2006年2月3日
北川一明
韓國では、多くのヘ會が組織的に地域別グループが作っており、家庭集會も盛んです。
【形式と中身】
T.形式と中身
家庭集會の「形式」は日本とほぼ同じでした。讚美歌を歌って聖書を読み、代表者が一般信徒向けのキリストヘ書を読んで説明します。
平日の昼間に行なわれますので、家庭集會構成員の大半が家庭婦人である點も同じです。
祈祷は、代表者が祈る場合と全員が祈る場合とあるのも日本と同じです。うらやましいのは、キリストヘ人口が多い分ひとまえで祈るのは當たり前で、ヘ會に來て間もないひとでも平氣で祈ります。
家庭集會でも献金を集めることがあります。ヘ會で、地域別に「聖書を読んだページ数」を発表し、地域間で競争させているところもあるのは「韓國らしさ」かもしれません。
初めて家庭集會に出席した時、担當の女性執事は一般信徒向けキリストヘ書を一應持って・は、いました。けれども(それを参照しつつも比較的自由に)自分の経験と意見を話していました。
その女性執事も公やけの場ですから格式體/尊敬調の最上級に丁寧な言葉遣いでしゃべります。でも中身は「公やけの場だから、當たり障りのないことを奥ゆかしく話そう」などという遠慮は、カケラも感じられません。率直と言うか乱暴と言うか「言いたい放題、手當たり次第に切りまくる」というような内容です。そのため出席者も夢中になって聞いていました。
そんな家庭集會は、當然おもしろいです。當初、「さすが韓國」と思いました。
ですが良く聞いてみると、そんな家庭集會(そんな執事さん)は韓國でも稀なのだそうです。大半の集會は、ほとんどテキストを棒読みするだけで退屈だと聞きました。
【なぜ人が集まるのか】
U.なぜ人が集まるのか
じゃぁ退屈な家庭集會が、どうして盛んなんでしょうか。
まず、韓國では大勢のひとが家庭集會に出ているので、「普通に信仰を持っているならば家庭集會には出るものだ」という常識が出來上がっている點が、日本との決定的な違いです。
それでも、韓國の家庭婦人は近年どんどん忙しくなってきています。
夫を働かせ、ストレスはもっぱら夫にばかり溜めさせておいて、自分は昼間に温水プールとエクササイズ・ジムでストレスを発散している夫婦の間柄は、今や日本も韓國も同じです。ご婦人がたはたいへん忙しく遊んでらっしゃいます。
やることがいっぱいあるのに、魅力がなければリピーターは生まれません。
信徒が、長老/執事の目の前で「たいていの家庭集會は退屈です!」と言えてしまうところが、日本のヘ會家庭集會と大きく違うところです。退屈に感じたら「退屈だ」と自由に言えるならば、同じ退屈な會でもいくらかはマシです。
さすがに牧師さんや實祭に退屈な話しをしている當のご本人に向かっては言いません。さらに「退屈だ」と言うとしても、きちんと格式體/尊敬調で「ワタクシは、退屈いたしました」と言います。
なぜ言えるかと言えば、もちろん日本よりも感情は率直に表現するという面があるからです。その他、長老/執事が集會を良いものにしようとしているため、自分が退屈に感じた時はそれを進んで表明するので、他の信徒も言いやすいのです。
それでも、長老/執事であっても一般のキリスト教書をネタに毎週「退屈」でない話をするのはなかなか困難です。そこで、たいていの家庭集會では「退屈」な「聖書のお話し」はさっさと済ませて、そのあとにぎやかに雑談します。それが樂しくて集まっている面もあるようです。
しかし、これをもって「なぁんだ、信仰で集まるのではないそんな家庭集會は、意味が無い」と即断するのは軽率です。「雑談」であっても、キリストの御名によって集まっている集まりが「樂しい」ということが重要かと思います。韓國の信徒は、こうした家庭集會で信仰を養っているのです。
【なぜ「雑談」が樂しいか】
V.なぜ「雑談」が樂しいか
家庭集會での雑談は、果たして樂しいのでしょうか。
もちろん樂しいこともあるかもしれません。けれども私は「聖書のお話し」よりもその後の「雑談」に辟易した経験があります。たいていの出席者は私よりも年長のご婦人がたなので、話題に全く興味が持てなかったからです。
