コンピュータの中には侏儒がいる?


「コンピュータの中には、実は小人が住んでいて、せっせと計算などをやっているのだ」という類の冗談を私は寡聞にして聞いたことがない‥‥などと言えば、のっけから何をバカなことを、と言われそうである。

  事実、これはまったく面白くもない冗談である。が、なぜ面白くないのだろうか。そんなことを、自動販売機を小道具に使った 都築道夫の短篇を読んで思った。

  都築道夫(の短篇の主人公)の回想によれば、自動販売機が東京の町に設置され始めた頃、実はあの中には侏儒がいてそれが金を受け取ったり物を出したりしているのだという冗談があちこちで言われ、そして、もちろんだれもそんな冗談を本気にしたわけではないが、しかし何かしらその冗談には気味悪さがあったという。 [1]

  しかし、コンピュ−タについてはそんな話を聞かない。いや、もちろんどこかで似たような冗談は何度も口にされているのだろう。しかし、それは文字通り他愛のない軽口であって、そこに不気味さなどは微塵もない。この違いは何によるものだろうか。

  自動販売機は人間が入れるくらいの大きさなのに対し、コンピュータは人が入るのには小さすぎるというのは理由にならない。確かに我々が普段目にする「パーソナル・コンピュータ」や端末機に人が入るのは無理だろうが、小人どころか巨人でさえもゆったりくつろげそうなコンピュータはいくらでもある。

  むしろ、自動販売機とコンピュータの登場の仕方、我々の生活に入って来た経緯の違いの方が理由としてはもっともらしい。自動販売機はいきなり街頭に置かれ、当初から一般の人々の目に触れたのに対し、コンピュータの方は長い間一部の人々だけが目にし操作していた。我々一般人は実物を見ることなく話だけ聞かされ、コンピュータなるものの存在に充分慣らされた後、やっと実物を目にし操作できるようになったのである。

  さらに、人通りのない街角にポツンと置かれ、薄闇の中でぼんやり光る自動販売機は何かしら不気味であるが、明るいオフィスに鎮座するコンピュータはあくまでも近代的な機械であって、気味悪さなどは感じさせない‥‥。

  確かにそのようなことも一因であろう。が、コンピュータが普通の人々の間に降りて来る過程では、やはりある種の違和感、不気味さを感じさせたのではないだろうか。人気のないオフィスの中でくるくる回る磁気テープは、やはり何かしら得体の知れない気味悪さを感じさせないだろうか。

  ある日、コンピュータが人間の制御下から脱して独自の意志を持ち始め、遂には人間を支配するようになるという話はSFでお馴染みであるが [2]、このような小説が受けるのは、遠い未来においてさえ実現するかどうかも怪しい事態を我々が本気で心配しているからではあるまい。このような設定は、一人で音もなく処理を続けるコンピュータを見たときに我々が感じる、あの気味悪さに訴えるのである。

  しかし、この気味悪さの中に侏儒の登場する余地はまったくない。

 


  自動販売機の中には侏儒がいるという冗談は、理解不可能な機械の働きを理解可能なものから類推しようという試みである。そのような試みは、「異人」たる侏儒への気味悪さと、その類推が実は誤りであるという不安をもたらした。が、しかし、ともかくも自動販売機にたいしては、世界は理解可能であるという確信がもたらす安定感を保つ努力だけはできたのである。しかし、コンピュータはそのような類推・努力さえも拒絶する。いや、その前に我々の方でそのような努力を放棄しているのではあるまいか。

  むかし、むかし、と言っても百年ばかり前の文明開花の頃であるが、今度できた電信は手紙を一瞬にして届けてくれるそうなと聞いた男が、電線に風呂敷包みを括り付けたいう。私はこの話を、当時の人がいかに科学技術に無知であったかという笑話として聞かされた。

  しかし、問題は知識の差ではない。新しい機械・技術に対する態度の違いである。

  江戸時代が終ったばかりの頃、様々な技術はそれなりに理解可能なものであった(ごく一部の例外は奇術として生活の埒外に追放し、時たま不思議がっておけばそれで済んだ)。そのような彼らにとって、新技術の内容・働きを身近な技術から類推し、それに従って行動するのはしごく当然のことだろう。しかし、自動販売機が現れる頃までに、我々はそのような類推が無効であることを知り尽くし、その不安を紛らわす冗談の中にある不気味さを感じるようになる。

