
私達『言語道断』は20世紀の最後の10年余り、京都を中心として文芸活動を繰り広げてきました。編集室が東京に移転した現在でも京都を故郷として懐かしむ思いは変わりませんし、また今尚京都で活躍している同人も少なからず存在します。そこで今まで発表された作品の中から京都について書かれた箇所を拾い集めて編集してみました。(編集長)
京都駅を出たバスは七条通りを東に行き、三十三間堂の近くで左折して東大路を北大路と交差する高野まで上がっていく。高野といえばイズミヤの向かいに知る人ぞ知る「丸山書店」が店を構えている。見かけは何の変哲もない唯の本屋さんなのだが、ここの店員が数ある文学作品の中からチョイスして、白い帯を付けて売られている「マル渋文庫」は一味違って作者の好みに合う、砂を噛むような逸品揃いである。セリーヌの「夜の果ての旅」やドストエフスキーの「白痴」など、マニアックに行きすぎず、かつ大衆迎合的にもあらず、作者の様な平平凡凡暇だけが取り柄の学生にとっては退屈しのぎの知的娯楽を与えてくれた忘れられない書店である。
「回る回るよ時代は回る」と深夜、中島みゆきが歌うのを聴きながら「これはニーチェの『永劫回帰』である」と同志社の先輩が言っていた。千本中立売にあった陽の当たらない鰻の寝床で彼は喘息の発作と闘っていた。
寒風吹きすさぶ厳しい冬の京都。失業して家賃も払えずアパートを叩き出される。冷たい夜空の闇の下、河原町のネオンを仰ぎ見ながらコートの襟を立て、あてもなくひとりとぼとぼと歩く自分の姿を想像すると、何故かしらうっとりとしてしまうのだ。
京都に住みしことある人は丸竹夷二押御池姉三六角蛸あこりやこりやなる歌を知りたるべし、これは東西の通の名前に節をつけておぼえやすくしたもので京都人なら稚い子供でも知ってゐる。南北の通も同じく歌になってゐて地理を人に示すには便利なものだけれども、これは實は便宜のためにこしらへたと言ふより必然としてかうなる他なかつたと言ふ方が正しい。といふのも京都人には方向感覺が缺けてゐて北や東や言つても全く通じないからで試しに道往く人に北はどちらでせうかと尋ねてみればそのことはすぐ判る。彼は考える振りをしてから徐ろにかう答へるだらう、
「おうち、大阪と間違うたはるのと違ひます?ここは京都でつせ。
もっとも、近年北山通りの周邊が開けてきてこの通のある方を北と認識するやうになり少なくとも北方に關しては話も通じやすくなつたが、それまで鴨川は上から下へ流れるのだつたし太陽は右から左へ昇ることになつてゐたのであつて、みかどのおはしました頃の名殘である右京左京といふ名稱も右の京左の京と言ふよりはウキョウサキョウといふ音に隅々さういふ漢字を宛てたと言ふべきである。東西南北や上下左右を風に使ふものだから肝心の、たとへばタクシイに乗つた時など指示通りに行くかどうかが賭の對象になることもしばしばだつたのであるがここで話は元に戻つて、御と池との間に細い道があるのはあまり知られてゐない。載せてゐない地圖もあるだらうがこの道をずつと東へ行つて東山の坂にかかる所に私立の高等學校があつて此花咲也はそこの英語教師をしてゐる。
二次会に出席するのを断って街に出た綾乃丞は三条大橋を渡りながら吹き出してしまった。新郎新婦を無粋な田舎ものと笑い飛ばしてしまえばそれだけのことだが、そうかんがえた自分の「鼻もちならぬ」いやらしさに軽い自己嫌悪を覚えた。戦国の世にクマソの地を統一した独眼流正宗は高飛車な京の町衆のド肝を抜くために死に装束に十字架を背負って入洛した故事がある。そこまでしなければ保守的なこの町は他所者を認めない。町を流れる鴨川は今でこそアベックが等間隔に並んで、さながら猫の集会の様相をみせているが、かつては刑場だった。河原乞食という言葉の発祥はこの地に由来する。
天高く澄みきった青空の下、彼女は今出川通りを東へ向かって歩いていた。銀閣寺から北野天満宮まで続くこの通りは京の学生街の真ん中を通っている。信号が変わるのを待つスクーターやオートバイ。狭い通りを挟んで立ち並ぶ喫茶店や古本屋。この通りをつい、この前まで市電が走っていたなんて誰が信じるのだろうか。深い緑におおわれた御所に行き当たる烏丸通りには北山から伏見の竹田まで地下鉄が通っている。七分置きの電車を待つプラットホームに人影は少なく、分厚い古文書を抱えた女子学生や英字新聞を熱心に見入っている男子学生の姿が見られる程度だ。北側で近くのバカな私大生だろう。エスカレーターの手摺を利用してサーフィンの練習をしている。