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歌論

【隠喩論断片】

イラストレーションの可能性

2005年3月29日
北川一明


T.
 歌も俳句もズブのド素人の感覚ですが; ずっと短歌よりも俳句の方が「高尚」だと思っていました。三十一文字で表現するよりも十七文字の方が難しいにきまっているからです。そこで、韓国へ行くに際して一句つくってお別れしようと思いました。
 ところが、お別れの心情は俳句では表現できず、どうしても短歌が必要に感じられました。表現したい心情がかなり具象的だからです。
 漠然としたものを象徴的に表現するとき、それを三十一文字で語るよりも十七文字に凝縮させた方が洗練されていると思います。しかし表現したいものが具象的である場合には、相応の媒体が必要になります。十七文字で具体的な事柄を表現しようとしても、ほんの少しのことしか表わせません。

U.
 そこで、これまで短歌よりも俳句の方が芸術性が高いように感じさせられていた理由のひとつが理解できました。漠たる印象を象徴的に表現する方が、具体的な心情を述べるよりも普遍性が高い場合が多いことです。
 一般にも、隠喩はシンボライゼーションのために用いられる方が、イラストレーションのために用いられるよりも評価されがちです。すなわち、「えも言われぬことを隠喩で表現する」ことは高尚な精神活動と見なされます。それに対してイラストレーション(説明)のために隠喩を用いるのは、「分かっていない馬鹿に教えてやる」という場合が多く、それでは《高尚な芸術》とは無縁です。そこで俳句の象徴性が短歌の具体的表現よりも高尚に感じられるのです。
 本来は抽象表現で精確に説明できることを、隠喩などの代替表現で矮小化しつつ頭の悪いヒトにある程度まで理解させることは、たしかに表現芸術とは別物です。具体的な心情を表現するとき、その全てを言語にできる訳ではありませんので、どのような事象をメタファーに選んでも、どうしても全心情の一部は省略されざるを得ません。それを「矮小化された」と考えるのならば、たしかに短歌は俳句に比べてチャチな表現媒体ということになります。
 私がお別れによんだ「桜が散ること」は、旧来より「はかなさ」「もののあはれ」などの心情をイラストレートし続けてきた表現です。そのためほとんど「死んだメタファー」になりかけています。
 そのために「あわれな気持ちになった」と言うのと「桜が散っている気分だ」というのと、聴き手に完全に同一の印象を与えるのであれば、隠喩を用いる理由がありません。
 「あわれな気持ち」は、「ア」と「ワ」と「レ」の三音の組み合わせからはなかなか想起できません。イラストレーションによる代替表現は、言葉では分からせることが出来ないものを「分からせるため」には違いありません。頭の悪いヒトに具体事例を挙げることによって帰納的に理解させるための比喩であれば、それは「抽象概念を理解しない馬鹿のため」のものです。(そして私の本業である教会での礼拝説教では、多くの場合そういう「馬鹿な会衆」を想定した例話が語られているのかもしれません。だから、しばしば教会の説教は偉そうで不愉快なのです。)

V.
 けれども具体的な心情を、別の具体的な表現に託してイラストレートするとき、その新しい表現は必ずしも単なる代替表現に留まるものではありあせん。「桜が散っている気分」と「もののあはれを感じる思い」とが大部分で重なっていても、重なっていない(代替しきれない)面も含めて「桜が散っている気分」と言わざるを得ない場合も、あるかもしれません。
 そんなとき、比喩は生きたものになり、個人の心情を歌に託して普遍化させる意味が初めて出てきます。
 そんな比喩は、イラストレーションであっても、決して「馬鹿な聴衆に理解させるため」ではありません。やはり、えも言われぬ気分を歌で表現せざるを得なかったものです。そもそも、「あわれな気持ち」なる「気持ち」は、「ア」「ワ」「レ」の三音の組み合わせからは、聴き手の心の中に発生させ得ないものなのですから。

W.
 それでも短歌がイラストレーション、俳句がシンボライゼーションによって個人の心情を普遍化させたものという乱暴な図式は、いちおう有効だと思います。
 そして多くの場合、シンボライゼーションされた事柄は、解釈によって「高尚」になり易いのに比べ、イラストレーションされたものは読み手がなかなか「高尚」に読むだけの力がない場合が多いのかもしれません。
 短歌が文字数が多い分より具体的になるのは当然ですし、その分、感傷的過ぎたり、説明的過ぎたりする危険も多いでしょう。しかし連想が連想を呼ぶような形で、具体的な心情、事例であるにもかかわらず普遍的な説得力を持つ場合も、無いわけではないと思い直しました。

X.
 キリスト教会の礼拝説教においても、説教者が比喩や例話を「馬鹿な聴衆に分からせるため」に用いている場合には、「どっちが馬鹿か勝負してやろーじゃないか」という思いにさせられます。
 けれども「ス」「ク」「イ」とか「カ」「ミ」とか「ウ」「レ」「シ」「イ」など、音の組み合わせでは聴衆の内に受肉させ得ない抽象概念を伝えるためなら文句はありません。説教者が抽象的な救いを聴衆と具体的に共有するために比喩を用いてそれが成功しているのであれば、シンボライゼーションとイラストレーションに優劣をつける必要がないと思いました。






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