないだろうか。


ここで、最近読んだ 『二十三分間の奇跡』[3]という本に話を転じたい。私がこの本を読んだのはまったくの偶然で作者も知らなかったが、多分かなり有名な人なのだろう。一九二四年、イギリス生れ、ハリウッドに渡り『大脱走』などの脚本を担当、後、作家に転じ『将軍』(あの『SHOGUN』でしょうな、私は読んでも見てもいないけど)など東洋を舞台としたベスト・セラーを続々と出している(以上、ジャケット折り込みの紹介文より要約)作家だそうである。

  本書は「著者唯一の短篇小説」で、執筆の動機は、学校に通い始めた自分の娘が意味も分からないままに国旗への忠誠の文句を暗記させられたことだという。

  物語は、敗戦後、戦勝国から派遣された教師を迎えた教室における、最初の二十三分間の出来事として語られる。生徒の心理をまったく無視した無気力な教師と、国旗への忠誠の言葉を丸暗記させるような形骸化・硬直化した教育とへの批判者として登場した新任教師は、緊張している生徒の心を巧みにほぐし、意味も分からないままに忠誠の言葉を暗記させられたという話に眉をひそめ、「でも、じぶんの国を好きになるのに、こっきがなければだめかしら」と問い掛ける。このあたりまでは、作者は、新任教師の口を借りてかなりリベラルなメッセージを伝えようとしているかに見える。

  しかし、この作品の語り口は比較的単純であって、実はこの教師自体も批判されていることは作品の中ば以前に明かされる。新任教師は、旧い権威を突き崩し親への信頼を失わせ自分を唯一の権威として受け入れさせることに易々と成功する。そして「これで子どもたちはあたしのいうことをよくきくようになり、りっぱな市民として育っていくだろうと思った。‥‥[中略]‥‥先生は、この学校の、いや、この土地の、すべての子どもたち、すべての男や女たちが、おなじ信念をもって、おなじような手順のもとに、教育されていくであろうことをおもうと、胸が熱くなる」のである。

 


  さて、再び「ヤンシー」に戻ろう。民主主義に改宗した「ヤンシー」やそれを指導した惑星連邦は、結局のところこの新任教師と同じではないか。この惑星の人々はかっては自ら考えないことをヤンシーに教えられ、今度は多様な好みや思想への寛容をヤンシーに教えられる。いずれにせよヤンシーに鼻面を曳きずり回されていることには変わりない。第一、民主主義を守るために行われたパージ自体、およそ非民主主義的である。それにも拘らず、こうするしかなかったことは明らかだろう。

  この問題は民主主義の孕む矛盾に帰着する。特定のドグマを強要しないという原則はそれ自体一つのドグマではないか。異った思想への寛容を説く人が、思想の統一を進めようとする人に反対するのは自己矛盾ではないか。しかしまた、思想統一が進むのを座して放置するのもまた自己矛盾ではないか。

  民主主義に声高な賞賛が似合わないのはこのような矛盾を含むからでもある。しかし、このような矛盾を抱えたままで民主主義はなんとか機能してきた。そして我々は、このような矛盾を承知の上で民主主義を選択するのである。 ディックがこの短篇に込めたメッセージは、このようなものではなかっただろうか。

  [追記1999.9] 以上の文章は,1987年9月ころ書いたものです.


[1] ジョン・ブラナー,マーク・ハースト編/朝倉久志 他訳 『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック』全4巻(サンリオSF文庫,1983--1985).
正確に記すと訳書第1, 2巻は John Brunner ed., 『The Best of Philip. K. Dick』(1977)の訳, 第3, 4巻は Mark Hurst ed., 『The Golden Man』(1980)の訳である. 「彼処にウーブ横たわりて」は訳書第1巻,「ヤンシーに倣え」は訳書第3巻に 収む.

[2] E. M. Forster, 『Two Cheers for Democracy』, Penguin, 1965. 初刊は1951.
その後,翻訳が出た.『民主主義の万歳二唱』 1, 2 (『E. M. フォースター著昨集』11, 12, みすず, 1994).
書名の由来になった 言葉を,翻訳書(『著作集』11, pp107--108)から引用しておこう.
というわけで,民主主義には二度万歳をしよう. 一度目は,多様性を許すからであり,二度目は批判を許すからである. ただし,二度で十分.三度も喝采することはない.

[3] 『二十三分間の奇跡』ジェームズ・クラベル/ 青島幸男訳、集英社、一九八三。
原著は、The Children's Story : but not just for children, by James Clavell, 1981).