逆に、若者が中心の集まりにご年輩のかたが紛れ込んでしまった場合も、樂しむのは骨の折れる仕事だと思います。その場を仕切る立場が与えられたらそれなりに樂しいかもしれませんが、若者の集まりを年輩者が仕切ってしまっては、よほど若者のこころを掴んでいる人でない限り、今度は若者が退屈することになります。だからと言って、他の若者と同じ立場しか与えられなければ、他の出席者と話が合わずに酷く退屈するでしょう。
ヘ會は、様々な境遇、年代のかたが集まるべきです。しかし本當にそうなっていては、参加者すべてが「樂しく雑談する」のは容易なことではありません。
韓國では、年輩者を尊重する習慣が未だに強く守られています(『崩壊に瀕する社會秩序〜韓國の敬語と社會』参照)。そこで、年少者の中に年輩者が入った時、年輩者は敬われ、自分の言いたい意見を自由に言えます。「仕切る立場」に立たなくても、日本の集會よりも多少は居心地が良いようです。
その逆の場合: すなわち年輩のかたが多い會に年少者が出席した場合は、年少者の困難は日本と似ています。もっとも韓國では、若者たちが年輩者を上辺だけ立てている面があるようで、「上下關係が厳しいので日本以上に若者は息苦しい」かと言えば、そうでもありません。
年輩者の話を聞いて相づちは・うつものの「はい、はい」とうなづいた後で全然逆のことを平氣で言うヒトは、日本にも韓國にもあるでしょう。日本ではそんな若者は「困ったひと」と位置づけられますが、韓國ではそのような不作法に對していくらか寛容です。年輩者を敬う「形式」がしっかりと保たれているため「内容」はかえって問われにくいのかもしれません。
それでもお年寄りだけの會では若者は窮屈は窮屈です。そこでその點では現實的に、地域集會もなるべく年代をそろえるようにヘ會は配慮しているそうです。
日本では、「ヘ會は様々な年代のひとが共に集うべきだ」という「理想」が掲げられると、「それじゃぁ退屈です!」とはなかなか言えません。ヘ會が現實的な施策をとるのは、多少乱暴なことの言える韓國の方が、日本よりも容易なようです。
【「雑談」で養われる信仰】
W.「雑談」で養われる信仰
そうして出來上がった「樂しい」雑談會でも、「家庭集會」の名で: すなわちイエス・キリストの名で集まっている以上、信仰に敵對するような「反キリスト」的なの話題になることは、決してありません。七割がた世俗のドーデモイー「非キリストヘ」的な話しだととしても、残りの三割に、どうしても信仰的な話が混じります。
雑談の中に混じり込む信仰の話は、「雑談」として始まっただけに、どうしても生活に密着しています。
それでも雑談は雑談ですから、信仰上問題のある発言も多いでしょう。キリスト教的に言って誤りが余りにも大きい場合には、曲がりなり(?)にも「長老/執事」が出席しているのですから多少は修正されます。
もちろん、そうした指導者の話が差し挟まれると、話の内容はたちまち「タテマエ」に傾きます。それでも、たとえタテマエとしてキリストヘの正しい考え方を聞けるだけでも有益です。「正しいキリストヘ」は、自分がその通りに出來ないとしても、目指すべき方向をはっきり示してくれるからです。
話題が自分の生活に關係する切實な話であるのならば、そうしたキリストヘ信仰の理想(正しいキリストヘの考え方)を、具體的な自分の生活に當てはめながら切實な氣持ちで一生懸命聞くのです。
【日本のヘ會に必要なこと】
X.日本のヘ會に必要なこと
聖書の話しのあと誰かが話し始めたら、日本人は上品かつ紳士的に相手の話を聞き、興味がなくても話題を合わせようとするのはないでしょうか。その上一生懸命やっている會合を「退屈だ」などと公やけに表明するのは野蛮で「お下品」なことです。日本のヘ會に集まっているのは、(私を筆頭に)普通の日本社會以上にお上品で紳士的傾向が一段と強いひとたちです。
ですから日本のヘ會で韓國の家庭集會をそっくりそのまま真似ることは無理でしょう。日本のヘ會で「樂しい『雑談』の場」を提供することで家庭集會を復活させることは、困難です。