  そして、コンピュータを操作する現在、我々は新技術を類推によって理解しようとする努力さえ放棄してしまった。新しい機械が我々を悩ますのは慣れない操作法によってであって、それが内部の理解不可能なブラック・ボックスであることによるのではない。

  類推による理解を放棄したことは賢明であるには違いない。新しい機械をブラック・ボックスとして受け入れることにより、我々は後世の人から嘲笑われるような失態を演じることもなければ、侏儒の幻に悩まされることもない。

  しかし、その代償として我々は、普段は意識されない、しかし奥深い不安感を心の片隅に抱え込むことになったのではあるまいか。

 


  型通りベーシックのプログラミングから始めた私も、最近やっと機械語を試みるようになった。そのことによって、ベーシックを通して行っていた操作が、実は何をやっていたのかをある程度推測できる場合もある。当初に比べればコンピュータのハードに一歩近づいたわけだ。

  しかし、例えばベーシックのある操作が、CPUのあるレジスタに所定の値をセットし、しかる後、CPUが所定のレジスタに返してくる値を読み取ることに対応するということが分かったとしても、CPUそのものが如何にしてそのような値を返してくるかは分からない。結局のところ、ある操作をくわえるとCPUが所定の動作を実行するということしか分っていない−−つまりブラック・ボックスである−−という点は以前と変っていないわけである。要するに、らっきょの薄皮を一枚めくっただけのことだ。

  もちろん、電子工学と情報理論あたりを本気にやれば、核を透かし見るくらいのことはできるだろう。しかし、私はそこまで深入りする気も余裕もない。それに、ブラック・ボックスを操作するのも結構おもしろく、また実用的にはブラック・ボックスのままで一向にかまわぬことは言うまでもない。

  が、こうしてブラック・ボックスを操作していると、ときどきある種の不安を感じる。それは、内部が見えないためにブラック・ボックスがうまく操作できないのではないかという不安とは違うようだ。なぜなら、私の感じるこの不安は、操作法が分からないためにブラック・ボックスがうまく働いてくれない−−そういうことはしょっちゅうある−−ときに感じる苛立ちとは違うし、また、中が見えなくとも正しく操作すればきちんと働いてくれるはずだという信頼は今のところ裏切られたことはないからである。

  私の感じる不安は、むしろ宇宙の 「永遠の沈黙」[3]がもたらす不安、現実には何の危険もない、ただ単に理解不能なだけの存在に出会ったときに感じる不安に近いような気がする。

  [追記1999.9] 以上の文章は,1987年9月ころ書いたものです. まずBASICから入り,その後機械語(アッセンブラ)に挑戦する, というあたりは我ながら時代を感じますね(^^;).


[1] 都筑 道夫「自動販売機」.『世紀末鬼談』(光文社文庫,1987)所収.
「その冗談には不気味さがあった」などと,都筑道夫は書いていなかった. 「機械のあじけなさを,ばかばかしさで, やわらげようというジョークだった」そうである(同書37頁).おそらく, この短編小説の雰囲気とごっちゃになってしまったのだろう.

[2] たとえば,アーサー・C・クラーク「Fはフランケンシュタインの番号」 (山高,伊藤 訳『太陽からの風』,早川文庫,1978)など.
コンピュータと人間の脳との違いは,結局のところ素子の数の違いに帰着 しうるのではないかという説がある.もし,この説が正しければ 世界中のコンピュータがネットワークで結び付けられたとき,それは 意識を持つようになるのではないか.そういう発想によって書かれたのが クラークのこの短篇である. ただし,正確に言えば,この作品で描かれているのは,コンピュータそのものの 反乱ではない. 世界中の電話自動交換機が衛星中継で結び付けられた結果, 自動交換器を軸に,電話回線によって結びつけられたコンピュータを始めとする あらゆる電子機器が一体化し,意識を持つという話である. SF的発想の典型のような作品で,小品ながら妙に記憶に残る.
なお,本短篇集に収められた「太陽からの風」は,長編『幼年期の終わり』と ともに,クラークの代表作といっていいのではないかと思う.

[3] パスカル/前田陽一, 由木康 訳『パンセ』(中公文庫,1973).
「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」(p.146).