家庭集會で語られることが、自分の切實かつ具體的な問題と密接に關係すれば、誰でも出席したくなります。日本では、そうした切實かつ具體的な話は「雑談」の前の「聖書の話し」の時間の方が、まだ可能性を残しているのかもしれません。日本のヘ會は、「正攻法」で行くしかないようです。
そのためにも、自分の信仰を自分の言葉で表現することが許される韓國の雰囲氣は、なんとか日本のヘ會に持ち込みたいものです。
もちろん、「自分の信仰を自分の言葉で表現することが許される雰囲氣」は、日本にも部分的にはあります。たとえば信仰に入って間もないひとが怪しげな信仰を拙い言葉で一生懸命表現しているとき、温かく見守られます。
けれども、それだけではなく「本格的な信仰の話、抜き差しならない深刻な話をリアルな言葉で表現することが許される雰囲氣」が必要だと思うのです。
いわゆる「福音派」の日本人信徒さんが集會でお話しをしたのを聞いて、深く感銘を受けたことがあります。しかしずいぶんと生々しい話で、そのような話しは私の慣れ親しんでいる「お上品」なヘ會ではついぞ聞いた経験がありません。
私のヘ會の雰囲氣と何が違ったのか、考えてみました。
そのかたは、一般には「恥」とか「隠したい傷」と思われるようなご自分の體験を、キリストの恵みを傳えるために明るく話しておられました。ですから私にも韓國人信徒さんにも、神の恵みがストレートに傳わりました。
日本でキリストヘ會が全體的に不調な中でいわゆる「福音派」に限っては今でも結構健闘しています。その理由は、こんな所にあるのかナと思わされました。
どんなに生々しいく痛々しい傷であっても、信仰によって乗り越えられたのならば、豊かな「証し」です。ただ、あまりにも生々しいこころの傷は、話しを聞く側が戸惑ってしまいます。
他人を批判しているのではなく自分の傷を話しているのですから、決して「下品」ではありません。しかし聞く人を戸惑わせると言う點では「お行儀」の悪い「ぶしつけ」な話しです。相手を傷つけ合わないように相互に配慮し合う「お上品」な社會では、そんな「ぶしつけ」な話しは、聞く側に歓迎されません。
韓國人は「ぶしつけ」なので、結構そんな危ない話しでも聞けるのでしょうか。われわれ「お上品」な日本人は、公やけの場でむごたらしい話しを話すことはもちろん、聞くことさえ厭がります。
でもキリストの十字架の話が、實は相當痛々しく生々しい深刻な話であるはずです。普通の場ではない、キリストの恵み、神の恵みを証しする場では、「証し」に必要なのであれば、どんな話しでも「語り」また、それ以上に「聞く」ことが出來るだけの信仰が必要だと思います。
【日本のヘ會で何が出來るか】
Y.日本のヘ會で何が出來るか
日本で誰もが生々しい話しを語り、聞くことが出來るようになるには、どうしたら良いのでしょうか。即効性のある具體的な方法は、よく分かりません。
よく分からないので、私はこれまで「乱暴に無理矢理痛々しい話を聞かせる」というやりかた(ぶしつけでお行儀の悪いやりかた)をして、何度も失敗してきました(?)。何度もやれば聞く方も慣れるかというと、日本の信徒さんたちは、公やけの場で生々しい話を聞くのに慣れるには少々上品過ぎるようです
かといって、當たり障りのない痛くも痒くもない話しでは、現代人は毎週來るほど暇ではありません。それなのに痛くも痒くもない話し(すなわちキリストの十字架に無關係な話)ばかりがされて來たためにヘ會が衰えて行ったとすれば、何とも困ったことです。
日本の成功している説ヘ者の説ヘを読んで、「深刻で生々しい傷」でも、上品かつスマートに聞かせているように感じることが、あります。
そうした説ヘ者の説ヘは、聞いた時には決して「むごたらしい」とは感じません。ところが聞いた後に説ヘ原稿を読んで内容をよく考えてみると、結構たいへんなことが語られているのです。
日本では、そんな風に「深刻な話をスマートに聞きやすく話す」という熟練が、まず語る側に必要なのかもしれません。タテマエを言えば、「聞く側は、お上品ぶっててはいけない、信仰があるのならば、十字架の生々しい話を聞くべきだ」ということになるかもしれません。でもそれは、「目標」ではあるとしても、少し遠い目標のように思えます。
おわり